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略歴
[編集]生い立ち
[編集]1826年、マサチューセッツ州スプリングフィールドで生まれた。父親はニューヨーク・サンのオーナーでメディア王としても有名なモーゼス・イェール・ビーチ。奴隷制度廃止論を公言するニューヨーク州で最も裕福な市民の1人でもあった。
3人兄弟の末っ子で、兄は銀行家、もう1人の兄は
サイエンティフィック・アメリカン
[編集]ビーチが20歳のとき友人のオーソン・マンと1846年に科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」を買収した。ビーチは亡くなるまで運営し、その後1948年に新しいオーナーに売却されるまでマン家とビーチ家が運営した。現在、世界で最も古くから定期創刊されている一般向け科学雑誌となっている。https://www.nikkei.com/article/DGXKZO64588870T01C20A0MM8000/
奉仕活動
[編集]もともと敬虔な信仰心と奉仕の精神を持つ人物であった。ビーチは視覚障害者のためのタイプライターを発明した。文字をタイプすると同時に紙に点字を打刻する仕組みで。、その後100年間に渡って同様の機構のタイプライターの原型となった。
1865年に南北戦争が終わるとリンカーン大統領の黒人奴隷解放政策を支持した。1867年にはジョージア州サバンナに解放されたアフリカ系アメリカ人に無償で教育を提供するビーチ・インスティテュート(Beach Institute African-American Cultural Center)を設立した。ここは現在も運営している。
ニューヨークで3年間のデモンストレーション走行を行った「ビーチ・ニューマチック・トランジット」で得た収益は30万ドル(現在の600万ドル)にもなったと見られるが、全てを南北戦争の孤児のための慈善団体に寄付した。
特許事務所の開設
[編集]1846年、マンとビーチは出版社の中に「マン&カンパニー」(Munn & Co.)という特許代理店を設立し、最盛期には年間3000件の特許の出願を行った。
グラハム・ベル、サミュエル・モールス、エリアス・ハウ、R・J・ガトリング(ガトリング銃を考案)、ジョン・エリクソン、コーネリアス・ヴァンダービルト、ジョン・アスター4世など著名な発明家の特許申請に協力した。少年時代のトーマス・エジソンは毎週サイエンティフィックアメリカンを買うために数マイルという。1877年、自分の発明品を持ってサイエンティフィック・アメリカンのオフィスを訪ね、ビーチの前で初めてその「蓄音機」と名付けた装置を披露した。このときエジソンは30歳、ビーチは51歳だった。ビーチは非常に面白がって特許申請を手伝い、それ以来エジソンは頻繁にオフィス訪ねるようになった。
1924年の時点で米国特許庁が認めた特許の約15%はマン&カンパニーが扱ったものだった。
発明家としての名声
[編集]ビーチ自身も発明家として知られている。
1853年のニューヨーク万国博覧会に「視覚障害者向けタイプライター」を出展して最優秀賞を受賞し発明家としても有名になった[1]。
その10年後、気送管を応用した地下交通システム「ビーチ・ニューマチック・トランジット」を考案し、1870年にニューヨークのブロードウェイの地下に約90mのトンネルを建設しデモンストレーション走行を行った。この画期的な発明は各方面で絶賛されたのだが、当時ニューヨークを支配していたトウィード上院議員による妨害と1873年恐慌に見舞われ実用化には至らなかった。しかしこれはニューヨークで最初の地下鉄となった。
このトンネル工事のため、ビーチは「ビーチ・トンネリングシールド」と名付けたトンネル掘削機械を開発した。鉄で出来た直径2.7mの円筒形の装置を18個の油圧シリンダーでゆっくりと回転させ土を掘削する機械で、トンネル職人は筒の内側で作業するため彼らの安全も確保できた。これはアメリカ初のシールドトンネルとなった。同様の装置はイギリスのジェームズ・グレートヘッドが特許を取得しているが、ビーチも同じ年に作っているので実質的に世界初である。
ビーチ・トンネリングシールドは、カナダのグランドトランク鉄道やミシガン州ポートヒューロンとオンタリオ州サーニアを結ぶセントクレア川の下のセントクレアトンネル、ニューヨークのノースリバートンネルの工事などに使われた。
