利用者:Dassaim/朝倉摂(下書き)
朝倉 摂 | |
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文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真 | |
生誕 |
朝倉攝子 1922年7月16日 東京府東京市下谷区谷中 |
死没 |
2014年3月27日 (91歳没) 東京都稲城市 |
著名な実績 | 絵画、舞台芸術、挿絵 |
親 | 朝倉文夫 |
受賞 | 紫綬褒章、旭日重光章 |
活動期間 | 1940年 - 2014年 |
影響を受けた 芸術家 | 伊東深水、佐藤忠良 |
朝倉 摂(あさくら せつ、1922年7月16日 - 2014年3月27日)は、日本の舞台美術家・画家。本名・冨沢摂。
生涯
[編集]1922年(大正12年)、東京市下谷区谷中町(現在の東京都台東区谷中)に彫刻家・朝倉文夫の長女として生まれる[1]。出生時の名前は「攝子」だった[2]。1925年、3歳年下の妹・響子が誕生する[3]。響子も姉の朝倉同様に芸術家の道に進み、のちに彫刻家となった[3]。
公教育に不満を持っていた、父・文夫の方針で学校には一切通わずに、自宅に招かれたさまざまな分野の専門を持つ家庭教師たちの教育を受けた[1][4]。この独自の教育により、当時女学校で行われていた男性に従属的な役割を女子に求めるような教育を受けなかったことは、女性が男性と同等の美術教育を受けられない時代に妹の響子とともに朝倉が美術家を志すきっかけとなった[4]。父のアトリエを兼ねていた自宅には多くの弟子が出入りしており、朝倉は物心ついたころから見よう見まねで絵を描き始めた[1]。
日本画家として
[編集]伊東深水に入門
[編集]1939年、17歳の時に日本画家・伊東深水に入門し日本画を学ぶ[1]。実力が認められ、1940年からは伊東や山川秀峰を中心とした人物画の研究団体青衿会が主催する展覧会に出品を重ね、1940年の第1回から1944年の第5回まで毎年作品を出品した。[1][5]。1942年の第4回青衿会展では《街角に観る》を出品し、後援会賞を受賞した[6]。官展にも作品を出品し、1941年の第4回文部省美術展覧会(新文展)で《小憩》が初入選を果たした[6][7]。さらに翌年の第5回新文展には《晴晨》を、43年第6回新文展には《歓び》を続けて出品した[6]。
新美術人協会に参加
[編集]一方で、権威的な日本画壇に対する抵抗心もあり、福田豊四郎や吉岡堅二らが新しい日本画の樹立を目指して設立した在野の日本画団体である新美術人協会にも参加し、1941年の第4回新美術人協会展には《九官鳥》を、1942年の第5回新美術人協会展には《更紗の室》(練馬区立美術館)を出品した[6][8]。戦後には新美術人協会の流れを汲む創造美術にも参加した[1]。
1945年、3月の東京大空襲を受けて家族は奥多摩に疎開し、疎開先で終戦を迎えた[1]。
戦後
[編集]1946年の第2回日本美術展覧会(日展)には《沙上》を出品、翌年の日展には《バレーの踊り子》を出品した[6]。
1948年、GHQが接収したアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場の接収時の劇場名)で上演されたドナルド・リチー作「パーティー」(ジェーン・バロワ演出)の舞台美術を手掛ける[9][10]。この仕事が朝倉にとって舞台美術の初仕事であるとされている[9]。この仕事を任された経緯は明らかではないが、朝倉は妹の響子とともにGHQが占領期に設置していたCIE図書館に通ってアメリカの雑誌の広告美術に触れたり、父・文夫も来日したアメリカ人の胸像を制作するなどしており、在日欧米人の文化ネットワークとの接点があったこととのつながりが指摘されている[10]。
同じく1948年、浦田正夫、高山辰雄らの設立した日本画団体である一采社に参加する[6]。また、この年には朝倉も参加していた新美術人協会の福田や吉岡が日展を離れて創造美術を結成する[11]。朝倉はこの年の日展に《黄衣》を出品したが、翌年からは創造美術に出品するようになり、日展への出品はこの年が最後となった[11]。
これ以降、朝倉は日本画による新しい表現を追求するようになっていく[11]。
新しい表現へ
[編集]1949年、第2回創造美術展には《ノアール》と《反映》を出品し、同年の第1回日本アンデパンダン展には《髪》を出品、第8回一采社展には《女》と《そだ》を出品した[12]。また同年、雑誌『三彩』に「リアルの自覚」という文を寄せた。この文は1946年から続いていたいわゆる「リアリズム論争」[13]に呼応したものであり、朝倉が日本画家として当時の具象絵画について危機意識を持っていたことがわかる[14]。
