コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Ami du Peuple/sandbox


ルイ17世
Louis XVII
フランス国王 (その他)
ルイ17世

摂政 プロヴァンス伯爵ルイ・スタニスラス
先代 ルイ16世
次代 ルイ18世

先代 ルイ=ジョゼフ・ド・フランス

出生 (1785-03-27) 1785年3月27日
フランスヴェルサイユヴェルサイユ宮殿
死亡 (1795-06-08) 1795年6月8日(10歳没)
フランスパリタンプル塔
埋葬 1795年6月10日/1814年
フランスサン=ドニサン=ドニ大聖堂
実名 Louis-Charles
ルイ=シャルル
変名 カペーの餓鬼
王室 ブルボン家
父親 ルイ16世
母親 マリー・アントワネット
信仰 キリスト教カトリック教会

フランス国王の地位は、王政支持者が主張する名目上のものである。実際に即位した事実はなく、在位期間はない。呼称は、フランス国王としてはルイ17世、ナバラ国王としてはルイス6世。
ウィキメディア・コモンズ ウィキメディア・コモンズには、ルイ17世に関連するマルチメディアおよびカテゴリがあります。
テンプレートを表示

ルイ17世: Louis XVII, 1785年3月27日 - 1795年6月8日)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男で、兄の死により王太子ドーファンとなった。8月10日事件以後、国王一家と共にタンプル塔に幽閉されていたが、父ルイ16世の処刑により、王党派は彼が名目上のフランス国王となったと見なした。しかし解放されることなく2年後に病死した。

洗礼名によりルイ=シャルル・ド・フランス(Louis-Charles de France)とも呼ばれる[1]

生涯

[編集]

革命以前

[編集]

出生と同時にノルマンディー公爵の爵位を受け、兄ルイ=ジョゼフの夭逝後は王太子となった。姉はのちに従兄のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、ブルボン朝最後の王太子妃となるマリー・テレーズである。

第2王子として誕生を喜ばれ、「赤字夫人」とまで呼ばれたマリー・アントワネットも、子どもができると一時落ち着いた生活を送るようになったという。しかし、フランス王国絶対王政が次第に揺るぎ始めていた時代でもあったため、その人生は不運なものだった。短い幸せな宮廷生活では姉のマリー・テレーズと共に養育係のトゥルゼール夫人の娘ポーリーヌを慕い憧れた。4歳のとき兄が死亡し、わが子を亡くした悲しみからか、母マリー・アントワネットの浪費がより激しくなる。

フランス革命の勃発からルイ16世の処刑まで

[編集]

1789年7月14日フランス革命が勃発し、10月5日ヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリテュイルリー宮殿へ移った。身の危険を感じた国王一家は2年後の1791年ヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日タンプル塔に監禁された。このときルイ=シャルルは6歳だった。

タンプル塔に幽閉されると、父からラテン語フランス文学歴史地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いした。この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われ、庭への散歩も許可されており、ゲームで遊んだり、ルイ=シャルルの愛犬ココと過ごした。

1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベート王女と共に深々とおじぎをした。1月28日ヴェストファーレンにいた叔父プロヴァンス伯爵(ルイ16世の弟、のちのルイ18世)ら反革命派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。しかしルイ=シャルル本人は、革命まっただ中のパリで監禁された身では戴冠式を行うこともかなわなず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。[2]

恐怖政治下の監禁生活

[編集]

恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる。

7月3日、ルイ17世は家族と引き離され、エベールから命令を受けた靴屋のアントワーヌ・シモンの監視下に置かれた。シモンの扱いはひどく、みだらな言葉を教え込ませたり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませた。さらに、マリー・アントワネットが不利になる証拠を作るため、母や叔母から性的ないたずらをされたという書類に強制的に署名をさせた。タンプル塔の日の当たらない一室に押し込められ、1日1回食事を持った革命軍の人間が「カペーのガキ」とだけ言葉をかけて生存確認を取り、食事を置き、他には誰とも会話することもなかった。下痢が止まらなくなったが治療は一切されず、数ヶ月間シーツは交換されず、服も1年間着替えさせられなかった。排泄物も室内に放置されている有様だった。

やがてルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。サンキュロットたちに「ラ・マルセイエーズ」を教えられていたという説もある。スペイン外相とイギリス外相はタンプル塔のスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ、性病に感染させたという知らせを受けていた。1794年7月28日ロベスピエールが処刑された後、アントワーヌ・シモンもギロチンにかけられた。

国民公会末期のルイ17世とのその死

[編集]