死去
[編集]1896年1月1日に肺炎で亡くなった。69歳だった。ニューヨークタイムズ紙が小さな死亡記事を載せただけでほとんど注目されなかった[2]。現在、BMTシティホール駅にビーチを称える小さな銘板が設置されている[3]。
息子のフレデリックはサイエンティフィック・アメリカンの経営を引き継ぎ、電気自動車の研究、フォーク型のナイフシャープナーの発明など。
孫のスタンレーも航空機や船舶用エンジンを専門とし、サイエンティフィックアメリカンの航空機部門の編集者となった。ライト兄弟よりも前に動力飛行を実現したと言われているグスターブ・ホワイトヘッドと共に航空機の設計をした。だがスタンレーは後に「ホワイトヘッドの飛行機が地面を離れたことはないと思う」と話している。
久慈大橋 | |
---|---|
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 茨城県 東海村-日立市 |
交差物件 | 久慈川 |
用途 | 道路橋 |
管理者 | 茨城県土木部道路維持課 |
建設 | 株式会社宮地鉄工所(上部工) |
竣工 | 1963年(昭和38年)7月23日 |
座標 | 北緯36度29分17.8秒 東経140度36分37.8秒 / 北緯36.488278度 東経140.610500度座標: 北緯36度29分17.8秒 東経140度36分37.8秒 / 北緯36.488278度 東経140.610500度 |
構造諸元 | |
材料 | 鉄骨 |
全長 | 366 m |
幅 | 8m |
地図 | |
久慈大橋の位置 | |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
40年後の1912年、市庁舎前で地下鉄を工事していた作業員が地下空間を発見した。一部の調度品は腐食していたが、木製の客車やトンネルは良い状態のまま残っていた。待合室のグランドピアノもそのままだった。トンネルの端にはビーチ・トンネリングシールドが埋没しており、イエール大学が引き取ったがその後の所在は不明である[4]。
トンネルと待合室はシティホール駅の区域内にあるため保存はされなかったが、その一部は駅構内に残されていると考えられている。
久慈大橋(くじおおはし)は、茨城県の久慈川に架かる国道245号の道路橋である。1963年(昭和38年)に開通して以来、赤く塗装されていることから地元では『赤い橋』と呼ばれている。
概要
[編集]1963年(昭和38年)7月23日、東海村豊岡と日立市留町を結ぶ久慈大橋が開通した(約800m北の新茂宮橋も同日に開通)[5]。久慈川に架かる橋の中で最も最下流に位置する。
橋長366m、幅員8m。桁長60mの下路式ウォーレントラス構造の橋桁が6本、両端の橋台2基と橋脚5基の上に載っている。
1日あたりの交通量は2万2000台から2万4000台(2022年調査)。付近の国道245号沿いには日立製作所、茨城港、常陸那珂開発地区、原子力関連の事業所、大型ショッピングセンターなどがあるため交通量が多く慢性的な交通渋滞が発生している。
道路部分は片側1車線で歩道が無いため、後に上流側のすぐ傍に歩行車と自転車専用の「久慈大橋側道橋」を新設した。橋脚の耐震補強工事は2016年に行われた[6]。点検と塗装工事を定期的に実施しているが、海が近いため鉄骨の錆び腐食は避けられず老朽化が指摘されている。
橋の日立市側には車で自由に出入り出来る河川敷が広がり、野球、バーベキュー、釣りなどのレジャーを楽しむ人々が多く見られる。トイレや水道設備は設置されていない。
4車線化
[編集]国道245号の4車線化が進む中、国土交通省は2019年4月に久慈大橋の4車線化を正式に決定した[7]。
新橋梁の設計は株式会社長大(東京都中央区)に委託。全幅23.3mで4車線道路と歩道を一体化し、現橋のすぐ下流川に建設することで既存道路への切り替えをスムーズに行う計画とした。建設予定額は133億円。
2022年10月、当初の案よりもさらに下流側に設置し橋梁長を短くする変更案が出され、茨城県都市計画審議会はこれを可決した[8]。建設予定額は28億円減の105億円となり、3年の工期短縮が見込まれる[9]。完成予定は計画当初は2026年だったが、5年延長して2031年としている(2024年現在)。
