利用者:Ludwig Cartier/sandbox/第3号室
安興君李埱 | |
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宗親4世 | |
正一品君 | |
顕禄大夫 | |
五衛都総府都総管 | |
本貫氏派 | 全州李氏麟坪大君派 |
続柄 | 義原君李爀第2子 |
諱号 | 埱 |
爵号 | 安興君 |
諡号 | 孝靖 |
出生年 | 1693年 |
没死年 | 1763年5月19日 |
実父 | 義原君李爀 |
実母 | 郡夫人安東権氏 |
配偶者 | 郡夫人文化柳氏 |
子女 |
李鎮翼 4女 |
安興君李埱(1693年 - 1763年5月19日)は李氏朝鮮の宗親。本貫氏派は全州李氏麟坪大君派。義原君李爀第2子。諱号は「埱」。諡号は「孝靖」。爵号は「安興君」。
聴覚・視覚・言語障害者で筆談者である。義原君李爀
聴覚・視覚・言語障害者で筆談者である。義原君李爀
生涯
[編集]1725年3月21日昌徳宮敦化門で安興君が直訴行為したところ、兵曹は不法侵入罪で刑罰を求刑したが、英祖王令で宗親のため免責した。3月30日承政院右承旨金相玉が事案提出して義禁府判事閔鎮遠・前刑曹参議安重弼が前例無視であり王令撤回要請したが、英祖は安興君は宗親であり求刑が過重として拒否した。また安興君叙爵措置を検討させた。4月4日安重弼上疏で再求刑したが、英祖は拒否して安重弼の官位を降格させた。[1][2][3]1726年1月4日宗簿寺報告書で安興君は宗親4世かつ15歳以上で叙爵要件成立しているが、実父義原君が罪人のため未叙爵状態であり叙爵申請したところ、英祖は安興君叙爵令を発令。[4]
1726年1月6日安興副正に叙爵。[5]1731年8月7日麟坪大君奉祀孫に指定された。[6]8月9日章陵移転式典関連議論のさい仁祖長陵について、英祖は安興君が奉祀孫だが障害者では系統断絶すると誹謗中傷したところ、承政院右承旨趙命臣が帝王学にならい誹謗中傷すべきでないと進言して、英祖は誹謗中傷を非情発言として反省した。[7]8月12日安興君に叙爵、明義大夫に叙位。[8]9月18日英祖が章陵遷陵執事に指名。理由は候補者不足のため。[9]9月19日午前8時英祖と面会、承政院右副承旨洪尚賓は無作法であり警告措置を提案したが、英祖は障害者のため免責した。[10]10月18日馬1匹を支給された。[11]1737年6月22日実親喪中期間満了とされた。また安興君上疏で麟坪大君・福寧君墓地改修のため67日間休暇申請したところ、英祖は許可して改修備品を支給した。[12][13]
1739年3月24日百官席次特別認定。中義大夫に叙位。[14][15][16]1740年5月26日安興君上疏で綾昌大君・実親墓地清掃のため休暇申請したところ、英祖は許可して清掃備品を支給した。[17]6月9日午後2時昌徳宮宣政殿で英祖と面会、孝宗尊号追尊案議論において自論主張せず英祖裁定を要請した。6月19日午後4時昌徳宮熙政堂で英祖と面会、宗親関連議題に参画。[18][19][20]1741年1月27日五衛都総府都総管に任官。[21]2月22日五衛都総府都総管に辞官。理由は病気のため。[22][23]1742年9月10日五衛都総府副総管に任官。[24]9月26日安興君上疏で障害者であり勤務不適応のため五衛都総府副総管に辞官すること、奉祀孫として先祖供養を中心的活動とすること、2件請願した。英祖は辞官を慰留させて、先祖供養には必要備品を毎回支給することにした。[25]1743年8月11日午前6時英祖と面会、承憲大夫に叙位。[26]8月20日五衛都総府副総管に解官。理由は商業的違法行為が平市署に通報されたため。[27]
1743年8月21日崇憲大夫に叙位。[28]12月23日奉常寺報告書で安興君が奉常寺職人張命先を私物化する業務妨害のため爵位資格停止要請したところ、英祖が承諾した。1744年2月29日措置解除。[29][30]11月10日午前8時慶熙宮崇政殿宴会で英祖と面会。[31]1745年1月18日麟坪大君派家督として6親等人物を璿源録登記していないことを警告された。[32]1747年11月25日安興君上疏で麟坪大君墓地改修のため特別休暇申請して、英祖は許可して改修備品を支給した。[33]1750年11月12日安興君上疏で麟坪大君・実親墓地清掃のため休暇申請して、英祖は許可して清掃備品を支給した。[34]1751年11月25日午前10時英祖が安興君宅を訪問して筆談した。英祖は安興君の身体不自由に同情して官位を検討するとした。[35]
署名
[編集]経歴
[編集]西暦 | 月日 | 内容 |
---|---|---|
1726年 | 1月6日 | 安興副正 |
1731年 | 8月7日 | 麟坪大君奉祀孫 |
8月12日 | 安興君 明義大夫(従二品下階) | |
9月18日 | 章陵遷陵執事 | |
1739年 | 3月24日 | 中義大夫(従二品上階) |
1741年 | 1月27日 | 五衛都総府都総管 |
1742年 | 9月10日 | 五衛都総府副総管 |
1743年 | 8月11日 | 承憲大夫(正二品下階) |
8月21日 | 崇憲大夫(正二品上階) |
家門
[編集]尊属 | |||||||
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続柄 | 諱号 | 備考 | |||||
実父 | 義原君李爀 | ||||||
実母 | 郡夫人安東権氏 | 本貫は安東権氏。 | |||||
卑属 | |||||||
続柄 | 諱号 | 備考 | |||||
正室 | 郡夫人文化柳氏 | 本貫は文化柳氏。柳潗の娘。 | |||||
一子 | 李鎮翼 |
←仁祖系 | 荘祖愃 | 懿昭世孫琔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正祖祘22 | 文孝世子㬀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
純祖玜23 | 翼宗旲 | 憲宗烉24 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淑善翁主 | 明温公主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
