利用者:赤の旋律/下書き/ジブラルタルの歴史
as of 17:08, 19 August 2013
ジブラルタルの歴史では、南部イベリア半島の海岸にあり地中海の入り口となっている小さな半島ジブラルタルの、2900年あまりの歴史について扱う。ジブラルタル半島は、古代には神聖な地であったが、今ではある歴史家をして「ヨーロッパで最も密に要塞化され、またその地をめぐって戦われたことの多い場所」と言わせるに至った[1]。ジブラルタルはその位置故にヨーロッパの歴史の中で大きな重要性を持ち、中世に作られた要塞都市は何世紀にもわたって数多くの包囲と戦闘を受けた。
ジブラルタルには5万年以上前ネアンデルタール人が初めて住み着き、彼らは2万4千年前に絶滅するまでジブラルタルに住んでいたかもしれない。記録された歴史としては、近隣に入植したフェニキア人による記録が紀元前950年に残されている。後のカルタゴ人とローマ人は、彼らがMons Calpe(神聖な山)と呼び、ヘラクレスの柱の一つと考えたジブラルタルの岩に建てられたと言われる神殿でエルキューレを崇拝した。
ジブラルタルはローマ帝国の崩壊後、ヒスパニアの西ゴート王国の一部となり、711年からはイスラム教徒のムーア人の下に統治された。 ジブラルタルは初めてムーア人によって恒久的に入植され、Jabel Tariq(Tariq山)と改称された。その後「ジブラルタル」と転訛した。カスティリヤ王国が1309年にジブラルタルを征服したが、1333年にはムーア人に奪回され、1462年に再び征服した。ジブラルタルは統合されたスペイン王国の一部となり1704年までスペインの統治下にあった。スペイン継承戦争の間にスペイン王位を主張したカール6世の名のもとにイギリスとオランダによって占領され、1713年のユトレヒト条約によってスペインからイギリスに譲られた。
イギリスが王室領土と宣言したジブラルタルをスペインは軍事的、外交的、経済的圧力を持って取り返そうとした。スペインはイギリスとの3つの戦争の間にジブラルタルを包囲し、激しく砲撃を加えたが、その度に撃退された。18世紀後半の最後の包囲の終わりまでに、ジブラルタルは500年で14回もの包囲を受けている。トラファルガーの海戦後の数年間、ジブラルタルは半島戦争での主要な基地となった。19世紀から20世紀前半の間にジブラルタル植民地は急速に成長し、イギリスの地中海領土の最も重要なものとなった。スエズ運河を経由してインドへ至る船舶の重要な寄港地だったのである。19世紀の終わりには巨費を投じてイギリス海軍の基地が建設され、ジブラルタルの経済の背骨となった。
イギリスのジブラルタル統治によって第二次世界大戦の間連合軍は地中海の入り口を抑えることができた。ジブラルタルはドイツやイタリア、ヴィシーフランスの軍に何度か攻撃されたが、大きな被害は受けなかった。スペインの独裁者フランコ将軍はドイツのジブラルタル占領計画に加わることを拒否したが、戦後ジブラルタルに対する領有権を再び主張した。領土紛争が大きくなるにつれ、スペインは1969年から1985年に渡ってジブラルタルとの国境を封鎖し、通信リンクは制限された。スペインの立場はラテンアメリカ諸国から支持されたが、イギリスと、自決の権利を強く主張するジブラルタルの住民自身は要求を拒否した。スペインとイギリスの間の議論は未だに続いており、全く結論には達していない。
1985年からジブラルタルは、イギリスの海外派兵が小さくなった結果として、大きな変化を経験している。イギリスの軍の多くはジブラルタルを去り、ジブラルタルはもはや大きな軍事的重要性を持つとは見られなくなった。その経済は今では観光や金融サービス、海運、インターネットギャンブルに頼っている。ジブラルタルは大きく自治を認められており、自身の議会と政府を持つが、防衛と外交に関してはイギリス政府が責任を保持し続けている。ジブラルタルは経済的に成功し、ヨーロッパ連合の中で最も豊かな地域の一つとなっている。.
地理的背景
[編集]ジブラルタルは地中海の入り口に近いことから戦略的要衝となっている。ジブラルタルはジブラルタル湾の東側にある細い半島で、アルヘシラスの街から6.4kmのところにある。スペインの南端の海岸に位置し、地中海の最も狭いところの一つであり、北アフリカにあるモロッコの海岸からわずか24kmしか離れていない。その湾内の位置故に天然の良投錨地となっている[2]。ある作家が次のように書いている。「ジブラルタルを支配する者は地中海に出入りする船の動きをも支配する。軍事力、海軍力の観点から言えば、ジブラルタルよりもより重要な戦略的な位置にある場所はほとんどない。 」[3]
ジブラルタルの面積はたった6.7平方キロしかない。土地のほとんどは426mの高さがあり急勾配なジブラルタルの岩によって占められている。ジブラルタルの待ちは半島の西部の岩の麓に位置している。狭く低い地峡によってジブラルタルはスペインとつながっている。岩の北側はほとんど垂直な崖で、396mの高さから地峡を見下ろしている。街に陸地から行く唯一の方法は、350mほどの幅の海岸沿いの細い土地を通ることである。この土地は20世紀に海から埋め立てられるまでは、今よりずっと狭かった[2]。
ジブラルタルはその地理的要因によって天然の大きな防衛上の利点を得ている。ほぼ垂直かそれに近い、ジブラルタルの岩の東側と北側を登ることは事実上不可能で、南部は比較的平坦なエウロパ・ポイント周辺の土地も30mほどの崖によって囲まれている。西側が唯一現実的な上陸場所となるが、この場所でも街の建てられている急勾配の坂道が防衛するものの味方をしている。これらの要因によって何世紀にも渡ってジブラルタルは非常に大きな軍事的重要性を持っていた。[2]
先史と古代史
[編集]先史時代のジブラルタルの見た目は今のものと大きく異なっていた。今では海に囲まれているが、そのころは極地を覆う氷がずっと大きかったため、海面水位がずっと浅かった。また現在の半島は海岸沿いの肥沃な平原に囲まれていて、湿原と砂丘によって豊富な種類の動物と植物が育まれていた[4]。
ネアンデルタール人がジブラルタルの岩の周りの洞窟に住んでいたことがわかっている。1848年に岩の北面にあるフォーブス採石場でネアンデルタール人の化石が世界で2番めに、大人の頭蓋骨としては初めて発見された[5]。 頭蓋骨がネアンデルタール人のものと認識されていれば、ネアンデルタール人という種はジブラリタリアンという名を付けられていたかもしれない[6]。頭蓋骨の年代ははっきりしないが、約5万年前の最終氷期の始まりごろではないかと言われている[7]。
他のネアンデルタール人の化石がデビルズ・タワーの岩や、ジブラルタルの東側のアイベックス、ヴァンガード、ゴーハム洞窟といった場所で見つかっている[8]。ゴーハム洞窟での発掘ではネアンデルタール人の居住が2万8千年前から2万4千年前ほどまであった証拠が発見され、これはヨーロッパの他の地域ではすでに死滅していたと考えられていた時代より大きく新しい[4]。またジブラルタルの洞窟はネアンデルタール人が絶滅した後も、ホモ・サピエンスによって使用され続けた。4万年前から5千年前ごろに遡る石器や炉床、動物の骨がゴーハム洞窟からは発見されている[9]。加えて新石器時代以降の無数の陶器片がジブラルタルの洞窟では発見されており、その型の多くはアンダルシアで発見されたアルメニアン文化に典型的なものであった[10]。洞窟には青銅器時代に居住されていたという証拠は少なく、これは人々が洞窟に住むのをほとんどやめたことによるものであろう[11]。
古代、地中海の民によってジブラルタルは信仰的、象徴的重要性を持つ場所とみなされていた。フェニキア人はゴーハム洞窟をゲニウス・ロキへの神殿として用いながらジブラルタルに暮らしていたようであるし[12]、その後のカルタゴ人や古代ローマ人も同じようにしていた。 洞窟内の発掘によって、おそらく危険なジブラルタル海峡を通過する際の安全を祈るための神への捧げ物として残された陶器、装身具や古代エジプト人のスカラベ像などが見つかっている[9]。