久慈大橋より南の4車線化は、1992年からひたちなか市部田野から東海村豊岡までの12.1km区間を完了。豊岡から久慈川までの0.8km区間が残る(2024年現在)。
また久慈大橋より北の4車線化は、2011年(平成23年)10月の新茂宮橋の開通により、留町交差点から日立港入口交差点までの約2.5km区間を完了。さらに北の日立市水木町までの約1.9km区間についても2015年より事業費67億円で拡幅事業を進めている(2024年現在)。将来的には日立市国分町まで4車線化する計画である[10]。
登場する作品
[編集]- ゴジラ2000 ミレニアム(1999年の邦画)
関連項目
[編集]出展
[編集]脚注
[編集]- ^ Most, Doug. “Scientific American’s Owner Built the First New York Subway [Excerpt]” (英語). Scientific American. 2024年12月22日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “Klaatu Article”. www.klaatu.org. 2024年12月18日閲覧。
- ^ Blakey02 (2023年9月13日). “Beach Pneumatic Transit “New” Photos”. r/nycrail. 2024年12月20日閲覧。
- ^ “日立現代史年表 hc_storia”. saki-archives.com. 2024年11月25日閲覧。
- ^ “(株)オカベ 久慈大橋耐震補強工事”. www.okabekoumuten.com. 2024年11月25日閲覧。
- ^ domax2004. “国道245号“久慈大橋(赤橋)”4車線化に予算計上”. ほっとメール@ひたち. 2024年11月23日閲覧。
- ^ “茨城県都市計画審議会/久慈大橋の線形変更を可決|建設未来通信|建設情報を網羅した日刊新聞|茨城県”. www.kensetsumirai.co.jp. 2024年11月23日閲覧。
- ^ “国道245号で線形変更 都計審 久慈大橋の架替に向け審議”. 日本建設新聞社 - 私たちは、「日刊建設新聞」を発行し、建設産業界をリードしていきます。. 2024年11月22日閲覧。
- ^ “久慈大橋架け替え詳細設計へ/日立港区北拡幅は擁壁工/国道245号4車線化”. www.nikoukei.co.jp. 2024年11月25日閲覧。
14m×3.6mの
運行終了から40年が過ぎた1912年、BMTブロードウェイ線を工事中に古い地下空間が見つかった。木製の車両、待合室のグランドピアノ、トンネルの端に埋もれていたトンネルリング・シールド(掘削機械)など、良好な状態のまま残っていた。トンネルリング・シールドはコーネル大学が引き取ったが、現在は行方がわかっていない。
現在は使われていない旧シティホール駅と
ニューヨーク歴史協会の依頼で、MTシティホール駅の壁に『ニューヨーク地下鉄の父』というビーチを称える銘板が設置された。
https://fdelaitre.org/lpf2/Beach.htm
「それは何だ?」私は尋ねました。すると医者は「来て見てください」と答えました。
地下室に入ると、すぐに最大のものに直面しました この大陸でこれまでに見たことのないブロワー。しかし、ニューヨークではありません 政治家は、ご想像のとおり、ロータリーブロワーの使用は、 それはすぐに学ぶでしょう。
このパドルボックスの事件のために、そのプリティルのフレスコ画の木工細工で、 埃っぽい馬車とゴロゴロと鳴るオムニバスの時代はもうすぐです そして、私たちの時代には、馬の千年紀が始まるかもしれません。 このブロワー、またはオロールは、いつか バッテリーからセントラルパークまで1分以内に送ってください。 あなたが撃たれるトンネルは、地下12フィードです すでに数百フィートの長さ。
