利用者:HMS Barham/下書き3-1
初代ノウルズ子爵 フランシス・ノウルズ | |
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国王秘書官 | |
任期 1901年 – 1913年 | |
君主 | エドワード7世(1901年 - 1910年) ジョージ5世 (1910年) |
前任者 | サー・アーサー・ビッグ |
後任者 | 初代スタンフォーダム男爵 |
個人情報 | |
生誕 | 1837年7月16日 フランス、パリ |
死没 | 1924年8月15日 (87歳没) イギリス、イングランド、ケント州、ペンズハースト |
配偶者 | アーディン・メアリー・ティリット |
出身校 | 王立陸軍士官学校 |
初代ノウルズ子爵フランシス・ノウルズ(英: Francis Knollys, 1st Viscount Knollys,GCB GCVO KCMG ISO PC、1837年7月16日 - 1924年8月15日)は、イギリスの廷臣、軍人、貴族。国王エドワード7世、ジョージ5世の二代にわたって国王秘書官を務めた[1]。
生涯
[編集]王太子秘書官時代
[編集]バーティ国王の即位
[編集]保守党政権期
[編集]1901年、バーティー王太子が国王「エドワード7世」として即位した。王太子秘書官のノウルズも横滑りして国王秘書官に就任した[2]。
即位当時は保守党政権(第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシル首相)であったが、ソールズベリー侯爵はすでに病身であり、1902年に退陣した[3]。代わってその甥のバルフォアが首相に就任した。
この年の6月、戴冠式が行われることが決まった。近日中にペルシャ皇帝モザッファロッディーン・シャーが訪英すると伝わってきたが、これは駐ペルシャ大使サー・アーサー・ハーディングが「訪英すれば亡き父帝が授けられたガーター勲章を授与される公算が高い」と無責任にも語ったことに気をよくしたためだった[4]。大使の要請にもとづき、外相の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスは国王にガーターを求めた。しかし国王は「ガーターは非キリスト教徒に授けない」という慣例をもとに断った[5]。諦めないランズダウン侯爵は、再びエドワード7世にこの話を蒸し返し、国王を激怒させた[6]。
バルフォア首相はしばし様子見の方針を取ったが、ランズダウン侯爵が辞意を固めたため、バルフォアはノウルズをとおして説得にかかった。しかし国王は意見を曲げなかった。そのためバルフォアは再び書簡を送り、「ランズダウン卿が陛下から信頼を得ていないとしたら、それは大臣たちすべてが信頼を得ていないことを意味します」と内閣総辞職をも辞さない構えを見せた[7]。ここまでされては国王も折れるしかなく、ノウルズに授与を認める首相あて書簡を送らせた[7]。12月、ペルシャ皇帝はガーター勲爵士となっている。
さらに年が明けた1903年のヨーロッパ歴訪の際、エドワードはヴァチカン訪問を日程に追加しようとした。最終的に国王のヴァチカン訪問は行われたが、この件で優柔不断な態度を取りつづけたバルフォアにエドワードもノウルズも不信を抱いた。
1904年4月、英仏協商が結ばれ、両国の勢力圏が確定した。
バルフォアは議会答弁中に、今後フランスと領土の割譲を取り決めるときは事前に議会に諮ると述べた。しかし領土の割譲は議会ではなく、君主の裁量(国王大権)に属する権能であり、新聞でも疑問を呈された。これを知ったエドワード7世は「国王大権の侵犯にほかならない」と激怒し、ノウルズを通じて首相に説明を求めたが、「法律の専門家や外務省高官と相談のうえ発言した」と弁明するだけであった[8]。
このころのイギリスは関税改革の問題に揺れていた。おり、バルフォアは保守党の分裂を避けるため、1905年12月に内閣総辞職した。
こうして自由党(党首:サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン)へと政権交代がおきる流れとなったが、自由党もキャンベル=バナマンら小英国主義派と、ローズベリー元首相・ハーバート・アスキスら自由帝国主義派に分かれており、決して一枚岩ではなかった。当初、アスキスらはキャンベル=バナマン内閣への入閣に難色を示していたが、国王秘書官のノウルズが自由党有力幹部に両派に協力を求める書簡を送るなど便宜をはかった[9]。これが功を奏して、アスキス派も入閣を了承し、はれてキャンベル=バナマン内閣が成立する運びとなった。
自由党政権期
[編集]こうして発足したキャンベル=バナマン内閣であったが、野党党首バルフォアは政府の重要法案を貴族院で骨抜き、あるいは否決してまわる戦術を取り、キャンベル=バナマン首相をいらだたせた。このころの貴族院は保守党が半永久的に優勢な立場を占めていたからである。