この年の終わり頃から翌年の初めにかけて実家をでて代々木本町で下宿を始め、さらにこのころから、佐藤忠良とともに桑沢洋装学園でデッサンを教えるようになった[15]。
キュビズムの探求
[編集]1950年、第1回朝倉摂作品展を北荘画廊で開催し、日本画や素描などを出品した[15]。同年の第3回創造美術展には、ピカソなどに感化されて探求していたキュビズム的作風の《群像》(練馬区立美術館)、《裸婦A》(大分県立美術館)、《裸婦B》(台東区立朝倉彫塑館)、《裸婦C》(神奈川県立近代美術館)を出品する[15][16]。同展では、朝倉の女性像の完成形の一つともいえる作品《群像》で、奨励賞を受賞する[17]。
同じく1950年には、第2回日本アンデパンダン展に《坂》を出品[15]。この第2回日本アンデパンダン展では、委員としても展覧会に携わり、翌年の第3回でも引き続き委員を務めた[18][19]。また、第9回一采社展に《向日葵》、第2回春季創造展に《黒い猫》、《猫(エチュード)》を出品した[15]。さらに、ベルギー大使館夫人らによって組織されていた第2回サロン・ド・プランタン展に出品した《自画像》が日本画の一等を受賞した[15]。
社会派の作風へ
[編集]1951年9月、創造美術と新制作派協会が合流し新制作協会が設立される[15]。朝倉はこの年に開催された第15回新制作展に、前年の第3回創造美術展にも出品した《裸婦A》、《裸婦B》、《裸婦C》を出品し、会員に推挙され、これ以降日本画部会員として出品を続けた[15][20]。また、同年4月に開催された第10回一采社展に《作品H》、《赤いフード》(個人蔵)、《静物》を出品、5月に行われた第3回創造美術春季展には準会員として《男》を出品した[15]。
1952年、4月に行われたサロン・ド・プランタンが主催する「現代日本絵画展 国内展示」に《Girls》を出品する[15]。この作品はこの後、サンフランシスコのリージョン・オブ・オーナー美術館で展示され、さらにその後1年間にわたってアメリカ各地を巡回した[21]。
同じく1952年の9月に開催された第16回新制作展には《働らく人》(山口県立美術館)を出品する[22]。同作は翌年の第3回上村松園賞を片岡球子と争ったすえに受賞する[23][24]。この作品について、朝倉は「私なりの新しい現代像」を描こうとしたと現代社会の現実への関心を示しており、上村松園賞を受賞した理由も、「日本画のレアリスム」を追求しているという点が評価されてのことだった[25]。
同じく1952年の10月、日本橋の丸善画廊で朝倉摂・村尾絢子二人展を開催し、朝倉は《街の子》など6点を出品した[26]。またこの年、佐藤忠良が朝倉をモデルにした作品《画家の像》を制作、さらに翌年には《画家の貌》を制作した[26]。朝倉と佐藤の交流は、朝倉が実家を出て移り住んだ代々木で佐藤が近くに住んでいたことをきっかけに始まり、この後、同じく代々木に住んでいた森芳雄や中谷泰らととも親しくなり、研究会を結成してスケッチ旅行に出かけるようになる[27]。さらにこの年には、堀尾勉『おとぎ草子〈少年少女日本名作選〉』(誠文堂新光社)の挿絵を手がけた[26]。
1953年、代々木本町にアトリエを建設する[26]。このアトリエは、土曜の午後に勤労者や学生など女性を中心に開放し、デッサン教室を開くようになった[26]。またこの年、日本美術会委員、平和展委員、日本美術家連盟委員に就任した[26]。
この年の5月から6月にかけて東京都美術館で開かれた第2回日本国際美術展に《働く人(清掃夫)》を出品するが、会場に展示されていたビュフェの作品に感銘を受け、作風にも影響を受けた[26][28]。また、9月から10月にかけて開催された第17回新制作展には《夫婦》(神奈川県立近代美術館)、《寮》(福島県立美術館)を出品する[26]。《寮》は母子寮に取材して制作された作品で、この頃朝倉は働く女性に強い関心を寄せており、同じ年には《日雇いの母》(実践女子大学香雪記念資料館)という作品も制作している[22]。
挿絵の仕事では、朝日新聞夕刊に連載された阿部知二の「朝の鏡」や、ヨハンナ・スピリ『アルプスの山の少女・羊飼いの少年モニー〈世界少年少女文学全集17(ドイツ編4)〉』(創元社)の挿絵を手がけた[26]。
