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利用者:Eugene Ormandy/sandbox105 ハンス・フォン・ビューロー

ハンス・フォン・ビューロー
Hans von Bülow
基本情報
出生名 Hans Guido Freiherr von Bülow
生誕 1830年1月8日
出身地 ザクセン王国の旗 ザクセン王国ドレスデン
死没 (1894-02-12) 1894年2月12日(64歳没)
エジプトの旗 エジプトカイロ
学歴 ライプツィヒ大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
ピアニスト
担当楽器 指揮
ピアノ

ハンス・フォン・ビューローは、指揮者、ピアニストである。

生涯

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幼少期

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ビューローに影響を与えた作曲家リヒャルト・ワーグナー (1861年)

1830年1月8日、ドレスデンで生まれる[1]。家族はプロイセンの古い貴族の出で[1]、大ブルジョワでもあった[2]。12歳の時に『リエンツィ』に感銘を受け、その作曲家であるリヒャルト・ワーグナーに自分の習作を送ったところ、励ましの返事をもらった[3]

音楽学生時代

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ビューローはドレスデンライプツィヒで音楽を学んだ[3]。ピアノをルイス・プレイディ、フリードリヒ・ヴィークに師事し、音楽理論はモーリッツ・ハウプトマンとマックス・エーバーヴァインに師事した[3][2][4]。ビューローはピアニストとして音楽の道に進もうとしたが、両親の反対にあい、法学の勉強をすることになった[2]

法学徒時代

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ライプツィヒで法学を学んだのち、さらなる勉強のため19歳でベルリン大学に入学した[1][2][5]1848年革命が勃発するとただの勉強には物足りなくなり、当時最も進歩的とみなされていたベルリンの新聞『アーベントポスト』紙にラディカルな政治論文を寄稿するようになった[2]。なお、ビューローはピアノの練習も続けていたほか[5]、音楽評論も行っており、宮廷管弦楽団によるベートーヴェンの作品の演奏について「飼い慣らされた演奏」「ベートーヴェンはプロイセン王立宮廷管弦楽団の楽長ではない」と批判した評論は特に話題を呼んだ[1]

1850年にヴァイマルフランツ・リストが指揮した『ローエングリン』上演に接したビューローは、このまま政治活動を行って良いものかと迷い、結局音楽の道に進むことにした[2][6]

チューリッヒ時代

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音楽の道に進むことを決意したビューローは、1848年革命を機にチューリッヒに亡命していたリヒャルト・ワーグナーを訪ねた[2]。両親、特に母親は猛反対したため、ワーグナーがビューロー親子を取り持つ手紙を書いたり、ビューローの両親と親しかったフランツ・リストが手紙でその将来を保障したりしたが、気折れしたビューローは一度ベルリンの実家に戻ってしまった[2]。しかしワーグナーが手紙で「大船に乗った気持ちで私についてこい」と説得すると、1850年10月に改めてチューリッヒのワーグナーを訪ねた[2]

ワーグナーは当地でチューリッヒ歌劇場の暫定的な音楽監督を務めていたが、その業務に嫌気がさしていたため、「その地位から得られる収入はワーグナーのもの」という条件でビューローに任せるようになった[2][7]。はじめビューローはワーグナーの指示のもとでリハーサルなどをこなしていたがすぐに1人で全てを仕切れるようになり、ワーグナーはあいた時間で作曲に励んだ[7]

ビューローは、ジョアキーノ・ロッシーニの『セビリアの理髪師』を指揮してデビューした[7]。楽譜を見ないで指揮するなど作曲家に対して失礼だという当時の風潮に反し、ビューローは暗譜で指揮をしたためセンセーションを巻き起こした[7]。なお、ビューローは「すぐれたオペラは、どんな音符も、どんなニュアンスも、どんな楽器も、それぞれ特別の意味合いをもっている。それを練習し、指揮し、すぐれた演奏にするには、楽譜と睨めっこばかりしていてはできない相談だ」と述べている[7]

しかし1850年12月にはプリマドンナのローザ・ラオホ=ヴェルナウの起源を損ね、チューリッヒを離れることになった[8]

ザンクト・ガレン時代

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ワーグナーの近くにいることを望んだビューローは、ザンクト・ガレンの市立劇場の指揮者となった[8]。この劇場のオーケストラはほとんどアマチュアであったため、高度な演奏に慣れていたビューローはレベルアップに苦心した[8]

ワイマール時代

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1851年には、フランツ・リストのもとでピアノの勉強をし直すことを決意し、ワイマールへと渡った[8]。その2年後には、ワイマールでの演奏会を皮切りにドイツ国内の演奏旅行を行った[8]。また、1855年には2回目の演奏旅行を行った[8]

ベルリン時代

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1855年に演奏旅行を行った結果、ビューローは同年ベルリンのシュテルン音楽院の教授に招聘された[8]。これによりビューローは経済的に安定した[9]。1857年には、フランツ・リストの娘であるコジマと結婚した[9]。なお、フランツ・リストはこの結婚に難色を示していたため、ビューローは万が一の時は身を引くと約束した[9]

ミュンヘン時代

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1864年、ワーグナーはビューローに音楽院の地位を捨て、ミュンヘンでルートヴィヒ2世のピアノ教師を務めるよう依頼した[9]。ワーグナーの芸術を伝えたいという使命感ゆえビューローは従ったものの乗り気ではなく、実際着任から3週間で心身症に由来する虚脱症に見舞われた[9]

