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利用者:Ikedat76/なぜ「出典を明記」するのか?

ウィキペディアにおける記事の内容に関する3つの方針の一つ、Wikipedia:検証可能性には次のように記されている。

百科事典を編纂する際、良い記事を執筆するためには、広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです。このことをよく理解することは、良い記事を執筆するために最も大切な秘訣の一つです。ウィキペディアは、完全で、信頼の置ける百科事典を目指しています。記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、信頼できる情報源 (en:Wikipedia:Reliable sources) にあたり、出典を明記するべきです。 — Wikipedia:検証可能性#方針

これを読む限り、Wikipedia:検証可能性の実現手段として「出典の明記」(Wikipedia:出典を明記する)がある。しかし、ウィキペディア日本語版では概して、「出典の明記」は人気がなく、「出典の明記」の具体的な方法(general reference方式かinline方式か)をめぐっても軋轢が起きてきた。「出典の明記」(あるいは検証可能性)が編集者間の鍔迫り合いの道具として使われている傾向も皆無とは言えない。しかしながら、こうした事情にもかかわらず、やはり「出典の明記」は厳格に行われるべきだ、というのが私の考えだ。

では、なぜなのか? 「検証可能性を確保するために出典を明記する」という言い方はわりとよく見られる。だけれど、この言い方はいくつもの意味で踏み込みが足りず、言うべきことを充分に言っていない。では「充分に言っていない」ことがらとは何か?

信頼性の確保

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検証可能性は百科事典記事としての信頼性の確保のため、という論点は特に目新しくもない。だけれども、これも改めてどういうことなのか一考してもよいのではないか。

第1に、独自研究は載せないため。これに異論は特にないだろう。ウィキペディアは、- 例えばスカラペディアなどと違って - 参加者の資格(certification)を問わないから、誰でも書ける[1]。だから、歴史学の学位がなくても、物理学の学位がなくても、薬学の学位がなくても……それらの分野の記事を書けてしまう。専門知識がなくても書いてしまえるのだ[2]。百科事典の記事なのだから、そこに虚偽は論外としても、誤謬があってはこまる。だから、編集者自身(もしくはその資格)ではなく、「広く信頼されている発行元からすでに公開されている」を根拠にしていること、またそのことを明示することが必要なのだ。別にこの種の議論は少しも目新しくない。

でもここには、いくつかの落とし穴があるのだ。さきほど「専門知識がなくても書いてしまえる」と記した。だから、どれほど編集者自身が資料を収集し、それらをまとめて記事を書いたとしても、

  • 資料収集の誤りや偏り
  • (資料収集の誤りや偏りがなかったとしても)資料のまとめ方の誤り

という落とし穴がないと、誰が保障できる? そう、誰も出来ない。

そのような「落とし穴」に落ちた記事は確かに独自研究ではない。けれども、中立的な観点に立脚しているかといえば、否というしかないのではないか。ここから信頼性をめぐる第2の論点が出てくるのではないだろうか。信頼性を損なうのは何も、検証可能性が無いことや独自研究だけでは実はないのだ。検証可能だけれども誤っていたり、中立的ではないということは実はありえるのだ。

「そんなことを言えば、どの記事も信用ならないことになってしまうではないか?」 そうかもしれない。Wikipedia:よくある批判への回答は、基本的に、現在のウィキペディアというプロジェクトが現在進行中の未完成のものであって、徐々に改善されつつあるのだ、というスタンスで応えているように見える。ここで、常識を働かせつつ(en:Wikipedia:What "Ignore all rules" means#Use common sense善意に解してプロジェクトにとどまるか、それとも見切りをつけてプロジェクトを離脱するか、個々の判断に委ねるしかない[3]。しかし、善意に解してプロジェクトにとどまるのであれば、この「落とし穴」に落ちうるのは他の編集者だけでなく自分もなのだ、ということは銘記しなければならない。

自分も「落とし穴」にはまるかも知れない、と自省できるなら、やっぱり出典は明記しなければならないのだ。すくなくとも出典がきちんと明記されている限り、記事に誤りがあったとしても、それを修正する手がかりになるのだ。参照すべき文献が参照されていないなら、その文献を参照して加筆すればいい。資料の読解やまとめ方が誤っているなら、それを正せばいい。人間だから間違いを書くことはある。自分が直せればいいけれど、そんな保証はない。だけれども、自分が出来なくても他の人が直してくれるかも知れない。だとしたら、他の人と共同作業をしているのだから、「引き継ぎ」をした方がいいに決まっている。そうではないだろうか?