ただ首相はすでに74歳という老齢であり、就任から2年を過ぎた1907年には首相秘書官より宮廷側に「首相は病身でこれ以上重責に耐えられない」と連絡が入った。しかしエドワード7世のほうも体調不良で療養のためフランス・ビアリッツに向かう予定で、首相に自分の療養中は政権にとどまってほしいとお願いをしている。こうして療養に向かった国王であったが、ノウルズはロンドンに残ってマスコミ対応、内閣と国王の連絡役を務めた。1908年4月、キャンベル=バナマン首相はいよいよ病状が重くなり内閣総辞職した。後任はハーバート・アスキス大蔵大臣で、アスキスは国王エドワード7世より隣国フランス・ビアリッツで大命降下をうけた[10]。
アスキス内閣発足後も、与党法案を貴族院でたたきつぶすバルフォアの戦術はあいかわらずで、デビッド・ロイド・ジョージ大蔵大臣は「貴族院はバルフォアのプードルだ」と激しく非難した[11]。1909年4月、ロイド・ジョージ蔵相が「人民予算」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった。11月、貴族院はまたも人民予算案を否決したが、貴族院が金銭法案を否決したことは大きな波紋を呼んだ。そのため1909年12月、アスキス首相は議会の解散を決め、国民に信を問うことにした。もし国王が解散を拒みアスキスが内閣総辞職となると野党党首バルフォアにお鉢が回るはずだったが、このとき自由党は400議席近くを占めており、バルフォアは政権担当の意思を見せなかった[12]。
1910年1月に行われた総選挙の結果は、自由党275、保守党273と、両勢力が拮抗する結果となった(1910年第一次イギリス総選挙)。こののち、国王と貴族院の密約(自由党が勝ったときは予算案を認める)[13]、労働党・アイルランド国民党の支持による後押しにより[11]、人民予算は無事両院を通過することとなった。しかしアスキスら自由党政府の関心は、与党法案を邪魔しつづける貴族院に移っており、争点はすでに「貴族院改革」へと変化していた。そのため同年4月、アスキス首相は貴族院拒否権の制限を盛り込んだ議会法案を提出したが、貴族院は当然大反対であった。
同月、ノウルズはランべス宮殿で野党党首バルフォアと極秘の会見をしており、アスキスが仮に総辞職したときは保守党は政権を担うつもりであるとバルフォアから言質を得ている[12]。
政治的危機が深まるなか、エドワード7世は昨年から続く政権不安に疲れ切っていた。休息のため本国とビアリッツを行き来するほどであったが、帰国後の1910年5月6日に気管支炎を悪化させて崩御した[14][15]。
ジョージ5世と議会法危機
[編集]ジョージ王太子が「ジョージ5世」として即位し、国王が代替わりした。政治的危機のさなかということで、ノウルズは共同秘書官として続投することとなった[16][17]。
新国王を即位早々に政治的危機にさらすのは良くないというムードとなり、両党の会合がもたれた。しかし交渉はうまくいかず、11月には会合は物別れとなった[11]。アスキスは議会法案について再び有権者に信を問うべく、国王に一年のうち二度目となる解散総選挙を求めた[16]。
ジョージ5世はノウルズに意見を求めた。ノウルズの主張するところ、「国王がもし解散を拒めばアスキスは内閣総辞職するだろうが、バルフォアも1909年12月の時のように政権担当を辞退するだろう。なのでここは政府の意向を入れて議会の解散を認めるべき」と進言して、バルフォアとの1910年1月ランべス宮殿会談の件を国王に伝えなかった[18]。国王はこの意見に従って解散総選挙の実施を認めた[1][18](1910年第二次イギリス総選挙)。結果はほとんど変わらず、ハング・パーラメントとなったが、アスキスはふたたび議会法案を提出してきた。
かねてよりアスキスは法案を貴族院でも成立させるため、第二次総選挙以前から新貴族創家を目指していた。アスキスは参内して、来たる総選挙に自由党が勝利したときは500名もの新貴族創家を約束してほしいと国王に迫っていた[19]。この際にもノウルズは新貴族創家の約束を国王に勧め、アスキス首相の肩を持った[17][1]。ジョージ5世はノウルズの意見をいれて、不本意ながらアスキスに叙爵を約束した。アスキス首相はバルフォアらに国王のお墨付きを得ていることを伝え、最終的に保守党側が折れて議会法が成立することとなった[20]。
秘書官退任
[編集]バルフォアはノウルズ秘書官の動きに疑問を感じ、ノウルズが自由党に肩入れして保守党への政権交代を阻んだと非難した[21]。同僚のスタンフォーダム共同秘書官からも、国王を間違った決定(総選挙の実施)に導いたと批判されたほか[1]、新貴族創家の事前約束の助言についても、叙爵はともかく、「叙爵の事前約束」は国王が特定の政党に味方するものと非難されている[17]。
1913年ごろにはノウルズとバルフォアの不和はジョージ5世も知るところとなったが、同年3月にノウルズは国秘書官から退任した[22]。
晩年
[編集]1924年にハートフォードシャー・リックマンズワースで死去した。息子エドワードが爵位を継承した。
栄典
[編集]勲章
[編集]イギリス
- - バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)
- - ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス(GCVO)
- - 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー(KCMG)
- - 帝国文官勲功章(ISO)