ジブラルタルの岩はギリシア人やローマ人によってヘラクレスの柱の一つとして崇められていた[13]。ヘラクレスの柱とは彼の12の功業のうちの10番目、ゲーリュオーンの牛を取りに行く際に、彼が大西洋と地中海を隔てていた山を粉砕した時に作られたと言われるものである。紀元前6世紀に訪れたポカイアのギリシア人旅行者によれば、ジブラルタルの岩にはそこを通る旅行者が犠牲を捧げる神殿と祭壇が存在したという[14]。スペイン人は後にヘラクレスの柱の重要性を象徴化して、2つの円柱に装飾が巻き付いている図案を作った。これは後に$やポルトガルのシフラン()へと変化した[1]。
古代ローマ人には、フェニキアの言葉Kalphに由来しジブラルタルの石灰岩洞窟を見るに「くり抜かれた」を意味するMons Calpeとしてジブラルタルは知られていた[15]。また古代の地理学者にもよく知られていたが[16]、 古代から恒久的な入植がされていたという考古学的証拠はない[17]。ローマの作家アウィエナスによれば、ギリシア人の旅行家エウクテモンが下のように記したという。
ジブラルタルは古代以降の入植を妨げる不利な点を多く持っており、つまり宗教的な理由に加え、世俗的に入植を避ける理由もあった。簡単に淡水を手に入れることができなかったし、肥沃な土や海岸沿いにある安全な自然の停泊地も欠いていた。アウィエナスはジブラルタルに上陸しない理由として、「喫水が浅く海岸が深い泥に覆われていた」ことを挙げている。後にジブラルタルの大きな戦略的強みとなったその地理的位置は、古代の国家が地中海の入り口をめぐって争わなかったように、古代においては重要な要素ではなかったのである[18][19]。
これらの理由から、今ではカンポ・デ・ジブラルタルとして知られる地域のジブラルタル湾の後背地に古代人は居住した[19]。 近代のスペインの街サン・ロケの近く、原住民のトゥルデタニ族の居住地であった場所に、紀元前950年ごろフェニキア人によってクァルテイラの街が建てられた[20]。街は紀元前228年にカルタゴ人によって占領され、紀元前206年にはローマ人のものとなった[21]。後に街は当時地中海を荒らしていた海賊に対するポンペイウスの紀元前67年の作戦の西部拠点となったが[22]、ヴァンダル人がローマ領ヒスパニアを通ってアフリカへ向かう中で409年に街が荒らされると、街はそのまま見捨てられた[23]。 その後辺りの地域はキリスト教化した西ゴート王国の領土となった[24]。
イスラム教徒の統治 (711年から1309年、1333年から1462年)
[編集]681年、ウマイヤ朝の軍隊がアラビアの本拠地から北アフリカ、中東、西アジアの大部分を征服するため拡大し始めた。彼らはイスラム教をその活力の源とし、征服した現地の人々をイスラム教へと改宗させていった。キリスト教徒からはムーア人と呼ばれた北アフリカのベルベル人は、そうしてイスラム教徒となった。ジブラルタル海峡は北アフリカのイスラム教徒とヒスパニアのキリスト教徒がぶつかる最前線となり、新たな戦略的重要地となった。その後ヒスパニアでは8世紀には西ゴートの他の勢力が王国の王座をめぐって内戦に突入し、これによってムーア人はヒスパニアを侵略する好機を得て、分裂した西ゴート王国を分割しながら征服していくこととなる[25][26]。
710年に西ゴート王国を襲撃したのに続いて、優位に立っていたターリク・イブン=ズィヤード指揮下にあるベルベル人のウマイヤ朝軍は北アフリカを通過し、711年の4月にジブラルタルの近辺に上陸した (おそらく湾やジブラルタルの岩そのものに上陸したのではないだろう)[25][26]。ターリクの遠征は非常に良い結果を出し、そのおかげでウマイヤ朝はイベリア半島のほとんどをその支配下に置くことができたが、彼はアラブ人の将軍ムーサ・ブン・ヌサイと対立し不名誉にその生涯を終えた[27]。いずれにせよ彼の征服によって、ジブラルタルはMons Calpeから、後に「ジブラルタル」と転訛することになるJabel Tariqへとその名を変え、今でも残る遺産を得ることとなった[15]。
ジブラルタルはアラゴン王国とカスティリャ王国の海上からの脅威に対応するため、ムワッヒド朝のスルタンアブドゥルムウミンによって1160年に初めて要塞化された。ジブラルタルはジュベル・アル・ファトフ (勝利の山)と改名されたが、この名前は長続きしなかった[15]。また、ジブラルタルの岩の斜面に、要塞化されマディーナ・アル・ファトフ (勝利の街) と名付けられた街が建設されたが、考古学的証拠が不十分なため、どれほどの規模で街が建設されたかははっきりしていない[28]。
13世紀終わりから14世紀初めにかけて、ジブラルタル海峡の支配権を得ようと、モロッコのマリーン朝とグラナダのナスル朝がジブラルタルの要塞をめぐって戦った。この紛争(スペイン語: la Cuestión del Estrecho)はキリスト教徒のレコンキスタの歴史の中で大きな一区切りとなっている。マディーナ・アル・ファトフの街が作られた後のジブラルタルの文書的記録は残っていないが、この小さな要塞都市がジブラルタルに残っていたこと、1292年にタリファが陥落したことに直接の影響を受けたことは明らかとしてよいだろう。 キリスト教徒のサンチョ4世は、タリファの街を陥落させたが、これはマリーン朝がイベリア半島と連絡をとることを妨げるため、アルヘシラスへの包囲を行おうとしたものと思われる(実際にはそうはしなかった)。キリスト教徒の要塞がアルヘシラスを脅かすように西に存在するようになったことで、アルヘシラスの東に守備隊を置く必要が生じた。アルヘシラスが陥落した際には、ジブラルタルは後衛となり、撤退先と見込める。また同時にジブラルタルの岩はその高さのお陰で、キリスト教徒の艦船がジブラルタル海峡を通過するのを見張る絶好の場所となっていた[29]。
ジブラルタルがその防衛力を初めて試されたのは1309年のことだった。この年カスティリャのフェルナンド4世とアラゴンのハイメ2世が連合し、東のアルメリアと西のアルヘシラスを狙って、ジブラルタルから湾を横切ってイスラム教徒のグラナダを攻撃した[30]. 1309年6月にはカスティリャ王国がアルヘシラスとジブラルタルの両方に包囲を展開した。この時ジブラルタルには1200人ほどの人口があり、城と初歩的な要塞化だけがなされていた。これらはカスティリャの攻撃に耐えるに十分でなく、一ヶ月後ナスル朝の指揮官は降伏した[31]。フェルディナンドは翌年2月アルヘシラスへの包囲を諦めたが、ジブラルタルは保ち続け、ムーア人を追放してキリスト教徒を代わりに街へ入れた。カスティリャの領土の安全を守るため、見張り台と造船所が彼の命令で建設され[32]、更にフェルディナンドは当初特別住みやすい場所とは考えられていなかったジブラルタルに人々を入植させるため、住民に特許状を発行した[33]。
1315年、グラナダのナスル朝のムーア人はジブラルタルを取り返そうと包囲を行ったが、カスティリャの救援部隊が現れると簡単に諦めてしまった。18年後には、ナスル朝のスルタンムハンマド4世とマリーン朝のアブー・アルハサン・アリーが協働し大軍を以ってジブラルタルを包囲した[34]。今回はカスティリャ王国内で反乱の危険があったため、カスティリャ王アルフォンソ11世は救援部隊を数ヶ月間送ることができなかった。結局救援部隊は1333年の6月に到着したが、ジブラルタルの住民たちは飢えから既にアリーに降伏することを選んでいた[35]。カスティリャ人達はジブラルタルに篭った敵を攻囲する必要があったが、ムーア人の防衛を突破することができず、膠着状態に陥ったため、相互に譲歩し4年間の停戦を決めて交戦を止めた[36]。