ジャコバン派の旧貴族で、後に総裁となるポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだ。バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに、衰弱したまま横になったルイ17世を目撃した。その3日後、マルティニック島出身のローランという24歳の男が新たな牢番となった。

ローランはマリー・テレーズに依頼され、虫がたかったルイ17世のベッドを処分し、マリー・テレーズのベッドをルイ17世に使用させた。ローランはルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、室内の家具とカーテンの焼却を命じた。この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色の蚯蚓腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人で歩けなかった。

1794年11月8日国民公会はルイ17世の世話をゴマンという男に命じる。ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。11月の末に役人のデルボイがルイ17世の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じた。ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。

1795年3月31日、牢番がエティエンヌ・ラーヌに交代した。5月8日にピエール・ジョゼフ・ドゥゾー医師によるルイ17世の診察が許可され、その後ジャン・バティスト・ウージェニー・デュマンジャン医師とフィリップ・ジャン・ペルタン医師が治療に加わったが、6月8日にルイ17世が病死しているのが見つかった。死因は結核とされているが、他にも多くの伝染病に感染していた。遺体には疥癬腫瘍が見つかったという記録がある。検視はペルタン医師が行い、心臓を切り取り持ち出した。国民への発表は4日後に行われ、遺体は共同墓地に葬られた。わずか10歳であった。

ルイ17世への虐待に加わった者たちは苦しんだ。夫婦でタンプル塔で働いていたティゾン夫人は神経衰弱となり、その後何年間も、自分はルイ17世脱出の手助けをしたと主張した。靴屋のシモン夫人は、ルイ17世の死後20年以上経過してから「施療院の自分の部屋にルイ17世がやってきた」と言い出した。毒殺説も流れたが、ベルタン医師が否定した。後にルイ17世の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と述べた。

生存説とその否定

[編集]
サン=ドニ大聖堂にあるルイ17世の心臓[3]
1894年6月5日の鑑定の様子[4].

多くの悲劇の人物と同様に、死後、『ルイ17世の遺体は明らかに15歳くらいの少年のものであった』、という根拠のない風説が立ち、「ルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という噂が立った。そのためご多分に漏れず、ブルボン家の財産を目当てにして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが後を絶たなかった。

フランス北東部のシャロン=シュル=マルヌ付近で発見されたジャン・マリー・エルヴァゴーという少年は、牢番がかごに入れ脱走させたルイ17世だ、という噂が流れ、総裁政府やフェルセン伯爵までもが振り回された。中でもドイツに現れたカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフ[5]という人物は有名であるが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。

1814年、復古王政期に改葬された際、遺体の捜索が行われた。ルイ16世、マリー・アントワネット、エリザベート王女(伯母)の遺体は他とは別に埋葬されていたために証言で発掘できたが、サント・マルグリット共同墓地にあるとされたルイ17世の遺体については証言が曖昧であったため、発見できなかった。このことも、別人とすり替わったのではないかと憶測される原因となった。

1846年に再調査されて少年の遺体が発掘されたが、(当時DNA検査の技術がなく)やはり遺体がルイ17世のものか確証がなかった。1894年6月5日、痛んだ遺体は専門家によって、十代の少年の遺体には見えない、少なくとも16歳以上の男性のものと鑑定されて議論を呼んだ。

しかし2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世と思われる遺体と心臓[3]のDNA鑑定がなされた。しかし遺体の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった(マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の人物との比較でDNA鑑定は行われた)。その結果は「タンプル塔の遺体はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定された。

これでフランス王家の墓があるサン=ドニ大聖堂に埋葬されることになり、遺体は既にあった碑銘の場所に収められることになった。

脚注・出典

[編集]
  1. ^ しばしば王族のなかでは、兄をルイ王子というのに対して、彼はシャルル王子と略称されることがある
  2. ^ 後に復古王政は、既に亡くなったルイ17世の即位を正式なものであるように儀式を行った。このためプロヴァンス伯爵はルイ18世との名乗りを変えずに、改めて即位する。ルイ17世は即位と統治の実態が全くないが、フランス・ブルボン家の論理では、ルイ17世は正統な国王である。
  3. ^ a b 検視に立ち会った医師のフィリップ=ジャン・ペルタンが、心臓を取りだしてハンカチに包んで隠し、アルコール溶液に浸した保存したと伝えられるもの
  4. ^ Félix De Backer, Louis XVII au cimetière de Ste-Marguerite - Enquêtes médicales, Paris, Paul Ollendorff, 1894.
  5. ^ Karl Wilhelm Naundorff

参考文献

[編集]
  • 「マリー・テレーズ 恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命」スーザン・ネーゲル 著、櫻井郁恵 訳 ISBN 978-4-7733-7678-4