福温公主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳温公主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永温翁主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
恩彦君䄄 | 常渓君湛 | 益平君曦 | 載悳 | 完鎔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊渓君瑭 | 景恩君載星 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
全渓大院君㼅 | 懐平君明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永平君景応 | 清安君載純 | 豊善君漢鎔 | 清豊君海昇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
哲宗昪25 | 永恵翁主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
恩信君禛 | 南延君球 | 興寧君昌応 | 完林君載元 | 埼鎔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興完君晸応 | 完順君載完 | 達鎔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
完林君載元 | 逵鎔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興寅君最応 | 完永君載兢 | 址鎔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興宣大院君昰応 | 完恩君載先 | 壦鎔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興王熹 | 永宣君埈鎔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高宗㷩26 | 純宗坧27 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
完王墡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義王堈 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
英王垠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堣 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳恵翁主 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
恩全君禶 | 豊渓君瑭 | 慶平君晧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清衍公主 | 完平君昇応 | 仁陽君載覲 | 憲鎔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清璿公主 | 益平君曦 | 載現 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清瑾翁主 | 義陽君載覚 | 徳鎔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
載規 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『承政院日記』(1725年旧暦2月8日)
- ^ 『承政院日記』(1725年旧暦12月4日)
- ^ 『承政院日記』(1725年旧暦2月21日)
- ^ 『承政院日記』(1725年旧暦12月2日)
- ^ 『承政院日記』(1725年旧暦12月4日)
- ^ 『承政院日記』(1731年旧暦7月5日)
- ^ 『承政院日記』(1731年旧暦7月16日)
- ^ 『承政院日記』(1731年旧暦7月10日)
- ^ 『承政院日記』(1731年旧暦8月18日)
- ^ 『承政院日記』(1731年旧暦8月19日)
- ^ 『承政院日記』(1731年旧暦9月18日)
- ^ 『承政院日記』(1737年旧暦5月24日)
- ^ 『承政院日記』(1737年旧暦9月17日)
- ^ 『承政院日記』(1739年旧暦2月15日)
- ^ 『承政院日記』(1740年旧暦2月22日)
- ^ 『承政院日記』(1739年旧暦2月15日)
- ^ 『承政院日記』(1740年旧暦5月2日)
- ^ 『承政院日記』(1740年旧暦5月16日)
- ^ 『承政院日記』(1740年旧暦5月16日)
- ^ 『承政院日記』(1740年旧暦5月26日)
- ^ 『承政院日記』(1740年旧暦12月11日)
- ^ 『承政院日記』(1741年旧暦1月7日)
- ^ 『承政院日記』(1741年旧暦1月8日)
- ^ 『承政院日記』(1742年旧暦8月12日)
- ^ 『承政院日記』(1742年旧暦8月28日)
- ^ 『承政院日記』(1743年旧暦6月22日)
- ^ 『承政院日記』(1743年旧暦7月1日)
- ^ 『承政院日記』(1743年旧暦7月2日)
- ^ 『承政院日記』(1743年旧暦11月8日)
- ^ 『承政院日記』(1744年旧暦1月16日)
- ^ 『承政院日記』(1744年旧暦10月7日)
- ^ 『承政院日記』(1744年旧暦12月16日)
- ^ 『承政院日記』(1747年旧暦10月23日)
- ^ 『承政院日記』(1750年旧暦10月14日)
- ^ 『承政院日記』(1751年旧暦10月8日)
- ^ 『承政院日記』(1737年旧暦11月14日)
- ^ 『承政院日記』(1739年旧暦12月17日)
- ^ 『承政院日記』(1750年旧暦4月23日)
- ^ 『承政院日記』(1750年旧暦10月5日)