アブー・アルハサン・アリーは次の戦争を見越して、アラブ人の歴史家が「光輪のような厚い壁が三日月を囲んでいる」と言ったような形でジブラルタルを補強した。次の戦争は1339年に正式に始まったが[37]、彼の軍隊は1340年8月のリオ・サラドの戦いで壊滅的な敗北を喫し、アルヘシラスへ退却した[38]。カスティリャ軍は2年間にわたってアルヘシラスの街を包囲し、最終的に降伏させることができたが、ジブラルタルはムーア人の手の中に残った[39]。アブー・アルハサン・アリーによって新たな壁、塔、倉庫、城が建設されたことでジブラルタルの防衛力は大きく向上し、これによって占領は大きく難しくなった[40]。 アルフォンソ11世は、アブー・アルハサン・アリーの死後1349年に再びジブラルタルを包囲したが、1350年に黒死病が流行し始めたことで、兵士の多くが死亡し、彼自身も命を失ったことで、この包囲も失敗した[41]。
ジブラルタルは1462年までムーア人の掌中にあったが、グラナダのナスル朝とフェズのマリーン朝との間でその帰属が争われた。1374年、おそらくモロッコでの反乱鎮圧にナスル朝が軍事的支援をしたことの対価として、マリーン朝はナスル朝にジブラルタルを譲った[42]。ジブラルタルの守備隊は1410年にナスル朝に対して反旗を翻したが、ナスル朝の軍隊が次の年の短い包囲の後に取り返した。ジブラルタルはその後ナスル朝にキリスト教国の領土を荒らすための拠点として使われ、これに駆り立てられたエンリケ・ペレス・デ・グスマンが1436年に7回めの包囲を行ったものの、この包囲は酷い結果に終わり、大きな犠牲者を出しながら撃退され、かつ彼自身も海から逃げようとする間に溺れて死亡した。彼の死体はムーア人に取られ、首を切られて22年もの間ジブラルタルの壁に吊るされた[43]。
1462年8月にタリファのアロンソ・デ・アルコス指揮下のカスティリャ軍の小部隊が奇襲を仕掛けると、ムーア人のジブラルタル統治は終わりを告げた。ジブラルタルの指揮官と住民がナスル朝の新しいスルタンに臣従の礼を行っている時にカスティリャ軍は攻撃を開始し、短時間の攻撃で防衛側は大きな損害を与えられ、守備隊はエンリケ・デ・グスマンの息子で最初のメディナ=シドニア公であるフアン・アロンソ・ペレス・デ・グスマンに降伏した。ムーア人の居住者は再びひとまとめに追放され、キリスト教徒が代わりに居住し始めた[44]。
カスティリャ王国とスペイン王国の統治 (1462年から1704年)
[編集]再びジブラルタルを手に入れてすぐ後、エンリケ4世はジブラルタルを王室領と宣言し、以前のカスティリャ統治の間に与えられていた特権を再び与えた[45]。1463年にジブラルタルを訪れてから4年後、彼は貴族階級と聖職者たちから強いられて退位を余儀なくされ、彼の異母弟アルフォンソが王位を宣言し、彼を支援したメディナ=シドニア公にジブラルタルを与えて報いた[46]。退位させられたエンリケ4世に忠実だった当時のジブラルタルの統治者は、ジブラルタルをメディナ=シドニア公に渡すのを拒んだ。1466年4月から1467年7月にかけての15ヶ月にわたる包囲の後、メディナ=シドニア公は街を手に入れたが、彼は次の年に死亡し、その息子エンリケが、再び王位に就いたエンリケ4世によって1469年にジブラルタルの領主として認められた[46]。1474年には新しいメディナ・シドニア公が、2年間街の守備隊を維持することと引き換えに、ペデロ・デ・エレーラに率いられ、コルドバとセビリャからやってきたユダヤ人コンベルソの集団にジブラルタルを売却したが、その後4350人のコンベルソが公によって追放されている[47][48]。1478年にイザベル1世から公にジブラルタル侯国が与えられたことで、公の地位は更に強化された[49]。
1492年1月2日、5年間の戦争を経てグラナダが陥落したことで、イベリア半島にムーア人の国はなくなった[50]。ジブラルタルのユダヤ人は、王国内の他地域と同様、その年のカスティリャ王による布告によって、スペインから追放された。ジブラルタルはメディナ=シドニア公によって1497年のメリリャ占領への基地として使われた。2年後には、グラナダに残っていたムーア人もキリスト教に改宗するか、退去するかの選択を迫られた。ムーア人の中には改宗した者もいたが、ほとんどは北アフリカへ移ることを選び、この移ったムーア人の多くはジブラルタルを経由している[51]。
ジブラルタルは1501年にイザベラの命令で再び王室領となり、次の年には新しい王家の紋章がジブラルタルに授けられた。これは現代のジブラルタルでも、メディナ=シドニア公のものの代わりに使われている。紋章に付随する許可証の中で、イザベラはジブラルタルの重要性を「東の海と西の海(大西洋と地中海)にあるこれら我々の王国の間での鍵」として強調した。この比喩は紋章の中では胸壁のある城の正面入口に吊るされている黄金の鍵として表現されている。認可証では、「ジブラルタルを所有して、住民自身のものとして住民自身の手で管理させる状態を保つ。- カスティリャの王冠からはこれに対するいかなる侵害もなされない」[52]ようにすることをすべての将来のスペイン王に課している。
当時においては、ジブラルタルは単なる半島だけでなく、ラ・リネア・デ・ラ・コンセプション、サン・ロケ、ロス・バリオス、アルヘシラスの都市が現在存在する、半島の周囲の土地すべてを意味した。東側ではジブラルタルはグアディアロ川によって区切られており、北側の境はカステリャール・デ・ラ・フロンテラ、ヒメナ・デ・ラ・フロンテラ、アルカラ・デ・ロス・ガズレス、メディナ・シドニア、タリファのあたりにあった。16世紀からは、特にジブラルタルの街と半島を指すような、現在と同じような意味で使われるようになった[53]。
スペイン王家の統治下で、ジブラルタルの街は深刻な衰退に陥った。スペインでのイスラム教徒の統治が終わり、キリスト教徒が南部の港を掌握したことで、ジブラルタルの戦略的価値は非常に大きく減衰した。マグロ漁業とワイン産業からわずかな経済的価値が生まれていたが、要塞としての価値は限られていた。ジブラルタルは岩がちの岬に建てられた平凡な要塞という位置づけに変えられてしまい、地域での首位港としてはマルベーリャが取って代わった[54]。
ジブラルタルはその住みにくい地形ゆえ居住場所としては人気がなかった。人口を押し上げるため、グラナダ王国の受刑者たちが、牢で刑期を過ごす代わりに、ジブラルタルの守備隊として勤め上げることができるようになされた[55]。魅力的な場所とは見えないにもかかわらず、3代目メディナ=シドニア公ジュアン・アルフォンソ・デ・グスマンは街の支配権を取り戻そうとした。イザベラの死に続く1507年9月、公はその軍の前にジブラルタルはすぐ城門を開けるだろうと期待して、ジブラルタルを包囲したが、城門は開かず、4ヶ月にわたって実入りのない妨害を行った後、ジブラルタルを奪おうという試みを断念した。ジブラルタルはその忠実な行動がスペイン王に認識され、「最も忠誠である」という称号を授かった[56]。
ベルベル人の海賊による襲撃と他のヨーロッパ諸国との戦争
[編集]外部からの脅威が残っているにもかかわらず、スペイン王はジブラルタルを放置し続け、その要塞は修繕がなされていない状態に陥った。1540年の9月、防御施設が弱くなっていたのに乗じて、北アフリカから来たベルベル人海賊がジブラルタルを襲撃し、ジブラルタルの何百もの住民が人質や奴隷として連れ去られた。聖母マリア教会は荒らされ、価値のあるものはすべて盗まれてしまった。後に、アルボラン島の近くで、身代金が払われた人質をジブラルタルへ返す途中の海賊船を、バーナディーノ・デ・メンドーザの指揮するスペイン艦が迎撃した際に捕虜の多くは解放された。スペイン王は遅まきながらも、ジブラルタルの岩の南側を管理するためカルロス5世の壁を建て、イタリアの技術者ジョヴァンニ・バッティスタ・カルヴィに委託して要塞の他の部分を強化させることで、ジブラルタルの脆弱さに対策を講じた[57]。
ベルベル人の海賊の襲撃が続いたため、続く数十年の間ジブラルタルの周囲の海は危険な状態にあった。スペインのガレー船の小艦隊がジブラルタルの港に基地を置いて海賊に対応したものの、限られた効果しかなく、多くの住民が海賊に誘拐され奴隷として売られた。スペインが60万人ものモリスコ、つまりキリスト教に回収していたムーア人を追放した1606年以降、海賊問題は大きく悪化した。追放された者の多くはジブラルタルを通って北アフリカへと脱出したが、彼らは結局キリスト教徒の奴隷として、もしくは再度改宗したイスラム教徒として海賊に加わり、遠くはイギリスのコーンウォールまでをも荒らした[58]。
