利用者:Equinox7/作業場
ポンペイ Pompei | |
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行政 | |
国 | イタリア |
州 | カンパニア |
県/大都市 | ナポリ |
CAP(郵便番号) | 80045 |
市外局番 | 081 |
ISTATコード | 063058 |
識別コード | G813 |
分離集落 | |
隣接コムーネ | ボスコレアーレ、 カステッランマーレ・ディ・スタービア、 サンタントーニオ・アバーテ、 サンタ・マリーア・ラ・カリタ、 スカファーティ(SA)、 トッレ・アンヌンツィアータ |
人口 | |
人口 | 25,726 人 (31-12-04) |
人口密度 | 2146 人/km2 |
文化 | |
住民の呼称 | |
守護聖人 | Beata Vergine del Rosario |
祝祭日 | 5月8日 |
地理 | |
座標 | 北緯40度45分0秒 東経14度30分0秒 / 北緯40.75000度 東経14.50000度座標: 北緯40度45分0秒 東経14度30分0秒 / 北緯40.75000度 東経14.50000度 |
標高 | m |
面積 | 12 km2 |
ポータル イタリア |
ポンペイ(ラテン語:Pompeii、イタリア語:Pompei)は、1世紀までナポリ近郊にあった都市国家。ヴェスヴィオ火山の大噴火により、79年に壊滅した。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。その遺跡は世界遺産になっている。【この節で現在の街にも触れたほうがよいのでは?】
概要
[編集]末期は【いつに比して末期?】ローマの属国となり、ローマ人の余暇地として栄えた。最盛期の人口は約2万人といわれる[1]。噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。市民の大多数はローマなどに逃げたが、助からなかった市民も多くいた[2]。。
軍人でもあった博物学者の大プリニウスは、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙に巻かれて死んだことが甥の小プリニウスによる当時の記述により知られている。
また現代のポンペイは人口25,751人のイタリア共和国カンパニア州ナポリ県のコムーネの一つであり、その中心部は古代遺跡とは少し離れている。
イタリア語での発音はeにアクセントがあるため、「ポンペーイ」に近い。
歴史
[編集]イタリア先住のオスキ人によって集落が形成された。紀元前7世紀、サルノ川の河口付近の丘に集落があった。その後、紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが現在、この説を裏付けるものはない。
カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし、紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服された。これによりポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは、港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後、商業都市として栄えた。
紀元62年2月5日、激しい地震がポンペイを襲った。これにより、ポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌25日に完全に地中に埋まった。
当時の、唯一の信頼できる記録は、死亡した大プリニウスの甥の小プリニウスが歴史学者タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂、火口付近から、松の木のような形の暗い雲を見た。雲は山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだ。そして雲は火口から海までを覆った。小プリニウスが書いたこの現象は、現在では火砕流として知られる。これは、火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩れのように流れる現象である。プリニウスは、爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れた、と述べた。さらに、灰がどんどん積もり、彼がいた村から逃げなければならなかった。そして、海の水がみるみる引いていき、「津波」がおきた。ただし、当時のヨーロッパ人は津波(Tsunami)という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの次の記述は、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかった、と続いている。大プリニウスはこの現象を調査するため、船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。二酸化炭素中毒によるもの(訳者註:二酸化硫黄のことか?)と現在では考えられている。
それからおよそ1650年
[編集]壊滅後は二度と集落が作られることはなかったが、町の存在はしばらくは人々の記憶に残り、埋もれた財産を掘り返す人もいた[3][4]。また壊滅したポンペイのことが文献で言及されることもあった。古代末期にはポンペイのことは忘れ去られてしまったと考えられているが、その後この土地は1000年以上チヴィタ(町)という名で呼ばれ、散発的に古代の品が回収されることはあった。ルネサンス以降、チヴィタの下にポンペイの町が埋まっていると考える学者はいたが発掘には結びつかなかった[5]。
その後、ヘルクラネウム(現在のエルコラーノにあった)は1738年に、ポンペイは1748年に再発見された。これらの町は建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために、この後断続的に発掘された。Fontana(フォンタナ)という建築家が、サルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見つけてから、150年が経過していた。この時点まで、ヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていた。いくつかの男女の交わりを描く美術品(フレスコ画)は、最初フォンタナによって発掘されたが、将来、考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断したフォンタナ自身が埋め戻したとされる。ただしこれには明確な証拠はない。
ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐に亘っている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルが、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテルMurecine」と呼ばれる。
ポンペイは、その後の修正がいっさいなしで、建造物や街区が当時のままの唯一の町として知られている。後の歴史家たちは、その歴史家の生きた時代のローマが、古代ローマのものをそのまま伝えていると誤認していた。しかし、ポンペイは、最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には家と店がある。建造物は石でできていた。
紀元79年の爆発のとき、逃げ遅れた人々は火山灰の中に埋もれて死んだ。後に発掘されたとき、遺体部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。顔までは再現できなかったが、これらのうちのいくつかは、恐怖の表情がはっきり分かる。母親が子供を覆い隠し、火山灰から子供だけでも守ろうとした様子も、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も、生々しく再現された。
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きは、当時のラテン語をそのまま伝える。保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。ポンペイは確かに当時とても活気のある都市だった。
爆発時、町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また、彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場など。
2002年には、サルノ川河口で重要な発見がされた。ここにボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明したのである。これらの結果は続々と報告されつつある。
「市民全員が噴火で死亡し、唯一の生き残りの死刑囚がポンペイの町のことを語ったが、誰も信用しなかった。しかしそれは伝説として残り、発掘されることになった。」という逸話は都市伝説のようである(この逸話は1902年に、西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー火山(フランス語の「山」をつけて「モンプレー」とも表記される)で起きた大噴火を下敷きにしていると思われる。この噴火では火砕流により麓のサンピエール市の住民約2万8千人がほぼ全滅し、生存者は警察の留置場に拘留されていた死刑囚と地下倉庫に隠れていた靴職人の2名のみであった)。 また、この町は19時間で消滅した。
当時のポンペイ
[編集]町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。ただし主な産業はワイン醸造や魚ソースなどの水産加工だったらしい[6]。この土地は火山噴火まではぶどうの産地であった。港湾都市でもあり、商業も盛んであったことは、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることからも裏付けられる(現在はポンペイ周辺で水位が極度に下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあった)。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。また、当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。
ポンペイを題材にした作品
[編集]映画
[編集]- ポンペイ最後の日(1926年、監督:カルミネ・ガローネ、アムレート・パレルミ)
- ポンペイ最後の日(1935年、監督:アーネスト・B・シュードサック)
- ポンペイ最後の日(1960年、監督:マリオ・ボンナルド)
絵画
[編集]- ポンペイ最後の日(1830-33年、ブリュロフ)
- ポンペイ(1938年、ポール・デルヴォー)
小説
[編集]- ポンペイ最後の日(1834年、エドワード・ジョージ・ブルワー・リットン)
- ポンペイの四日間(2003年、ロバート・ハリス)
関連項目
[編集]参考文献
[編集](『ポンペイ・グラフィティ』の増補・改訂版)
- 『ローマの古代都市』ピエール・グリマル(北野徹訳)(文庫クセジュ、白水社、1995年)
- 『ポンペイ 古代ローマ都市の蘇生』浅香正(芸艸堂、1995年、ISBN 978-4753801695)
- 『ポンペイの滅んだ日』金子史郎、東洋書林、2001年