利用者:HMS Barham/下書き2-3
ジョージ5世 George V | |
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イギリス国王 インド皇帝 | |
ジョージ5世(1923年) | |
在位 | 1910年5月6日 - 1936年1月20日 |
戴冠式 | 1911年6月22日、於ウェストミンスター寺院 |
全名 |
George Frederick Ernest Albert ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート |
出生 |
1865年6月3日 イギリス イングランド、ロンドン、マールバラ・ハウス |
死去 |
1936年1月20日(70歳没) イギリス イングランド、ノーフォーク、サンドリンガム・ハウス |
埋葬 |
1936年1月29日 イギリス イングランド、ウィンザー、ウィンザー城セント・ジョージ礼拝堂 |
配偶者 | メアリー・オブ・テック |
子女 | |
家名 |
|
王朝 | ウィンザー朝 |
父親 | エドワード7世 |
母親 | アレクサンドラ・オブ・デンマーク |
宗教 | キリスト教イングランド国教会 |
サイン |
ジョージ5世(英: George V、全名:ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート〈英: George Frederick Ernest Albert〉、1865年6月3日 - 1936年1月20日)は、ウィンザー朝の初代イギリス国王、インド皇帝(在位: 1910年5月6日 - 1936年1月20日)。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1865年6月3日、エドワード王太子とその妃アレクサンドラの次男として生まれる。
兄弟に兄アルバート・ヴィクター(1864年-1892年、愛称:エディ)、長妹ルイーズ(1867年-1931年)、次妹ヴィクトリア(1868年-1935年)、三妹モード(1869年-1938年)、次弟アレクサンダー(1871年、夭折)がいる。
7月7日、バッキンガム宮殿にある礼拝堂で洗礼を受ける[1][2]。
祖母のヴィクトリア女王は、亡き夫アルバート公の名前を自分の孫全員に付けようと決めていた。しかし息子のエドワード王太子は「アルバート」の名に抵抗があり、ハノーヴァー家になじみの深い「ジョージ」の名を望んでいた。この男の子はやがて「ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート」と名付けられた。
幼年・青年期
[編集]婚約
[編集]1891年12月、兄エディは、メアリ・オブ・テック(テック公爵家:南ドイツ・ヴュルテンベルク王家の傍系の子女、愛称:メイ)と婚約した。前月から腸チフスにかかり病床にあったジョージもこの嬉しいニュースを喜んだ。しかしその喜びも束の間で、エディは年末に風邪をこじらせ、年が明けた1892年1月14日にインフルエンザで急逝してしまう。エディの死に王室は大きな衝撃を受けた。
祖母ヴィクトリアは突然婚約者を失ったメイを不憫に思い、弟ジョージ王子と婚約してほしいと望んだ。メイト幼馴染であったジョージは自分から祖母に「」と申し出たという。エディの死から1年3ヶ月後の1893年にジョージはメイにプロポーズし、メイもこれを受け入れている。7月、二人はセント・ジェームズ宮殿の王室礼拝堂で結婚式を挙げた。
ただこの結婚に水を差すような根も葉もない噂が流れた。夕刊紙『ザ・スター(The Star)』が飛ばし記事を出し、ジョージが海軍勤務時代にマルタ島で秘密結婚していたと取り上げてきた[3]。ジョージはこの記事を他愛もないものとやり過ごした。そのため即位に至るまで長きにわたり、噂が囁かれつづけた[4]。ジョージがのち国王に就いた年(1910年)、追い討ちをかけるように共和主義新聞『リベレイター(Liberator)』が「国王は1890年、マルタ島で一将官の令嬢と結婚していた」とする記事を出してきた[5][4]。