1954年、1月に開催された第2回平和美術展に《担ぎ屋の女》(台東区立朝倉彫塑館)を出品、4月の第13回一采社展には《女》を出品する[26]。また、4月の新制作日本画部東京研究会展には《をんな》を出品、5月から6月に開催された第1回現代日本美術展には《母》を出品、さらに第18回新制作展には《背負う人々》(栃木県立美術館)と《群れ》(東京都現代美術館)を出品する[26]。前述のように朝倉はこの頃佐藤忠良らと度々スケッチ旅行に出掛けており、《背負う人々》はその旅行の成果の一例である[28]。
この年の4月、桑沢デザイン研究所が東京の青山に設立され、桑沢洋装学園でもデッサンを教えていた朝倉はその発起人として佐藤忠良らと名を連ねるとともに、同校の教師となった[26][29]。
挿絵の仕事ではジョルジュ・サンドの『ばらいろの雲〈岩波少年文庫〉』(岩波書店)の挿絵を担当した[26]。
1955年、3月に行われた第7回アンデパンダン展に《女》を出品、4月の第14回一采社点でには《浜の母子(未完)》を出品した[30]。また、3月に国立近代美術館で開かれた「松方コレクション 国立美術館建設協賛展」には《おんな》を出品している[31]。新制作協会に関連する活動では、6月に新制作協会会員展に《買物籠》を出品、9月の第19回新制作展には《おんなA》、《おんなB》、《担ぐ人々》(栃木県立美術館)を出品した[31]。さらに、5月の第3回日本国際美術展に《うたごえ》に、8月の原水爆禁止世界大会記念平和美術展には《おんな》を出品した[31]。
この年、銚子の渡辺学を佐藤忠良や中谷泰らと訪ねており、5月には、サエグサ画廊で「朝倉摂・佐藤忠良・中谷泰3人展」を開き、《チンドンヤ》、《浜の親子》、《田舎の女》を出品した[31]。
挿絵の仕事としては、村岡花子『ストー夫人〈世界電気全集13〉』(講談社)などの挿絵を手がけた[31]。
スケッチ旅行
[編集]1956年、4月に開かれた第15回一采社展に《夜》を出品し、5月から6月に開催された第二回現代日本美術展に《立話》と《おんな》を出品、さらに6月から7月にかけて開催された松園賞記念展にも作品を出品した[31]。また、9月の第20回新制作展には《求める人》を出品した[31]。
この年、朝倉は佐藤忠良や吉井忠ら研究会のメンバー8人で常磐炭田にスケッチ旅行を行った。この旅行は雑誌「アトリエ」の誌上で企画されたもので、同年の臨時増刊号「新しいリアリズム」に取り上げられ、「或るスケッチ旅行の記録 福島古河好間・小田炭鉱にて」という題の記事としてまとめられた[32]。この時のスケッチをもとにした作品には《炭鉱風景[注 1]》(福岡県立美術館)などがあり、この年の6月に村松画廊で開催された佐藤忠良・朝倉摂・中谷泰三人会展には、この作品の他にも前年に同じく常磐炭田に取材して描いた《ズリ山》(福島県立美術館)など10点の作品を出品した[31][34]。
また、この年の8月に開催された平和美術展には、紙芝居「ピーターと狼」を出品したほか、夏に美術手帖の主催で横浜港にて開催された第二回「海のスケッチ会」の講師を石川滋彦と二人で務めた[31]。装丁・挿絵の仕事としては、片山昌造『あかつきの子ら〈少年少女文学〉』(福音館書店)の挿絵や、菅忠道『日本の児童文学』(大月書店)の挿絵などを手がけた[31]。
1957年、1月から2月にかけてサエグサ画廊で朝倉摂デッサン展を開催する[31]。また、3月には堀文子・朝倉摂・秋野不矩・広田多津四人展を開催、9月には朝倉摂・佐藤忠良・中谷泰三人展に出品している[31]。他には、5月の第4回日本国際美術展、6月の女流十五人展、同月の新制作協会日本画展、7月の平和美術展に出品し、9月から10月にかけて開催された第21回新制作展には《部屋》(実践女子大学香雪記念資料館)を出品した[35]。
この年の舞台芸術の仕事としては4月にぶどうの会主催で上演された木下順二作・岡倉士郎演出「暗い火花」(中野公会堂)や、6月に作品座が主催したカミュ作・大島寿演出「正義の人々」(一橋講堂)を担当した[36]。また、花友会主催のカールハインツ・シュトックハウゼン作曲・武智鉄二演出「若人の歌」(砂防会館ホール)の衣装も担当した[36]。
またこの年、NHKラジオの「朝の訪問」という番組で聞き手を務めている[31]。
結婚と出産
[編集]1958年、1月に当時岩波映画に勤務していた富澤幸男と結婚[36]。2月2日に神田如水会館で開かれ、朝倉文夫や有吉佐和子、桑沢洋子など200人ほどが出席した[36]。12月には長女を出産し、亜細亜から字をとり亜子と名付けた[36]。
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1970年、アメリカ合衆国のニューヨークのロックフェラー財団で舞台美術を学ぶ。小説や絵本の挿絵も手がけ、1972年に講談社出版文化賞絵本賞を受賞する。
