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利用者:Elk0615/sandbox

ポール・マザースキー監督はハリー役に往年の有名俳優を起用したいと考え、ローレンス・オリヴィエ、既に引退したケイリー・グラントに出演依頼をしたがいずれも断られた。だがプロデューサー側は興行的に失敗する場合を想定してテレビ俳優を希望しており、そこでマザースキーの目に留まったのがたまたま鑑賞した舞台に出演していたアート・カーニーだった[1]

カーニーは台本を気に入ったものの、72歳のハリーよりも16歳も年下なので断ろうとした。が、マザースキーは第二次大戦で負傷した彼の歩き方がこの役に合ってると思い彼を説得した。カーニーは当時56歳で、息子役のラリー・ハグマンと13歳、娘役のエレン・バースティンと14歳しか離れていない[2]

トント役には2匹のトラネコが使われた。カーニーは猫が好きではなかったが、動物訓練士はカーニーの周囲に生レバーを置いて猫を訓練すると何も与えなくても懐くようになり、カーニーも次第に愛着を感じるようになったという。撮影が終わってマザースキーが2匹を引き取ることになったが妻が猫アレルギーと判明し断念した[3]

タクシー運転手役の女性は、マザースキーをオフィスに送り届けた本物の運転手を採用した。とてもおしゃべりでマザースキーが気に入り、車中でオーディションを行なったという。

映画のラスト、サンタモニカビーチで砂の城を作る少女はマザースキーの娘である[4]

映画賞

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内容 受賞者 結果
アカデミー賞 最優秀主演男優賞[注釈 1] アート・カーニー 受賞
最優秀作品賞 「ハリーとトント」 ノミネート
ゴールデングローブ賞 最優秀主演男優賞 アート・カーニー 受賞
最優秀作品賞 「ハリーとトント」 ノミネート
全米脚本家組合賞 最優秀脚本賞 ポール・マザースキー

ジョシュ・グリーンフェルド

受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 トップ10映画賞 「ハリーとトント」 受賞
キネマ旬報賞 最優秀外国語映画賞 「ハリーとトント」 受賞
パッツィ賞[5] 最優秀動物演技賞 トント 受賞



ニール・マッコーリー(犯罪者)

ニール・マッコーリー(Neil McCauley,1914-1964)はアメリカ合衆国の犯罪者である。映画「ヒート」でロバート・デ・ニーロが演じた。

略歴

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生い立ち

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1914年2月2日、アイオワ州ポークのごくありふれた中流階級の家庭で生まれた。14歳のときに父親が亡くなったため、シカゴに移り住み母親と5人の兄弟を養うために働き始めた。この頃から母親が酒浸りに陥り、ニールも犯罪に手を出し始め20歳になるまでに3回も少年院に入った。

アルカトラズ刑務所で8年間過ごし、ワシントン州のマクニール刑務所を1962年に出所した。このとき48歳だったがそのうちの25年は刑務所だった。

シカゴ市警の監視

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シカゴ警察のC.I.U.(Criminal Investigations Unit, 重大犯罪課)のチャック・アダムソン刑事は出所するマッコーリーに警戒した。シカゴに戻ったマッコーリーがq仲間を集め、高額なドリルとダイヤモンドビットを入手したという

彼らがデパートの地下金庫を狙っていると情報屋からきいたアダムソンは、24時間マッコーリーと仲間が数日間に渡ってあるデパートに出入りし駐車場や店のディスプレイなどを観察しているようだった。アダムソンはデパートの張り込みを続け、店内にも2名の刑事を配置した。

やがてマッコーリーらが現れ、建物の裏に回って地下室に降りて行った。警察無線が緊急のアナウンスをしたが、店内で数時間見張っていた刑事がトイレに我慢できなくなりフロアを歩いて反対側のトイレに向かった。マッコーリーは上階で歩く音を聞き逃さず、数週間の準備期間と高額な資金を投じた計画を中止した。

コーヒーショップ

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1963年、チャック・アダムソンはリンカーンとベルデンの交差点の近くを歩いているとき偶然マッコーリーと顔を合わせた。アダムソンは彼をコーヒーショップに誘い、敵対する関係ながらも数分間語り合った。アダムソンが「どこか他の場所に行って問題を起こしたらどうだ?」 と尋ねると、マコーリーは「シカゴが好きなんだ」と答えたという。

https://allthatsinteresting.com/neil-mccauley

マッコーリーの最期

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コーヒーショップから1年が過ぎた1964年3月25日、マッコーリーはシセロ・アベニュー4720の食料品店National Tea(現在のSchunucks)で強盗を決行する。

