利用者:Little tree/作業ページ
- 豊臣秀次辞世「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」[1]
- バイロン「シヨンの囚人」「シヨン城詩」(* 岡本成蹊他訳『バイロン全集』第1巻、日本図書センター、1995年 ISBN 4-8205-9332-3 ISBN 4-8205-9333-1)
朱引内
[編集]当時の江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は文政5年(1822年)12月、備後福山藩11万石第5代藩主で江戸幕府では老中を務めた阿部正精(まさきよ、1775〜1826)によって、朱線で囲った地図とともに次のような通達によって定義されています。
「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」
東 … 中川限り 西 … 神田上水限り 南 … 南品川町を含む目黒川辺 北 … 荒川・石神井川下流限り
つまり、旧朱印内は、旧東京市の15区より若干広く、現在の豊島区、渋谷区、荒川区、北区、目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む範囲でした。 http://ch08180.kitaguni.tv/e288982.html
高野山
[編集]- 金剛峯寺: 座主の住寺。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院は文禄二年(1593)豊臣秀吉の建立、文久三年(1863)再建。大主殿、襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られたが今も置かれているのはここのみ。「蟠龍庭」(2,340平米)は日本最大の石庭。
- 壇上伽藍: 金堂は高野山全体の総本堂で
- 霊宝館: 大正10年(1921)開設。
- 徳川家霊台
参考文献
[編集]広重
[編集]- 日本趣味・花咲く梅の木(広重による) (1887) ゴッホ美術館 (歌川広重作 『名所江戸百景 亀戸梅屋舗』の模写)
- 日本趣味・雨の大橋(広重による) (1887) ゴッホ美術館 (歌川広重作 『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』の模写)
- 日本趣味・花魁(渓斉英泉による) (1887) ゴッホ美術館
竹取
[編集]- 竹取翁の物語(たけとりのおきなのものがたり)作者成立年不詳、仮名書き。 [14]
川端康成
[編集]- 1927年、前年結婚した夫人とともに豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺) [15]
- 父栄吉(医師)。姉芳子。; 1920年、同人誌「新思潮」(第6次)の発刊を企画; 1921年「新思潮」を創刊; 1924年、佐々木茂索、同人雑誌「文藝時代」を創刊。1926年、処女短篇集『感情装飾』を刊行。; * 1948年に日本ペンクラブ第4代会長 [16]
参考文献
[編集]- 川端康成 『雪国』 岩波書店〈文庫〉、2003年、ISBN 4-00-310813-2
神楽坂
[編集]外部リンク
[編集]アルヴ川
[編集]アルヴ川(l'Arve)はフランス東部およびスイス西部を流れる川。 アルプス山脈のモンブラン山塊を水源とし、ジュネーヴでローヌ川に合流する。
地理
[編集]シャモニー渓谷のトゥール村の背後にあるバルム(Balme)山中を水源とし、メール・ド・グラス(Mer de glace)から流れ出すアルヴェロン川(l'Arveyron)等の支流と合流する。 流域の大半はオート=サヴォワ県を流れるが最後の数 km はスイスのジュネーブ州に入り、レマン湖の出口付近でローヌ川と合流する。
利用
[編集]ジュネーヴではアルヴ川沿いに「砂金採りの遊歩道(la Promenade des Orpailleurs)」と名付けられた遊歩道があり、かつて氷河の水から採れるはずのない砂金を求めて汗を流した者達のいたことをうかがわせる。
流れの激しいアルヴ川は、ラフティングやカヌーの練習にも用いられている。
関連項目
[編集]- シャモニー付近のアルヴ川 fr:Image:Arve a` Chamonix.jpg
外部リンク
[編集](:fr:Arve 16 juillet 2006 a` 22:38 より翻訳。著者:ChrisJ, Yann, Poleta33, Korg 他) [19]