国王を誹謗する記事にときの政府も看過できず、記事を書いたエドワード・ミリンズ(Edward Mylins)記者を逮捕させた[6][4][7]。裁判の結果、1890年にそもそもジョージはマルタ島にいなかったこと、将官の令嬢二人のうち、一人とは会ったことがなく、もう一人とも会ったのは彼女が8歳のときと双方が結婚した後の二回だったことが立証された[8]。この一件でジョージは世論の同情を集め、ミリンズ記者は禁固12ヶ月の有罪となった[4]。
皇太子時代
[編集]国王として
[編集]初期の内政(即位 - 第一次世界大戦)
[編集]インド皇帝戴冠式の挙行
[編集]議会法危機
[編集]大戦前夜のアイルランド内乱危機
[編集]1912年4月11日、アスキス首相は友党アイルランド国民党の要請を受けて、アイルランド自治法案を議会に提出した。
その間にもアルスター義勇軍とアイルランド義勇軍の緊張は高まっていった。イギリス陸軍の将校のなかにはアルスター義勇軍に共感する者も多く、軍人らが義勇軍の鎮圧を公然と拒否する事件も発生した[9]。(カラ事件)
アスキスは自ら陸軍大臣を兼務して、事態の鎮静化に努めた[10]。ジョージ5世もこの内乱危機を憂慮しており、両派の合意と妥協によって解決するしかないと考えていた。ジョージ5世は保守党のボナー・ローを説得しつつ、アスキスにも譲歩による解決を促した。この頃の国王は、秘書官のスタンフォーダム男爵に「」と手紙の中で綴っている。
そんな中の同年3月、アイルランド自治法案は庶民院を三度通過したことで、議会法により貴族院の反対に関わらず成立する運びとなる。内乱を恐れたアスキスは、ロイド・ジョージ蔵相の修正案(アルスターを6年間自治法の適用範囲からはずす妥協案)をあわせて提出した[10]。しかしこの提案はアイルランド国民党から拒否された。
対立が続く情勢に、ジョージ5世は両者の仲介を行うことを決め、同年7月下旬にバッキンガム宮殿で御前会議の場をもうけた。ジェームズ・ラウザー庶民院議長を進行役に、自由・保守両党、アルスター国民党・アイルランド国民党の代表2名(計8名)が一堂に会した。しかし会議は、自治法の除外地域(アルスター地方)の線引きをめぐって紛糾し、アルスター国民党・アイルランド国民党が譲らなかったため、4回も開いたが物別れに終わった。
4回目の御前会議が不調に終わった7月24日、オーストリア帝国政府がセルビアに最後通牒を送り、国際情勢は風雲急を告げていた。
外交
[編集]第一次世界大戦
[編集]1914年、第一次世界大戦が勃発した。
高まる反独感情への対応
[編集]戦争による犠牲が増えるにつれ、西部戦線で敵対するドイツへの敵意が巻き起こった。
大戦勃発当初、第一海軍卿(イギリス海軍の制服組トップ)にはドイツ貴族の流れを汲むルートヴィヒ・フォン・バッテンベルクが就いていた。バッテンベルクはドイツ海軍に情報を流しているのではというあらぬ噂を立てられた末、1914年10月、第一海軍卿を解任された[11]。
1915年に入ると反独感情はいよいよ高まりを見せ、「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のガーター勲章を過去の先例にならって剥奪すべし」という新聞投書さえ現れた。これを読んだジョージ5世はアルフレッド・スコット=ゲティ・ガーター主席紋章官にガーターを剥奪できるかを問い、スコット=ゲティは「投書の内容は史実であり、国王は騎士団の主権者として剥奪は可能」と答えた[12]。5月14日、ジョージ5世は剥奪を決め、騎士団員のヴィルヘルム2世以下ドイツ諸侯やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を対象にそのバナーを撤去した[13]。
また1917年には、ドイツ風の王朝名「サックス=コーバーグ=ゴータ」も世論の反ドイツ風潮を鑑み、ウィンザー城にちなんだ「ウィンザー朝」に改めた。
第一海軍卿をクビになったルートヴィヒも家名「バッテンベルク」を英語読みした「マウントバッテン」に改めた。その境遇を哀れんだジョージ5世はルートヴィヒをミルフォード・ヘイブン侯爵に叙した。メイ王妃の実家(テック公爵家)もドイツ系の出自であったため、家名をケンブリッジと改めたうえ、王妃の弟アドルファスにケンブリッジ侯爵を与えている。
フィッシャー登用に反対
