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利用者:LLAAYY/sandbox

はかた部ランド協議会."博多旧町名石碑マップ".2005-02,https://hakatanomiryoku.com/mame/%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%81%8c%e6%95%99%e3%81%88%e3%82%8b%e5%8d%9a%e5%a4%9a%e6%97%a7%e7%94%ba%e5%90%8d ,参照 2024-07-10 メモ 手直し必要。節「流の変遷」に沿った文に訂正すること。明治通りを強調したい。

概要

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那珂川御笠川博多湾・房州堀(およそ現在の国体道路国道202号)に囲まれた狭義としての博多は、安土桃山時代までは自治都市として栄えたが戦火により荒廃した。九州征伐を終えた豊臣秀吉1587年に博多の復興を構想、黒田孝高(如水)に立案させ、石田三成をはじめ滝川雄利長束正家小西行長山崎片家らを復興事業にあたらせた。この区画整理事業は太閤町割りと呼ばれる。神屋宗湛島井宗室も援助を行った。町割りに際して秀吉は東西および南北の町筋(通り)の数を七条袈裟になぞらえて7本とし、町筋に面した家々を地区ごとに1つの町とした。いわゆる背割り方式であり(現代は街区方式が主流)、町筋を挟んだ向かいの家々も同じ町内であるが、裏手にある家は別の町に属した。そして町筋ごとに「流」という町の集合体を形成させた。貝原益軒の『続風土記』には9つの流が記されており[1]、町の発展と共に厨子流(図師町流、櫛田流)、新町流、築港流、沖浜流と拡大した。このうち新町流は岡新町流(のちに岡流、現在の祇園町一帯)と濱新町流(のちに濱(浜)流となる。現在の大博町・神屋町一帯)に二分された。[2]なお、江戸時代から終戦まで、祇園山笠へ正式に参加を認められた流は石堂町、洲(須)崎町、魚町、呉服町、土居町、東町、西町の七つであり、厨子流(図師町流、櫛田流)及び岡新町流(岡流)並びに濱(浜)流の三つの流に対しては、山を建てることは禁止され、前述の七流の加勢町として山昇きへの参加のみ認められていた。[3]

「流」という呼称については、小川や旗の当時の数え方に由来するという説や、黒田孝高故地の播磨国での池の数え方に由来するという説などがあるが、明確ではない。[4]

現代においては、近世にみられた自治組織上および行政上、町の上位行政区画としての意味は薄れたが、博多松囃子博多祇園山笠といった大規模な祭事は、今もこの流単位で執り行われている。

流の成立と変遷

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江戸期

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町割りはまず中心となる一小路(市小路・いちしょうじ)を南北に定め、東に東町筋、西に西町筋、土居町筋、東西に横町筋、魚町筋と定められた。 この際、筋毎に町の集合体である流を組織した。南北縦筋に東町流、市小路流(呉服町流)、西町流、土居流、東西横筋に石堂流(恵比須流)、魚町流(福神流)、最も福岡側寄りの博多川沿いに洲崎町流(大黒流)を配した。毎年これら7流のうち6流が博多祇園山笠の山笠当番を務め、1流が能当番を務めた。また、博多どんたくの前身(中核)である博多松囃子では、福神流、恵比須流、大黒流が三福神の当番を務め、他の4流が交代で稚児流の当番を務めた。

