利用者:Corvus splendens/試訳中記事4
ジョヴァンニ・メッセ Giovanni Messe | |
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イタリア王国 第4代王国軍統合参謀総長(伊語版) | |
任期 1943年11月19日 – 1945年5月1日 | |
君主 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 |
首相 | ピエトロ・バドリオ |
前任者 | ヴィットーリオ・アンブロシア(英語版) |
後任者 | クラウディオ・テラッツァーニ(伊語版) |
伊領リビア(英語版) 第5代総督(英語版) | |
任期 1943年2月2日 – 1943年5月13日 | |
君主 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 |
首相 | ベニト・ムッソリーニ |
前任者 | エットーレ・バスティコ |
後任者 | 制度廃止 →イギリス・トリポリタニア軍政地区(英語版) →フランス・フェザーン軍政地区(英語版) →キレナイカ首長国(英語版) |
イタリア共和国 上院議員 | |
任期 1953年6月25日 – 1958年6月11日 | |
選挙区 | プッリャ州 |
イタリア共和国 下院議員 | |
任期 1958年6月12日 – 1968年6月4日 | |
選挙区 | ラツィオ州 |
個人情報 | |
生誕 | 1883年12月10日 イタリア王国プッリャ州 ブリンディジ県メザーニェ |
死没 | 1968年12月18日(85歳没) イタリア共和国ラツィオ州 ローマ県ローマ |
政党 | イタリア国家君主党(英語版) →イタリア国民君主党(英語版) →イタリア自由党(英語版) |
出身校 | モデナ陸軍士官学校 |
専業 | 軍人、政治家 |
兵役経験 | |
所属国 | イタリア王国 |
所属組織 | イタリア陸軍 イタリア共同交戦陸軍 |
軍歴 | 1901 - 1946 |
最終階級 | 陸軍元帥 |
指揮 | 第9アルディーティ連隊 第3快速師団『アオスタ侯アメデオ皇太子』 イタリア・ロシア派遣軍総司令官 イタリア・ドイツ戦車軍司令官 イタリア共同交戦軍 |
戦闘 | 伊土戦争 第一次世界大戦 第二次エチオピア戦争 第二次世界大戦 |
受賞 | 武功銅記章 武功銀記章 サヴォイア軍事勲章(上級士官章) 騎士鉄十字章 |
ジョヴァンニ・メッセ(Giovanni Messe、1883年12月10日 - 1968年12月18日)は、イタリア王国の軍人、政治家。最終階級は陸軍元帥。
第二次世界大戦中のイタリア陸軍について、兵卒や士官・将校階級は勇戦する者も少なくなかったが、将官は殆どが貴族的で退廃していたと批判される[1]。そうした中でメッセは数少ない優秀な将官であった[1]。
生涯
[編集]初期の軍歴
[編集]1883年12月10日、リソルジメント直後のイタリア王国に生まれ、アプリア地方の古都ブリンディシ近郊にあるメザーニェ市で育った。18歳の時、陸軍に志願入隊して兵卒として軍歴をスタートしたが、優れた勤務成績から1年間で二等兵から上等兵に昇進している。1903年、陸軍軍曹に昇進して下士官身分となり、海外勤務などを経た1908年にモデナ陸軍士官学校の編入試験に合格、士官教育を受けた[2]。1910年、陸軍少尉として参加した伊土戦争において軍功を上げ、武功銅記章を受勲している。伊領リビア成立後は陸軍大尉に階級を上げ、本土勤務に転属となった。
1915年、第一次世界大戦にイタリア王国が参戦するとイソンヅォ戦線に従軍した。オーストリア=ハンガリー帝国軍との熾烈な山岳戦は、墺軍の同盟軍として参戦したドイツ帝国軍の浸透戦術によって一変させられた(カポレットの戦い)。メッセは新戦術を前にして狼狽する事より敵から学ぶ事を優先し、ドイツ帝国軍の突撃部隊を参考にしたアルディーティ(Arditi、突撃兵)の訓練に関わった。前線に復帰するとアルマンド・ディアズ陸軍大将からアルディーティ兵からなる「第9突撃部隊」(IX Reparto d'Assalto)の指揮官に任命され、モンテ・グラッパを巡る戦いで攻勢に出たオーストリア軍から陣地を守り抜いた。メッセとアルディーティ兵はオーストリア軍に単独攻撃を挫折させる決め手となり、最終的にピアーヴェ川の戦いとヴィットリオ・ヴェネトの戦いで敗北したオーストリア・ハンガリー帝国はイタリア王国に降伏した(ヴィラ・ジュスティ休戦協定)。