ベルベル人海賊に加えて、北ヨーロッパのスペイン敵国の船も脅威となった。1607年5月5日、八十年戦争の間、提督ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルクに率いられたオランダの艦船がジブラルタル湾に停泊していたスペイン艦を待ち伏せした。この戦いで、艦の損失はなし、人的損失もわずかながら、スペインの艦船をすべて破壊、3000人もの被害を与えるという圧倒的な勝利をオランダ軍は収めた[59]。スペインとオランダは一時的な平和条約を1609年に結んだが(12年停戦協定)、1621年にオランダとデンマークの連合艦隊がジブラルタル海峡に来、スペイン船に攻撃を加えると、敵対関係に戻った。1621年の戦いでは、スペインは連合艦隊の船を沈め、もしくは捕獲し、他を撃退することに成功した[60]。
イギリスの軍事的存在がジブラルタルで短時間ながらも確立されたのは1620年が初めであった。イギリスとアイルランドの海岸を荒らしていたベルベル人海賊に対する作戦基地としてジブラルタル港を使う許可をスペインはイギリス艦船に与えた。イギリスにはマグレブの海岸に対してではなくスペインに対して船を向けようという野望をもった者もいた。しかし、ジェームズ1世はスペインに宣戦布告させようとする議会の圧力に抗うことに成功し、イギリス艦をイギリスへ戻らせることができた[60]。チャールズ1世が1625年に王位を継ぐと、2隻目のイギリス艦が「(スペインの海岸沿いにある)街を占領するか略奪せよ」という指示のもとスペインに送られた。小規模で、簡単に守備や補給が可能、かつ高い戦略的価値を持つ場所であったジブラルタルは、その中で目標とされた都市の一つであった。イギリス艦はカディスの街を襲うほうがより早期に利益を得られると考え、ジブラルタルではなくカディスの街を襲ったが、カディスへの攻撃は大失敗に終わった。上陸隊は街のワイン商店を漁り、利益になることを何一つ達成せずに、4日間酔いに酔いつづけた後、街から脱出した[61]。
スペインの敵艦がジブラルタル海峡に現れることから、スペイン王フェリペ4世はジブラルタル防衛を強化することを命じた。新しい突堤と砲床が建設されたが、砲手が不足していたため、砲床は限られた有用性しか持たなかった。街は不衛生で過密な場所であり、おそらく1649年の病の大流行の原因となった。流行したのは、伝えられるところによるとペストだが、たぶん腸チフスであっただろう。ともかく人口の4分の1が死亡した[62]。イギリス艦隊は海峡内のフランスとオランダ船に対してのスペインとの一時的な同盟にもとづいて、ジブラルタルを1651年から52年訪れ、54年から55年にも現れた[63]。
1654年、クロムウェルはスペインに敵対し、、イスパニョーラ島を獲得し、彼の地をイギリスのカリブ海における植民地拡大の拠点とすることを決定した。2隻の船がこのために調達され、1隻はアメリカへ発ち、もう1隻は表向きベルベル人海賊と戦うことを目標として西地中海へ発った。カリブ海に向かった艦はイスパニョーラ島を獲得することに失敗したが、代わりにジャマイカを1655年5月に手に入れた。地中海へ向かった艦はカディスへ帆走し、スペインの財宝を横取りしようとしたが、成功せず、冬が訪れるとイギリスへ戻った。こうした敵対行為にも関わらず、スペインは1656年2月までイギリスに宣戦布告を行わなかった[64]。宣戦布告のすぐ後、10000人の水兵と兵士を載せた49隻のイギリス軍艦がジブラルタル海峡を通過し、 ジブラルタルを偵察した。イギリス軍は上陸を実行できる部隊を持っておらず何も行動を起こさなかったが、クロムウェルはジブラルタルの確保に興味を示している。「もし確保し維持できれば、我々の貿易にとって利点となるだけでなく、スペイン人のいらだちを誘え、我々自身の負担を緩和することができるのではないだろうか...?」[63] 1693年、スペインとイギリスが同盟を結んでいた大同盟戦争の間、ラゴスの海戦に負けフランスに追われていた、提督ジョージ・ルークの指揮下のイギリスとオランダの護衛船団の生き残りがジブラルタルに避難した。その11年後、今度はジブラルタルを占領するために、ジョージ・ルークはジブラルタルへ行くこととなる[53]。
スペイン継承戦争 (1701年から1714年)
[編集]1700年11月、スペイン王カルロス2世が跡継ぎのいないまま死亡し、ルイ14世の孫のアンジュー公フェリペとオーストリアハプスブルク家のカール大公の間で、どちらがスペイン王を継ぐかという争いが生じ、この争いはすぐにヨーロッパを大きな戦争に巻き込むこととなった。ルイ14世のフランスはフェリペを支持し、フェリペの王位継承がヨーロッパとアメリカのフランスによる独占に繋がるのではないかと恐れたイギリス、オランダ、オーストリア、ポルトガル、サヴォイア公国とドイツ諸侯の一部らはカールを支持した。カルロス2世の遺志にしたがって、フェリペはフェリペ5世として王位を宣言し、フランスと同盟を結んだ。翌年2月、フランス軍がスペイン領ネーデルラントに到着し、フランス・ネーデルラント国境沿いの街からオランダ人を追放すると、スペイン継承戦争が勃発した。1702年5月には、イギリスのアン女王が公式にフランスに対する宣戦を布告した[65]。
スペインはこうしてイギリス・オランダ・オーストリア同盟の標的となった[66]。 連合国の作戦が陸海双方から推し進められ、陸地での攻撃作戦はマールバラ公が低地諸国で進め、ジョージ・ルーク卿の指揮下の海軍はフランスとスペインの大西洋での航海を妨害した。1703年、マールバラ公はフランスとその同盟バイエルンに対してドナウ川流域で奇襲攻撃を仕掛け、一方ルークが地中海で牽制の海上作戦を行うという作戦を立案した[67]。ルークはフランスやスペインの海岸沿いの街に対して攻撃を仕掛けるよう命令されたが、目標の選択は彼の裁量に任されていた[68]。
ルークは作戦地域に到着するといくつかの目標を検討した。バルセロナの住民をフェリペ5性に対して反逆するよう煽動する試みは失敗し、トゥーロンにあったフランスの海軍基地を攻撃する案は破棄された。他の目標を探した結果、3つの主な理由からルークはジブラルタルを攻撃することを決定した。守備が貧弱で、戦争の中で大きな戦略的価値を持ちうること、そしてジブラルタルの占領がスペイン南部の住民のフェリペへの反抗を促すかもしれない、という理由である[69]。
攻撃は1704年8月1日に開始され、ルーク指揮下の軍と、ゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットとHMSドーセットシャーの指揮官ホイッタカー指揮下のイギリス・オランダ海兵隊が参加した[70]。8月2日の激しい艦砲射撃の後、地峡の南とエウロパ・ポイントの北から海兵隊は街に挟撃をしかけた[71]。ジブラルタルの守備隊は食料と弾薬を多く蓄えていたが、人、武器の数で圧倒的に劣っていた。スペインはジブラルタルを守りきれず、8月4日の朝に、領主ディエゴ・デ・サリナスが降伏に同意した[72]。
降伏合意では、カールは「正当な君主、王」と表現され、その名のもとにジブラルタルは占領されたことが明示されていた。ジブラルタルの住民と守備隊は、カールへの忠誠の宣誓をすることを条件に、信教の自由、留まるつもりであれば現在の権利の維持、を約束された。2年前のカディスへの襲撃でも起こったように、上陸軍の規律はすぐに乱れ、強姦が数えきれないほど発生し、カトリックの教会は一つを除いて汚されるか軍の倉庫に供され、聖母マリア教会の像のような宗教的象徴は傷つけられ、また破壊された。住民は怒り、占領者に対して暴力的に報復した。イギリスとオランダの兵士は攻撃されて殺害され、彼らの遺体は井戸や汚物溜めに放り込まれた[73]。
