コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Eugene Ormandy/sandbox63 ユージン・オーマンディ

ユージン・オーマンディ
Eugene Ormandy
ユージン・オーマンディ
基本情報
出生名 Blau Jenő
生誕 (1899-11-18) 1899年11月18日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ブダペスト
死没 (1985-03-12) 1985年3月12日(85歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フィラデルフィア
学歴 リスト音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者・ヴァイオリニスト
担当楽器 指揮・ヴァイオリン
活動期間 1924年 - 1984年
レーベル RCACBS

ユージン・オーマンディ (Eugene Ormandy)は、主にアメリカで活躍したハンガリー出身の指揮者である。フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を務めた。本名はイェネ・ブラウであったが、

生涯

[編集]

幼少期〜学生時代

[編集]
イェネー・フバイ (1897年)

1899年11月18日、音楽好きの両親のもと、イェネ・ブラウという名前でブダペストに生まれる[1][2][3]。特に歯科医であった父は、もともと音楽家を志していた熱烈な音楽愛好家であり、結婚をする10年も前から、自分の長男は当時最高のヴァイオリニストとされていたイェネー・フバイと同名にすると決意していた[3]

聴いた音を正確に歌うことができ、さらには蓄音器から流れている曲を言い当てることができたイェネは[4]、4歳からヴァイオリンを始め、5歳でブダペスト王立音楽院に入学し[1]、7歳で最初の演奏会を行った[2]。さらに9歳からイェネー・フバイに師事した[5]。音楽院では、ベラ・バルトークゾルターン・コダーイにも師事しており、和声、対位法、作曲、管弦楽法などを学んだ[6]

父は厳しい人物で、自身が患者を診察する部屋の隣でイェネにヴァイオリンを練習させたが[3]、イェネは同じ箇所を繰り返し練習しながら読書をしていた[7]。また、新たな作品を演奏する際は全てを楽譜なしで弾けるように記憶していた[7]。このようなやり方について、本人はのちに「結果的には得るものが大きかった」と回想している[7]

卒業後の活躍

[編集]

14歳で音楽院を卒業し[5]、17歳にして教授資格を得て[2]、ブダペスト王立音楽院で教鞭をとった[1]。また、同時にソリストとしても活躍した[8]。その後、1917年にベルリンのブリュトナー管弦楽団のコンサートマスターに就任してドイツに移住し[8][9]、1920年にはウィーンに移住した[8]

渡米

[編集]

1920年に、あるマネージャーの招きでアメリカに渡るもコンサートがキャンセルされたため[1][† 1]、3週間以内にどこかに就職しなくてはいけないという「身の毛もよだつ」状態に陥ったが[10]、ニューヨークのキャピタル劇場のオーケストラにヴァイオリニストとして就職できた[1][9]。オーケストラは85人のメンバーで構成されており、本人いわく「ニューヨークで2番目に上手なオーケストラ」であった[10]。オーケストラでは1日に「交響曲の一部分、交響詩、序曲、オペラの小場面、バレエ」などを演奏する公演と、「無声映画の伴奏」をする公演をそれぞれ2回ずつ行わなくてはならず、特に当時人気を博していた映画の公演は、4週間から5週間ほど続くこともあった[11]

渡米をしてからユージン・オーマンディという名前を用いるようになったイェネは[2]、当初最後尾で演奏していたが、彼が後ろからセクション全体をリードしていると感じた指揮者、および責任者ロキシーの判断により、5日目にしてソロ・コンサートマスターに就任した[1][10]。その結果、リヒャルト・シュトラウス作曲の『英雄の生涯』におけるヴァイオリン・ソロを1週間に28回演奏することもあった[11]

指揮者としての活躍の開始

[編集]