しかし、今、あなたは、私がしたように、退屈がどのように行われたかを見たいと思うでしょう。ひとつの 入り口はウォーレンストリートの表面から作られており、十分に深いです 下水道、ガス管、水道管を逃がすために、巨大なシリンダーが 導入され、両端で開いており、フロントエンドにはの配置があります。 棚は、土が退屈し、あまりにも速くからそれを保つために シールドをいっぱいにします。後端には18の油圧が配置されていました ラム、すべて単一のウォーターポンプで接続。シールドの背面から、 そして、その周りを完全に通過して、鋼板のバンドまたはフープを伸ばします。 幅2フィート、厚さ8分の1インチで、「フード」と呼ばれていました。
このボンネットの内側には、トンネルのレンガ造りの一部が構築されています。 そして、長さが16インチになると、ポンプが動き出します。 雄羊は大きな力でシリンダーを地面に押し込みます。 棚の間を押すと、シールドの底に落ち、 手押し車や車で連れ去られました。それが16インチになったとき、 動きが止まり、レンガ造りの新しいセクションが作られます。 所定の位置に押し出され、このようにして、1日あたり約8フィートになることができます トンネルとレンガ造り。
トンネルの終わりを見たので、あなたはよりよく理解することができます 始まり、そして今、私たちがしたように戻って、 ウォーレンストリートの歩道の真下にあるデポで、長い道のりで到達しました ブロードウェイからの階段で順番に入るホール。ザ デポオフィス、長さ45フィート、幅12フィートの大きな部屋、 最初に来て、完成し、あらゆる方法で取り付けられます 一流のビジネスマンのオフィス。次に、メインサルーン、100が来ます そして20フィート×14フィート。壁、噴水、そして 花、グランドピアノ、高価な時計。部屋の東端には、 鉄道のプラットホームまでは数段下り、そのそばには空気圧が立っています 乗用車。これはもちろん、油を塗った木の床で湾曲しています。 20人用のハンサムな布張りの座席。車はによって照らされます 酸素水素ガスも、待合室も同じように。
席に着き、両端のドアを閉めると、 エンジニアまたは車掌がトンネルの壁にある電信線に触れます。 そして一瞬で車は動き始めますが、とても穏やかで、ほとんど動きません 信じてください、ドアを開けると、車掌が「マレーストリート!」と呼びかけます。 そして別の瞬間には、元の出発点に戻ります。 ウォーレンストリート。そして、それは何をもたらしたのでしょうか?蒸気でも馬でもなく、空気 一人。2つの強力な蒸気機関が空気をオロールに押し込みます。 昔ながらの革の代わりに作られたブロワー ふいご、そしてどれが送るか、または空気の完璧な竜巻を送ることができます トンネル。この空気の爆発は、意志で目盛りを付け、車を前方に押し出します。 時速2マイルから60マイルの速度。車は次のように配置されています ブレーキを踏むと、エンジン内のオペレーターに信号が電報で送られます 部屋、バルブをシフトすることにより、電流を吹き込むものから風通しに変える人 吸引1つは、送られる前と同じ速さで引き出されます。だからあなたは乗ることができます 行ったり来たりして、清潔で乾燥した静かなものにますます喜びを感じます トンネル、そして車の純粋で新鮮な空気。から深くゴロゴロと音がします。 頭上のワゴンとカートは、外界を思い出させる唯一のものです。 雪とほこり、暑さと寒さはここに王国を見つけません。夏は暖かく、涼しい 冬には、トンネルの温度はマンモスと同じくらい均一です 洞窟、そして毎日何時間もかけて行く疲れた男性または女性 ビジネスから、あの楽しい一日が完成した地下の日が 鉄道が来て、5マイル行くのに5分待って、寝てください 暗い冬の朝の7時まで平和、または乗って歩く 明るい夏のもの。
だから、世界は日々ますます素晴らしいことをしながら進んでいきます。 そして、誰が知っているかは、あなたの前には、若者の仲間の読者は年老いているということです 男性も女性も、あなたと私は一緒に「ボストン」の部屋に降りることができます。 ニューヨーク・アンド・リバプール・トランジット・カンパニー」と、瞬く間に自分自身を見つける イギリスで?誰にもわかりません。"
未解決の謎:
以下は私が答えられなかった質問のリストです。コメントや追加 最も歓迎される情報: fdelaitre@altern.org
- ウォーレンストリート:歩道の下にウォーレンストリート駅の遺跡はありますか?
- トンネリングシールド:トンネルの端からトンネリングシールドが撤去され、コーネル大学に輸送された後、トンネリングシールドはどうなりましたか?
