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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 久野 重勝 | よみ = くの しげかつ | 画像 = Kuno Shigekatsu.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = | 時代 = 戦国時代 - 江戸時代前期 | 生誕 = 天文14年(1545年) | 死没 = [[天正]19年8月14日1592年9月10日) | 改名 = 四兵衛(しへい) | 別名 = 四朗兵衛(しろうべい) | 戒名 = | 墓所 = 福岡市中央区今泉 長円寺 | 官位 = | 主君 = 黒田孝高黒田長政 | 藩 = 筑前福岡藩家老 | 氏族 = 久野氏 | 父 = 久野重誠(しげかね) | 弟 = 久野重時(しげとき) | 妻 = | 子 = 久野次左衛門(じざえもん)

久野 重勝(くの しげかつ)は、安土桃山時代末期の武将。 別名は四兵衛(しへい)、黒田家第三代家老で、黒田二十四騎黒田八虎の1人である。

生涯

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天文14年(1545年)に生まれる。 播磨国加東市東条・小野市を治めていた久野村金釣瓶城の代々城主の家柄であった。 先祖には現在の小野市昭和町にあたるの金釣瓶(かなつるべ)[= 金鑵(かなつるべ)=桔槹(はねつるべ)]城主であった久野式部がいた。 式部の孫に圓賀がいたが、戦国の世にその領地を守る事が困難になった。  1569年 (永禄十二年)、重勝の父重誠(シゲカネ)は黒田職隆に、重勝は黒田孝高(官兵衛)の小姓として、親子で黒田家に仕える事になった。 その後父重誠が別所氏との戦で負傷したため後を継いで家老職に任じられた。 黒田孝高に小姓から仕えて家老職にまで登り、九州征伐では筑前国高祖城で一番駆けの戦功を挙げたことで知られる。 名を四兵衛とし、博多の復興に従事して町割りの基礎を作り、文禄の役の際は肥前名護屋城の陣屋割りも担ったが、平壌攻略の際に物見(斥候)に出た際に受けた傷が元で天正19年に朝鮮半島で没した。  

人物像

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天正15年九州陣のとき、小早川隆景が筑前国怡土(いど)郡原田氏が篭った高祖城を攻めた際に、黒田家の目付として四兵衛重勝が月毛の馬にまたがり大手門まで一番駆けをした。 この勇気に驚いた高祖城主原田信種は無血降伏を決意したとされ、重勝はこの功績により秀吉から感謝状をもらっている。 また四兵衛重勝は、土地区画にも優れた才能を見せている。 如水の豊前入国後六千石を賜った重勝は、戦乱で荒廃していた博多の町の復興を命じられ、重勝は約二十日間をかけて町割の基礎を作り、見事に博多の町を復興させた。 博多の町に戻ってきた人々は半切桶を駕籠の代わりにしているのを見て驚いた。 如水が朝鮮の役の際に那護野城の縄張りを命じられた折りも、下人に持たせていた小銭を使って、即座に諸将の陣屋割指図を作ってみせた。

播磨久野氏の出自

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播磨の久野(くの)氏の出自は、遠江国久野氏本家か伊勢田丸城主久野家から上洛~丹波を経由して播磨国加東に来着した一族の末裔であると考えられる。 御着城主小寺家に仕えた黒田官兵衛に従い御着城に住み、後筑前にも移り住んだことからその系累が先祖である。 久野重時の戦死後は彼の弟重時が家督を継ぎ、筑前入国後六千石を領して明治まで中老として続いた。  福岡県朝倉市にある秋津城下武家屋敷群には、長政の次男であり秋月黒田五万石の長興から知行を受けた上級武士の屋敷として武家屋敷久野邸が保存公開されている。 重勝が小寺[黒田]に仕えた播州姫路市御着城周辺には久野姓が多く現存し、これらは全てクノと発音される。 福岡県中西部の現在は久野をヒサノと読む姓が多いが、縁起を担いだためか「クノ」を「ヒサノ」と読み違えたまま定着したとも考えられる。  黒田如水とともに豊前を治め所領を移した北九州~中津にはクノと読む久野姓がかなりいる。


[[Category:久野氏]] [[Category:戦国武将]] [[Category:1545年生]] [[Category:1592年没]]