海外
爵位
[編集]- 初代オックスフォード州カヴェシャムのノウルズ男爵(1st Baron Knollys, of Caversham in the County of Oxford)
(勅許状による連合王国貴族爵位)
- 初代オックスフォード州カヴェシャムのノウルズ子爵(Viscount Knollys, of Caversham in the County of Oxford)
(勅許状による連合王国貴族爵位)
家族
[編集]アーディン・メアリー・ティリット(Ardyn Mary Tyrwhit、1860年9月2日 - 1922年12月26日)と結婚した。
- (長男)エドワード・ジョージ・ウィリアム・ティリット(1895年 - 1966年)- 第2代ノウルズ子爵
- (長女)ルーヴィマ・エリザベス(1888年 - 1958年[26])
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d McLean, Roderick R. (23 September 2004) [2004]. "Knollys, Francis, first Viscount Knollys". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/34351。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ Heraldic Media Limited. “Knollys, Viscount (UK, 1911)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2023年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月15日閲覧。
- ^ Baker (2018), p. 150.
- ^ 君塚 (2014), p. 123-124.
- ^ 君塚 (2014), p. 125.
- ^ 君塚 (2014), pp. 127–128.
- ^ a b 君塚 (2014), p. 132.
- ^ 君塚 (2023), p. 131.
- ^ 君塚 (2023), p. 136.
- ^ 君塚 (2023), p. 138.
- ^ a b c Baker (2018), p. 156.
- ^ a b 君塚 (2023), p. 146.
- ^ 君塚 (2023), p. 145.
- ^ 君塚 (2023), pp. 146–147.
- ^ Matthew, H. C. G. (23 September 2004) [2004]. "Edward VII". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/32975。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b 君塚 (2023), p. 148.
- ^ a b c 小泉 (1989), p. 57.
- ^ a b 君塚 (2023), pp. 148–149.
- ^ 小泉 (1989), pp. 53–55.
- ^ 小泉 (1989), pp. 59–61.
- ^ 君塚 (2023), p. 149-150.
- ^ 君塚 (2023), p. 151.
- ^ a b Hesilrige, Arthur G. M. (1921). Debrett's Peerage and Titles of courtesy. 160A, Fleet street, London, UK: Dean & Son. p. 533
- ^ "No. 27455". The London Gazette (英語). 18 July 1902. p. 4587.
- ^ "No. 28511". The London Gazette (英語). 7 July 1911. p. 5059. 2024年1月15日閲覧。
- ^ “Keturah Collings (1862-1948) - Louvima Knollys, later Mrs Checkley (1888-1958)” (英語). www.rct.uk. 2024年1月15日閲覧。
参考文献
[編集]- 君塚, 直隆『女王陛下のブルーリボン-英国勲章外交史-』(初版)中央公論新社、東京都中央区〈中公文庫〉、2014年。ISBN 978-4122058927。
- 君塚, 直隆『女王陛下の影法師 - 秘書官からみた英国政治史』(第一刷)筑摩書房、東京都台東区〈ちくま学芸文庫〉、2023年。ISBN 4480511644。
- 小泉, 信三『ジョオジ5世伝と皇室論』(第一刷)株式会社 文藝春秋、東京都千代田区、1989年。ISBN 9784163430607。
- Baker, Kenneth 著、松村 昌家 訳『風刺画で読み解くイギリス宰相列伝―ウォルポールからメージャーまで』ミネルヴァ書房、2018年。ISBN 978-4-623-07946-9。
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