利用者:Baalcy korbo/ゴミ箱
ボリビアの歴史(ボリビアのれきし)では、ボリビア共和国の歴史について述べる。
先コロンブス期
[編集]紀元前1500年頃にティティカカ湖南東にチリパ文化が興った。紀元前200年頃にティワナク文化が興った。ティワナク文化は4期から5期にかけて最盛期を迎え、現在のチリ北部、アルゼンチン北西部、ペルー南部にまでその影響は及んだ。
12世紀頃からティティカカ湖の湖岸にアイマラ人の諸王国が興ったが、15世紀末から16世紀初めにパチャクテクの下で現ペルーのクスコを本拠地としたケチュア人の王国が急速に拡大すると、アイマラ諸王国はトゥパク・インカ・ユパンキによって征服され、現ボリビアのアンデス地域はチリ、アルゼンチンの一部と共にタワンティンスーユ(四つの州)のコリャスーユに組み込まれた。16世紀に入るとヨーロッパ人のもたらした疫病と、クスコ派ワスカルとキト派のアタワルパの間の帝位継承を巡る内戦によってタワンティンスーユは衰亡していった。
一方タワンティンスーユの権威が及ばなかった現ボリビア東部の低地地方では、グアラニー人、アラワク人、チキート人などが狩猟や原始的な農耕によって生計を立てていた。
1492年のクリストバル・コロンによるアメリカ大陸「発見」後、スペイン人の征服者によって南アメリカ大陸の半分以上が征服された。タワンティンスーユも内戦による疲弊の末に1532年に皇帝アタワルパがカハマルカの戦いでスペイン人に敗れ、1533年にアタワルパ自身もフランシスコ・ピサロによって処刑され滅亡した。征服以降住民はスペイン人によってインディオ(インド人)と呼ばれるようになった。
スペイン王カルロス1世はペルーを北部と南部に分け、北をピサロに、南をアルマグロに分け与えることとし、この裁定に基づいて1535年には現ボリビアの領域にも征服者ディエゴ・デ・アルマグロが侵入した。しかし、アルマグロの侵入は大きな成果を得ず、アルマグロ自身もクスコ帰還後の1538年に、ピサロとの権力闘争に敗れて処刑された。アルマグロの処刑後、フランシスコ・ピサロは弟のゴンサーロ・ピサロをこの地の征服に派遣し、1538年にスペイン軍は征服に抵抗する首長アヤビリを破ってこの地を植民地化した。植民地化に伴って現ボリビアに相当する地域はチャルカス、アルト・ペルー(上ペルー)と呼ばれることになる。1540年にはチュキサカ市(現在のスクレ市。ラ・プラタ、チャルカスとも)が建設され、1545年には世界最大級の銀山ポトシが発見された。1548年にはアロンソ・デ・メンドーサによってヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パスが、1574年にはヘロニモ・デ・オソリオによってコチャバンバが建設された。1559年にはチュキサカにアウディエンシアが置かれ、この地はペルー副王領内のアルト・ペルー植民地としての体裁を整えることになった。1569年から1581年まで着任した第五代ペルー副王フランシスコ・デ・トレドによってこれらの植民地政策は確立され、エンコミエンダ制やミタ制などの制度も整備された。
東部では1561年にヌフロ・デ・チャベスによってサンタ・クルス・デ・ラ・シエラが建設され、ブラジル方面から侵入するポルトガル人勢力との戦いの前線基地となったが、インディオの征服が進まなかったために植民地時代末期までこの地の開発は遅れることになった。スペイン王権による東部の開発が進まなかったため、パラグアイからの延長としてイエズス会によるインディオへの布教村落が建設された。植民地時代には東部の管轄権は確定せず、チュキサカとアスンシオンが共に管轄権を主張していたが、明確な決定はなされなかったまま慣習的にアルト・ペルーの一部として扱われることなった。この帰属の曖昧さは後のチャコ戦争の遠因となった。
征服の初期はエンコミエンダを割り当てられた征服者(エンコメンデーロ)による気ままな支配が行われていたが、アルト・ペルーがスペイン王の植民地としての制度を整えたころから王によって任命されたコレヒドール(地方行政官)と、コレヒドールによって使役されるインディオのカシーケ(酋長)による支配体制が確立した。コレヒドールの給与は生活を送るには低すぎたために、多くのコレヒドールはレパルティミエント(商品強制分配)を利用してインディオに商品を不当な価格で売買し、私財を蓄えた。このことはインディオの怨嗟を招くと同時に植民地行政の腐敗の温床となった。植民地時代を通してコレヒドールはカシーケを通してインディオ共同体に多くの賦役、貢納を要請し、特に鉱山でのミタは多くのインディオに恐れられた。