「常識」はアテになるか?

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信頼性の確保という点をめぐって、別な場合を考えてみよう。例にあげるのは日本史、それも江戸時代の場合。

生類憐みの令を発し、浅野内匠頭を一方的に切腹させた徳川綱吉は乱心したバカ殿だ。田沼意次はワイロばかりとっていた腐敗した無能な政治家だ。

これらは、みんな(この私論を書いている2010年時点で)、「世間の常識」かもしれないが、専門分野ではいずれも「非常識」だ[4]。「専門分野の常識、世間の非常識」は、独自研究と勘違いされやすい。特に日本史なんて、フィクションと史実の区別のついてない人がたくさんいる。大学の史学科では毎年、先生たちが新入生にその違いを釘をさす、といういかにもな都市伝説がある。結構、冗談になってない話なんじゃなかろうか? こと、学術に関する限り「常識」はアテにならないのだ。

「専門分野の常識、世間の非常識」は厄介だ。「世間の常識」からすると「専門分野の非常識」はとかく独自研究チックに見える(そうじゃないんだけどね…)。無駄な軋轢を避けるという意味でも、やっぱり出典は明記するべきだ。…だけれども、それだけなのだろうか?

入門編としての百科事典記事

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本当にそれだけで尽きてしまうのだったら、ウィキペディア日本語版にただよう出典や検証可能性をめぐる何ともいえないグッタリ感て、仕方ないのね…的な話にしかならない。まあ、そんな結論しか出せないなら、こんな私論を書いたりしないわけで。

Wikipedia:月間新記事賞という賞がある。Wikipedia:メインページ新着投票所新着記事に選ばれた記事の中から、「こんなことは初めて知った、切り口が斬新である、分かりやすく説明されている、翻訳が素晴らしい、その後の加筆が良いなど良い」などの理由で「良いと思った記事に投票」し、記事を選んで、表彰するというものだ。

必ずしも新着投票や月間新記事賞で投票する人とはかぎらないけれども、そういう風に記事を読んで「こんなことは初めて知った」という人っているんじゃないだろうか。そして、そういう人が、記事に書いてあるコトについてもっと知りたい・もっと本を読みたい、と思った時に、出典が明記されていればどうだろうか。関心を持ってくれた読者のフォローに役立つのじゃないだろうか。特に、「専門分野の常識、世間の非常識」を「こんなことは初めて知った」というような人が、「専門分野の常識」の水準にアクセスするのは難しいだろうから(だからこそ「こんなことは初めて知った」のではないか?)、なおさらだ。

記事を書く人は、大概において記事に書いたことがらに愛着(とまでいったらオオゲサか?)があって、知ってほしいと思っているからこそ書いているのだろう。まあ、少なくとも私はそうかな。だったら、出典の明記はした方がもっと知ってもらうのに有利だ。そうではないだろうか?

記事の成長のために

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「専門分野の常識、世間の非常識」というのは、まあ、ドコを基準にするかで知識にギャップがあるという話だと思う。ただ、これは共時的なギャップ、同じ時代とか年代で、専門知識を得る機会があった人・なかった人というギャップだ。だけれど、通時的なギャップっていうのもある。さっきの日本史の例だけれども、研究の進展で「専門分野の常識」が変わってきたのだ。だとすると、どこかの時点で、記事の内容は古くなってしまう。