スペインの守備隊が8月7日に撤退すると、住民のほとんどすべてと言える総数4000人あまりの住民もそれに続いた。当時要塞の支配者というのは頻繁に変わるものであったから、自分たちの脱出も長くは続かないと彼らが思ったのも無理は無い。多くは近いアルヘシラスの旧跡か、湾奥の古い礼拝堂周辺に移住した。彼らはジブラルタルの旗と認可証を含む市評議会の記録を一緒に持ち出した。礼拝堂に避難民が住み着いたことが後のサン・ロケの街の発達につながった。フェリペ5世が1706年が述べたように、この移住はスペイン人からは「ジブラルタルの街の住民が田舎にいる」とみなされた。ジブラルタルには70人ほどの中立なジェノヴァ人のみが残った[74]。
8月24日にフランス艦が海峡に侵入すると、連合国のジブラルタル支配はその守りを試された。後のマラガの海戦では、双方が多くの乗組員の犠牲を与えたが、破壊された船はなく、双方が戦闘を勝利と宣言することができた。フランスはジブラルタルに攻撃を仕掛けることなくトゥーロンに撤退した[75]。9月上旬、フランス・スペイン軍がジブラルタルの周りに到着し、8月9日に12回めの包囲を開始した。7000人近いフランス・スペインの兵士がジブラルタルの避難民に支援されて、イギリス・オランダの海兵隊とカールに忠実なスペイン人からなる2000人の防衛隊と戦った[76]
8月下旬、ジョン・リーク提督指揮下の海軍の小艦隊が増援としてジブラルタルに到着した。1704年12月には、更に2200人のイギリス・オランダの増援が食料と弾薬の新しい補給を持って海から到着した[77]。脱走が相次ぎ病が蔓延したフランス・スペインの野営地では士気が低下したため、ルイ14世は元帥ルネ・ド・フルーレを指揮官として1705年2月にジブラルタルへ急派した[78]。フランス・スペイン軍の攻撃は大きな被害を出して撃退され、テッセ伯は3月31日に包囲を諦めた。彼は「手段と計画不足」だと漏らている[79]。
ジブラルタルは今や名目上オーストリアのカール6世のものとなったが、実際には段々とイギリスのものとして統治されていった。イギリスの司令官、ジョン・シュリンプトン大将は、アン女王の助言によって、ジブラルタルの長官に任命された[80]。後には、モロッコのスルタンの主張に応じて、そうする公的権限を持たないにも関わらず、女王はジブラルタルを自由港と宣言した。シュリンプトンは1707年にロジャー・エリオット大佐と交代し、1711年にはトーマス・スタンウィクス准将がその位についた。今回は、カール6世が権限を主張することもなく、指名はロンドンから直接発せられた。スタンウィクスはジブラルタルが排他的にイギリスのものであると確定させるため、すべての外国軍を追い出すよう指示されたが、オランダは「外国」と考えなかったと見えて、オランダを立ち退かせることには失敗した[81]。
1713年、一連の条約と合意によって、スペイン継承戦争は最終的に終結した。1713年7月13日に締結されいくつもの下位条約と合意を伴ったユトレヒト条約のもと、フランスとスペインの王権が将来連合されないことの保証と引き換えに、フェリペ5世はイギリスとオーストリアからスペインの君主と認められた。様々な領土の交換が合意された。フェリペ5世はスペインの海外領土を保ったが、南ネーデルラント、ナポリ、ミラノ、サルデーニャをオーストラリアに譲った。また、シチリア島とミラノの一部はサヴォイア公国へ、ジブラルタルとミノルカ島はイギリスへ譲られた。更に、フェリペはアシエントと呼ばれるスペイン奴隷貿易に30年に渡ってイギリスの参入を認めた。ジブラルタルに関しては、その街、要塞、港 (後背地は含まれない) が、「永遠に、例外や障害のない」形でイギリスへ譲られた。また条約には、もしイギリスがジブラルタルを手放すことがあれば、まずスペインに譲渡を申し出なければならない、とも明記されていた[82][83]。
イギリスの統治 (1713年から現在)
[編集]要塞の強化と包囲
[編集]ジブラルタルは後にイギリスにとって重要な場所となるが、イギリス政府は初め戦略的資産というより交渉の材料と考えていた。防衛設備は無視され続け[84] 、ジブラルタルを守ることはありがたくない出費となって[85]、スペインの圧力がイギリスに非常に重要な海上貿易を脅かした[86]。1713年から1728年かけての7回にも亘って、イギリス政府はジブラルタルと引き換えにスペインから利権を引き出そうとしたが、抗議する市民に従っていたイギリス議会に毎回拒否された[87]。
ジブラルタルや他の地中海の領土を失ったことは、スペインの市民や君主を憤慨させた[87]。1717年、ユトレヒト条約でオーストリアへ譲られていたサルデーニャとシチリア島をスペイン軍は再占領した[84][85]。 条約を否定したことは効果的で、イギリスは初めジブラルタルと引き換えに停戦合意を引き出そうとした。その試みが失敗すると、スペインに宣戦布告した(四カ国同盟戦争)[85]。スペインの占領地はすぐに取り返され、ジャコバイトを支援するスコットランドへの遠征軍は敗北した[86]。結局平和が1720年のハーグ条約で回復された [88]。
1727年1月、イギリスがジブラルタルの要塞を認められた上限を超えて強化し、ユダヤ人とムーア人の居住を許可してカトリックを守らず、密輸出入によってスペインの歳入を脅かしたという理由で、スペインはユトレヒト条約のジブラルタルに関わる条約の破棄を宣言した[89]。スペイン軍は次の月にジブラルタルに包囲と砲撃を加え、強力なカノン砲で深刻な被害を与えた[90]。防衛側は攻撃に耐え、イギリス海軍から増援と補給を受けた。悪天候と補給の問題で、スペインは6月の終わりには包囲を終わらせるを得なかった[91]。
イギリスのジブラルタル領有は1729年のセビリア条約で再確認されたが、どちらの側も条約に満足していなかった。スペインはジブラルタルを取り返したかったし、イギリスはユトレヒト条約で課された制限が残ったことを嫌った。次の年にスペインは半島の北側の端に要塞線を建設し、ジブラルタルを後背地から遮断することで反応した。イギリスにはスパニッシュ・ラインとして、スペインにはLa Línea de Contravalación (対塁の列)として知られた要塞線は、後に今のLa Línea de la Concepciónの街の名のもとになった[92]。ジブラルタルは陸地から効果的に遮断されたが、モロッコとの交易に食料と他の補給を頼ることが出来た[93]。
ジブラルタルの市民人口は18世紀を通じて漸増し、英国人、ジェノヴァ人、ユダヤ人、スペイン人とポルトガル人が混ざり合った。1754には3000人の守備隊とその1426人の家族に加えて、1733人の市民がジブラルタルにはおり、総人口は6159人であった[94]。1777年には市民人口は、519人のイギリス人、1819人のカトリック教徒(スペイン人、ポルトガル人、ジェノヴァ人を意味する)と863人のユダヤ人からなる3201人となった[95]。それぞれの集団が要塞の中でそれぞれの特色あるニッチを形成した。スペインの歴史家López de Alayaは、1782年の著書で、以下のようにそれぞれを特徴付けている。
最も裕福な商人はイギリス人だ ...ユダヤ人はたいてい小売店主か仲買人をしている ...ユダヤ人は自身の教会を持ち、ユダヤ教の儀式を大っぴらに行なっているが、これはユトレヒト条約の同意に反している ... ジェノヴァ人は商人だが、彼らのほとんどは漁師、商人、庭師である。[96]
守備隊の一般兵にとっての生活は、ほんの些細な違反でさえ体罰が加えられるような、退屈で厳しいものであった。退屈や食糧不足、生活環境の悪さ故に自殺と逃亡が蔓延した。ミドルヒル砲兵中隊では、兵士が崖をロープで降りて脱走しないように、見張りが駐屯しなければいけなかった[97]。
1770年代には新しい砲台、稜堡、カーテンウォールが建設され、ジブラルタルの要塞は近代化され改良された。この計画を裏で推進していたのは、経験豊富なウィリアム・グリーン大佐(後に大将)で、彼は数年後にジブラルタルの主任技師として重要な役割を果たすことになった[98]。1776年に、先のフランス・スペインとの戦いでジブラルタルを指揮していた老練のジョージ・オーガスタス・エリオット中将と合流した[99]。
