利用者:野比のび助/sandbox
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駿河三浦氏(するがみうらし)は、中世に活躍した武家の一族である。今川氏の重臣である[1]。
概要
[編集]今川氏の重臣に三浦氏がいる。もっとも、今川氏に仕えた三浦氏には何流かがあったようで、そのことは、『今川記』『改正三河後風土記』『甲陽軍鑑』などの軍記物に三浦氏の名が多く散見できることでもわかる。「今川氏重臣三浦氏の系譜的考察(小和田哲男氏)」では、今川氏の重臣三浦氏を次郎左衛門家、小次郎家、縫殿右衛門家の三つの系統に分類されている。『寛政重修諸家譜』によれば、三浦介義村の長子朝村に発する後裔が次郎左衛門家であると思われる。『系図纂要』には、三浦朝村の子は三浦氏村、[[三浦朝氏[[、三浦員村とし、いずれも宝治合戦において、三浦宗家の三浦泰村とともに自害したとされ、朝村の子に「寛政譜」にあるような三浦朝村の子三浦朝信の名は見えない。ところが、「纂要」には三浦胤村の孫の三浦幸村の弟三浦家村の子に八郎朝村の名が見える。しかし、この三浦朝村のあとはいずれの系譜にもみえないが、この三浦朝村も次郎左衛門家の祖ではないかと考えられる。このように、三浦朝村の出自に関しては疑問が多く、父とされる三浦朝村が駿河小次郎兵衛・駿河守を称していることから、三浦朝村の子が駿河国にあり、三浦朝信なる子があったのかもしれない。三浦朝信以降は下記参考系図のように「寛政譜」は掲載している。しかし、戦国時代のところでも諸系図によって若干の異同があり、いすれが正しいのかは詳らかにはできない。南北朝時代初期の三浦宗久は、三浦左衛門尉を称して足利氏に属し、功を挙げ、正平七年(1352年)九月、駿河北安東荘の半分を領したとされる。さらに、「鎌倉大草紙」に禅秀の乱のとき、堀越公方方として今川範政がみえ、「…去程に今川勢三島に陣をとる。先陣は葛山同荒河治部大輔、大森式部大輔。今川門族瀬名陸奥守、足柄を越えて曽我中村を攻め落とし小田原に陣をとる。朝比奈氏、三浦氏、北条氏、小鹿氏、箱根山を越え衆徒と…」とあり、ここに出る三浦は、三浦半島の駿河ではなく、駿河の三浦氏をいうものと思われ、三浦宗久のあとの三浦高久か三浦範永に比定される。今川範政のあとを継いだ今川範忠は、永亨三年(1431年)六月、狩野・興津・三浦・近藤・富士大宮司の諸豪族が反抗したことから、室町幕府は今川薩摩守に命じて今川範忠を支援させた。しかし、薩摩守は諸豪族に与し、逆に今川範忠を攻めた。「嶽南史」は、今川範忠がこれを平定したと記している。ここにみえる三浦氏は三浦範永か三浦範忠であろうと思われる。以上のことなどから、次郎左衛門家は三浦朝信の孫三浦宗久の頃から、駿河の安東荘の国人領主として成長し、今川五代の今川範忠が駿河に進出したのちに、今川氏に属し被官化していったようだ。そして、次郎左衛門家は瀬名氏・朝比奈氏らとともに、今川家の重臣として用いられるようになった。応仁の乱が起こり、今川義忠は東軍細川勝元側につき、三河・遠江の斯波氏方と戦った。文明七年(1475年)の春、遠江の横地四郎兵衛、勝間田修理亮らが西軍に荷担して謀叛を起こした。今川義忠はこれを討つため駿河を立ち、久野佐渡守、奥山民部少輔、杉森外記、三浦次郎左衛門、岡部五郎兵衛らが五百余騎で従軍し、横地と勝間田の城を攻め落とした。ところが、この戦の凱旋の途中で、今川義忠は一揆の流れ矢にあたり討死をしてしまった。二十八歳の若さであった。今川義忠の横死後、今川氏は後継争いが起こり、今川義忠の嫡子竜王丸を擁する瀬名氏・関口氏・入野氏らと、一族で今川義忠の従兄弟に当たる小鹿範満を推そうとする三浦氏・朝比奈氏・庵原氏らの二派に分かれての抗争が始まった。この抗争は、竜王丸の伯父にあたる伊勢新九郎の奔走により、嫡男の今川氏親が成長するまで、小鹿範満が家督を代行するということで一応の収まりを見せた。ここに出た三浦氏は三浦範高であろう[2]。
系図
[編集]駿河三浦氏の系図[3][4]。三浦朝信の父は二人のうちのどちらかである。
三浦義村 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦泰村 | 三浦胤村 | 三浦朝村 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦景村 | 三浦頼村 | 三浦氏村 | 三浦朝氏 | 三浦朝信 | 三浦員氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦幸村 | 三浦維村 | 三浦家村 | 三浦朝久 | 三浦忠氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦貞村 | 三浦有村 | 三浦基村 | 三浦朝村 | 三浦宗久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦高久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦範永 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦範高 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦氏員 | 三浦範時 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦正勝 | 三浦貞勝 | 三浦氏満 | 三浦氏俊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦正次 | 三浦直信 | 三浦氏正 | 三浦氏義 | 三浦儀持 | 三浦儀俊 | 三浦氏秀 | 三浦氏忠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦正之 | 三浦久儀 | 三浦義武 | 三浦忠俊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三浦正定 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/to_miura.html
- ^ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/to_miura.html
- ^ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/to_miura.html
- ^ https://reki-historia.com/2022/01/19/miurayosimura-wives/#toc8