ビーチ・ニューマチック・トランジット
ビーチ・ニューマチック・トランジット（英：Beach Pneumatic Transit)は、1860年代に発明家アルフレッド・E・ビーチが考案したニューヨークの地下交通システムである。政治的圧力や経済恐慌が障壁となりデモンストレーション運転で終わったが、ニューヨークで最初の地下鉄となった。
起案〜発表
[編集]発明家や特許代理人のアルフレッド・イーリー・ビーチ(Alfred Ely Beach,1826-1896)は、「ニューマチック・トランジット」という地下交通システムを考案した。トンネル(チューブ)内を加圧または減圧しその気圧差で客車を動かすというもので、1864年にロンドン南部のクリスタルパレスで実験が行われた35人乗りの空気圧鉄道や[1]、ロンドンの郵便気送管から着想を得たと思われる。
ビーチは40歳で「ビーチ・ニューマチック・トランジット社」を立ち上げ、1867年のニューヨーク発明家協会の展示会で、直径2.4mの合板製のチューブと100馬力の蒸気エンジンのブロアを設置して実演した[2]。ブロアを回すと10人乗りの乗り物が静かに動き出し、ブロアを反転すると元の場所に戻ってきた。自ら経営するサイエンティフィック・アメリカン誌で宣伝し、6週間の開催期間中に延べ7万5千人以上が乗車するという盛況ぶりだった。
1860年代のニューヨークは歩行者や馬車や蒸気自動車がひしめき合う劣悪な状況にあり、ビーチはこのシステムこそが解決策だと宣伝を始めた。実用化に向けて市当局に資金援助を申し出たのだが、民主党のウィリアム・トウィード上院議員(William M.Tweed,1823-78)は新しい交通機関の参入を許さなかった。トウィードはニューヨークを牛耳る”ボス”として知られ、渋滞よりも従来の公共交通機関から受け取る賄賂のほうが重要だったのだ。
着工
[編集]そこでビーチは、マンハッタン島南部のブロードウェイの1ブロックに『実験用の郵便気送管』を作る申請を出し、許認可が得られると次に市当局の反応を窺いながら『気送管を通すトンネル工事』へと書類を修正した。最初の1年間はトンネルの掘削機械の開発に費やした。ウォーレンst.の角にあるデブリン衣料品店の地下1階と2階を5年間4千ドルで契約すると、1869年に密かに掘削を開始した。違法な工事だったが、大衆が実物を見てしまえば市当局も認めざるを得ないだろうという策略だった。
トンネルはイギリスで実績のあるシールド工法を採用。「ビーチ・トンネリングシールド」と命名した円筒形の掘削機械は18個の油圧シリンダーによってゆっくり回転しながら土を削り、同時にトンネル職人が煉瓦で固めた。職人は筒の中にいるので安全だった。規模は直径2.7m、深さ6ｍ、ブロードウェイのウォーレンst.からマレーst.までの1ブロック(約90ｍ)の区間。方位磁石で進路を定め、途中途中でトンネルの天井に連結式の鉄の棒を打ち込み先端が路面に飛び出すのを見ながら方向と深さを調整した。1日に約2.5ｍ掘り進み、夜中に土を運び出した[3]。
だがこの大掛りな工事を市当局が気付かないはずがなく、役人が査察に来たことがあったが職人が追い払った。ビーチは毅然とした態度を貫いたがトンネルが崩れて道路が陥没する夢を何度も見たという。トンネル部分は58日間で完成した[4]。
ボイラー室および機械室にはインディアナ州から取り寄せた蒸気エンジンとルーツ式ブロアを設置した。鉱山の坑道の換気に使われるもので、回転すると地上の通気口の近くに落ちているゴミを吸い寄せるほど強力だった[5]。
ビーチは多くの人々が持つ地下室の陰湿なイメージを払拭するため、待合室を明るいシャンデリアで照らし、グランドピアノや柱時計、水槽、絵画、花などで飾って高級で居心地の良い空間に仕上げた。この装飾だけで7万ドル(現在の120万ドル)の費用を費やした。
一般公開
[編集]1870年2月26日、市や州の有力者や著名な技術者、記者たちを招待して「ビーチ・ニューマチック・トランジット」を披露し、翌日から一般にも公開された。地下に降りた人々は感嘆の声を上げたが、さらに驚いたのは丸いトンネルとそこにぴったりと納まる筒形の客車だった。
22人乗りの客車がたった90mを時速10〜15キロで行ったり来たりするだけだが、蒸気エンジンしかなかった時代に大きな音も煙も出さずに乗り物が動くのは驚異的な体験だった。
入場料は1回25セント(現在の4〜5ドル)。新しいアトラクションを体験しようと毎日多くの見物客が群がり警察が交通整理に駆り出されることもあった[6]。デモンストレーション走行は大盛況で、長い待ち時間のおかげでデブリン衣料品店の売れ行きも伸びた。最初の1年で40万人が来場し、その収益は活動が営利目的でないことを証明するため南北戦争孤児の慈善団体に寄付された。
鉄道工事は法案を通す必要があるため、政治家や投資家を相手にロビー活動を行い、セントラルパークまでの8kmを延長する提案をした。
_by_New_York_Parcel_Dispatch_Company.,_digitally_enhanced_by_rawpixel-com_3.jpg){kind=tracking}
政界の圧力
[編集]ビーチの手口に激怒したトウィード上院議員は、虚偽の申請と無許可の工事を行なった罪で彼を逮捕すべきだと働きかけ、さらに鉄道会社と結託して高架鉄道の建設を推進した。だがビーチの地下交通システムは500万ドル、対する高架鉄道は5000万ドルを試算するだけでなく、工事中の渋滞や完成後の街の景観などを比較しても圧倒的にビーチが優勢だった[7]。1871年から1872年に市議会はビーチの案を承認し、州知事に提示した。