雑司ヶ谷霊園
[編集]明治政府の 自葬禁止(1872(明治5)年6月28日)、 神葬地設定(1872(明治5)年7月13日)、 火葬禁止(1873(明治6)年7月18日太政官第二百五十三号)、 旧朱引内
の埋葬禁止、 墓地令(1874(明治7)年6月22日) 等の法令・布告・布達にともない共葬墓地の必要が生じ、東京府が東京会議所に命じて雑司ヶ谷旭出町墓地を造営 [3]、 1874年(明治7年)9月1日に開設。
1876年(明治9年)に東京会議所から 東京府が管理事務を引き継ぎ [20] [21]
関連項目
[編集]スイス・フラン
[編集]- 1918-1925年発行の100スイスフラン紙幣の意匠はウィリアム・テルの肖像。
- 5スイスフラン硬貨の意匠はウィリアム・テルの肖像。
- 10フラン1997年4月8日発行; *20フラン1996年10月1日発行; *50フラン1995年10月3日発行; *100フラン1998年10月1日発行; *200フラン1997年10月1日発行; *1,000フラン1998年4月1日発行; 5フラン硬貨のデザインはウィリアム・テル;
エドモントン
[編集]この大学の図書館は1000万冊以上の蔵書を有し、13,000の電子定期刊行物(全文)並びに500のデーターベースを契約しており、カナダの研究に重点を置く大学の中では蔵書数で2位、学生1人あたり蔵書数で1位にランクされている(2005年現在)[4]。 [25]
サンショウ
[編集]若芽・若葉(木の芽)、また吸い口として用いられる。また、料理の木の芽和え、「木の芽味噌」に使われる他、佃煮の「木の芽煮」の材料となる。 花(花山椒)は料理の吸い口として、あるいは佃煮にも用いられる。 [26]
甲子夜話
[編集]- wikiquote[27]では、「松浦靜山の『甲子夜話』にみえる川柳。おそらくはよみ人知らず」
- 上記 wikiquote では「鳴かずともなかして見せうほととぎす」他にも『甲子夜話』からの引用8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89[28] [29]は「見せう」(「見せふ」とあるのは記憶違い?)
- 鳴かぬなら or 鳴かずとも - 『甲子夜話』からの wikiquote 二つが食い違っている
- これらの川柳の原型は江戸後期の平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』に見える(q:時鳥#川柳)。[31]
- 夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様< br>このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
-- 靜山松浦清『甲子夜話』巻五十三〔八〕(松浦静山著、中村幸彦中野三敏 校訂『甲子夜話』4、東洋文庫 333、平凡社 、昭和53年)
[32] [33] [34] [35] [36] [37] [38]
- 露と落(おち)露ときえぬる我身かな 難波のことも夢の世の中 -- 靜山松浦清『甲子夜話』巻二十三〔二〕(松浦静山著、中村幸彦 中野三敏 校訂『甲子夜話』2、東洋文庫 314、平凡社 、昭和52年)
- 文禄三年、豊臣秀吉公母堂三回忌に因て高野に登嶺あり。公卿雲客武家扈従す。
- 秀吉
- なき人の形見の髪を手にふれて
- つゝむに余る涙かなしも
- -- 靜山松浦清『甲子夜話』巻二十三〔二〕(松浦静山著、中村幸彦 中野三敏 校訂『甲子夜話』2、東洋文庫 314、平凡社 、昭和52年)
修善寺温泉
[編集]- 『半島一奇抄』 新井旅館の歴史 文化財の歴史と文人墨客達 [41]
- 岡本綺堂: 戯曲『修禅寺物語』随筆『春の修善寺』『秋の修善寺』がある; 芥川龍之介: 短編『温泉だより』『新曲修善寺』; 尾崎紅葉: 『金色夜叉』を執筆; 泉鏡花: 1928年5月、肺炎の病後に滞在[5]。修善寺に題材を取った作品に『斧琴菊』『奥の院にて』がある; 夏目漱石: 『修善寺の大患』; 島崎藤村: 『伊豆の旅』; 田山花袋: 『北伊豆』『南伊豆』; 川端康成: 『伊豆温泉記』; 井伏鱒二: 『修善寺の桂川』; [42]
緒方貞子
[編集]- 名誉都民
- 1927年9月16日東京府東京市麻布区(現東京都港区)
略歴
[編集]- 1951年 : 聖心女子大学英文科卒業
- 1953年 : 米国ジョージタウン大学国際関係論修士
- 1963年 : 米国カリフォルニア大学(バークレー校)政治学博士
- 1965年 : 国際基督教大学非常勤講師