イギリスが七年戦争で成功したことで、イギリスはアメリカに支払わなければいけない多額の負債を持つことになった。イギリス政府がイギリス領アメリカの30植民地に新しい税を課そうとしたことが、1776年のアメリカ独立戦争の発生に繋がった。領土的損失を取り返す好機と見たフランスとスペインはイギリスに宣戦布告し、アメリカの独立勢力と同盟を結んだ[99]。
ジブラルタル包囲戦は1779年6月24日から1783年2月7日まで続き、歴史の中で最も長く続いた包囲の一つとなった。スペインとフランスの連合艦隊はジブラルタルを海から遮断し、陸側では非常に多くの軍が要塞、塹壕、砲台の建設に従事し、そこからジブラルタルに攻撃を加えた。スペインは包囲に陸軍と艦船をどんどん投入し、イギリスによって予定されていた侵攻をアルマダで遅らせた。1780年、ジョージ・ロドニー提督がスペイン船団を捕獲し、サン・ビセンテ岬の月光の海戦でスペイン艦船を撃破して、1052名の兵士と豊富な補給をジブラルタルに届けると、包囲は初めて解かれた。
イギリスの防衛隊は攻撃によってジブラルタルを手に入れようというすべての試みに抗い続けたが、補給物資の量は再び低い水準に陥った。1781年4月12日、ジョージ・ダービィ中将の29戦列艦から成る艦隊が、イギリスからのジブラルタルへの100隻の補給船を護衛しながら湾に入ってきた。スペイン船はダービィによる救援を妨害することが出来ず、この失敗によって失望したスペインは街に弾幕を浴びせ始め、市民の間に酷いパニックと恐怖を引き起こした[100]。市民を故意に狙うことは当時前代未聞のことであり、2年間に亘ってスペインのジブラルタル統治時代からの建築遺産を痕跡も残らないように消してしまうことが続いた。守備隊を飢えさせることができず、フランスとスペインは陸海双方からさらなる攻撃を行おうとしたが、1781年11月27日の大攻勢の前夜、イギリスの守備隊は守備施設から静かに出て行進し、塹壕にいた包囲軍に奇襲をしかけ大損害を与え、いくばくか大攻勢を遅らせることができた。
1782年9月13日、スペインとフランスは大攻勢を仕掛けた。新しく作られ計138門の重火器を備えた10隻の浮き砲台に5190人のフランス・スペイン兵が乗船し[101]、18隻の戦列艦、40隻のスペイン小砲艦と20隻の臼砲艦[102]の、合計3万5千人の船員と海兵隊が参加した。彼らは86の陸砲と[102]、要塞を攻撃しようとする3万5千人のスペイン兵と多くのフランス兵(7千人[103]から8,000人[104] French)に支援されていた[105]。浮き砲台と陸砲が砲撃を始め、その砲撃は、何週間もの予備砲撃にさらされていた要塞へ向けられた。しかし守備隊は焼玉式焼夷弾で応戦し、湾内の浮き砲台と戦列艦を沈めた。イギリス軍は焼夷弾によって浮き砲台3隻を吹き飛ばし沈めた[106]。残りの7隻の浮き砲台はスペインによって沈められた。船の甲板にいた719人が犠牲となった(多くは溺死)[107]。
イギリスでは海軍本部が、小さく素早い船ではなくより大きく鈍速な船を用いて、ジブラルタルに大規模な救援を行う計画を検討した[108]。1782年9月、リチャード・ハウの下、大船がスピットヘッドを離れ、8月9日にサン・ヴィセンテ岬に到着した。次の夜強風が吹き、スペインとフランスの艦船を四散させて、ホウは抵抗無しにジブラルタルへ入ることができた。計34隻の戦列艦が、補給物資、食料、弾薬を届ける31隻の補給線を護衛していた。ホウは第25、59、97連隊をもジブラルタルへ送り、守備隊の総員数は7000人を超えた[109][110]。その後ホウはジブラルタルを出て、命令にしたがってイギリスへ撤退する前に、連合軍の艦船と戦ったが、決定的な勝利は得られなかった。
包囲はさらに数ヶ月間続いたが、1783年の春には予備的な休戦条約によって交戦が止まった。1783年の2月、ついに包囲は解かれた。ジョージ3世は「他の戦争の原因、すくなくとも継続的な潜在的敵意の原因」となりうると警告し、「可能ならジブラルタルを処分したい…ジブラルタルを処分しない限り平和は完全なものにならないだろう」と自らの望みを述べたが、この包囲戦の結果によって、イギリスの政府が再びジブラルタルを交換で手放すことは政治的に不可能になった。 エリオット将軍と守備隊はその英雄的行為によって賞賛され、ジブラルタルはその守備の強さにおいて、ある作家が「一種の崇拝」と称したような威信を手に入れた[111]。イギリス市民は「非理性的であるにしろ、ジブラルタルに対する感情的な愛着」を持つことになった[112]。ジブラルタルの難攻不落が評判になったことで、現在にも残っている、「ジブラルタルの岩のように強い」という表現が生まれた[113]。
植民地としてのジブラルタル
[編集]包囲戦の後、1000人以下にまで落ち込んでいたジブラルタルの市民人口は、ジブラルタルが経済的機会の場かつナポレオン戦争からの避難場所となったことから急速に拡大した。イギリスが北アメリカの植民地を1776年に失ったことで、イギリスの貿易の多くがインドと東インドの市場に向けられることになった。東への航路で最も好まれたものはエジプトを経由するものであり、スエズ運河が開削される以前においてもエジプト経由が好まれた。この航路において、ジブラルタルはイギリスを発った船が最初に寄るイギリスの港であり、この経路が差kンとなったことでジブラルタルは貿易港として非常に大きい役割を果たすこととなった。同時に、西地中海においてナポレオン戦争による混乱からの避難所でもあった。新たに移住したものの多くは、ナポレオンにジェノヴァ共和国が占領されたことから逃げてきたジェノヴァ人であった[114]。1813年には、人口の3分の1近くがジェノヴァ人とイタリア人で構成されていた。ポルトガル人が20%、スペイン人が16.5%、ユダヤ人が15.5%、イギリス人が13%、ミノルカ人が4%であった。若かりし頃のベンジャミン・ディズレーリは、ジブラルタルの住民には「虹か東のメロドラマのように輝いている服を着たムーア人、ギャバジンとスカルキャップをつけたユダヤ人、ジェノヴァ人、スコットランド人、スペイン人」が混ざり合っていると書いている[115]。住民には明らかな序列があり、一番上にイギリス人士官、一番下にユダヤ人がいた。1829年、アメリカの海軍士官アレキサンダー・スライデル・マッキンジーは、現在のジョン・マッキントッシュ・スクエアの市場にいた商人と買い物客を描写して、以下のように記している。
The high handed hauteur of his majesty's officer, as he lounges at a corner in utter scorn of the busy crew of bargainers; the supple cit[izen] who bows breast low to him in hope of a node of condescension ... ; a roughknot skipper, accustomed to bang and bully, a little king upon his own quarter deck; the sullen demeanour of the turbaned Moor, who sits crosslegged at a shady corner ... ; the filthy, slip-shod, abject Jew, who wallows anywhere in the dirt, selling slippers or oranges, or with a bag over his head or a rope round his neck, ready to serve officers, merchants, sailors, or Moors, as a beast of burden ...[116]