[編集]解任されたバッテンベルク第一海軍卿の後任に、ウィンストン・チャーチル海軍大臣は、当時すでに引退していたジョン・アーバスノット・フィッシャー元提督を推挙した[11]。フィッシャーは、戦艦ドレッドノートの建造、兵機一系化改革など海軍近代化を推進してきた有能な軍人だが、ジョージ5世は彼が老齢であること、海軍内で支持されていないことから任命に反対した。参内したチャーチル海軍大臣やアスキス首相に反対の意を伝えたが、最終的には同意を強いられた。しかしジョージ5世はあくまで反対の心持ちであったため、任命の辞令とともにアスキス首相宛てに「ある不本意さと懸念をもって同意する」との書簡を送っている[14]。
1915年4月にガリポリ作戦が失敗に終わると、チャーチル海相とフィッシャーは互いに責任をなすり付け合い、翌月にフィッシャーは辞職してしまう[14]。同時期、保守党は膠着状態の西部戦線の弾薬不足も批判しており、その批判動議が議会で可決された。これによりアスキス内閣は総辞職を余儀なくされた。
クリスマス政変
[編集]ロイド=ジョージ首相との対立
[編集]ロイド・ジョージは首相に就任するや、今までの慣例や王室への配慮などを次々と無視していく。
さらにロイド・ジョージ政権下では栄典制度の乱用も目立った。爵位授与と引き換えに金銭を得るビジネスを公然と行い、得られた利益は自由党の政治資金となった。特に、政府はマスコミを味方につけるべく、そのボスたる新聞社主への爵位授与を求めて圧力をかけてきた[15]。ジョージ5世はこうした
内政(第一次世界大戦後 - 第2次マクドナルド内閣退陣)
[編集]アイルランド問題へ尽力
[編集]ロイド・ジョージ退陣
[編集]ボナー・ロウ政権と後継者問題
[編集]国王とラジオと
[編集]ジョージ5世の時代に新たに普及したメディアに『ラジオ』がある。そのラジオ放送を統べる英国放送会社(BBCの前身)は、無線機を製造する企業6社が集まって設立されたもので、ジョン・リースがほとんど発足当初から率いてきた[17]。
リースの考えるところ、ラジオの力を発揮させるには私企業よりも公共サービスとして歩むのが望ましく、放送の水準を保つため、リースは政府から独立した活動を行える公社形態(現在の放送協会)に最終的に移行しようと目論んだ[18]。そのためには社会から認知されることが必要であり、リースにとって国王をはじめとする王室のラジオ出演は渡りに船であった。
1924年、ロンドンの郊外ウェンブリーで大英帝国博覧会が開催され、ジョージ5世が開会式のスピーチを行った[19][20]。リースはこの機を逃さず、開会を告げる国王のスピーチをBBC放送を通じて全国に放送させた。イギリスの君主がラジオを通じて国民に話しかけたのはこれが初めてだった[19]。
その後もリースは国王にクリスマスや新年のラジオ出演を打診するが、長らく断られ続けることとなる[21]。側近のスタンフォーダム国王秘書官はラジオ出演に理解を示してことあるごとに国王を説得したが、保守的なジョージ5世は抵抗しつづけた。そのうちに国王の体調不良、スタンフォーダムの逝去が重なって交渉は行き詰まった[22]。ジョージ5世のラジオ出演は、1932年のクリスマス放送を待たなければならなかった。
労働党政権誕生をめぐって
[編集]国王不予
[編集]1928年11月、ジョージ5世は体調不良を訴え、X線検査を受けたところ、肺が冒されていることが分かった。12月に入ると、心臓機能も著しく低下し、敗血症となるなど容体は悪化した。同月12日、国王侍医バートランド・ドーソンによる敗血症の手術を受け、無事成功した[23]。ただし手術後も一週間ほど意識が戻らず、翌年7月まで不安定な状態が続いた[24]。2月には、ウェスト・サセックスのボグナー近郊にあるクレイグウェイル・ハウスで療養した[23]。
年が明けた1929年7月には、ウェストミンスター寺院で快癒の感謝式に出席するまでに回復した。しかし感謝式の数日後、親しい友人の政治家ジェイムズ・トマスが参内した際、品のよくない冗談でジョージ5世を爆笑させてしまい、その結果、病気がぶり返した[24][23][注釈 1]。再手術を受ける羽目になり、9月末にいたってようやく全快した[24]。
その年の12月、ジョージ5世は万一の時に備え、摂政会議の王室メンバーをあらかじめ指名する文書に署名した[23]。
世界恐慌と1931年内閣危機
[編集]晩年
[編集]1931年3月、最側近のスタンフォーダム国王秘書官が死去した。ジョージ5世は衝撃を受けたとされ、日記に「きっとひどく寂しくなる。スタンフォーダムの死は取り返しがつかない(I shall miss him terribly. His loss is irreparable.)」と悲しみを綴っている[26]。