ポトシ鉱山は1545年に現ボリビア共和国の南部に当たる地域に発見されたが、その豊富な銀を採掘するためにトレドの改革によって定められたミタ制によってティティカカ湖周辺やクスコから集められ、酷使された。トレドは1572年に水銀アマルガム法を導入して銀生産量を上げた。採掘のために酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どどれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくともインカ帝国時代に1000万を越えていた人口が1570年に274万人にまで落ち込み、1796年ペルーでは108万人になったといえば(数字はH.F.ドビンズの推計による) [1]、その凄まじさが理解できるであろう。ポトシの富は人間を集め、16世紀中に人口16万人を擁する、当時のロンドンよりも大きい西半球最大の都市となった。こうして採掘された銀は一端副王領を循環し、銀を中止とした植民地経済の形成が行われた後にパナマやカルタヘナ・デ・インディアスを通してスペインに送られ、スペイン王室や貴族の奢侈によって浪費された。このようにしてスペインに流出した銀は、スペインからオランダ、イングランド、フランスなどに流出し、ヨーロッパの価格革命、商業革命を支える原動力となった。更にこの銀はヌエバ・エスパーニャ副王領にまで流入し、メキシコ商人により、アカプルコとフィリピンのマニラを結ぶガレオン貿易によってアジアの清の製品を購入し、イスパノアメリカにもたらすために決済された。つまり、ペルー・ボリビアの銀はアジアにまで流出していたのである。インディオはこの鉱山のミタを恐れ、共同体を離脱するなどの手段によってミタを逃れるものも少なくなった。鉱山労働による酷使の他にもインディオはカトリック教会による改宗政策のために、それまで保っていたパチャママやインティへの信仰が迫害され、アイデンティティを大きく揺るがせることとなった。また、ボリビアにも少数ながらアフリカから黒人奴隷が連行され、ユンガスに文化的な影響を残している。
このような植民地時代の複雑な過程により、18世紀までにアルト・ペルーでも多くのラテンアメリカ諸国と同様にクリオージョ(現地生まれの白人)が大多数のインディオ、メスティーソ、黒人を支配するピラミッド構造の上に、ペニンスラール(本国から派遣されたスペイン人)の役人が君臨する社会体制が築かれた。そしてこのような植民地支配に対して、インディオやメスティーソやクリオージョはインカ王権にアイデンティティを求めて反乱を繰り返した。1730年にはコチャバンバでアレホ・カラタユーが反乱を起こし、1739年にはオルロでインカ王の子孫を名乗ったクリオージョのフアン・ベレス・デ・コルドバがインディオやメスティーソを動員して反乱を起こした。1742年にはアンデス山脈東嶺のセルバでフアン・サントス・アタワルパが反乱を起こした。これらの反乱はいずれも鎮圧されたが、やがてペルーのトゥパク・アマルー2世の反乱に繋がることになった。これらの反乱の背景には17世紀にインカ皇帝の子孫だったメスティーソのインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガによって著された『インカ皇統記』によって神聖化されたインカ王権のイメージの影響があったとされている。[2]
1759年に即位したスペイン王カルロス3世は衰退を迎えていたスペイン帝国の復興のために、1776年にボルボン改革を行い、その一環として植民地の再編を図った。1776年にはポルトガル領ブラジルからラ・プラタ地域(現在のアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイ)を防衛するためにリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領にはアルト・ペルーもが編入された。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は以降リマを介さずに、副王領の首都となったブエノスアイレスから直接ヨーロッパと貿易を行うことになる。