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利用者:Mahopa/ピート・シーガー

ピート・シーガー
ピート・シーガー (2009年1月18日、リンカーン記念館にて。ウィ・アー・ワン:オバマ就任祝典
基本情報
出生名 Peter Seeger
生誕 1919年5月3日(90才)
ニューヨーク
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク
ジャンル フォーク
職業 シンガーソングライター、社会運動家
担当楽器 バンジョーギターリコーダー
活動期間 1940年頃-
共同作業者 ウディ・ガスリー
オールマナック・シンガーズThe Almanac Singers
ウィーバーズThe Weavers

ピート・シーガーPete Seeger(1919年5月3日-))は、アメリカ合衆国フォーク歌手作曲家、社会運動家[1]。20世紀中頃のアメリカで起こったフォーク・リバイバルで主導的な役割を果たした。最も成功したヒット曲はレッドベリーの歌を彼が編曲し[2]ウィーバーズThe Weavers)の一員として1950年に録音した「おやすみ、アイリーン(Goodnight, Irene)」である[3]。この歌は同年8月から11月にかけビルボード誌のヒットチャートで13週間にわたって1位を記録した[4]

この成功の直後、シーガーは赤狩りの標的となる。彼はアメリカ共産党の党員だったことがあり[5]、1955年8月合衆国下院の非米活動調査委員会House Un-American Activities Committee,HUAC)に召喚された。1961年には議会侮辱罪で懲役10年の実刑判決を受けるが、翌年控訴裁判所がこの判断を誤りとして無罪になっている。

赤狩りによって社会的制裁を受けたシーガーはショービジネス界から姿を消した。しかし彼は1950年代から1960年代にかけて多くのプロテストソングを手がけ、フォークの第一人者となる。彼の歌は彼自身が関わったアメリカの社会運動とともに広まっていった。それは1940年代の労働運動に始まり、戦後の核廃絶運動、1950年代の公民権運動、1960年代のベトナム反戦運動、70年代以降の環境保護運動を経て、今日まで世界中の多くの人々によって歌われている。

シーガーの作曲活動は埋もれていた民謡を掘り起こし、その時代に応じた新しい歌詞やメロディーを付け加えることから始まった。黒人霊歌が起源のウィ・シャル・オーヴァーカムWe Shall Overcome)」[6]、アフリカ民謡を採譜した「ウイモウエ(Wimoweh)」、ウクライナ民謡の歌詞がベースの「花はどこへ行ったWhere Have All the Flowers Gone)」が彼によって広く知られるようになった。また、ウィーバーズのリー・ヘイズLee Hays)と共に作曲した「ハンマー持ったら(If I Had a Hammer)」、自作の「ターン・ターン・ターン(Turn! Turn! Turn!)」がプロテストソングとしてヒットしている。

「ウイモウエ」の原曲「ムーブーベー(ズールー語でライオンのこと)」は1939年に南アフリカで発表されていた。10年後にこれを偶然聞いたシーガーが採譜・編曲し、英語の歌詞を加えた。「ウイモウエ」はウィーバーズのヒット曲となるが、その曲のトーケンズThe Tokens)によるカバーバージョン「ライオンは寝ている(The Lion Sleeps Tonight)」が1961年にヒットチャートの1位になっている。

「花はどこへ行った」は、アメリカでは1962年のキングストン・トリオThe Kingston Trio)、1965年のジョニー・リバースJohnny Rivers)のヒットがあるが、マレーネ・ディートリッヒが欧州、中東諸国で歌い反戦歌として有名になった。彼女はこの歌を英語、ドイツ語、フランス語で歌っている。「ハンマー持ったら」は、ピーター・ポール&マリーが1962年に、トリニ・ロペスTrini Lopez)が1963年に歌いヒットした。さらに1965年にはバーズの「ターン・ターン・ターン」がヒットチャートの1位になる。

「ウィ・シャル・オーヴァーカム」はスピリチュアルを元とした労働歌だった。シーガーは1948年にこの歌を雑誌に掲載し、自ら歌うだけでなく若いミュージシャンたちにも教えた。そのうちの一人ガイ・キャラワンGuy Carawan)が、1960年の学生非暴力調整委員会Student Nonviolent Coordinating Committee,SNCC)創設会議で紹介すると、公民権運動を象徴するプロテストソングとして知られるようになった。1963年8月のワシントン大行進では『We Shall Overcome』がプログラムのキャッチフレーズとして使われた。