ところがジョン・ホフマン州知事(John T. Hoffman)は、不動産所有者らが危惧する地盤への悪影響を理由に高架鉄道案を選んだ[8]。ホフマンはトウィードの支援で州知事に任命された人物であり、マンハッタンの不動産所有者らも政界と深く繋がっていたのだった[9]。
だがトウィードの勢力もここまでで、1871年に内部告発により帳簿が暴露され汚職容疑で逮捕、ホフマン州知事も解任された[10]。新しく選ばれたジョン・ディックス州知事はビーチを称賛し、1873年についに州の承認を得ることが出来た[11]。
トウィードには懲役12年の実刑判決が言い渡され、1887年に獄中で64歳で死亡した[12]。
プロジェクトの終局
[編集]ビーチは既に自己資金35万ドル(現在の620万ドル)を投入し資金が乏しくなったため、公開から3年後の1873年4月に運行を停止した。折悪しく世の中の景気が悪化し1873年恐慌に突入。投資家たちは次々に融資を断念し、州知事も承認を撤回した[13]。プロジェクトは完全に終了した。
3年後、ビーチは法に則ってニューヨーク市との約束を果たすべく全長300mの実験用の郵便気送管を設置した。「ビーチ自動郵便集配システム」と名付けられたこの装置は街灯の下に郵便ポストを設けて郵便物を集荷する仕組みで、小規模ではあったがアメリカで最初の気送管であり、1890年代にニューヨークで発展する郵便気送管の礎となった。
地下駅はワインセラー、射撃場、倉庫などに貸し出されたが、1898年に建物火災で焼失し地下施設を閉鎖した。
アルフレッド・ビーチのその後
[編集]プロジェクトの失敗でビーチは活力を失い別人のようになってしまったという。もともと敬虔な信仰心と奉仕の精神を持つ人物だったが以前にも増して温厚になり、刑務所で死亡したトウィードを恨むこともなかった。発明の活動はやめてしまうが、独学でスペイン語を学習し中南米向けの科学雑誌を出版するなどして経済的には立ち直った[14]。
1896年1月1日に肺炎で69歳で亡くなった。ニューヨークタイムズ紙が小さな死亡記事を載せただけでほとんど注目されなかった[15]。彼の死から10年も経たない1904年にニューヨーク市地下鉄が開業し、BMTシティホール駅の壁に『ニューヨーク地下鉄の父』とビーチを称える小さな銘板が設置された[16]。
関連項目
[編集]- ハイパーループ - イーロン・マスクが2013年に発表したチューブ鉄道のコンセプト。
- ニューヨークの郵便気送管 - 1897～1953年にニューヨークで運用した郵便配送システム。
- ゴーストバスターズ - 1984年の映画。架空の空気圧鉄道(New York Pneumatic Railroad)の廃墟が登場する。開通年は1870年である。
- ”Sub-Rosa Subway” - カナダのロックバンド、クラトゥのシングル曲。ビーチの努力を歌詞にしている[17]。
脚注
[編集]出展
[編集]- ^ “Frederic Delaitre's Lost Subways / Crystal Palace Atmospheric Railway”. fdelaitre.org. 2024年12月13日閲覧。
- ^ Most, Doug. “Scientific American’s Owner Built the First New York Subway [Excerpt]” (英語). Scientific American. 2024年12月20日閲覧。
- ^ “The Secret Pneumatic Subway: Beach vs Tweed” (英語). StMU Research Scholars. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “The New York Historical” (英語). www.nyhistory.org. 2024年12月20日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月13日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月13日閲覧。
- ^ Nevius, James (2018年6月27日). “The elevated era” (英語). Curbed NY. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “Klaatu Article”. www.klaatu.org. 2024年12月18日閲覧。
- ^ Nevius, James (2018年6月27日). “The elevated era” (英語). Curbed NY. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “William Boss Tweed, political machines, U.S. history, corruption, Gilded Age, political power, Tammany Hall, urban politics” (英語). Bill of Rights Institute. 2024年12月10日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “Klaatu Article”. www.klaatu.org. 2024年12月18日閲覧。
- ^ Klaatu – Sub-Rosa Subway 2024年12月18日閲覧。