CIUはこの計画を事前に察知しており、アダムソンほか刑事9名が店の近くで張り込んでいた。午後2時、大雨が降る中を小切手を現金化するため現金輸送車がやって来て、ニール・マッコーリー(49)、マイケル・パリル(37)、ラッセル・ブリーデン(40)、チャールズ・パンティアス(27)ら4名が乗った車もあとを着けて入って来た。

輸送車が走り去ると、運転席にブリーデンを残してマッコーリー、パリル、パンティアスの3人が店に入っていった。外にいた刑事は、店のガラスに貼られた広告の間に銃を向けられ両手を上げている店員と客を確認し待機した。

現金13,137ドルを奪い外に出たところ、駐車場を歩いてくるアダムソンともう一人の刑事に気が付き撃ち合いになった。強盗は車に乗り込み逃げようとしたが出入口はすべて塞がっていた。

銃撃戦の中、パリルとブリーデンは車のすぐそばで射殺された。マッコーリーとパンティアスは車を飛び出して逃げたが、マッコーリーは近くの住宅地の幅2メートル足らずの狭い路地に追い詰められ、アダムソンと彼の同僚から6発の銃弾を受けて即死した。

パンティアスは逃げ切ったが翌日自宅に隠れているところを逮捕された。自宅から覆面用のストッキングが発見され、本名はミクロス・パラスティと判明した[6]

映画化

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チャック・アダムソンは1970年代にシカゴ警察を辞職し、映画の脚本家や技術アドバイザーに職を変えた。「ザ・クラッカ―/真夜中のアウトロー」に協力し監督のマイケル・マンと知り合い友人になった。アダムソンからマッコーリーに関する体験談を聞いたマンは大いに衝撃を受け、それを基にテレビ映画「メイド・イン・L.A.」が作られた。

「メイド・イン・L.A.」ではパトリック・マクラーレンに置き換えられているが、リメイク版の「ヒート」では本名のニール・マッコーリーの名が使用された。強盗犯一味のマイケル・パリルはトム・サイズモア演じるマイケル・チェリト、チャールズ・パンティアス(ミクロス・パラスティ)はヴァル・キルマー演じるクリス・シヘリスのモデルとなった。


使用された楽曲

アーティスト名 タイトル 原題

使用された楽曲

アーティスト名 タイトル 原題

使用された楽曲

アーティスト名 タイトル 原題


デリンジャー・ギャング(英:Dillinger Gang)はアメリカ大恐慌時代の犯罪グループである。1933年9月から1934年6月にかけてアメリカ中西部の複数の州で銀行強盗を繰り返し、全米にその名を轟かせた。

メンバー

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初期の人物

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1. ジョン・デリンジャー John Dillinger (1903–1934)
2. ハリー・ピアポント Harry Pierpont (1902–1934)
3. ジョン”レッド”・ハミルトン John Hamilton (1899–1934)
4. チャールズ・マクレイ Charles Makley (1889–1973)
5. ラッセル・クラーク Russell Clark (1898–1968)
6. エドワード・シャウス Edward Shouse (1905–1959)
7. ハリー・コープランド Harry E Copeland (1896–1963)

1933年9月~1934年1月の犯罪グループで「ファースト・デリンジャーギャング」と呼ばれる。

1933年7月にインディアナ州刑務所を仮釈放されたデリンジャーは、刑務所仲間に協力し9月に脱獄を成功させた。コープランド以外はそのときの囚人仲間であった。11月にコープランド、12月にシャウスが逮捕されたがほとんど話題になっていない[7]

翌年1月にデリンジャー、ピアポント、マクレイ、クラークの4人がアリゾナ州ツーソンで逮捕されたときは全米に報道された。ハミルトンは直前の銀行強盗で重傷を負ったためツーソンには行っておらず逮捕を逃れた。

後期に加わったメンバー

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8. ホーマー・ヴァン・メーター Homer Van Meter (1905–1934)
9. ベビーフェイス・ネルソン Lester Joseph Gillis(1908–1934)
10. エディ・グリーン Harold Eugene Green (1898–1934)
11. トミー・キャロル Tommy Carroll (1900–1934)
12. ジョン・ポール・チェイス John Paul Chase (1901–1973)

ヴァン・メーターとデリンジャーはインディアナ州刑務所時代の友人で、デリンジャーよりひと足先に仮釈放されネルソンらと組んだ。そこにハミルトンとデリンジャーが合流し、「セカンドデリンジャーギャング」と呼ばれるグループを結成した。