終戦までにメッセは2回目の武功銅記章の他に武功銀記章も受勲し、階級も陸軍中佐にまで昇進している。1919年、サン=ジェルマン講和条約締結後に第一次世界大戦での活躍を讃えて、サヴォイア軍事勲章の騎士勲章を受勲され、サヴォイア家から貴族に列せられた[3]。彼が率いた第9突撃部隊は戦後に解散されたが、1942年に第10歩兵連隊『アルディーティ』(X Reggimento "Arditi")として再建され、特殊部隊である第9落下傘強襲連隊『コロネルモスキン』(Col Moschin)の前身となった。
戦間期
[編集]1923年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の国王副官に任命され、国王副官の任期を終えた1927年に陸軍大佐へ昇進した。1935年、陸軍准将に昇進して準自動車化旅団の旅団長を務めている。同年10月、エミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥、ピエトロ・バドリオ陸軍元帥、ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍大将らが主導する第二次エチオピア戦争に参加、第5歩兵師団『コッセリア』の副師団長に任命された。
1936年9月28日、戦争終結により陸軍少将に昇進、工業力に乏しいイタリア陸軍にとって虎の子の準自動車化師団(快速師団)の師団長となる役割を与えられた。3個快速師団の内、サヴォイア竜騎兵連隊を中核とする第3快速師団『アオスタ侯アメデオ皇太子』の師団長に着任した。1939年、サヴォイア軍事勲章の士官勲章を与えられた[3]。
第二次世界大戦
[編集]アルバニア副総督
[編集]二度目の大戦で最初に命じられた任務はアルバニア総督であったセバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ陸軍大将のアルバニアでの軍政を補佐する事だった。従ってアルバニア軍とアルバニア駐屯軍が主体となり、総督のソッドゥが総指揮官を勤めるギリシャ・イタリア戦争に参加するのも自然の成り行きであった。師団長を務める第3快速師団を中心に数個師団の指揮を委任され、山岳地帯で防衛ラインを形成していたギリシャ軍のアレクサンドロス・パパゴス(en)の軍を破って、ギリシャ国境に進撃する事に成功した。メッセの進軍はブルガリアの参戦工作に失敗し、また前線でも山岳戦で停滞するイタリアのギリシャ遠征で数少ない成功だった。
だがヴィスコンティ・プラスカ将軍が必要以上にギリシャ軍を侮って戦力を出し惜しんだことからギリシャ軍に戦力面で上回られてしまい、前線は停滞した。統合参謀総長がバドリオ元帥からウーゴ・カヴァッレーロ陸軍大将(後に元帥昇格)に、前線司令官が軍務省官僚であったウバルド・ソッドゥ陸軍大将に交代しても、英軍の参戦や冬の訪れで戦線はアルバニア南部にまで下がるなど泥沼化していった。逃亡するアルバニア兵の拘束とギリシャ軍との戦闘に追われる日々はドイツ軍の参戦まで続く事になる。
ロシア遠征
[編集]国家指導者であるベニート・ムッソリーニの判断次第では、もしかすればより早い段階で北アフリカのイタリア装甲部隊を委ねられていた可能性があった。しかし実際に下された決断はイタリア・ロシア派遣軍(CSIR Corpo di Spedizione Italiano in Russia)の総指揮官への任命であった。メッセ個人は枢軸軍の対ソ侵攻を自殺行為と看做していたが、司令官のフランチェスコ・ジンガレス陸軍大将が部隊輸送中に病気に倒れた事から、司令官代理を務める事となったのである。
メッセは対ソ戦で装甲部隊を持たないというハンデを機械化歩兵と騎兵からなる快速師団の機動力を広大な草原地帯で最大限に発揮する事で埋め合わせた。各所でソ連軍を破るCSIR軍に、ギリシャでの躓きを見ていたドイツ軍の評価が翻るのに長い時間はかからなかった。独南方軍集団や他の枢軸同盟国軍とウクライナ地方を進軍する中、メッセはエヴァルト・フォン・クライスト元帥の独第1装甲集団及び第1装甲軍の指揮下に入った。ドニエプル川を巡る戦闘ではペトコリフカの戦いで快速師団を用いてソ連軍を包囲し、約1万名以上のソ連兵を捕虜として第1装甲集団の進軍を助けた。対するイタリア側の死傷者は僅かに200名程度だった。
メッセを評価したクライスト元帥はウクライナ東部の要衝であるスターリノ(現・ドネツィク)の攻撃にCSIR軍を投入を決め、期待に応えてスターリノを攻略に大きく貢献した。第一次ハリコフ攻防戦を終えて南方軍集団が初期目標を完了させた後、1942年1月23日にアドルフ・ヒトラー総統はメッセに騎士鉄十字章を授与する事を決定し、イタリア軍人としては二人目の受勲者となった。続いて同年7月には主君であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からもサヴォイア軍事勲章の司令官勲章を授与され、遠方での戦いについて労いを受けた。