- 1968年 : 国連総会日本政府代表顧問
- 1974年 : 国際基督教大学準教授
- 1976-78年 : 国連日本政府代表部公使
- 1978--79年 : 国連日本政府代表部特命全権公使、ユニセフ執行理事会議長
- 1979年 : 外務省参与、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長
- 1980-88年 : 上智大学国際関係研究所教授
- 1981-85年 : 婦人問題企画推進会議委員
- 1982-85年 : 国連人権委員会日本政府代表
- 1983-87年 : 国際人道問題独立委員会委員
- 1987-88年 : 上智大学国際関係研究所長
- 1989-91年 : 上智大学 外国語学部長
- 1990年 : 国連人権委員会ビルマ人権状況専門家(ビルマは現在のミャンマー)
- 1991年 : 第8代国連難民高等弁務官に就任(1990年12月21日国連総会にて選出、任期は1991年1月1日から3年、2月18日就任)。
- 1993年 : イタリア金の鳩平和賞を受賞
- 1994年1月1日 : 国連難民高等弁務官に再任(1993年11月4日国連総会にて再選。任期5年)
- 1999年1月1日 : 国連難民高等弁務官に再任(1998年9月29日国連総会にて再選。任期2年)
- 2001年 : 人間の安全保障委員会共同議長
- 2001年11月 : アフガニスタン支援政府特別代表
- 2001年 : 文化功労者。フランス・スウェーデン・ロシア・ドイツ・イタリアで受章
- 2002年1月21-22日 : アフガニスタン復興支援国際会議共同議長
- 2002年 : ガンジー平和賞受賞
- 2003年 : 文化勲章を受章。国連有識者ハイレベル委員会委員、人間の安全保障諮問委員会委員長に就任
- 2003年10月1日 : 国際協力機構 (JICA)理事長就任。
- 2004年10月1日 : 名誉都民に顕彰
参考文献
[編集]- UNHCR Basic Facts
- UNHCRプレスリリース
- 日本UNHCR協会
- 現代政治用語辞典
- 国際協力機構(JICA)ニュースリリース
- 日本国際問題研究所 JIIAフォーラム講演要旨
- 「日本女性会議2001みと」へのメッセージ
- 石原慎太郎東京都知事・記者会見(2004年9月3日)
- 東京都報道発表資料(2004年9月3日)
- ケネディスクール同窓会
外部リンク
[編集]政府代表部
[編集]- 国際連合日本政府代表部 (Permanent Mission of Japan to the United Nations) :国連に対して置かれたもの。米国・ニューヨークに所在。
- 国際連合教育科学文化機関日本政府代表部 (Permanent Delegation of Japan to the United Nations Educational Scientific and Cultural Organization) :ユネスコ(UNESCO)に対して置かれたもの。フランス・パリ所在。
- 国際民間航空機関日本政府代表部 (Delegation of Japan to the International Civil Aviation Organization) :国際民間航空機関(ICAO)に対して置かれたもの。カナダ・モントリオール所在。国際民間航空機関代表部大使は駐カナダ全権特命大使(在オタワ)が兼ねる。ICAO本部ビル内にある政府代表部にはカナダ大使館所属の参事官が常勤して会議に出席している。
- 在ウィーン国際機関日本政府代表部 (Permanent Mission of Japan to the International Organizations in Vienna) :オーストリア・ウィーンにある各種国際機関に対してまとめて置かれたもの。
- 在ジュネーブ国際機関日本政府代表部 (The Permanent Mission of Japan to the United Nations and Other International Organizations in Geneva) :スイス・ジュネーブにある各種国際機関に対してまとめて置かれたもの。「寿府代」(じゅふだい)と略されることが多い。
- 軍縮会議日本政府代表部 (Delegation of Japan to the Conference on Disarmament) :軍縮会議(CD)に対して置かれたもの。上記ジュネーブ代表部と同じ住所にある。