この年、国王はスタンフォーダム男爵だけでなく、家族や大切な人を何人も喪っている。
まず、遡る1月、次妹のファイフ公爵夫人ルイーズが死去している。さらに海軍時代の親友サー・チャールズ・カスト海軍大佐が亡くなった。そして7月、恩師ジョン・ダルトンが91歳で没した。ダルトンは亡くなる数日前、国王のもとを訪れており、国王のほうも日記に「親愛なる老ダルトンも年を取って衰えた」と書いた矢先だった[27]。
国王のクリスマス放送
[編集]1932年12月、リース率いる英国放送協会(BBC)は、インド、オーストラリア、アフリカなど6地域に向けた帝国放送を開始した[28]。これを受けてリースは再び国王の出演を求めて交渉をはじめ、クリスマスの出演が決まった。
12月25日午後3時5分、ジョージ5世はクリスマス放送を行った。結果は大成功で、リースは「非常に感動的で素晴らしかった」と日記に書き、ウィグラム国王秘書官も「国王は…[中略]…成功を収めたことに祝意を伝えてほしいとのことであります…」とリースに手紙を送った[29]。
ただ、ジョージ5世は一回きりの出演のつもりであったらしく、翌年も続けて出演を求めるリースの願いは聞き入れなかった[30]。マクドナルド首相やウィグラムの説得にも首を縦に振らなかったが、国王のもとに仲の良い労働党の政治家ジェイムズ・トマスが説得に現れた。トマスが帝国各地から寄せられた国王放送をたたえる手紙の束を突きつけてきたため、ジョージ5世も折れて出演を受け入れたという[注釈 2][30]。
ジョージ5世以降、イギリス君主によるクリスマス放送は現在に至るまで定着している。
第2次マクドナルド内閣をめぐって
[編集]ファシズムへの疑念と戦争嫌い
[編集]国王在位25周年記念式典
[編集]1935年は、ジョージ5世の在位25周年を飾る年となった。マクドナルド首相をはじめとする政府は
5月6日、セント・ポール大聖堂で在位25周年記念式典が行われた[32]。この日の朝、ジョージ5世はメイ王妃とともにゴールド・ステート・コーチに乗り、ロンドンを行進した。馬車はそのままセント・ポール大聖堂に向かい、大聖堂で記念礼拝が執り行われた。大聖堂は祖母のヴィクトリア女王も60周年記念式典を催した場所だった。
9日、ウェストミンスター・ホールで庶民院・貴族院の両院から祝辞を受けた。翌日には、メイ王妃とともにロンドンの貧民街イースト・エンドを訪れて、歓呼の声で迎えられた[32]。イースト・エンドから戻ったジョージ5世は「あのものたちが私のことをあんな風に感じているとは思わなかった。本当に自分のことを好いていてくれると考え始めた」と洩らし、「でもね、分からないね。自分はありふれた人間のひとりに過ぎないのだからね」と語ったという[33]。
その日の晩、ジョージ5世は国民にむけて感謝の放送を行った。
国王自身も国民の反響に感動し、ラング大主教の側近アラン・ドンが「国民は国王が自分たちの一員と感じている」と述べるほどの成功となった[35]。
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国王夫妻(1935年)
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在位25周年を記念してイルミネーションされたポーツマス市内の路面電車
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在位25周年を記念して作られたマグカップ
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王室馬車ゴールド・ステート・コーチ。国王夫妻も乗車しロンドンを巡った。
崩御
[編集]1935年12月、ジョージ5世は親しい家族の訃報に接した。三歳年下の妹ヴィクトリアが亡くなり、大きなショックを受けた。ヴィクトリアとは晩年も電話で連絡を取り合うほど仲が良かったという[36]。
その年の暮れ、ジョージ5世はノーフォークにある王室の別荘サンドリンガム・ハウスに向かった。サンドリンガム滞在中に年が改まり1936年を迎えたが、その直後の1月15日、国王は体の不快を訴えた[37]。17日、ジョージ5世は日記をつけたが、この日が最後の自筆となった[注釈 3]。日記には、侍医の初代ドーソン男爵バートランド・ドーソンがサンドリンガム入りしたこと、彼を見て気分が悪くなったことが書かれている[39][23]。