その後もメッセはソ連軍との戦闘に従事しているが、枢軸陣営の勝利に懐疑的であったメッセは親独派のカヴァッレーロ統合参謀総長と対立するようになっていた。1942年7月、ブラウ作戦を前にしてドイツ軍はイタリア陸軍に大規模な増派を要請したのに対し、メッセは乏しい自国の軍備をこれ以上浪費する事に反対して、ムッソリーニにも直言した。だがドイツとの同盟に殉じる覚悟であったムッソリーニからは受けいれらず、失望したメッセは司令官を辞して本国に帰還した。残されたCSIR軍は北アフリカの伊軍総司令官であったリビア総督のイータロ・ガリボルディ陸軍大将が後任司令官となり、新たにアルピーニ師団などが加わったイタリア第8軍が形成された。自身が去った後も東部戦線のイタリア軍部隊は活躍を見せているが、スターリングラード攻防戦後に解散されている。
アフリカ戦線
[編集]ロシアから帰還後すぐさま陸軍大将に昇進すると、エルヴィン・ロンメル指揮下の北アフリカ軍団を再編して立ち上げられたイタリア・ドイツ戦車軍の司令官に推薦された。一方、前線ではトーチ作戦でヴィシーフランス軍が連合国に寝返り、アメリカ軍を主体とした連合軍がチュニジアの中心地チュニスを目指して攻勢を開始していた(チュニス攻勢)。作戦に前後して体調を崩したロンメルは一時帰国したが、ヒトラーから自国領ではなく同盟国の領土を失った事による外交的打撃を批判され、「北アフリカの英雄」は厳しい立場に置かれていた。最終的に北アフリカ戦線についての責任論についてヒトラーはロンメルを現地司令官から解任する事と、「独伊の共同軍」という趣の名称であったイタリア・ドイツ戦車軍を更に一歩進めて「伊第1軍」として完全に伊軍指揮下とする譲歩案を提示し、ムッソリーニも和解案として受け入れた。
戦車軍司令官に内定していたメッセはそのまま初代伊第1軍司令官に任命される事となったが、再編中もロンメルは迫りくる連合軍に対してチュニスへの退却やスィディ・ブジドの戦い、カセリーヌ峠の戦いなどで攻勢を遅延させた。しかし戦局の打開は不可能であり、病状も相まって指揮に対する意欲を失っていった。後任としてチュニジアへ赴任したメッセは上部組織であるアフリカ軍集団の指揮官となったロンメルから後顧を託されることになった。
伊第1軍は4分の1がドイツ軍部隊から編成される混合部隊であったが、メッセはドイツ人とイタリア人の双方をよく纏め、ロンメルと対立していたドイツ軍のハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将とも協調して、ロンメルが残した防衛計画の完成に全力を注いだ。これらはヴィシー政権時代に残された要塞線マレス・ラインを活用するもので、メッセは米英軍が攻勢を再開するまでに要塞線の再建を完成させた。アメリカ軍はプギリスト(拳闘士)作戦を発動してマレスラインに攻めかかったが、メッセ率いる伊第1軍に大きな苦戦を強いられ、4000名の兵士が死傷した。
マレスラインの後もメッセは防衛線を構築しながら巧妙な後退戦を行い、エル・グェタルの戦いで連合軍側の戦車を50両以上破壊して、約5000名の兵士を防衛線で殺傷してジョージ・パットン将軍率いる連合軍を足止めした。しかし連合軍もスピキオ作戦、バルカン作戦など攻勢を続け、徐々にチュニスへ迫り続けた。ドイツ空軍のマルティン・ハルリンクハウゼン空軍大将とイタリア空軍のリノ・コルソ・フォギエレ空軍参謀長によるチュニジア制空圏維持の努力も、連合軍のチュニジア航空戦(フラックス作戦)によって水泡に帰した。更にレトリビューション作戦で海路も封鎖されるともはやチュニジアへの補給はおろか、脱出も絶望的となった。
イタリア共同交戦軍
[編集]1943年5月6日、遂にチュニスが陥落するとメッセはこれ以上は組織的な抵抗が不可能であると判断し、ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将との話し合いの上で連合軍との交渉を決定した。5月13日、本国の許可を得てジョージ・パットン大将、ハロルド・アレクサンダー大将ら米英両軍の司令官に枢軸軍の武装解除を提示、アルニム上級大将と共に連合軍によって拘束された。降伏を報告した後、国王からはサヴォイア軍事勲章の上級士官勲章(Grande ufficiale dell'Ordine militare di Savoia)と共に陸軍元帥に叙任された。これはサヴォイア王家による最後の元帥叙任となった。