ジブラルタルは衛生設備が貧弱で生活環境が悪かったことから、住むのに健康な場所とは言いがたかった。黄熱病やコレラの流行が繰り返し起こり、何千人もの住民と守備隊の兵士が命を落とした[114]。1804年の後半に発生した流行では、総人口の3分の1以上が死に至った[117]。ネルソン提督は翌年の3月、ジブラルタルが前年8月の恐ろしい災難から抜け出すことを願ったと記している。また彼はフォックス将軍が街の裏にある小さな住宅のすべてを燃やしてしまうよう願い、それで街の半分が亡くなってもそのほうがジブラルタルの岩にとってはよいとも書いている[118]。
ナポレオンのフランスに対する戦争の中で、ジブラルタルは初めカディス、カルタヘナ、トゥーロンに対する包囲を敷くイギリス海軍の基地、1807年から14年の半島戦争の際にイギリス軍の兵と補給物資が到着する場所として用いられた。1801年7月、フランス・スペイン海軍は2度のアルヘシラスの戦いを行ったが、お互いの最大の船がもう一方を敵船と取り違えて攻撃し、衝突して爆発してしまい、2000人近くのスペイン兵が死ぬという惨状に終わってしまった[119]。2年後にはジブラルタルはネルソン卿がフランスのピエール・ヴィルヌーヴ提督を戦闘に引きこもうとする際の拠点となった。この動きが最高潮に達したのはトラファルガーの海戦で、ネルソンは死亡し、ヴィルヌーブは囚われることとなった[120]。トラファルガー戦役を始め、フランスとスペインに対する包囲を指揮するため、ネルソンは1803年6月ジブラルタルへ向かったが、陸上で過ごした期間はほとんどなかった[121]。1805年8月25日、トラファルガーの海戦の1週間後、ひどく損傷したHMSヴィクトリーがネルソンの遺骸を載せてジブラルタルに帰還した[122]。勝利を喧伝しネルソンの死を告知するカスバート・コリングウッドのフォックス将軍への派遣は、ジブラルタル・クロニクルの中に記述がある。したがってジブラルタル・クロニクルはトラファルガーの海戦の勝利を、タイムズに2週間先んじて、初めて世界に伝えた新聞となった[123][124]。
トラファルガーの海戦後の数年間、ジブラルタルは半島戦争を支援する基地となった[125]。1808年フランスがスペインに侵攻すると、フランスが海岸の要塞からジブラルタルを包囲することができないよう、ジブラルタルのイギリス守備隊は国境を越え、地峡にある時代遅れのスパニッシュラインと湾を取り巻くスペインの要塞環を破壊した。フランス軍はジブラルタルの北のサン・ロケにまで迫ったが、ジブラルタルは奪取不可能と見てジブラルタルそのものを攻撃しようとはしなかった[126]。フランスのタリファ包囲(1811-12年)は1ヶ月で終わり、ジブラルタルは1世紀の間さらなる軍事的脅威にさらされることはなかった[127]。
平和が戻ると、1814年に就任した革新主義者のジョージ・ドン将軍の下でジブラルタルは大きな変化にさらされた。ジブラルタル包囲戦によって生じた傷跡は修復されてから長い期間が経過していたが、街の設計と狭い道という点では本質的に未だ中世都市であった。しっかりとした下水設備がかけていたことは、ジブラルタルを頻繁に襲った感染病の流行の主要な原因であった。ドン将軍は衛生・下水設備を改善して街灯を導入し、セントバーナード病院を市民に供するとともにプロテスタント住民のためにホーリー・トリニティ教会を建設し始めた[128]。住民は初めて運営に発言権を持った。取引所と商業図書館が1817年に設立され、ジブラルタルに拠点をおいた商人の利益を拡大することに初め主眼をおいた取引所委員会も建てられた委員会は政府内に地元市民の声を伝えるものに発展したが、実際の権力は持っていなかった[129]。市評議会が1821年に設立され、1830年には王室領となった。同年、ロンドン警視庁を参考にしてジブラルタル警察が、また民事と刑事双方を扱う最高裁判所が設立された[130][131]。
ジブラルタルの経済的重要性は蒸気船の発明によって変化した。ジブラルタルに最初に蒸気船が到着したのは1823年のことである[132]。蒸気船の出現は地中海貿易の様相を大きく変えてしまった。ジブラルタルの経済的な大黒柱であった船の積み荷の積み替えは、蒸気船への石炭・食料供給といったずっと利益の少ない仕事に置き換えられてしまった。ジブラルタルはイギリスの蒸気船がアレキサンドリアやホーン岬へ向かう途中で補給を受ける重要な石炭供給基地となったが、この経済的な変化によって、世紀の終わり頃まで不況にあえぐことになった[133]。石炭の積み込みのための労働力需要が発生したが、ジブラルタルではスペイン労働者を呼び込むことでそれに応えた。昔国境を跨ぐ形でスペインの要塞があった場所には掘っ立て小屋の街が出来、労働者の街ラ・リネア・デ・ラ・コンセプションとなった。経済的不振にも関わらずジブラルタルの人口は1830年から1880年の間にはほとんど変化しなかったが、酷く貧しかったスペイン南部に比べれば比較的反映していた。結果として、同期間にラ・リネアの人口は倍増し、次の20年でも更に2倍となった[134]。
ジブラルタルを19世紀半ばに訪れたイギリスの作家リチャード・フォードはそのスペイン旅行手引の中で、「国と服装の違いが非常に好奇心をそそる。雑多な仮面舞踏会がヨーロッパ、アジア、アフリカの間にあるこの宿で行われ、人々はみな自分のドレスを着て自らの言葉を話している。本当に文明と野蛮がここではぶつかり合っているのだ。 ... ジブラルタルの岩はアルジェリアのように困窮したならず者たちのや国から追放された様々な国の人々の避難所となっている。」彼は街の表通りを「スペインの街の正反対」と記し、「数えきれないほどの居酒屋」が「ジンと大酒の巣窟」になっていると残した。「すべての人と物が動いている。静けさや落ち着きは全くない。時は金なり、マンモンがジブラルタルの神であると、皆一様に急ぎ、慌てている。 ... 半島の貿易全体がこの小世界に凝縮され、すべての信条と国が交わり、人々の殆どが私の隣人にたかるという一つの大きなゲームに熟達している」[135]
19世紀の間のスペインとの関係は概して平和的なものだった[136]。イギリスの正規兵たちは国境を越えることを禁じられていたが、士官は自由にスペインへゆくことができ、ジブラルタルの住民にも同様の自由があったので、ジブラルタルから6マイルのサン・ロケにセカンドハウスを持つものもいた[137]。イギリスの狐狩りがロイヤル・カルプ・ハントの形で1812年に持ち込まれ、そこではイギリス士官とスペインの地元の紳士がカンポ・デ・ジブラルタルで狐を追っている姿を見ることができた[138]。この期間の主な不和の種は国境を越えての密輸入であった。この問題はスペインが自国の未熟な産業を守ろうと海外で生産された製品に関税をかけたことから始まった。たばこには既に高い関税が課されており、政府の歳入の主要な財源の一つとなっていた。当然の結果として、ジブラルタルは安いたばこと他の製品が素早く手に入る、活発な密輸出拠点となった[139]。不景気か密輸出がジブラルタルの貿易の大黒柱となってしまった[133]。19世紀半ば、アイルランド人の旅行かマーティン・ハヴァティはジブラルタルは「スペイン向けの密輸出の詰替場」だと記している[137]。また1848年から1855年にかけて知事を努めたロバート・ガーディナー将軍は、イギリスの首相パーマストン卿に向けて書いた手紙の中で、ジブラルタルの様子を次のように記している。
朝早く門が開けられると、スペイン人の男、女、子供と馬や馬車の流れを見ることができる。彼らは街に入っていき、店から店へと昼近くまで動き回っている。人々は要塞の中に手ぶらで入ってゆくが、出てくる際には我々の綿製品に包まれ膨らんでいる。また、入る時には身軽で足取りも早かった馬車や荷馬も、出て行く際には載せられた重荷に耐えて引きずるのがやっとだ。スペインの役人もこの流れに加担していて、国境を通過する人の目的をしっかりとわかっていながらも、彼らから賄賂を受け取っている。これらの人々の中にはスペインへ金物や綿、タバコを持っていく人がいる。[140]