この間、多数の舞台美術を手がける。主なものとしては、蜷川幸雄演出・秋元松代作『近松心中物語』、市川猿之助演出・梅原猛作『ヤマトタケル』、蜷川演出・唐十郎作『下町万年町物語』など。
2009年、BankART Studio NYK(横浜市中区)で「朝倉摂ワークショップ&展覧会 2009 AUTUMN」が開催された(主催:文化庁、神奈川県文化芸術振興会プラン推進事業共実行委員会、マザーポート・アート・フェスティバル実行委員会、企画:GALERIE PARIS、期間:10/4-10/18)。
2010年、BankART Studio NYK(横浜市中区)で大規模な個展「朝倉摂展 アバンギャルド少女」が開催された(主催:BankART1929、共催:横浜市APEC・創造都市事業本部、期間:9/10-11/7)。
死去
[編集]2014年3月27日、クモ膜下出血のため、東京都稲城市の病院にて死去[37]。91歳没。同年、読売演劇大賞芸術栄誉賞を受賞、さらに日本政府からは旭日重光章を授与された[38]。
没後
[編集]2015年7月、ギャルリー・パリ(横浜市中区)で没後初となる作品展「朝倉摂 Setsu Asakura, the 1950s」が開催され、それまで紹介される機会が少なかった、初期の日本画家としての作品がまとめて公開された[23]。この展示をきっかけに、アトリエに残された作品が本格的に調査され、いくつかの代表的な作品が各地の公的なコレクションに加えられることとなった[23][39]。
2016年9月、台東区立朝倉彫塑館で「朝倉文夫・摂・響子三人展」が開催された[40]。
2017年、実践女子大学香雪記念資料館で日本画を中心とした回顧展としては初となる、「受贈記念 朝倉摂 リアルの自覚」が開催された[41]。
2020年、福岡市美術館で「朝倉文夫・摂・響子展」が開催された[41]。
2021年、ギャルリー・パリで「朝倉摂 時代を駆け抜けた画家のまなざし展」が開催された[41]。
2022年、4月から10月にかけて、神奈川県立近代美術館[42]、練馬区立美術館[43]、福島県立美術館[44]で「生誕100年 朝倉摂展」が開催された[41]。
受賞歴
[編集]- 1950年 - サロン・ド・プランタン賞
- 1953年 - 上村松園賞
- 1972年 - 講談社出版文化賞絵本賞
- 1980年 - テアトロ演劇賞
- 1982年 - 日本アカデミー賞優秀美術賞(『悪霊島』)
- 1986年 - 芸術祭賞(『にごり江』)
- 1987年 - 紫綬褒章
- 1989年 - 朝日賞[45]、日本アカデミー賞優秀美術賞(『つる -鶴-』)、東京都民文化事業賞
- 1991年 - 紀伊國屋演劇賞(『薔薇の花束の秘密』ほか)
- 1995年 - 読売演劇大賞優秀スタッフ大賞(『オレアナ』ほか)
- 2006年 - 文化功労者
評価
[編集]児島薫は、朝倉は日本画の絵具を使用することで、画面の平面性を強調する一方で、その画面の中にヴォリュームのある人体と空間を表現するという、相反することを意図するという試みをおこなっていたと分析している[46]。
著作
[編集]単行書
[編集]出版年順
- 『朝倉摂のステージ・ワーク』(PARCOエンタテイメント事業局、1981年)
- 『私の幕間-ステージ・ワークの周辺』(求龍堂、1983年)
- 『朝倉摂 舞台空間のすべて』(PARCO出版、1986年)
- 『朝倉摂のステージ・ワーク 2』(PARCO出版、1991年)
- 『舞台美術は一瞬の輝き 福原義春サクセスフルエイジング対談』(求龍堂、1998年)
- 『朝倉摂のステージ・ワーク 1991-2002』(PARCO出版、2003年)
図録・画集等
[編集]渡辺学; 毛利武彦; 西村昭二郎; 麻田鷹司; 朝倉摂「建築について語る」『第32回新制作協会展図録』、新制作協会、1968年。
雑誌等
[編集]朝倉摂「リアルの自覚」『三彩』第30巻、美術出版社、1949年5月。
主な挿絵の仕事
[編集]- ヨハンナ・スピリ 著、植田敏郎 訳『アルプスの山の少女・羊飼いの少年モニー』 17巻、創元社〈世界少年少女文学全集〉、1953年。 NCID BN11071651。
- 平塚武二『玉虫厨子の物語』学習研究社〈少年少女学研文庫〉、1969年。 NCID BA32284830。
- 松谷みよ子『ふたりのイーダ』 1巻、講談社〈少年少女現代日本創作文学〉、1969年。 NCID BA32729267。
- 『宮口しづえ児童文学集』(小峰書店)
- 宮口しづえ『ゲンと不動明王』 1巻、小峰書店〈宮口しづえ児童文学集〉、1969年。 NCID BN13185946。