最初の犯行は3月6日のサウスダコタ州スーフォールズの銀行強盗で、グリーンは逃走車の運転手、新人のキャロルは見張り役だった。チェイスは次のアイオワ州メイソンシティの銀行強盗から参加した。

その他認識されている人物

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13. ジョゼフ・アイウッパ Joseph John Aiuppa (1907–1997)
14. パット・ライリー William Albert Reilly (1907–1963)
15. トミー・ギャノン Tommy Gannon

アイウッパは武器の調達を手伝う20代の若者だったがその後シカゴマフィアのボスに登り詰め、1986年にカジノから多額の賄賂を受け取っていた容疑で逮捕されている。

パット・ライリーとトミー・ギャノンも使い走りの若者だった。2人は1933年にセントポールのグリーンランタン(Green Lantern Tavern)という飲み屋(スピークイージー)の共同オーナーになり、犯罪者の溜り場として禁酒法廃止まで栄えた[8][9]

https://www.crimelibrary.org/gangsters_outlaws/outlaws/dillinger/16.html

命名

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「デリンジャーギャング」と名付けたのはインディアナ州警察のマット・リーチ署長(Matthew Leach,1895-1955)だった。

リーチはベテランのハリー・ピアポントがグループのリーダーだと考えており、ピアポントに屈辱を与えようとあえてデリンジャーギャングと命名した。マスコミには「ハリー・ピアポントはデリンジャーの手下に成り下がった」などの記事を書かせ、短気なピアポントを怒らせてグループの分裂を期待したのだが、目立つのを好まないピアポントは後輩のデリンジャーが大物扱いされていることにむしろ満足していた[10]

また、リーチはピアポントの母親を逮捕し息子の隠れ場所を吐かせようとしたことでピアポントの怒りを買い、ピアポントから「必ず殺してやる」と脅迫した。

デリンジャーは警察署に電話をかけてリーチをからかったり、「そのうちリンカーン暗殺の犯人にされそうだ」とマスコミにジョークを飛ばしたりしたという。

強盗の手口

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彼らの銀行強盗の手口は、連続銀行強盗犯のハーマン・ラム(Herman Lamm,1880-1930)のやり方を参考にしたと言われている。ラムは陸軍で習得した戦術を銀行強盗に応用する「ラム・テクニック」を考案し、1920年代に数十件の銀行強盗を成功させた。共犯者のウォルター・ディートリッヒとジェームズ・クラークはインディアナ州刑務所に入れられるが、そこで知り合ったピアポントやデリンジャーにラム・テクニックを伝授したと考えられる。

さらにデリンジャーギャングはドラムマガジンのトンプソン短機関銃コルト.45で武装し、防弾チョッキも着用した。逃走用の車は信頼性が高く強力なV8エンジンを搭載するフォードクーペなどを盗み、もう1台別の車を町外れに用意しておいて乗り換えた。その車には予備のガソリン、他州のナンバープレート、食料、医療キット等が積んであり、人と接触せずに長距離を逃走できるようにした。

終焉

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1934年3月3日の拘置所脱獄の際にデリンジャーは連邦法に違反したため、捜査局(後のFBI)は「デリンジャー特別捜査班」を設け本格的に捜査に参入した。

1934年4月、捜査局はウィスコンシン州のリトル・ボヘミア・ロッジに潜伏している一味を包囲した。この奇襲作戦は失敗に終わったが、逃走中にレッド・ハミルトンが死亡し、ベビーフェイス・ネルソンやトミー・キャロルが散り散りになるなどデリンジャーギャングに大きな打撃を与えた。

6月にアイオワ州でトミー・キャロルが射殺されるのを発端に後を追うようにメンバーが死んでゆく。7月にシカゴの映画館でジョン・デリンジャーが捜査局に射殺され、8月、ホーマー・ヴァン・メーターはトミー・ギャノンの裏切りでセントポール警察に射殺された。9月にチャールズ・マクレイが刑務所から脱獄に失敗し射殺され、10月にハリー・ピアポントが死刑に処された。11月、シカゴ近郊でベビーフェイス・ネルソンが捜査局との銃撃戦で射殺され、ネルソンと親しかったジョン・ポール・チェイスも翌月カリフォルニア州で逮捕された[11]。こうしてデリンジャーギャングは壊滅した。