家族と家庭

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ピート・シーガーの父チャールズ・シーガーCharles Seeger)は、作曲家から転向して音楽学の教授となり、さらには世界各地の民謡の採集調査をした民族音楽の研究者で、母コンスタンス・デクライヴァー・エドスンはヴァイオリニストだった[7]。ピートは長兄のチャールズ・シーガー3世、次兄のジョン・シーガーに次ぐ三男として1919年に生まれた[8]。チャールズの弟でピートの叔父、アラン・シーガーAlan Seeger)は第一次世界大戦の際フランス外人部隊に加わり戦死した有名な戦争詩人だった。1927年の秋、ピートが8才のとき両親が離婚した[9]。1932年に父は教え子で当時新進の作曲家だったルース・ポーター・クロフォードと再婚[10]。13才のピートは父の連れ子としてルース・クロフォードに養育される。チャールズとルースの間にはマイク、ペギー、バーバラ、ペニーの4人の子供が生まれ[11]、ピートの異母弟妹となった。子供たちは両親と兄の音楽に加え、1940年頃に母ルースと偶然出会い、数年後に家政婦として雇われたエリザベス・コットンElizabeth Cotten)のギターと歌を聴いて育った[12]。そして継弟マイク・シーガーMike Seeger)と継妹ぺギー・シーガーPeggy Seeger)もまた顕著な経歴を持つ音楽家となる。マイクはニュー・ロスト・シティ・ランブラーズNew Lost City Ramblers)を結成し、ボブ・ディランに影響を与え[13]、ペギーはフォークシンガーとなってイギリスに渡ったのちイワン・マッコールEwan MacColl)と結婚した。ピート、マイク、ペギーの兄妹は2007年現在も現役のフォークシンガーとして活動している[14]

ピートは1943年に日系2世のトシ・アーリン・オオタと結婚した。2人にはダニエル、ミカ、ティーニャの3人の子供と[15]、タオ、キャシー、キタマ、モレイヤ、ペニー、イザベルの6人の孫がいる。タオ・ロドリゲス・シーガー(Tao Rodríguez-Seeger)はマンマルズ(The Mammals)の一員となり祖父と同じくバンジョーとギターを演奏する。

ピートはニューヨーク州のフィッシュキル(Fishkill)にあるダッチェス合流域の森の中に住む。その土地は1949年に夫妻が購入して以来、自分の手で小屋を造り、徐々に家を大きくしていった場所である。彼は住まいにほど近いハドソン川流域の市町村で音楽を通じた社会活動を続けている[16]

来歴

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幼年期と両親の離婚

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チャールズ・シーガー
諸州を旅するシーガー一家(1921年5月)
ワシントンD.C.ロック・クリーク公園(Rock Creek Park)にて[17]。2才になったばかりのピートを膝にチャールズがオルガン、コンスタンスがヴァイオリンを演奏する

ピート・シーガーは1919年5月3日にニューヨーク市内の病院で生まれた[18]。ピートの父チャールズ・シーガーはサバティカルを取得して1912年以来勤めていたカリフォルニア大学バークレー校を離れており、家族とともにニューヨーク州パターソン(Patterson)にある父チャールズ・シニアの地所に身を寄せていた[19][20]

ピートが1歳半になった1920年12月、一家は「音楽をもっていないアメリカの貧しい人たちのところへ、音楽を持ち込む」ために南部にむけ旅に出た。諸州を転々としながらノースカロライナ州パインハースト(Pinehurst)に落ち着いたが、結局具体的な成果をほとんどあげられずに終わった。そこには手製のフィドルやギターを用いたヒルビリーHillbilly)音楽が既にあり、シーガー夫妻が地元の人々の前でした演奏は珍しがられただけだったのである。このことはチャールズにとっては南部の音楽を知るきっかけとなったが、家事を切り盛りしていたコンスタンスには経済的にも音楽的にも受け入れられる範囲を超えていた。パターソンに戻ってから二人は不仲となり、ピートは4才から親元を離れ寄宿制の学校に入学させられる[21]。そしてチャールズは音楽理論家として、コンスタンスはヴァイオリニストとして共にニューヨークのジュリアード音楽院(このころは音楽芸術研究所(The Institute of Musical Art)と呼ばれた)で教師として生計を立てていく[7]

ピートが8才のとき両親は離婚したが、このころ買ってもらったウクレレが弦楽器との出会いとなる。チャールズは既にフォークミュージックのレコードを僅かながら持っており、ピートに民衆は歌詞やメロディを少しづつ変えながら、ときには新しい連を付け加えながら歌を伝承してきたことを教えた。一つの歌は民衆によって歌われた複数のバージョンが蓄積された結果出来上がっており、本来人は好きなバージョンを自由に歌うことができる。その発見はその後の彼の人生に大きな影響を及ぼしている[22]