1924年、オーマンディは急病で倒れた指揮者に代わり、チャイコフスキーの交響曲第4番とドリーブのバレエ曲を指揮した[12]。キャピタル劇場の取締役メイジャー・ボウェスとロキシーはこれを評価し、第3指揮者の地位につくようオーマンディに要請したが、あくまでヴァイオリニストでありたいオーマンディはこれを拒否した[12]。しかし、「ヴァイオリニストとしてよりも、指揮者としての方が才能がある」と主張したボウェスらは、給料を25ドル上げてオーマンディに指揮活動をさせた[12]。これ以降、無声映画の指揮者を務めるようになり、1925年にはキャピタル劇場のオーケストラの准音楽監督となった[1][2]。また、1927年にはアメリカ合衆国の市民権を獲得した[5]

ミネアポリス管弦楽団時代

[編集]

1930年には、ニューヨーク・フィルハーモニックによるニューヨーク・スタジアム夏季演奏会に客演し[5]、同年にはフィラデルフィア管弦楽団のメンバーからなるロビンフッド・デル・オーケストラを客演指揮した[1][5]。その翌年には、トスカニーニの代理として3度にわたり正式なプログラムを指揮した[13]

これらの手腕が評価され、翌1931年にはミネアポリス交響楽団の常任指揮者となった[1][5]

フィラデルフィア管弦楽団時代

[編集]
レオポルド・ストコフスキー (1915-1920年ごろ)

1936年には当時の音楽監督レオポルド・ストコフスキーの推薦でフィラデルフィア管弦楽団の準指揮者となり、1938年には音楽監督に昇格し、1980年まで務めた[1][14]。1980年からは桂冠指揮者を務めた[9]

オーマンディ時代のフィラデルフィア管弦楽団は、クラリネット奏者のアンソニー・ジリオッティ[15]、ファゴット奏者ソル・シェーンバッハ[16]、トランペット奏者ギルバート・ジョンソン[17]、打楽器奏者マイケル・ブックスパン[18]などの著名な演奏家を輩出している。

また、1948年にはアメリカのオーケストラで初めてテレビにおける交響曲演奏を行った[5]

アメリカの文化大使として

[編集]
ソ連との交流
[編集]

1955年に、ソ連から派遣されるピアニストの第一号として渡米したギレリスト共演し、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を共演した[19]。なお、このコンサートを聴いたアメリカのピアニストヴァン・クライバーンは、その時ちょうどチャイコフスキーの同曲を練習していたが、ギレリスとオーマンディの演奏に衝撃を受けて練習をしばらく中止している[19]

1958年にはソ連を訪れ、ソ連のピアニストスヴャストラフ・リヒテルとプロコフィエフのピアノ協奏曲第5番を共演した[20]。なお、1960年にはリヒテルがアメリカを訪れ、再共演を果たしている[20]

また、1964年にソ連のチェリストロストロポーヴィチがモスクワでプロ・アマ混合のチェロ・クラブを設立した際には、サイン入り写真を送った[21]。なお、オイストラフ、リヒテル、ショスタコーヴィチ、カラヤン、フランチェスカってぃ、シゲティ、ストラヴィンスキー、ハイフェッツ等の音楽家、さらにはパントマイマーのマルセル・マルソー、宇宙飛行士のガガーリンも同様に祝福した[21]

中国との交流
[編集]

オーマンディ率いるフィラデルフィア管弦楽団はアメリカ使節の第一陣として訪中し、ピアニストの劉詩昆と『ピアノ協奏曲「黄河」』を演奏した[22]


人物

[編集]

尊敬する指揮者トスカニーニ

[編集]

指揮者アルトゥーロ・トスカニーニを尊敬していた[23]。オーマンディはヴァイオリニストのナタン・ミルスタインによる指揮者批判を聞くのが好きであったが、その際にもトスカニーニの悪口は控えるよう頼んでいた程だった[23]。ただし、トスカニーニによるブラームスの交響曲第3番の演奏のみは受け付けなかった[23]

カラヤンに対する反抗心

[編集]