- 宮口しづえ『山の終バス』 2巻、小峰書店〈宮口しづえ児童文学集〉、1969年。 NCID BN13186064。
- 宮口しづえ『ゲンとイズミ』 3巻、小峰書店〈宮口しづえ児童文学集〉、1969年。 NCID BN13186202。
- 宮口しづえ『オンタケの子ら』 4巻、小峰書店〈宮口しづえ児童文学集〉、1969年。 NCID BN13186315。
- 宮口しづえ『ミノスケのスキー帽』 5巻、小峰書店〈宮口しづえ児童文学集〉、1969年。 NCID BN13186348。
- 大仏次郎『スイッチョねこ』講談社〈日本の名作(新装版)〉、1979年。 NCID BA66449079。
家族
[編集]妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古[47]。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。
参考文献
[編集]書籍
[編集]- 神奈川県立近代美術館、練馬区立美術館、福島県立美術館 編『朝倉摂の見つめた世界 絵画と舞台と絵本と』青幻舎、2022年。ISBN 978-4-86152-889-7。 NCID BC10554572 。
- 「生誕100年 朝倉摂展」(神奈川県立近代美術館、練馬区立美術館、福島県立美術館、2022年)の展覧会図録
- 水沢勉 著、神奈川県立近代美術館; 練馬区立美術館; 福島県立美術館 編「現在を生きる:「生誕100年 朝倉摂」展開催に当たって」『朝倉摂の見つめた世界 絵画と舞台と絵本と』、青幻舎、12-16頁、2022年。ISBN 978-4-86152-889-7。 NCID BC10554572。
- 増渕鏡子 著、神奈川県立近代美術館; 練馬区立美術館; 福島県立美術館 編「常磐炭田を描く」『朝倉摂の見つめた世界 絵画と舞台と絵本と』、青幻舎、70-73頁、2022a。ISBN 978-4-86152-889-7。 NCID BC10554572。
- 増渕鏡子 著、神奈川県立近代美術館; 練馬区立美術館; 福島県立美術館 編「朝倉摂のリアリズム:六〇年安保闘争をはさんで」『朝倉摂の見つめた世界 絵画と舞台と絵本と』、青幻舎、218-227頁、2022b。ISBN 978-4-86152-889-7。 NCID BC10554572。
論文
[編集]- 児島薫「朝倉摂が描いた現代社会:《働く人》、《日雇の母》から《神話の廃虚》まで」『実践女子大学香雪記念資料館館報』第18巻、実践女子大学、38-51頁、2021a。ISSN 24329568 。
- 児島薫「朝倉摂の初期の画業について」『実践女子大学文学部紀要』第63巻、実践女子大学、11-32頁、2021b。ISSN 02868466 。
関連文献
[編集]- 『SETSU ASAKURA An Avant-garde Girl』 BankART1929、2010年 ISBN 9784902736236
新聞記事
[編集]- 吉井澄雄「朝倉摂さんを悼む」『日本経済新聞』2014年4月1日付朝刊最終文化面。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 18.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 237.
- ^ a b 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 42.
- ^ a b 児島 2021b, p. 13.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, pp. 238–239.
- ^ a b c d e f 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 239.
- ^ 『朝日新聞』1941年10月13日、東京、朝刊、3面。
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, pp. 18–20.
- ^ a b 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 122.
- ^ a b 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 212.