1932年9月、13才になったピートはコネティカット州にある寄宿制のエイボン・オールド・ファームズ校(Avon Old Farms)に入学した[23]。ピートは入学してすぐ音楽の教師が使わなくなった4弦バンジョーを持っていることを知ると、母コンスタンスの口利きでそれを安く譲ってくれるよう教師に働きかけることを思いつく。母ははじめは取り合わなかったが数度の文通の末に息子の嘆願に折れ、ピートはバンジョーを手に入れることができた。彼は在学中ジャズバンドで演奏するほどに上達している[24]

1932年はまた父が再婚した年でもある。ピートが家族とともに過ごすのはクリスマス、イースター、学年末の夏の休暇だけだったが、この年から父と継母のルース・クロフォードに養育されることとなった。2人はアーロン・コープランドハンス・アイスラーらが属した音楽家たちのコミュニティ「ピエール・ドゥゲイター(Pierre Degeyter)・クラブ」に加わっており[25]、この会合に連れて行かれたピートは初めて共産主義者たちに出会った[26]。小学生の頃からジャーナリストになることが夢だった[27]ピートは彼らの影響を受け、13才で共産主義の文芸誌『ニュー・マッセズ(The New Masses)』の定期購読者となっている[28]。当時この雑誌にはセオドア・ドライサーシャーウッド・アンダーソンジョン・ドス・パソスJohn Dos Passos)、エドマンド・ウィルソンアースキン・コールドウェルジェームズ・ファレルJames T. Farrell)、アーネスト・ヘミングウェイらが寄稿していた[29]。彼らが描いた不況に苦しむアメリカ社会の現実は多くの読者の共感を呼び、『ニュー・マッセズ』は急速に発行部数を増やしていた[30]。ピートは1930年代アメリカの複雑な社会情勢の下で10代の初めから自身の政治的な見解を徐々に確立するとともに、やがてフォークシンガーとして活動する音楽的な基盤を固めてゆく。

Pete Seeger attended the Avon Old Farms boarding school in Connecticut, during which he was selected to attend Camp Rising Sun, the Louis August Jonas Foundation's international summer scholarship program.