江戸期の流と町名

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江戸期の町名は以下の通り。[1]:64-95

  • 東町流:御供所町ごくしょまち金屋小路町かなやしょうじまち北船町きたふねまち東町ひがしまち上、東町下、浜口町はまぐちまち上、浜口町中、浜口町下、鏡町かがみちょう[1] :64-67
  • 呉服町流:小山町おやままち上、小山町下、呉服町ごふくまち上、呉服町下、市小路町いちしょうじまち上、市小路町中、市小路町下、廿屋町にじゅうやまち萱堂町かやどうまち[1]:68-71
  • 西町流:万行寺前町まんぎょうじまえまち竹若番たけわかばん箔屋番はくやのばん西町にしまち上、西町下、蔵本番くらもとばん奈良屋番ならやばん古渓町こけいまち芥屋町けやまち釜屋番かまやばん[1]:72-75
  • 土居町流 : 社家しゃけまち大乗寺前町だいじょうじまえまち土居町どいまち上、土居町中、土居町下、行ノ町ぎょうのちょう浜小路町はましょうじまち西方寺前町さいほうじまえまち片土居町かたどいまち川口町かわぐちまち新川端町しんかわばたまち[1]:76-79
  • 洲(須)崎流(大黒流):新川端町上(『福博古図』以外では土居町流のうち[1]:80)、新川端町下、川端町かわばたまち鰯町いわしまち上、鰯町下、須崎町すさきまち上、須崎町中、対馬小路町つましょうじまち上、対馬小路町中、対馬小路町下、古門戸町こもんどまち妙楽寺新町みょうらくじしんまち妙楽寺前町、妙楽寺町、掛町かけまち麹屋番こうじやばん橋口町はしぐちまち[1]:80-83
  • 石堂町流(恵比須流)
    • 縦筋(南北):蓮池町はすいけまち竪町たてちょう上、竪町中、竪町下、金屋町かなやちょう上、金屋町中、金屋町横町かなやちょうよこまち、金屋町下
    • 横筋(東西):官内町かんないまち中石堂町なかいしどうまち中間町なかままち綱場町つなばまち[1]:84-87
  • 魚町流(福神流):西門町さいもんまち中小路町なかしょうじまち、中小路町下、魚町うおのまち上、魚町中、魚町下、店屋町てんやまち上、店屋町下、古小路町こしょうじまち中島町なかしままち [1]:88-89
  • 厨子町流 (櫛田流):奥堂町おくのどうまち上、奥堂町中、奥堂町下、櫛田前町くしだまえまち今熊町いまぐままち普賢堂町ふげんどうまち上、普賢堂町下、桶屋町おけやまち上、桶屋町下、赤間町あかんまち上、赤間町下、厨子町ずしまち上、厨子町下[1]:88-89
  • 新町流(幕末に岡流と浜流に分離。[5][6]
    • 岡流:辻堂町つじのどうまち上、辻堂町下、馬場新町ばばしんまち祇園町ぎおんまち上、祇園町下、瓦町かわらまち
    • 浜流:竪町浜たてちょうはま浜口ノ浜はまぐちのはま市小路浜いちしょうじはま(浜)、西町浜にしまちはま[1]:90-95

明治期

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明治7年1874年)、福岡県の通達によって「何町かみなかしも」と呼ばれていた町は「上何町、中何町、下何町」へ、「何々番」は「何々町」へと改称(蔵本番→蔵本町)された。さらに奥小路町、金屋小路町、対馬小路町、中小路町は奥小路、金屋小路、対馬小路、中小路のように「町」が省かれた。 また同8年には竪町浜たてちょうはま、浜口町浜、市小路町浜、西町浜はそれぞれ大浜おおはま一丁目から四丁目に組み入れられた。[1]:52-53 1899年明治32年)に博多港の整備及び拡張のため博多築港株式会社が埋立工事を開始し、1908年(明治41年)10月に竣工。それに伴い千歳町ちとせまち海岸通かいがんどおり冷泉町れいせんまちれいぜんまち)などの町が生まれ、築港流の形成に至った[7]。築港流は博多七流に含まれず、浜、岡、櫛田と同様に加勢町として山昇きへの参加のみ許されていた[8]

明治期の流と町名

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明治期の流と属する町名は以下の通り[9]。一部、江戸期からの町名も含む。なお、これらは町名町界整理事業が実施される昭和41年1966年)まで存在していた。