デリンジャーギャングの時系列

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   年月日        出来事    備考
1933年 5月22日 デリンジャーがインディアナ州刑務所を仮釈放。
6月10日 デリンジャーがオハイオ州ニューカーライルで最初の銀行強盗。 被害額10,600ドル
9月22日 デリンジャーが逮捕され、オハイオ州ライマの郡拘置所に送られる。
9月26日 インディアナ州刑務所から10人の囚人が脱獄
10月 オハイオ州セントメアリーズのファーストナショナル銀行を襲撃。 被害額11,000ドル
10月12日 ハリー・ピアポントらがデリンジャーを拘置所から解放。
10月14日 インディアナ州のオーバーン警察から武器強奪。
10月20日 インディアナ州のペルー警察から武器強奪。
10月23日 インディアナ州グリーンキャッスルのセントラルナショナル銀行を襲撃。 被害額75,000ドル
11月20日 ウィスコンシン州ラシーンのアメリカン&トラスト銀行を襲撃。 被害額28,000ドル
12月13日 シカゴのユニティ信託貯蓄銀行を襲撃。
12月20日 フロリダ州デイトナビーチに休暇旅行。
1934年 1月15日 イーストシカゴのファーストナショナル銀行を襲撃。 被害額25,000ドル
1月25日 アリゾナ州ツーソンでデリンジャー、ピアポント、マクレイ、クラークを逮捕。
3月3日 デリンジャーがクラウンポイントの拘置所を脱走
レッド・ハミルトン、ヴァン・メーター、ベビーフェイス・ネルソンらと合流する。
3月6日 サウスダコタ州スーフォールズの信託銀行を襲撃。 被害額50,000ドル
3月13日 アイオワ州メイソンシティのファーストナショナル銀行を襲撃。 被害額52,000ドル
4月3日 エディ・グリーンが捜査局の待ち伏せで撃たれ、7日後に死亡。
4月22日 リトル・ボヘミア・ロッジで捜査局に包囲される。
4月26日 レッド・ハミルトンが死亡。
6月7日 トミー・キャロルがウォータールー警察に射殺される。
6月30日 インディアナ州サウスベンドのマーチャンツナショナル銀行を襲撃。 被害額30,000ドル 
7月22日 デリンジャーがバイオグラフシアターで捜査局に射殺される。
8月23日 ホーマー・ヴァン・メーターがセントポール警察に射殺される。
9月22日 チャールズ・マクレイが脱獄に失敗し射殺される。ピアポントは重傷。
10月17日 ハリー・ピアポントの死刑執行。
11月27日 ベビーフェイス・ネルソンがイリノイ州バーリントンで捜査局に射殺される。
12月27日 ジョン・ポール・チェイスをカリフォルニア州マウントシャスタで逮捕。
1970年 12月24日 ラッセル・クラークが癌で死亡。
1973年 10月5日 ジョン・ポール・チェイスが癌で死亡。


  1. ^ AFI|Catalog”. catalog.afi.com. 2024年9月4日閲覧。
  2. ^ AFI|Catalog”. catalog.afi.com. 2024年9月4日閲覧。
  3. ^ (英語) Harry and Tonto (1974) - Trivia - IMDb, https://www.imdb.com/title/tt0071598/trivia/ 2024年9月4日閲覧。 
  4. ^ (英語) Harry and Tonto (1974) - Trivia - IMDb, https://www.imdb.com/title/tt0071598/trivia/ 2024年9月4日閲覧。 
  5. ^ (英語) PATSY Award, (2024-08-03), https://en-two.iwiki.icu/wiki/PATSY_Award 2024年9月4日閲覧。 
  6. ^ 31 Dec 1969, 2 - Chicago Tribune at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2019年12月30日閲覧。
  7. ^ A Bank Robber, But No Murder”. www.charlesmakleywasframed.com. 2024年4月2日閲覧。
  8. ^ GREEN LANTERN | PUBLIC kitchen + bar | A LOWERTOWN RESTAURANT” (英語). Public Kitchen + Bar. 2024年3月12日閲覧。
  9. ^ Forsyth, Owen (2019年4月14日). “The Green Lantern Saloon - St. Paul, Minnesota” (英語). The Irish Mob. 2024年3月12日閲覧。
  10. ^ Matthew Leach (1895-1955) | American Experience | PBS” (英語). www.pbs.org. 2024年3月12日閲覧。
  11. ^ 名前。生年。死亡年。「Find a Grave」 メモリアル”. ja.findagrave.com. 2024年4月11日閲覧。
  1. ^ 他に、アルバート・フィニー(オリエント急行殺人事件)、ダスティン・ホフマン(レニー・ブルース)、ジャック・ニコルソン(チャイナタウン)、アル・パチーノ(ゴッドファーザーPARTII)がノミネートされた