メッセは英軍将官でニュージランド軍総司令官を務めていた初代フレイバーグ男爵ベルナルド・フレイバーグ陸軍大将と会談した。会談でフレイバーグから「貴方もファシストなのですか、元帥」と尋ねられると「もちろん」と即答している。驚いたフレイバーグが理由を尋ねると「サヴォイア家がファシズムを選んだのなら、私はそれに従うのみだ」と答えている。王党派としての忠誠心に感銘を受けたフレイバーグの取り成しで捕虜とはされず、ロンドンに渡英して暫く同地に滞在した。一方で英軍の総責任者で気位の高い人物として知られるバーナード・モントゴメリー元帥はロンメルを捕虜とできなかった事に苛立ち、北アフリカ戦線の後半から参加したメッセについて「彼は誰だね?」と軽んじる発言をしている。
1943年9月18日、イタリア王国政府の休戦とイタリア社会共和国の樹立を経てイタリアは事実上の内戦状態に陥った。連合国は休戦したイタリア王国を敵国として扱って王国軍も武装解除したが、平行してイタリア社会共和国に対抗させるべく共同交戦国として認め、段階的に軍事支援を行った。社会共和国軍(RSI軍)への参加を拒否した旧王国軍の陸軍軍人が英軍式の装備を授与され、「自由イタリア軍」(Italian Liberation Corp)が結成された。イギリスに滞在するメッセは直ちに王国政府と自由イタリア軍への支持を声明した。
1943年11月19日、メッセはロンドンから南イタリアに渡り、父王から摂政として治世を引き継いでいたウンベルト王太子から王国軍統合参謀総長に任命された。1944年7月、自由イタリア軍の6個戦闘団からなるイタリア共同交戦陸軍(Esercito Cobelligerante Italiano)を設立して、陸軍参謀長にパオロ・ベラルディ陸軍中将を任命した。陸軍部隊以外にもイタリア共同交戦海軍、イタリア共同交戦空軍が編成され、共同交戦軍は陸海空3軍体制となった。共同交戦部隊は英軍の戦闘序列に組み込まれ、ゴシックラインを巡る戦いで活躍した。モントゴメリーはメッセに過去の非礼を詫び、「貴方がマレス・ライン以前に北アフリカに居たのなら、最初に会った時の印象も違っていたのだろう」と話している。
1945年4月、ドイツ軍のC軍集団とイタリア社会共和国が降伏してイタリアでの第二次政界大戦は終結した。同年5月1日、メッセは統合参謀総長をクラウディオ・トレッツァーニ陸軍大将に譲り、共同交戦軍の指揮を終えた。程なくドイツ、日本も降伏して大戦が終結した後、連合国によって旧枢軸国に対する戦争犯罪や戦犯の追及が行われた。イタリア王国では共同交戦国としての貢献が認められ、サヴォイア家による戦争責任の追及までは行われなかった。イタリア王国軍もイタリア共同交戦軍を中心に再設立されたが、次第に左派勢力からファシズム同様の責任追及を王党派へ求める声が上がっていった。
戦後
[編集]退役と政治活動
[編集]1946年6月2日、国民投票で僅差ながら王政廃止が決定した。1947年、共和制に反対していたメッセは新たに編成された共和国軍に忠誠は誓わず、軍を退役した。新たに編成された共和国軍は元帥職を設置しなかった為、メッセはイタリア陸軍最後の元帥となった。王党派のメッセは共和制下での軍に戻る事は無かったが彼を慕う軍人は多く、退役兵協会の理事長として戦後イタリアの復興に携わった。政治的には王党派系の政党に関与し、イタリア国家君主党(PNM)から分派したイタリア人民君主党(PMP)に所属した。
1953年、イタリア人民君主党から上院選挙に出馬、アプリア州選出の上院(元老院)議員となった。1958年、PMPとPNMが再合同して結党されたイタリア統一君主主義民主党(PDIUM)から下院選挙のローマ選挙区から出馬して当選した。1963年、PDIUMとネオファシスト政党のイタリア社会運動(MSI)との合流を巡って対立が起きると、保守政党のイタリア自由党(PLI)に移籍して同年の下院選挙で再選された。1968年、今回の選挙には出馬しないとして政界引退を表明した。晩年には第一次世界大戦での功績を讃えて、共和国政府からも騎士称号を与えられた。
1968年12月18日、85歳の誕生日を迎えてから8日後にローマ市の邸宅で生涯を終えた。
勲章
[編集]- サヴォイア軍事勲章上級士官章
- ヴィットリオ・ヴェネト騎士団勲章
- 騎士鉄十字章(ナチス・ドイツ)
出典
[編集]- ^ a b ニコラス・ファレル & 「ムッソリーニ」下巻(2011).
- ^ Amedeo Osti Guerazzio, Noi non sappiamo odiare . L'esercito italiano tra fascismo e democrazia - Utet - Torino - 2010
- ^ a b Sito web del Quirinale: dettaglio decorato.