  • 呉服町流:東長寺新道、上小山町[9]:390-391,321-322、下小山町[9]:322,660、上呉服町[9]:394,586、下呉服町[9]:665,586、上市小路[9]:385,166、中市小路[9]:958,166、下市小路[9]:655,166、廿屋町[9]:1034、萱堂町[9]:420、奥小路[9]:303
  • 東町流:御供所町[9]:562、金屋小路[9]:367、北船町[9]:465、上東町[9]:409,1128、下東町[9]:679,1128、上浜口町[9]:408,1095、中浜口町[9]:987,1095、下浜口町[9]:678,1095、鏡町[9]:333
  • 厨子流(櫛田流)[10]:今熊町[9]:194、櫛田前町[9]:488、上厨子町[9]:398-399,743、下厨子町[9]:668,743、上奥堂町[9]:390,304、中奥堂町[9]:962,304、下奥堂町[9]:660,304、上赤間町[9]:383,95、下赤間町[9]:654,95、上桶屋町[9]:390,306、下桶屋町[9]:660,306、寺中町(要出典)、上普賢堂町[9]:410,1181、下普賢堂町[9]:680,1181
  • 西町流:万行寺前町[9]:1259竹若町たけわかまち[9]:824箔屋町はくやまち[9]:1070、上西町[9]:406,1030-1040、下西町[9]:676,1030-1040蔵本町くらもとまち[9]:512奈良屋町ならやまち[9]:1007-1008、古渓町[9]:576、芥屋町[9]:534釜屋町かまやまち[9]:382
  • 土居流:上新川端町[9]:398,718、大乗寺前町[9]:776-777、川口町[9]:425、上土居町[9]:404,916、中土居町[9]:981-982,916、下土居町[9]:673,916、片土居町[9]:351、行町[9]:475-476、濱小路[9]:1098、西方寺前町[9]:603
  • 福神流:西門町[9]:604、中小路[9]:971-972、上魚町[9]:216,387、中魚町[9]:216,959、下魚町[9]:216,657、上店屋町[9]:914,404、下店屋町[9]:914,673、古小路[9]:579
  • 石堂流:蓮池町[9]:1077、官内町[9]:443-444上竪町かみたてちょう[9]:400-401,840-841中竪町なかたてちょう[9]:974,840-841下竪町しもたてまち[9]:670,840-841、上金屋町[9]:391,367-368、下金屋町[9]:661,367-368金屋町横町かなやちょうよこちょう(横町)[9]:368、中石堂町[9]:957、中間町[9]:992、綱場町[9]:893
  • 大黒流:下新川端町[9]:667,718、寿通[11]、麹屋町[9]:544、川端町[9]:431、下対馬小路大下[12]、上鰮町[9]:386-387,206-207、下鰮町[9]:656,207、上洲崎町[9]:398,741-742、下洲崎町[9]:673,902-903、掛町[9]:337、橋口町[9]:
  • 濱(浜)流・岡流(それぞれ元・新町流)[注 1]
    • 濱(浜)流:大浜町一丁目、同二丁目、同三丁目、同四丁目[9]:287、小金町[注 2]、柳町[注 3]
    • 岡流:瓦町[9]:436、社家町[9]:688、上祇園町[9]:392,449、下祇園町[9]:662,449、祇園町字矢倉門[9]:1367、馬場新町[9]:1092、上辻堂町[9]:401,887、下辻堂町[9]:671,887、出来町[9]:908、停車場前町(停車場新道)[9]:908
  • 築港流:沖田町、北浜町一丁目、同二丁目、同三丁目 、同四丁目[9]:465、海岸通り一丁目、同二丁目、同三丁目、同四丁目、同五丁目[9]:328、西浜町[注 4]一丁目、同二丁目[9]:1027、恵比須町[9]:251幾世町いくよまち[9]:147石城町せきじょうまち一丁目、同二丁目、同三丁目[9]:754千歳町ちとせまち一丁目、同二丁目、同三丁目[9]:872、冷泉町(ここでいう冷泉町は、現在の冷泉町とは異なる。)[9]:1456

昭和期

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第二次世界大戦末期の福岡大空襲によって博多の町は焦土と化し、戦後になり道路も付け変わった[1]:52が、旧町を引き継ぎ、流も存続しえた。戦後の流は本来の自治組織としての意義は大幅に薄れ、山笠松囃子の当番のためのものとなった感がある。

戦後しばらく山笠行事は中止されたが、1949年昭和24年)に博多祇園山笠振興期成会(博多祇園山笠振興会の前身)が結成され[13]、山笠振興のため広く門戸を開放したことで、旧い博多の外から新たに流が発足し、今日の山笠の隆盛に大いに貢献することとなった[14]。 昭和期に誕生した流は、1949年(昭和24年)の中洲流[注 5]、1950年(昭和25年)の千代流[注 6]、唐人町流[15]1952年(昭和27年)の南流(一丁目流)[注 7]、の四つである。 なお、南流(一丁目流)は、1952年(昭和27年)のみ舁き山笠を作り、唐人町流は舁き山笠は作らず、飾り山笠と子供山笠だけであった。

流の消滅と再編

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1962年昭和37年)公布施行された住居表示に関する法律を受けて、福岡市は町名町界の行政合理化を図るため1966年(昭和41年)に旧来の背割りを廃し、街区方式に改める町名町界整理事業を実施した[16]。これによって、旧来からの町域に基づく流は行政上の区画としての町域との整合性が無くなり、行政上の意味を失い廃されたが、地域共同体における必要性から流は即日再編されることとなった。 例えば、恵比須流(旧石堂流)・大黒流はほぼ旧体制を受け継いで今日に至っており[17][18]、土居流は、町名町界整理事業により土居町をはじめとする大半の町が消滅したため存続が困難視されたが、有志によって土居町筋沿いの旧町体制を維持した土居流保存会が結成されて流が復活することとなり、引き続き山笠の当番を務め今日に至っている[19]。 一方、呉服町流は大半が大博通りに含まれ、また分断されることになり流運営も苦しくなるため、東西に分離して東側は東町流、櫛田流の一部などと合流し東流[20]、西側は西町流に岡流、櫛田流、呉服町流の各一部と合流し西流[21]となった。その後、町名町界整理事業から約20年を経て1981年(昭和56年)、長い歴史ある町名の消失を惜しむ人々によって石碑が建てられた。1979年(昭和54年)に廃止された西鉄福岡市内線敷石が石碑の素材として再利用され[22]、旧町名とその由来などが刻まれている。[1]:53