その他にも新税の導入やレパルティミエントの腐敗を一掃するためにコレヒドール制に代わってインテンデンテ制が導入されたが、ペニンスラールを中心に据えた改革はクリオージョからインディオまで多くの植民地人に大きな不満をもたらした。このような状況の中で1780年、インディヘナやメスティーソは、白人支配層に対する反抗とスペイン王への忠誠を名目にトゥパク・アマルーの子孫だったトゥパク・アマルー2世を首謀者にした反乱を起こした。この反乱は当初は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第に反乱軍がスペイン王治下の改革からインカ帝国の復興に目標を変えて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失った。トゥパク・アマルー2世も部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。1781年にはアルト・ペルーでトゥパク・アマルー2世に呼応したトゥパク・カタリ(フリアン・アパサ)が反乱を起こし、二度に渡ってラパスを包囲したが、白人層やカトリック教会への苛烈な態度によって彼等の支持を得ることができず、カシーケの支持もなかったために同年捕えられて処刑された。
19世紀初めのナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変により1808年に半島戦争が始まり、スペイン本国にナポレオンのフランス軍が侵入して兄のジョゼフを国王に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。
アルト・ペルーでは1809年にチュキサカで小さな蜂起が起きた後、ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョがラパスに自治政府を創設した。これはキトと共にラテンアメリカで最も早いクリオージョによる自治運動であり、翌1810年のブエノスアイレス、カラカス、サンタフェ・デ・ボゴタ、サンティアゴ・デ・チレでの自治運動に先駆けるものであった。
しかし、同年中の王党派軍の侵攻により、自治政府は崩壊し、ムリーリョは処刑された。1810年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領の首都ブエノスアイレスで五月革命が勃発し、ポルテーニョによる自治運動が進むと、アルト・ペルーはリオ・デ・ラ・プラタ副王領から分離され、再びペルー副王領に組み込まれた。
ブエノスアイレス政府はスペインからの独立を維持するために、王党派に支配されたアルト・ペルー解放のために軍を送り、三度に渡る遠征を行った。マヌエル・ベルグラーノ将軍は1813年の第二次遠征でポトシを解放したものの、王党派軍に敗れ、逆に現アルゼンチンのサルタにまで侵攻された。1815年の第三次遠征でもブエノスアイレス軍はペルー副王アバスカルの強固な守りを破ることができなかった。
ベルグラーノが失脚すると、後任のサン=マルティン将軍のチリ解放作戦が優先されたため、ブエノスアイレスによるアルト・ペルー解放作戦は終焉したが、1816年7月9日のトゥクマン議会でリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された際、アルト・ペルー代表も議会に出席した。
その後暫くアルト・ペルーはペルーと共に王党派の牙城となり、1820年に本国スペインでリエゴ革命が勃発した後は本国で定められた立憲体制を拒否し、植民地支配の継続を図った。しかし、サン=マルティン将軍によって1818年にチリが、1821年にペルーが解放された後、ベネズエラから解放軍を率いたシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍が1824年にアヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナを破り、王党派軍が壊滅したことを受けて1826年にスクレ将軍がラパスに入城し、アルト・ペルーは解放された。
独立に際してアルト・ペルーの指導者はペルーともアルゼンチンとも連合することを望まなかったため、ボリーバルに懇願して独立の国家を形成することを望んだ。ボリーバルはこれを承諾し、1825年にボリビア共和国が成立した。