その日の深夜、BBCがニュースではじめて国王の体調不良に触れたほか、翌日の朝刊では、国王侍医団による「心臓病の兆候には穏やかならぬものがある」という公式発表を一斉に報じた[40]。
国王の容体は重く、19日に侍医ドーソン男爵はカンタベリー大主教コズモ・ラングに「希望はほとんどない」と洩らしている[40]。
明けて20日、ジョージ5世は一時的に意識を取り戻した。前日に摂政会議(緊急時に国王の国務を代行する合議体)の設置が閣議決定されていたため、マクドナルド枢密院議長や枢密顧問官らがサンドリンガムを訪れた。マクドナルドによる会議設置の朗読に、ジョージ5世は「よろしい」と述べ、かろうじて署名することができた[36][41]。
その日の夜、国王は危篤となった。エドワード王太子によれば、その日の夕方、国王侍医ドーソン男爵はメイ王妃と自分に「国王が不必要に苦しまれるのをお望みにならないでしょう」と相談してきたため、二人とも「望まない」と答えたという[42]。23時半過ぎ、ドーソンがジョージ5世に致死量のモルヒネとコカインを注射すると、国王の息は次第に浅くなっていった。20日深夜、崩御した[42][36][43]。
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ジョージ5世最期の地(サンドリンガム・ハウス)
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ウェストミンスター・ホールで正装安置される国王の棺
人物
[編集]栄典
[編集]爵位
[編集]勲章
[編集]外国勲章
[編集]名誉職
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ トマスは「いつも品の良くない(ribald)冗談でジョージ5世を笑わせていたが、王はトマスの話の一つにあまり面白がって笑ったため、病気がぶり返した」という[25]。そのため傷口が裂けて、肋骨を再手術でもう一本切除することなった[23]。
- ^ ジョージ5世はクリスマス放送をストレスに感じており、放送のことを考えただけでクリスマスの楽しみが損なわれると側近にこぼしていたという[31]。
- ^ 17日の記載のあとに、メイ王妃の筆跡で「国王から代筆を頼まれたこと」、「国王は20日に崩御したこと」が記されている[38]。
出典
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参考文献
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- 君塚, 直隆『ジョージ5世 - 大衆民主政治時代の君主』(初版)日本経済新聞社、東京都千代田区、2011年。ISBN 9784532261276。
- 君塚, 直隆『女王陛下のブルーリボン-英国勲章外交史-』(初版)中央公論新社、東京都中央区〈中公文庫〉、2014年。ISBN 978-4122058927。
- 君塚, 直隆『女王陛下の影法師 - 秘書官からみた英国政治史』(第一刷)筑摩書房、東京都台東区〈ちくま学芸文庫〉、2023年。ISBN 4480511644。
- 小泉, 信三『ジョオジ5世伝と皇室論』(第一刷)株式会社 文藝春秋、東京都千代田区、1989年。ISBN 9784163430607。
- 水谷, 三公『イギリス王室とメディア - エドワード大衆王とその時代』(初版)筑摩書房、東京都台東区〈文春学藝ライブラリー〉、1995年。ISBN 9784168130557。
HMS Barham/下書き2-3
ヴェッティン家分家
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王室の称号 | ||
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爵位創設 | クラレンス=アヴォンデイル公爵 アスローン伯爵 1890年 - 1892年 |
空位 次代の在位者 廃絶
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