- 欧州連合日本政府代表部 (The Mission of Japan to the European Union) :欧州連合(EU)に対して置かれた、いわば在EU大使館。ベルギー・ブリュッセル所在。他の代表部がそれぞれ派遣された国際機関に日本が加盟しているのに対し、EU代表部の場合は、日本が欧州連合に加盟しているわけではないにも関わらず設置されている。*経済協力開発機構日本政府代表部 (Permanent Delegation of Japan to the Organisation for Economic Co-operation and Development) :経済協力開発機構(OECD)に対して置かれたもの。フランス・パリ所在。
外部リンク
[編集]- 外務省在外公館の頁
- 国際連合日本政府代表部
- 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)日本政府代表部
- 在ジュネーブ国際機関日本政府代表部
- 軍縮会議日本政府代表部
- 欧州連合日本政府代表部
- 経済協力開発機構(OECD)日本政府代表部
- 在カナダ日本国大使館
西遊記
[編集]- 西遊記(1984年 中国中央電視台製作、日本テレビ)
唐三蔵西天取経伝説
[編集]現実の玄奘三蔵の取経の旅は西暦629年から645年の間になされた。その事績が仏教徒の間で伝説化し神聖視された痕跡が各地に残されている。
敦煌莫高窟から発見された絹本、紙本の絵画及び壁画(9世紀から11世紀半ば)には経巻を背負い虎を伴った徒歩の行脚僧の描かれたものがあり、伝説化した玄奘とする説がある。これらの中には宝勝如来を上隅に描き入れているものがあり、「寳勝如來一躯」と書き入れられたものもあることからこの取経者は宝勝如来に保護され、また宝勝如来と同一視されたと推定される。
莫高窟東方約 100 km の楡林窟、その更に東方約 30 km の東千仏洞の水月観音図、普賢変図(12世紀後半、西夏末)に含まれる玄奘取経図に描かれた玄奘は猴(マカカ属のサル)と馬を伴っており、また張世南『游宦紀聞』(1228)所収の張聖者の詩(北宋末から南宋初、12世紀前半と推定される)には「幾生三藏往西天」「苦海波中猴行復」「沈毛江上馬馳前」の字句が見え、12世紀には玄奘の取経伝説には猴と馬が取り込まれていたことが分かる。1237年に建立された福建省泉州の開元寺の仁壽塔(西塔)第四層南面には「梁武帝」に向き合って経文を捧げる「唐三藏」、東北面には刀を手にした猴行者と金箍棒を手にした「東海火龍太子」の浮き彫りがあり、それぞれ「」内の文字が銘文にある(猴行者は銘文無し)。
メーデー
[編集]註
[編集]- ^ http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/kongo/willow/hide.html
- ^ 旧朱引内:御府内、東京府内。江戸の範囲を絵図面に朱線を引いて示したことから。明治2年、新たに朱引内(市街地)と朱引外(郷村)が設定された。
- ^ 同時期に造営された墓地に、青山、同立山、染井、亀戸、谷中がある。
- ^ University of Alberta Libraries
- ^ 泉鏡花自筆年譜
参考文献
[編集]- 中野美代子訳『西遊記1~10』岩波書店 ISBN 4003202015
- 太田辰夫・鳥居久靖訳『西遊記』平凡社 ISBN 4-582-32702-8 C0397
- 『西遊記の秘密 タオと煉丹術のシンボリズム』中野美代子 岩波書店 ISBN 4006020708C0197
- 『西遊記 ―トリック・ワールド探訪』中野美代子 岩波書店 ISBN 4-00-430666-3 C0297
- 岡本成蹊他訳『バイロン全集』第1巻、日本図書センター、1995年 ISBN 4-8205-9332-3 ISBN 4-8205-9333-1
- 靜山松浦清『甲子夜話』巻二十三〔二〕(松浦静山著、中村幸彦 中野三敏 校訂『甲子夜話』2、東洋文庫 314、平凡社 、昭和52年)
- 靜山松浦清『甲子夜話』巻五十三〔八〕(松浦静山著、中村幸彦中野三敏 校訂『甲子夜話』4、東洋文庫 333、平凡社 、昭和53年)
関連図書
[編集]- 太田 牛一『信長公記』 桑田 忠親校注 新人物往来社; 新訂版 1997年 ASIN 4404024932 ISBN 4404024932
- 太田 牛一『信長公記』 中川 太古訳 新人物往来社 (2006.5) 上巻 ISBN 4404032994 下巻 ISBN 4404033001