1955年、ヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とアメリカツアーを決行した際、アメリカでは元ナチ党員のカラヤンに対する反対活動が行われたが、オーマンディもこれに同調し、カラヤンが演奏会を行うのと同時刻にレセプションを開催して街の音楽ファンを招いた[24]

レパートリー

[編集]
作曲家のジャン・シベリウス(左端)を訪ねたオーマンディ (1951年)

幅広いレパートリー

[編集]

幅広いレパートリーを誇り、アントニオ・ヴィヴァルディから現代音楽まで指揮したが[1]、特にミネアポリス交響楽団の頃より、アントン・ブルックナーグスタフ・マーラーといった比較的新しいレパートリーを積極的に録音している[2]。なお、セルゲイ・プロコフィエフドミトリー・ショスタコーヴィチに関しては世界初録音を作成した[2]。また、アメリカ近現代の作品も熱心に取り上げたが、チャールズ・アイヴスアーロン・コープランドの作品を除き、録音はほとんど残されなかった[2][† 2]

また、1950年にメトロポリタン歌劇場にデビューしたが、オペラを指揮する機会は少なかった[5]

ベラ・バルトーク

[編集]

ブダペスト王立音楽院にて教えを受けた[6]。1957年から1958年のシーズンにかけて、アイザック・スターンとともに、長らく忘れ去られていた『ヴァイオリン協奏曲第1番』のアメリカ初演を行った[26]

ジャン・シベリウス

[編集]

ジャン・シベリウスセルゲイ・ラフマニノフとは直接交流しており、シベリウスからは自作の演奏者として絶賛された[2]

セルゲイ・ラフマニノフ

[編集]

ラフマニノフとは、ピアノ協奏曲のソリストと指揮者として共演し、録音も残した[2]。 なお、ピアノ協奏曲第3番の録音の際には、第3楽章のカデンツァにおいて15回も取り直しが要求されたため、ラフマニノフ自身はミスを指摘された音は修正されたが残りはめちゃくちゃであったと嘆いている[27]。作曲の過程に立ち合いアドバイスをすることもあった。なお、ラフマニノフ作曲の『交響的舞曲』は、オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団に捧げられている。

オーマンディが初演した作品としては「」「」「」および〜の曲などが挙げられる。

初演作品

[編集]

世界初演

[編集]
  • ベラ・バルトーク『ピアノ協奏曲第3番』[5]
  • セルゲイ・ラフマニノフ『交響的舞曲』[5]
  • ベンジャミン・ブリテン『左手のピアノと管弦楽のための主題と変奏』[5]

他にもロジャー・セッションズ、サミュエル・バーバー、クレストンの作品の世界初演を行っている[5][13]

アメリカ初演

[編集]
  • ベラ・バルトーク『ヴァイオリン協奏曲第1番』[26]
  • ショスタコーヴィチの交響曲[5]

顕彰歴

[編集]

1976年にイギリス王室より叙勲された[5]

評価

[編集]

「フィラデルフィア・サウンド」の生みの親として

[編集]

オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団のコンビは、「豊かなヴィブラートを伴ってたっぷりと鳴らした弦合奏を主体に、華やかな管楽器が飛び交う、個性的なサウンド」によって有名であったが、その豪奢さがかえって「深みがない」「古典的なレパートリーに相応しくない」と評されることもあった[2]

オーマンディ自身は「フィラデルフィア・サウンド」の呼称を嫌がっており、以下のように述べたとされる[28]

”オーマンディ・サウンド”といってほしいね。私のサウンドは私がヴァイオリニストだったからですよ。トスカニーニはチェロ、クーセヴィツキーはコントラバス、ストコフスキーはオルガンだったように、たしなんできた楽器によるんですよ[28]

また、フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督になりうると噂された指揮者のサイモン・ラトルは、同団とジャン=フィリップ・ラモー作曲の『ボレアード』を演奏した際「最もオーマンディらしからぬ時間を過ごした」と語りつつ、「それは彼らにとって合っていたのだろうか。答えはノーです。アメリカのオーケストラは、何世代にもわたって基本的にロマン派の大曲と現代の大曲を得意としているのですから」と述べた[29]