- 車:説明は大雑把です。一部の著者は、内部の座席を「馬蹄形」のパターンに基づいて説明しました。によると サイエンティフィック・アメリカン紙を引用したこの車は、そのデザインは対称的で、両端のプラットフォームにはスライドドアが装備されていました。
- トラックゲージ:写真を見ると、軌道ゲージは標準の1,435mmよりもやや幅が広かったようです。これに関する兆候は見つかりませんでした。
- ブレーキ:ブレーキシステムの表示は提供されていません。しかし、このような制度は予防するために提供されたと考える人もいるかもしれません。 行き止まりで車がぶつかることから - マレーストリート側 - ファンが時間通りに停止しなかった場合。
- ファンを逆にする:(または「第3レールの謎」)。ビーチサブウェイについて報告しているさまざまな著者は、 車がマレーストリートのトンネルの終わりに到達した後のファンの復帰を制御するシステム。一部の人によると:車 トラックに足踏みを押し込むと、ウォーレンストリートのファンが自動的に逆転しました。その他は、船上の「運転手」が引っ張ったことを示しました ウォーレンストリートの発電所でベルを鳴らし、ファンを逆にする必要があることを示すライン。 彫刻や写真を注意深く調べると、中央にあるある種のロッド(3本目のレールのようなもの)に気づきました トラックの。明らかに、このロッドはガイドやローリングを目的としたものではありませんでした。に連結されたコネクティングロッドだったのかもしれません ウォーレンストリートのファンハウス内のベルまたはデバイス、空気の流れの逆転を信号/命令するために。今日まで、この疑問は残っています 未解決。
ニューヨークの郵便気送管
ニューヨークの郵便気送管(英:Pneumatic Tube Mail System)は、1897年から1953年までアメリカのニューヨークで運用された気送管を用いた郵便配送システムである。
初期の郵便気送管
[編集]アメリカで最初の気送管は、1876年に発明家・実業家として知られるアルフレッド・イーリー・ビーチによって作られた。ビーチはロンドンの気送管から着想を得た空気圧を利用する地下交通システムを計画したのだが、政治的圧力と不景気のために計画が頓挫し、代わりに街灯のポールに全長300mの郵便気送管を設置した。
1888年、ウェスタン・ユニオン・テレグラフ・カンパニー (Western Union Telegraph Company) はニューヨークの本社ビルと近くの複数の支店を結ぶ気送管を開設した。しかしこの2つの事業はそれ以上展開することはなかった。
気送管はイギリスやフランスで1860年代から実用化が進んでおり、1890年頃から合衆国郵政省も導入を検討し始めた。1893年3月1日にフィラデルフィアで約1kmの試験運転に成功し、1897年にニューヨーク市が採用した。
運用開始
[編集]1897年、ニューヨークの郵便気送管の運用が始まった。最初に開通したのはパーク・ロウにあった旧中央郵便局とボウリング・グリーンにあった商品取引所の約1.2km区間で、1897年10月7日にチョンシー・デピュー(Chauncey Depew)上院議員によって除幕式が行われた。
初めて装填されるキャニスター(気送子:金属製の筒状の容器)には、星条旗で包まれた聖書、憲法のコピー、W・マッキンリー大統領の就任演説のコピーなどが入れられた。聖書を入れたのはヨブ記9-25にある「わたしの人生の日々は飛脚よりも速い」を引用するためである。相手先の商品取引所からはスミレの花束が送り返された。
式典が終わり祝賀会が開かれる中、イミテーションの大きな桃が届き、続いてシャンパン。生きている黒猫、衣服、燭台など風変わりな物が次々に送られ会場を笑いに包んだ[1]。桃はデピュー上院議員の愛称であり、猫は恐らく中央郵便局でネズミ駆除のために配備される「猫警察隊」(Feline Police Squad)の1匹と思われる。だがこれらは単なるジョークではなく「運べるのは手紙だけでない」というマスコミへのアピールでもあった。
翌日のニューヨーク・タイムズ紙は「片道1.2kmの往復に3分もかからなかった!」と称賛した。その後、旧中央郵便局近くにあるトリビューンビルから商品取引所の近くの銀行窓口までの配達時間を競争したところ、気送管はわずか10分で届いたのに対し、メッセンジャーは33分、電報は56分、郵便馬車は4時間という結果となった[2]。また冬のニューヨークは積雪で交通が麻痺することが多くあったが、大雪でも全く影響されずに迅速に届けられる点も評価された。
システム
[編集]最初に設置されたチューブは1.2kmだったが、すぐにマンハッタン島を一周するルートが築かれ、翌年にはブルックリン郵便局(現在のカドマンプラザ[3])まで延長し延べ43kmに達した[4]。キャニスターを集配するための中継局は23箇所、送風装置は10箇所に設けられた。チューブは直線部は鋳鉄管、曲線部は真鍮管、接合部には鉛を流し込んで密封し、地下1m~3mに直接埋設するか地下鉄のトンネルを利用して敷設した[5]。建設費は400万ドル(現在の8千万ドル)と推定される。
チューブを移動するキャニスターは真鍮製で直径20cm×長さ61cm。平均速度は時速56キロ(35マイル)で、チューブへは1分間に8個まで装填が可能。1個あたり600通の手紙を収容でき、ピーク時には1日で95,000通(ニューヨーク市で配送される手紙の30%)を配送した。中継局で働くオペレーターは「ロケッティア」(Rocketeers)と呼ばれた。
トラブル
