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利用者:HMS Barham/sandbox

初代ストックトン伯爵
ハロルド・マクミラン
Harold Macmillan
1st Earl of Stockton
公式肖像(1959年)
生年月日 (1894-02-10) 1894年2月10日
出生地 イギリスの旗 イギリス チェルシー
没年月日 (1986-12-29) 1986年12月29日(92歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス ウェスト・サセックス バーチグローブ
出身校 オックスフォード大学
所属政党 保守党
称号 初代ストックトン伯爵
配偶者 ドロシー・キャベンディッシュ
子女 4人

イギリスの旗 イギリス
第65代首相
在任期間 1957年1月11日 - 1963年10月19日
女王 エリザベス2世

在任期間 1957年1月22日 - 1963年10月17日

在任期間 1955年12月20日 - 1957年1月13日
首相 アンソニー・イーデン

在任期間 1955年4月7日 - 1955年12月20日
首相 アンソニー・イーデン

在任期間 1954年10月18日 - 1955年4月7日
首相 ウィンストン・チャーチル
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初代ストックトン伯爵モーリス・ハロルド・マクミラン英語: Maurice Harold Macmillan, 1st Earl of Stockton OM PC FRS1894年2月10日 - 1986年12月29日)は、イギリス政治家貴族。同国第65代首相(在任:1957年1月22日 - 1963年10月17日)。国防大臣外務大臣財務大臣などを歴任した。最晩年の1984年2月、連合王国貴族ストックトン伯爵に叙せられる。

生涯

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首相就任まで

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モーリス・クロフォード・マクミラン(Maurice Crawford Macmillan)の三男として[1]、1894年2月10日にロンドンチェルシーに誕生する。マクミラン家はマクミラン出版社(1843年創業)を代々経営する一家であった。イートン・カレッジオックスフォード大学ベリオール・カレッジを卒業した[1]

第一次世界大戦ではイギリス陸軍に志願して、1914年11月19日に臨時の歩兵少尉としてキングス・ロイヤル・ライフル・コープス英語版に入隊した[2]。1915年1月30日に中尉に昇進した後[3][4]、同年にグレナディアガーズに転じた[5]。1916年7月のソンムの戦いでは至近距離から銃弾を受けて重傷を負い、この傷は生涯彼の体に残った。そのため、彼には少し体を斜めにして歩く癖があり、時々痛みに苦しむこともあった[6]。1920年4月1日に中尉の階級を保有したまま軍務から引退した[7]。ただし、『ロンドン・ガゼット』はそれ以降のマクミランを「モーリス・ハロルド・マクミラン大尉」と表記している[8]

1924年10月に庶民院議員として政界入りした。

第二次世界大戦期

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第2次チャーチル内閣で初めて住宅・地方自治大臣として閣僚入りし名声を博す。1954年10月に国防担当閣外大臣に就任し、アンソニー・イーデン内閣では外務大臣に任命されるものの数ヶ月でポストを外され、財務大臣に異動させられてしまう。これにより次期首相の芽は無くなったとまで言われたが、このおかげで外務大臣としてスエズ危機の責任を負うことを免れている。

首相就任

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1957年1月にイーデン首相がスエズ動乱イギリス軍の出兵が国際的に非難を浴びて引責辞任する。後継者問題ではマクミランとラブ・バトラー外務大臣の2人が有力だった。しかしバトラーは長老議員の評判が悪かったこと、またイーデン同様スエズ危機の責任もマイナスとなったため、ソールズベリー卿らの女王への推薦により首相に就任した。

外交

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対米関係の改善

キーウェストで会談するマクミランとケネディ(1961年3月27日)

スエズ危機で冷え込んだアメリカとの関係改善にも力を注ぎ、アイゼンハワー大統領とはサッチャーレーガン時代並みの親しい親交を結んだ。マクミランは第二次世界大戦中に北アフリカ総督代理を務めており、ヨーロッパ戦線の最高司令官だったアイゼンハワーとは旧知の仲で非常に馬が合ったという[9]。さらに、ケネディ大統領とは親子ほど年齢が違う間ではあったが非常に緊密な関係を保った[10]

アフリカ政策

1960年のアフリカ訪問時に有名な「いまや変革の風がこの大陸を吹きぬけている」という演説を行い、アフリカのイギリス領植民地の独立を促すと共に南アフリカアパルトヘイト(人種隔離政策)を批判した。