昭和期の町名町界整理事業の前後を含む時期における全ての流と、属する旧町名は以下の通り。括弧内は加勢町。

  • 中洲流:作人町、千日前、南新地、芳町、人形町、新橋、永楽町[注 8]
  • 千代流(旧大津流):千代1丁目~6丁目[9]:876(潟洲町、栄町、西門橋通、水茶屋町、真砂町、千代町一丁目、二丁目、三丁目、妙見町、千代新町、宝来町、大学通一丁目、二丁目、三丁目、東福町、崇福寺新町、千代新町、大国町、旭町、東浜町一丁目、大石町、京町御国町、大津町)[注 9]
  • 南流(一丁目流):現在の渡辺通り一丁目地区[25]
  • 東流:御供所一区、三区、四区、東長寺新道、奥堂町、金屋小路、上桶屋町、下桶屋町、北船町、上普賢堂町、下普賢堂町、普賢堂、魚町、上東町、下東町、上浜口町、中浜口町、鏡町、駅前[26](下呉服町、中呉服町、上呉服町、博多駅前一丁目、御供所町)
  • 西流:冷泉上、冷泉下、店屋町、綱場町、奈良屋町[27](冷泉町、店屋町、綱場町、奈良屋町の各一部)
  • 恵比須流:綱場町、中間町、中石堂町及び石堂川東側の蓮池町、官内町、上竪町、中竪町、下竪町、上金屋町、下金屋町、横町の11ヶ町[28](下呉服町、中呉服町、上呉服町の各一部)
  • 土居流:濱小路、川口町、片土居町、西方寺前町、上新川端町、行町、下土居町、大乗寺前町、中土居町[29](奈良屋町、綱場町、店屋町、冷泉町、古門戸町、下川端町の各一部、上川端町)

現在の流と町名

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現在では、土居流大黒流東流中洲流西流千代流恵比須流福神流の8つの流があり、福神流を除く7流が山笠当番を務める。この山笠を務める7流は「博多七流」とよばれる。