脚注

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  1. ^ [ダナウェイ 1984], p. 310. シーガーには著述家としての仕事も多い。彼は長年音楽雑誌へコラムを寄稿したほかフォークミュージックの研究書、バンジョーの教則本や児童書も著している。
  2. ^ [ダナウェイ 1984], p. 149.
  3. ^ The Weaversの日本語表記はWikipedia:外来語表記法/英語の一般的な用法に倣い「ウィーバーズ」とした。D・K・ダナウェイ『歌わずにはいられない』矢沢寛訳、社会思想社、1984年。([Dunaway,1981]の訳書)中の表記や、『ウィーバーズ・アット・カーネギー・ホール』など日本語版アルバムのタイトルの表記も「ウィーバーズ」である。
  4. ^ [Wilkinson 2006], p. 44.
  5. ^ シーガーは1936年(17才)から1941年(22才)まで青年共産同盟(アメリカ)(Young Communist League)のメンバーだった。共産党と人民の歌協会との関わりから推測すれば、戦中には共産党員となり、1950年ソ連の核保有がきっかけとなって離党したと考えるのが自然である(Danawayの伝記にはシーガーと共産党との関わりについて直接的に記載された部分はないが、赤狩りとの闘いの部分ではこのような解釈を前提に記述されている)。例えば[ダナウェイ 1984], p. 172.の記述では、"それは彼がしゃべったこととは別の理由によるものだった-なぜなら彼はかつて党員だったのだから。"と間接的に表現されている。またウィキペディア英語版記事TalkPageではシーガーが共産党員だったというウィキペディア英語版の記述には裏付けがないと指摘されたが、主執筆者の一人Jmabelが1980年代にはシーガー本人が共産党員だったことを公言していたと答えている。ただし2008年現在「かつてアメリカ共産党員だったのかどうか」という問いがピート・シーガーにとってなお答え難い質問となっていることには留意すべきである。
  6. ^ "We Shall Overcome"には日本語題「勝利を我等に」があるが、シーガーがこの歌に関わった1948年時点の労働歌と、日本で歌われた1960年代後半の状況を混同しないよう日本語題は記述しないこととした。また日本語の表記はWikipedia:外来語表記法/英語の発音重視の用法に倣い「ウィ・シャル・オーヴァーカム」とした。
  7. ^ a b [シーガー 2000], p. 7.
  8. ^ [ダナウェイ 1984], p. 36.
  9. ^ [Pescatello 1992], p. 87. 正式に離婚した日付はわかっていない。1927年9月、チャールズとコンスタンスは別居し3人の息子達をボーディングスクールに入学させた。ヴァイオリニストとしてのコンスタンスを高く評価していたチャールズは、教師となって独立したいという彼女の希望を受け入れた。
  10. ^ [Pescatello 1992], p. 108. グッゲンハイム奨学金を得たルース・クロフォードがヨーロッパから帰国したのは1931年11月で、その直後から彼女とチャールズは同居を始めている。チャールズは友人にルースを妻として紹介していた。1932年10月2日に入籍。 [ダナウェイ 1984], p. 64. によればピートはハーバード大学を中退した直後、フロリダにいたコンスタンスを訪ねて彼女をニューヨークに転居させる手助けをし、その家にしばらく居着いていたと述べられている。ピートは実母、継母とも良好な関係を築いた。
  11. ^ [Pescatello 1992], p. 204.他複数の家族写真がある。
  12. ^ Elizabeth Cotten short biography (2009年5月20日参照)ワシントンD.C.でデパートの職を得たコットンが迷子になったペギーをルースに引き渡したのが出会いのきっかけとされている。
  13. ^ [ディラン 2005], p. 85-89.
  14. ^ The Library of Congress - The American Folklife Center (2009年5月20参照)。2007年3月16日、3人によるコンサートがアメリカ議会図書館主催で開かれている。
  15. ^ [ダナウェイ 1984], p. 9. に3人の子供たちとの家族写真がある。同書 p. 122. によればピートとトシの第1子は1944年に生まれたピーター・オオタ・シーガーだが、生後4ヶ月で亡くなっている。
  16. ^ [Wilkinson 2006], p. 47.- 48. ダッチェス合流域(Dutchess Junction)はビーコン(Beacon)市南側に面しているが、行政区域上はフィッシュキルに含まれる。家屋については[シーガー 2000], p. 70. に写真が掲載されており、"THE SEEGER HOME 1950-88"とタイトルがあることから、1988年に建て替えられたかもしれない。
  17. ^ [Pescatello 1992] p. 83.
  18. ^ [Pescatello 1992], p. 80 - 81. 出産間近になるとチャールズはコンスタンスを市内に住んでいた彼女の友人アグネス・ホールデンの元に預けた。ピートは生後2週間で母と共にパターソンに帰っている。
  19. ^ [Pescatello 1992] p. 77.- 80.
  20. ^ Department of Music, University of California Berkeley (2009年5月20日参照)
  21. ^ [ダナウェイ 1984], p. 44.- 46.
  22. ^ [シーガー 2000], p. 7.- 8.
  23. ^ [Wilkinson 2006], p. 50. エイボン・オールド・ファームズ校、ハーバード大学とも奨学生として入学している
  24. ^ [ダナウェイ 1984], p. 52.
  25. ^ [Dunaway 1980], Introduction. チャールズ・シーガーがピエール・ドゥゲイター・クラブに加わったのは1931年の冬である。
  26. ^ [ダナウェイ 1984], p. 48.- 50.
  27. ^ [ダナウェイ 1984], p. 52- 55.
  28. ^ [ダナウェイ 1984], p. 12.。『ニュー・マッセズ』は1927年に創刊された。初期の歴史については[ハウ、コーザー 1979 中巻], p. 141.- 153.、大恐慌時代において知識人の左傾化に果たした役割とその結末については同書p. 153.- 188. を参照のこと。
  29. ^ [ハウ、コーザー 1979 中巻], p. 157. 1945年になってアメリカ共産党に入党したドライサーを除けば、これら多くの知識人はやがてスターリン主義の実態を知り反共主義者となった。同書p. 158.には彼らが共産党との結びつき元々持っていなかったことが注記されている。
  30. ^ [ハウ、コーザー 1979 中巻], p. 158.- 159. 1934年には週刊化された。

著書

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  • 虹の民におくる歌(ピート・シーガー著、矢沢 寛監訳、2000年、社会思想社)