[編集]キャニスターが詰まって動かなくなるというトラブルが度々発生しており、そうなるとその回線が全く使えなくなるという欠点があった。道路の混雑が少ない土曜日になると「グランターズ」(Grunters)と呼ばれる作業員が修理に呼び出された。詰まりの位置を探るには1人のグランターが装填口から大きな唸り声(=grunt)をあげ、他のグランターがストップウォッチで反響音の変化を計測し、おおよその場所を特定して掘削した。
掘削は道路を封鎖し手作業で掘るという大変なもので、掘削中にガス管に穴を空けたと勘違いした作業員が慌てて指で塞ごうとし、高圧空気で指を吹き飛ばされたという記録がある。また1903年には2人の作業員がチューブを修理しているところへ、作業が終わっているものと勘違いして試験筒を射出し2人に直撃、1人が死亡し、もう1人は足の骨と肋骨を粉砕する重傷を負った。
チューブ内の潤滑油やジョイント部分から浸入した泥水で配送物が汚れるなどの被害もあった。
運用停止
[編集]チューブの故障に加え、維持管理費と埋設場所の高額な借地代が政府の懸念事項となっていた。1910年代、毎年支払う借地料だけでも1kmあたり10,000ドル(現在の約20万ドル)だった。
1914年に第一次世界大戦が始まったとき、政府は予算を軍事費へ回しサービスを停止した[6]。
戦後、運営会社による熱心なロビー活動により1922年に再開するのだが、これ以上チューブ網が拡張する見込みはなかった。気送管では捌き切れないほど郵便物が増え小包のサイズも多様化し、さらに自動車の普及に伴い交通インフラも整備されたため[7]、大量の手紙と小包を運ぶには自動車のほうが効率が良くなっていたのだ。
1950年4月、ブルックリン橋の改修工事のため運用を停止。1953年にニューヨーク市郵便局は郵便物の輸送手段をトラックに切り替える決定を下し、1953年12月31日に全てのサービスを終了した[8]。
他の地域
[編集]ロンドンでは1800年代中頃から既に同様のシステムが実用化されていた。
最も成功した例はパリで、1866年に運用が始まり1884年までにパリ全域にチューブが行き渡った。市内の最も遠いところでも1時間で送ることが出来た[9]。総延長は460kmと世界最大。ファクシミリの普及に伴い1970年代頃から徐々に使われなくなり1983年に役目を終えた。[10]。
アメリカ国内では、政府からの資金援助を受けニューヨーク(ブルックリン含む)、ボストン、シカゴ[11]、フィラデルフィア、セントルイス[12]の5都市で採用された。この中でニューヨークは最も規模が大きく成功した。ボルチモア、シンシナティ、カンザスシティ、サンフランシスコの4都市も候補に挙がったが契約には至らなかった。
関連項目
[編集][編集]
- ニューヨークの蒸気システム
- シャドー(1994年の映画)
脚注
[編集]出展
[編集]- ^ B.P (2012年12月12日). “First Pneumatic Mail Delivery In New York 1897” (英語). Stuff Nobody Cares About. 2024年12月3日閲覧。
- ^ B.P (2012年12月12日). “First Pneumatic Mail Delivery In New York 1897” (英語). Stuff Nobody Cares About. 2024年12月4日閲覧。
- ^ “Brooklyn General Post Office and Federal Building” (英語). Clio. 2024年12月4日閲覧。
- ^ “Transit Maps: Historical Map: New York City’s Pneumatic Tube Mail System” (英語). Transit Maps (2014年1月3日). 2024年12月16日閲覧。
- ^ “New York’s mail once carried by underground tubes” (英語). Yahoo Finance 2024年12月16日閲覧。
- ^ “Search the Collection” (英語). postalmuseum.si.edu. 2024年12月3日閲覧。
- ^ “Search the Collection” (英語). postalmuseum.si.edu. 2024年12月3日閲覧。
- ^ “100年前のニューヨークの配送システムがすごい!動物、果物まで地下エアシューターでスポポポポーン!|カラパイア”. カラパイア (2021年6月28日). 2024年12月3日閲覧。
- ^ “A Love Letter to the Lost World of the Parisian Pneumatic Post” (英語). Messy Nessy Chic (2024年10月16日). 2024年12月3日閲覧。
- ^ “Transit Maps: Historical Map: New York City’s Pneumatic Tube Mail System” (英語). Transit Maps (2014年1月3日). 2024年12月3日閲覧。
- ^ “Pneumatic Tube Mail System”. chicagology.com. 2024年12月16日閲覧。
- ^ Sage, St Louis (2021年11月8日). “What happened to St. Louis’ pneumatic-tube mail system?” (英語). www.stlmag.com. 2024年12月16日閲覧。