呉服町流「東長寺前町」要確認、根拠探すこと。

脚注

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注釈

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  1. ^ 流の範囲は次の資料の図(1)"明治中期頃"の8番(浜)と9番(岡)を参照。西島伊三雄 (1996年12月). “明るい博多の暮らし”. p. 91. 2024年7月22日閲覧。
  2. ^ 江戸期から明治14年までの名称は仮屋町であった。[9]:559,423
  3. ^ 江戸期は流に属さず。[9]:1383
  4. ^ 西浜町一丁目、二丁目は1902年(明治35年)から翌年まで、唐船とうせん町(一丁目、二丁目がある)と呼ばれていたが、博多築港株式会社の出願で西浜町に改称した。
  5. ^ 戦前から土居流の加勢町として部分的に参加していた。中洲流”. 山笠ナビ運営事務局. 2024年7月30日閲覧。
  6. ^ 大津町流が改称。千代流”. 2024年7月30日閲覧。
  7. ^ 一丁目流、のちに渡辺通一丁目。【飾り山笠】 渡辺通一丁目”. 2024年7月30日閲覧。
  8. ^ 昭和43年に中洲一丁目から五丁目となる。中洲の歩み”. 2024年8月8日閲覧。
  9. ^ 発足当時と同時期の古地図[23]と、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」[24]の情報をもとに記載。
  10. ^ 1966年から下川端町の一部であるが、旧町名「寿通」を継承した。寿通” (2005年4月11日). 2024年8月6日閲覧。
  11. ^ 対馬小路(旧大下)で構成。対馬小路二区が発足するまで一町として運営していた。つノ一”. 2024年8月6日閲覧。
  12. ^ 倉所町、西方寺町の一部から成り、町名整理のさい大黒流から離脱したが、およそ20年後の1986年(昭和61年)「つノ二」として正式に発足。つノ二” (2007年3月8日). 2024年8月6日閲覧。
  13. ^ 上鰯町、上洲崎町の全部、下鰮町、下洲崎町、上対馬小路、中対馬小路の一部と橋口町で構成。すノ一”. 2024年8月6日閲覧。
  14. ^ 下鰮町の大部分で構成。すノ二”. 2024年8月6日閲覧。
  15. ^ 下洲崎町を中心に中対馬小路、下対馬小路、下鰯町の各一部で構成。すノ三” (2005年2月22日). 2024年8月6日閲覧。
  16. ^ 町名整理時に下川端町となったが、旧町名である「川端町」を継承。現在の下川端町の北西側一帯で構成される。川端”. 2024年8月6日閲覧。
  17. ^ 町名整理のさい「東下新川端町」を「川端中央街」に改称。旧川口町は現在の「上川端町」の一部に吸収された。川中” (2005年1月11日). 2024年8月6日閲覧。
  18. ^ 下新川端町は、現在の博多区下川端町下新” (2007年2月9日). 2024年8月6日閲覧。
  19. ^ 町名整理のさい「下川端町」の一部に吸収されたが、山笠における流としての町名は「麹屋町」を引き継いだ。麹屋”. 2024年8月6日閲覧。
  20. ^ 旧古門戸町、妙楽寺町、妙楽寺新町、上対馬小路、中対馬小路が統合して成る。古ノ一” (2012年10月23日). 2024年8月6日閲覧。
  21. ^ 倉所町、下対馬小路、妙楽寺町の各一部を編入して成る。古ノ一” (2012年10月23日). 2024年8月6日閲覧。
  22. ^ 1930年まで大黒流の当番を務めていた。掛町”. 2024年8月6日閲覧。
  23. ^ 1931年まで大黒流の当番を務めていた。新町”. 2024年8月6日閲覧。
  24. ^ 1941年まで大黒流の当番を務めていた。橋口町”. 2024年8月6日閲覧。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 宮崎克則, 福岡]アーカイブ研究会編『古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み―』(第2版)海鳥社、2020年9月15日。ISBN 4-87415-548-0 
  2. ^ 宇野 功一「近代博多における個別町の社会構造と祇園山笠経営 : 昭和10年代の西町流古溪町を例に」(PDF)『国立歴史民俗博物館研究報告』第125巻、国立歴史民俗博物館、2006年3月25日、41頁、CRID 1390290699066275328 
  3. ^ 宇野 功一 (2006年3月25日). “儀礼、歴史、起源伝承 : 博多祇園山笠にかんする一考察”. pp. 41,67-68. 2024年7月21日閲覧。
  4. ^ 博多祇園山笠用語辞典”. 2024年7月20日閲覧。
  5. ^  宇野 功一 (2006年3月25日). “祭礼観光経済序説 : 近世・近代における都市祭礼の経済構造”. p. 276. 2024年7月21日閲覧。
  6. ^ 西島伊三雄 (1996年12月). “明るい博多の暮らし”. p. 91. 2024年7月22日閲覧。
  7. ^  宇野 功一 (2006年3月25日). “近代博多における個別町の社会構造と祇園山笠経営 : 昭和10年代の西町流古溪町を例に”. p. 10. 2024年7月21日閲覧。
  8. ^ 遠城 明雄. “一九一〇年の博多祇園山笠 : 町・流・博多”. 2024年7月27日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy 「角川日本地名大辞典」編集委員会 竹内理三『角川日本地名大辞典』 40 福岡県(初版)、角川書店、1988年3月8日。ISBN 4-04-001400-6 
  10. ^  宇野 功一 (2006年3月25日). “近代博多における個別町の社会構造と祇園山笠経営 : 昭和10年代の西町流古溪町を例に”. p. 41. 2024年7月21日閲覧。
  11. ^ 旧町時代の大黒流”. 2024年7月21日閲覧。
  12. ^ 大下”. 大黒流総合サイト. 2024年8月6日閲覧。
  13. ^ 博多祇園山笠振興会”. 24 07 2024閲覧。
  14. ^ 宇野 功一 (2006年3月25日). “儀礼、歴史、起源伝承 : 博多祇園山笠にかんする一考察”. pp. 82. 2024年7月21日閲覧。
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  18. ^ 大黒流とは”. 大黒流総合サイト. 2024年8月4日閲覧。
  19. ^ 土居流”. 山笠ナビ運営事務局. 2024年8月4日閲覧。
  20. ^ 東流”. 山笠ナビ運営事務局. 2024年8月3日閲覧。
  21. ^ 西流”. 山笠ナビ運営事務局. 2024年8月2日閲覧。
  22. ^ はかた部ランド協議会 (2005年2月). “石碑が教える博多旧町名”. 2024年7月20日閲覧。
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参考文献

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