オーケストラのトレーナーとして

[編集]

5年間在籍したミネアポリス交響楽団では、技術的水準を著しく高めたと評価されている[1]

協奏曲における伴奏指揮者として

[編集]

協奏曲における伴奏も評価された[1]。ソリストにアドバイスをすることもあり、ヴァイオリニストのアイザック・スターンに対しては、仕事のペースを落とすよう助言した[30]

オーケストラ団員からの評価

[編集]

フィルハーモニア管弦楽団のコンサートマスターを務めたヒュー・ビーンは、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンを称賛する文脈でオーマンディの名前を出しており「カラヤン自身は弦楽器をやりませんでしたが、私たちから素晴らしい音を引き出しましたーーこの点ではおそらく、みずから弦楽器が弾けたオーマンディにも匹敵する力をもっていました」と述べている[31]。また、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で第2ヴァイオリンの首席奏者を務めたオットー・シュトラッサーは、オーマンディについて以下のように述べている[32]

少しも正確魔ではなく、むしろ即興的に、多くの場合、指揮棒なしで指揮をした。そして、最小限の身振りで最大の表現をする術を心得ていた。ほとんどウィーン式といってよい伝統に則って指揮する彼は、古典の傑作はもとより、現代音楽をもすばらしく解釈することを知っていて、オーケストラのためのバルトークのコンツェルトは、彼が私たちに伝えた、最も印象に残る音楽体験に属している[32]

フィラデルフィア管弦楽団で首席トロンボーン奏者を務めたグレン・ドッドソンは「彼が得意とした領域では、彼の解釈はほかに並ぶものがありませんでした。彼の特性は、とても素晴らしい耳を持っていることでした。彼は、演奏者が自分の思いどおりに演奏できるかどうか聴き分けることができたのです。彼は、ルノワールが色を用いたように、音を用いたのです」と述べている[33][34]

「アメリカの指揮者」として

[編集]

音楽評論家のリチャード・オズボーンは、ヨーロッパからアメリカに渡った指揮者で「アメリカの流儀に染まったもの」として、アルトゥーロ・トスカニーニブルーノ・ワルタージョージ・セルフリッツ・ライナーと並んでオーマンディの名前を挙げている[35]。なお、それに適応できずアメリカを去った指揮者としてはオットー・クレンペラートーマス・ビーチャムジョン・バルビローリを挙げている[35]

対照的に、上述のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団第2ヴァイオリン奏者オットー・シュトラッサーは、オーマンディについて「いささかもアメリカ的なものを身につけて」いないと語った[32]