EEC加盟失敗

アフリカ来訪から帰国したマクミランは、「小英国」としてヨーロッパの一員に相応しい路線を模索した[11]。イギリスのヨーロッパ経済共同体の加盟を策するも、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領に拒否されて実現せず、結局1960年5月に欧州自由貿易連合を発足させた。

内政

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戦後の保守党が取った市場経済計画経済の混合した混合経済を志向してイギリス国内の経済危機を乗り切ろうとし、1959年10月の総選挙で保守党を勝利に導いた。

しかしその後はインフレーション失業率が昂進し、確実にイギリス病が国内経済を蝕んでいったことは否めない。1962年7月13日に3分の1にあたる7人の閣僚英語版を入れ替えて(長いナイフの夜英語版)、保守党の不人気を挽回しようとした。

しかし1963年10月にプロヒューモ事件など相次ぐスキャンダルの責任を取って総辞職した。

晩年

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1962年5月21日、王立協会フェローに選出された[12]。1976年4月9日、メリット勲章を4月2日付で授与された[13]。90歳の誕生日の1984年2月10日、連合王国貴族であるイースト・サセックス州チェルウッド・ゲートおよびクリーブランド州ストックトン=オン=ティーズにおけるオヴェンデンのマクミラン子爵ストックトン伯爵に叙された[1][14]

1986年12月29日[1]ウェスト・サセックス州バーチグローブ(Birch Grove)で死去した。息子モーリス・ヴィクター英語版に先立たれたため、孫アレグザンダー・ダニエル・アラン英語版が爵位を継承した[1]

栄典

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爵位

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マクミラン個人の紋章

1984年2月10日に以下の爵位を新規に叙された[14]

  • 初代ストックトン伯爵(1st Earl of Stockton)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)
  • 東サセックス州チェルウッド・ゲートおよびクリーヴランド州ストックトン=オン=ティーにおけるオーヴンデンの初代マクミラン子爵
    (1st Viscount Macmillan of Ovenden, of Chelwood Gate in the County of East Sussex and of Stockton-on-Tees in the County of Cleveland)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)

勲章

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その他

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家族

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1920年4月21日、ドロシー・エブリン・キャベンディッシュ英語版(1966年5月21日没、第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・キャヴェンディッシュの娘)と結婚[1]、4人の子女をもうけた。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Hammond, Peter W., eds. (1998). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Addenda & Corrigenda) (英語). Vol. 14 (2nd ed.). Stroud: Sutton Publishing. p. 850. ISBN 978-0-7509-0154-3
  2. ^ "No. 28979". The London Gazette (Supplement) (英語). 17 November 1914. p. 9505.
  3. ^ "No. 29500". The London Gazette (Supplement) (英語). 7 March 1916. p. 2533.
  4. ^ "No. 29462". The London Gazette (Supplement) (英語). 1 February 1916. p. 1346.
  5. ^ "No. 29376". The London Gazette (Supplement) (英語). 19 November 1915. p. 11582.
  6. ^ 黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』丸善ライブラリー、1998年、pp.54–55。
  7. ^ "No. 31958". The London Gazette (Supplement) (英語). 29 June 1920. p. 7073.
  8. ^ "No. 33769". The London Gazette (英語). 6 November 1931. p. 7144.
  9. ^ 黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』丸善ライブラリー、1998年 p57
  10. ^ マクミランの妻のドロシーは第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・キャヴェンディッシュの三女であり、長兄の第10代デヴォンシャー公爵エドワードの長男・ハーティントン侯爵ウィリアム(マクミランから見れば義理の甥)は、ケネディ大統領の姉のキャスリーンと結婚しており、縁があった。
  11. ^ 中西 (1997), p. 359.
  12. ^ "Macmillan; Maurice Harold (1894 - 1986)". Record (英語). The Royal Society. 2024年5月24日閲覧
  13. ^ "No. 46872". The London Gazette (英語). 9 September 1976. p. 5299.
  14. ^ a b "No. 49660". The London Gazette (英語). 29 February 1984. p. 2951.
  15. ^ Lord Hailsham Of St Marylebone (1987). “Maurice Harold Macmillan, First Earl of Stockton. 10 February 1894 – 29 December 1986”. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society 33: 376–385. doi:10.1098/rsbm.1987.0014. JSTOR 769957. 
  16. ^ Matthew, H. C. G. (23 September 2004) [2004]. "Macmillan, (Maurice) Harold, first earl of Stockton". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/40185 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  17. ^ "Macmillan; Maurice Harold (1894 - 1986)". Record (英語). The Royal Society. 2024年12月18日閲覧

参考文献

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関連項目

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