関連項目

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参考文献

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日本語

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  • D・K・ダナウェイ『歌わずにはいられない』矢沢寛訳、社会思想社、1984年。(下記[Dunaway,1981]の訳書)
  • ピート・シーガー『虹の民におくる歌』矢沢寛監訳、社会思想社、2000年。(下記[Seeger,1993]の訳書)
  • 柿沼敏江『アメリカ実験音楽は民族音楽だった - 9人の魂の冒険者たち -』フィルムアート社、2005年。
  • ボブ・ディラン『ボブ・ディラン自伝』菅野ヘッケル訳、ソフトバンクパブリッシング、2005年。
  • ハワード・ジン『世界歴史叢書 民衆のアメリカ史 -1492年から現代まで-(上下巻)』、富田虎男、平野孝、油井大三郎訳、明石書店、2005年。
  • アーヴィング・ハウ、ルイス・コーザー『アメリカ共産主義運動史(上中下)』、西田勲・井上乾一訳、図書刊行会、1979年。
  • 長沼秀世『アメリカの社会運動 - CIO史の研究 -』彩流社、2004年。

英語

[編集]
  • Wilkinson, Alec, "The Protest Singer: Pete Seeger and American folk music", The New Yorker,April 17 2006, p. 44–53.
  • Cohen, Roland D, Rainbow Quest: The Folk Music Revival and American Society, 1940-1970,(2002) Univ. of Massachusetts Press, ISBN 1-558493-48-4.
  • Dunaway, David K, How Can I Keep from Singing: Pete Seeger, McGraw Hill (1981), DaCapo (1990), New York, ISBN 0-07-018150-0, ISBN 0-07-018151-9, ISBN 0-306-80399-2.
  • Seeger, Pete and Blood, Peter (Ed.), Where Have All the Flowers Gone?: A Singer's Stories, Songs, Seeds, Robberies, (1993) Independent Publications Group, Sing Out Publications, ISBN 1-881322-01-7.
  • Ann M. Pescatello, Charles Seeger: a life in American music,(1992)University of Pittsburgh Press, ISBN 0-8229-3713-1.
  • Yung, Bell and Rees, Helen edited by, Understanding Charles Seeger, Pioneer in Musicology (Music in American Life), (1999) Univ. of Illinios Press, ISBN 0-252024-93-1.
  • Dunaway, David K, "Charles Seeger and Carl Sands: The Composer's Collective Years", Ethnomusicology,Vol. 24, No.2, (May 1980), p. 159–168.

References

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  • ロナルド・D・コーエン編『アラン・ローマックス選集 - アメリカン・ルーツ・ミュージックの探求 1934-1997 -』柿沼敏江訳、みすず書房、2007年
  • 黒川勝利『アメリカ労働運動と日本人移民 - シアトルにおける排斥と連帯 -』大学教育出版、1998年。
  • ハワード・ファスト『ピークスキル事件』松本正雄訳、筑摩書房、1952年。
  • スーザン・ロブスン『オールマン・リバー - 自由と平和の歌手ポール・ロブスン -』工藤道子・甲田富士夫訳、芸術現代社、1995年。
  • ポール・ロブスン『ここに私は立つ - アメリカ黒人歌手の自伝 -』工藤道子訳、芸術現代社、1996年。
  • 矢沢寛『ポール・ロブスン 自由への歌声』新日本出版社(新日本新書485)、1997年。
  • 小室等『人生を肯定するもの、それが音楽』 岩波書店(岩波新書新赤版888)、2004年。
  • 三橋一夫『フォーク・ソング - アメリカの抵抗の歌の歴史 -』新日本出版社(新日本新書39)、1967年。
  • 皆河宗一『アメリカ・フォークソングの世界』岩崎美術社(民俗民芸双書65)、1971年。
  • エド・ロビン『わが心のウディ・ガスリー - アメリカ・フォークの源流 -』矢沢寛訳、社会思想社、1986年。
  • G・レヴィン、J・ティック『アーロン・コープランドのアメリカ』奥田恵二訳、東信堂、2003年。
  • ウェルズ恵子『フォークソングのアメリカ - ゆで玉子を産むニワトリ -』南雲堂、2004年。
  • ハーヴィ・ワッサーマン『ワッサーマンのアメリカ史』茂木正子訳、晶文社(晶文社アルヒーフ)、1976年。
  • ピート・シーガー文、マイケル・ヘイズ絵『ひとくい巨人アビヨーヨー』木島始訳、岩波書店、1987年。


外部リンク

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英語

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ピート・シーガー

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シーガー・ファミリー

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その他

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日本語

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References

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Edit Summary

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  • 英語版の翻訳ではありません。ただしen:Pete Seeger(23:57, 3 May 2009(UTC))と利用者:KAT/SandBox3「ピート・シーガー」メモをあわせて参考としたため、家族構成など一部の表現は英語版と一致するところがあります。