百科事典記事で、どこまで専門分野の研究の進展をフォローするのか、というのは考えどころだと思う。ここらへん、常識を働かせる(en:Wikipedia:What "Ignore all rules" means#Use common sense)しかないと思うのだけれど、最先端の学説はかならずしも必要ではないかも知れないが、「専門分野の常識」とあまりにも外れていて、(ほとんどor全く)顧みられない学説に、学説史以外の場所を与える必要はない。…というのが、いまの時点の私の考えだ。中立的な観点とは、煎じ詰めれば「重み付けありの両論併記」ということになるだろうけれど、それにも合致した考え方だと思う。だから、紙の事典よりは早く、学会誌よりは遅く、というペースで内容を更新して、記事を成長させるのがよいと思う。あまりにも古い情報を読者に読ませてもチョットね、というところだろうし、「巷間に流布する俗説」ばかり読まされてもありがたくないし、あまりにも更新が遅いのであれば紙製ではないことのメリットが生きてこない。

そういうペースで記事を更新するなら、やっぱりどの時期の研究までフォローされているのか分からなければ、更新のしようがない。でもしてあれば、記事の成長に役立つはずだ。それに、(また自分の話だが、私論だから許してもらおう)研究のあまり進んでいない題材を記事にする場合(五畿内志とか熊野別当とか……)、どこまでの時期の研究がフォローされているか、示しておくべきだ。限られた研究に依拠している、ということをちゃんと示しておかないと、記事の内容の射程を見誤らせてしまうし、後日の記事の更新・成長の手がかりが分かりにくくなくなってしまう。自分が必ず更新できるなら、いいかもしれない。だけれども、そんな保障がどこにある? 忙しいからしばらくまとまった編集が出来ない、というのは珍しくないだろうし、何かの事情でウィキペディアに注ぐ余力を失ってしまうこともあるかもしれない。共同作業で百科事典をつくる、というのがこのプロジェクトだから、そうした場合には他の誰かに委ねることができる。だったら「引き継ぎ」をした方が親切というものだろう。そうではないだろうか?

「知っているから書ける」?

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出典の明記とか検証可能性まわりで言えば、何も読まずに書ける、という人がいるのが私には不思議だ。自分の記憶の確かさを何ゆえにそんなに確信できるのだろう。まちがって記憶していないか? 確かに記憶している・理解していると思っているが、その記憶や理解がそもそも誤っていはしないか? そういうことに考え至らないのだろうか? そもそもが自分の思い込みだってことはないのだろうか?

そんなことを心配しないでいられるのは、(これは皮肉で言うのだけれど)なんと幸福なことだ。そんなに自分に思い上がれるというのは、ちょっと信じられない。そんな不確かなものをもとにして書いた記事なんて、信頼できるのかといったら、少なくとも私は信頼なんてしないし、できない。ましてやそんなモノを読者に読ませる、なんていうのは、結構コワいことをしているのではないだろうか。

強引にまとめ

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強引にまとめる。結論はいたってシンプルだ。

出典を明記するのは読者のためだ。そして、共同で作業をする他の編集者たちへの「引き継ぎ」のためだ。だけれども、後者も(記事の成長を通じて)結局は前者に帰する。

もっと読者のことを考えて記事を書こう。つまるところは、そういうことではないだろうか?

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  1. ^ もちろんWikipedia:基本方針とガイドラインに同意する場合、そしてその場合のみ、だけれども。
  2. ^ 書いてしまえる(can write)という話と、それを実際に行う(wrote)という話はもちろん別のことだ。理工学系の知識が皆無に等しい私でも、書くことは出来なくはないだろう。だけれども、何をどうやって書いたらいいのか、皆目見当がつかないから書きようが無い。だけれども人文社会系の分野では平気でそういうことをする輩がいる。どういうことなんだろうね……。
  3. ^ この問題は、ウィキペディアがウィキペディアであるかぎり、つきまとい続けるだろう。それをどうするか、なんていう大きなことはここでは論じられないし、論じる気もない。
  4. ^
    • 塚本 学、1982、「綱吉政権の歴史的位置をめぐって」、『日本史研究』236(1982.4)
    • 藤田覚、2002、『近世の三大改革』、山川出版社(日本史リブレット48) ISBN 4-634-54480-6

関連項目

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