なお、『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』上演のためにビューローが行ったリハーサルのシステムは、のちに世界各地のオペラ上演に影響を与えた[10]。そのシステムとは、以下のようなものである[10]

コレペティートルたちによる個人レッスンで始まり、指揮者の満足のいくまで歌手たちを練習させることができる。次に歌手を個人個人とアンサンブルの両方でリハーサルし、それから総合リハーサルが始まる。このスケジュールはオーケストラのためにも用いられ、まずはパートごとの、それからフル・オーケストラでのリハーサルがなされ、後に演奏者と歌手を一緒にしてジッツ・プローべ、そして舞台リハーサルが行われる[10]

マイニンゲン時代

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ベルリン時代

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晩年

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ルーペルト・シェトレは、ビューローが『トリスタンとイゾルデ』の初演を果たしたことにより「職業指揮者」が誕生したと指摘している[3]

人物

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容姿

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性格

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ヘルベルト・ハフナーはビューローの性格について「繊細で傷つきやすい性格を隠すために、近寄りがたい雰囲気、非情で冷笑的な態度、人を傷つける傲慢さで身構える」と指摘している[11]。また、ハロルド・C・ショーンバーグは「独裁的そして短気な盲目的愛国主義者で、自分の優位を確信し、立派な音楽的教養に加えて実行力とリーダーシップを備え、また、辛辣で病的な反ユダヤ主義者であった」と述べている[4]

政治的主張

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人間関係

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健康状態

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音楽性

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指揮姿

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チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードは、現代指揮法の原型をビューローとハンス・リヒターであると指摘している[12]。また、ピョートル・チャイコフスキーはビューローの指揮姿について「動きに満ち、落ち着かず、時折ひどく目につく身振りが効果的」と指摘している[13]

作品解釈

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ビューローの作品解釈は後世の指揮者たちに影響を与えた[14]。特に「初期のワーグナー作品に見られる『ターン記号』は『逆ターン』として演奏するべき」という主張は、のちにビューロー自身が撤回してもなお、遵守する指揮者がいるほどであった[15][14]

ビューローは、楽曲に独自のタイトルをつけることがあった[16]。例えばベートーヴェンの『ディアベリ変奏曲』における33の変奏全てに「行進曲風」「埋葬の踊り」といったタイトルをつけたほか、ショパンの『24の前奏曲』の各曲にもタイトルをつけ、さらには各曲に基づく独自の物語を創作して作品解説とした[16][17]ヴィルヘルム・フォン・レンツや、フランツ・リストの弟子カレルギス夫人は、ショパン作品におけるビューローの物語を絶賛し、「作曲家の感情と意図を極めて正確に反映している」と述べたが、一方で音楽評論家のハロルド・C・ショーンバーグは「このばかげた解釈が、時の最も鋭い音楽的知性と認められた人物から出たとは信じ難い」と述べている[17][18]。なお、ショーンバーグはこのような創作行為の時代背景として「19世紀ロマン主義の理想に従い、重要なのは個性であり、その結果個性は音楽よりも重要なのであった」「1830年代は結局、演奏者が目の前にある楽譜に装飾音や即興や「改良」を加えて趣味のよさを見せなければならなかった古典派の時代からそれほど遠くはなかったのである。18世紀には誰もそういった行為について深くは考えなかったし、19世紀にも誰もこれについて深く考えなかったのだ」と指摘している[18]

リハーサル

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レパートリー

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ビューローが批判した音楽家

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ビューローはピアニストのアレクサンダー・ドライショクについて「道化師の外貌を持つ機械人間、才能の欠乏そのもの」と述べた[19]

教育活動

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評価

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作曲家からの評価

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指揮者からの評価

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リヒャルト・シュトラウスは、ビューローの「知性、フレーズの分析力、そしてワーグナーの音楽の心理的な内容把握に、この上ない賞賛の念を抱いていた」とされる[20]

フェリックス・ワインガルトナーは「彼にはオペラの仕事をするために必要な本能が欠けており、全神経をオーケストラに集中してしまうため、歌手のほうが疎かになっていた」と指摘している[10]

楽器奏者からの評価

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音楽評論家からの評価

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ハロルド・C・ショーンバーグは、ビューローについて「学者肌のピアニスト[21]」「19世紀の中でも優れた音楽的知性の持ち主の1人[16]」「その個性、技術、忍耐、そして鋭い知性の力によって、数十年間にわたるドイツ・ピアニズムの優位を確立することに誰よりも貢献した[4]」と評している。

脚注

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参考文献

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  • ウエルナー・エールマン 著、福原信夫 訳『ベルリン・フィル物語』立風書房、1977年。 
  • ルーペルト・シェトレ 著、喜多尾道冬 訳『指揮台の神々 世紀の大指揮者列伝』音楽之友社、2003年。ISBN 978-4-276-21784-3 
  • ハロルド・C・ショーンバーグ 著、後藤泰子 訳『ピアノ音楽の巨匠たち』シンコー・ミュージック・エンタテイメント、2015年。ISBN 978-4-401-64019-5 
  • ヘルベルト・ハフナー 著、市原和子 訳『ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝』春秋社、2009年。ISBN 978-4-393-93540-8 
  • バリー・ミリントン、ステュアート・スペンサー 著、三宅幸夫 訳『ワーグナーの上演空間』音楽之友社、1997年。ISBN 4-276-13054-9 

外部リンク

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