- ^ a b c 児島 2021b, p. 19.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, pp. 239–240.
- ^ 長チノリ. “リアリズム論争”. アートスケープ. 大日本印刷株式会社. 2022年9月2日閲覧。
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 218.
- ^ a b c d e f g h i j 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 240.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 49.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 52.
- ^ 『読売新聞』1949年7月14日、朝刊、2面。
- ^ 『読売新聞』1950年10月17日、夕刊、2面。
- ^ 児島 2021b, p. 11.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, pp. 240–241.
- ^ a b 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 65.
- ^ a b c 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 13.
- ^ “「朝倉摂」展 まず画家として開花した才能(1/2)”. 産経ニュース. 産経新聞 (2015年7月16日). 2022年9月3日閲覧。
- ^ 児島 2021a, p. 40.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 241.
- ^ 増渕 2022a, pp. 219–220.
- ^ a b 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 60.
- ^ “桑沢のあゆみ”. 桑沢デザイン研究所. 桑沢デザイン研究所. 2022年9月6日閲覧。
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, pp. 241–242.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 242.
- ^ 増渕 2022a, pp. 70–71.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 2, 77.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 74.
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, pp. 242–243.
- ^ a b c d e 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 243.
- ^ 舞台美術家の朝倉摂さん死去[リンク切れ] 時事通信 2014年3月27日閲覧 アーカイブ 2014年3月27日 - ウェイバックマシン
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 254.
- ^ “「朝倉摂」展 まず画家として開花した才能(1/2)”. 産経ニュース. 産経新聞 (2015年7月16日). 2022年9月3日閲覧。
- ^ 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, pp. 254–255.
- ^ a b c d 神奈川県立近代美術館ほか編 2022, p. 255.
- ^ “生誕100年 朝倉摂 | 神奈川県立近代美術館”. www.moma.pref.kanagawa.jp. 2022年9月4日閲覧。
- ^ “生誕100年 朝倉摂展 | 展覧会 | 練馬区立美術館”. www.neribun.or.jp. 2022年9月4日閲覧。
- ^ “企画展 - 福島県立美術館ホームページ”. art-museum.fcs.ed.jp. 2022年9月4日閲覧。
- ^ “朝日賞 1971-2000年度”. 朝日新聞社. 2022年8月29日閲覧。
- ^ 児島 2021b, p. 23.
- ^ “生誕100年、朝倉摂展 知られざる日本画家時代に光”. 日本経済新聞 (2022年5月14日). 2022年9月3日閲覧。