参考文献

[編集]
  • 淺香淳編『新訂 標準音楽辞典 アーテ』音楽之友社、1991年、ISBN 4-276-00002-5
  • 朝川博、水島昭男『音楽の名言名句辞典』東京堂出版、2012年、ISBN 978-4-490-10820-0
  • 遠藤一行、海老沢敏編『ラルース世界音楽人名事典』福永書店、1989年、ISBN 482881602X
  • エリザベス・ウィルソン『ロストロポーヴィチ伝 巨匠が語る音楽の教え、演奏家の魂』木村博江訳、音楽之友社、2009年、ISBN 978-4-276-21724-9
  • 大谷隆夫編『ONTOMO MOOK 最新 世界の指揮者名盤866』音楽之友社、2010年、ISBN 978-4-276-96193-7
  • リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 上』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03846-5
  • 音楽之友社編『名演奏家事典(上)』音楽之友社、1982年、ISBN 4-276-00131-5
  • 芸術現代社『世界のオーケストラ辞典』芸術現代社、1984年、ISBN 4-87463-055-3
  • ニコラス・ケニヨン『サイモン・ラトル ベルリン・フィルへの軌跡』山田真一訳、音楽之友社、2002年、ISBN 4-276-21785-7。
  • オットー・シュトラッサー『前楽団長が語る半世紀の歴史 栄光のウィーン・フィル』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年。
  • アイザック・スターン、ハイム・ポトク『アイザック・スターン すばらしきかな、わがヴァイオリン人生』大森洋子訳、清流出版、2011年、ISBN 978-4-86029-352-9
  • ロバート・チェスターマン編著『マエストロたちとの対話』中尾正史訳、洋泉社、1995年、ISBN 4-89691-184-9
  • ヘルベルト・ハフナー『ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝』春秋社、2009年、ISBN 978-4-393-93540-8
  • ナタン・ミルスタイン、ソロモン・ヴォルコフ『ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録』青村茂、上田京訳、春秋社、2000年、ISBN 4-393-93460-1
  • 村田武雄『演奏家大事典 第Ⅱ巻』音楽鑑賞教育振興会、1982年。
  • クリスチャン・メルラン『オーケストラ 知りたかったことのすべて』藤本優子、山田浩之訳、みすず書房、2020年、ISBN 978-4-622-08877-6
  • ブルーノ・モンサンジョン『リヒテル』中地義和、鈴木圭介訳、筑摩書房、2000年、ISBN 4-480-88512-9

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ なお、オーマンディ自身は上記のマネージャーについて「とても親切な人」と述べている[8]
  2. ^ ただし、指揮者のジェームズ・レヴァインは、オーマンディ時代のフィラデルフィア管弦楽団ではあまりマーラーが取り上げられなかったと述べている[25]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 音楽之友社編 (1982)『名演奏家事典(上)』、184-185頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 大谷隆夫編『ONTOMO MOOK 最新 世界の指揮者名盤866』音楽之友社、19頁。
  3. ^ a b c チェスターマン (1995)、185頁。
  4. ^ チェスターマン (1995)、184頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 村田武雄『演奏家大事典 第Ⅱ巻』音楽鑑賞教育振興会、1982年、205頁。
  6. ^ a b チェスターマン (1995)、191頁。
  7. ^ a b c チェスターマン (1995)、186頁。
  8. ^ a b c d チェスターマン (1995)、187頁。
  9. ^ a b c 淺香淳編『新訂 標準音楽辞典 アーテ』音楽之友社、1991年、301頁。
  10. ^ a b c チェスターマン (1995)、188頁。
  11. ^ a b チェスターマン (1995)、189頁。
  12. ^ a b c チェスターマン (1995)、190頁。
  13. ^ a b 遠藤一行、海老沢敏編『ラルース世界音楽人名事典』福永書店、1989年、181頁。
  14. ^ 芸術現代社『世界のオーケストラ辞典』芸術現代社、1984年、114頁。
  15. ^ メルラン (2020)、285頁。
  16. ^ メルラン (2020)、300頁。
  17. ^ メルラン (2020)、341頁。
  18. ^ メルラン (2020)、405頁。
  19. ^ a b クリフ (2017)、109頁。
  20. ^ a b モンサンジョン (2000)、161頁。
  21. ^ a b ウィルソン (2009)、193頁。
  22. ^ クリフ (2017)、430頁。
  23. ^ a b c ミルスタイン (2000)、277頁。
  24. ^ ハフナー (2009)、244-245頁。
  25. ^ チェスターマン (1995)、285頁。
  26. ^ a b スターン (2011)、320頁。
  27. ^ ミルスタイン (2000)、188頁。
  28. ^ a b 朝川、水島 (2012)、188頁。
  29. ^ ケニヨン (2002)、196-197頁。
  30. ^ スターン、ポトク (2011)、221頁。
  31. ^ オズボーン (2001)、450-451頁。
  32. ^ a b c シュトラッサー (1977)、294頁。
  33. ^ チェスターマン (1995)、180頁。
  34. ^ チェスターマン (1995)、181頁。
  35. ^ a b オズボーン (2001)、552頁。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]