この問題は結局輸入品に関税を課すことで解決に向かい、業者にとっての密輸出の魅力は薄れた。その関税はより必要とされた衛生の改善に充てられた[141]。世紀前半になされた改善にも関わらず、ジブラルタルの生活環境は酷いものだった。1860年代にジブラルタルに駐屯したセイヤー大佐は、街を「小さく密集した住居からなり、通風や排水は酷く、人が詰め込まれている。15000人を越える人が1平方マイルほどの空間に閉じ込められている」と描写した[142]。下水は存在したものの、夏には水不足のため実質的に役に立たなかった。貧しいものは体を洗う水の余裕すらなかった。ある医者は「開けた道のほうがジブラルタルの下級階層の宿所よりずっと望ましい」と意見した[143]。1865年に衛生委員会が設立され、新しい排水設備と上下水道システムの設置に動いたことで、さらなる感染病の大流行は避けられた[144]。500万ガロン(2270万リットル)の容量を持つ地下貯水槽がジブタルタルの岩の中に建設された[145]。他の都市サービスも整備された – 1857年にガス工場、1870年までに電話回線、1897年までに電気[144]。ジブラルタルでは高い基準の学校制度が発達し、1860年には42もの学校があった[146]。
19世紀の終わりには、「ジブラルタル人」が初めて公的な認知を受けた[147]。ジブラルタル生まれの人が他の地域で生まれた人を数で上回ったのは1830年代のことだが、1891年には19011人の住民の75%近くがジブラルタル生まれだった。ジブラルタル人がはっきりとした集団として現れたことは、地域内の住居問題と市民人口を管理する必要性に負うところが大きい。ジブラルタルは過去にも今にも、そして将来も軍事要塞であったから。1873年と1885年の枢密院勅令では、外国の親はジブラルタルで子供を産んではいけないこと、外来者は居住の権利を主張してはいけないこと、ジブラルタル生まれの住民のみが暮らすことを認められることを明記した。住民以外の者は、イギリス王室の雇用者でない限り、許可を必要とした。14244人のジブラルタル人に加え、711人のイギリス人、695人のマルタ人、960人の他のイギリス植民地の者がいた[147]。1869人のスペイン人(1341人は女)と少数ポルトガル人、イタリア人、フランス人、モロッコ人もいた[148]。
Gibraltar at war and peace
[編集]By the end of the 19th century and beginning of the 20th, Gibraltar's future as a British colony was in serious doubt. Its economic value was diminishing, as a new generation of steamships with a much longer range no longer needed to stop there to refuel en route to more distant ports. Its military value was also increasingly in question due to advances in military technology. New long-range guns firing high-explosive shells could easily reach Gibraltar from across the bay or in the Spanish hinterland, while the development of torpedoes meant that ships at anchor in the bay were also vulnerable.[149] The garrison could hold out for a long time, but if the Spanish coast was held by an enemy, Gibraltar could not be resupplied in the fashion that had saved it in the Great Siege 120 years earlier.[150]
A Spanish proposal to swap Gibraltar for Ceuta on the other side of the Strait was considered but was eventually rejected. It was ultimately decided that Gibraltar's strategic position as a naval base outweighed its potential vulnerability from the landward side. From 1889, the Royal Navy was greatly expanded and both Gibraltar and Malta were equipped with new, torpedo-proof harbours and expanded, modernised dockyards.[149] The works at Gibraltar were carried out by some 2,200 men at the huge cost of £5 million (£485,968,723 in 2013 prices).[151] Under the reforming leadership of First Sea Lord Admiral John "Jacky" Fisher, Gibraltar became the base for the Atlantic Fleet.[152] In the British public's imagination, Gibraltar was seen as "a symbol of British naval power [and] a symbol of the empire which has been built and, more than the British lion or even John Bull himself, has come to represent Britain's power and prestige across the world."[153]
The value of the naval base was soon apparent when the First World War broke out in August 1914. Only a few minutes after the declaration of war went into effect at midnight on 3/4 August, a German liner was captured by a torpedo boat from Gibraltar, followed by three more enemy ships the following day.[154] Although Gibraltar was well away from the main battlefields of the war – Spain remained neutral and the Mediterranean was not contested as it was in the Second World War – it played an important role in the Allied fight against the German U-boat campaign. The naval base was heavily used by Allied warships for resupplying and repairs. The Bay of Gibraltar was also used as a forming-up point for Allied convoys, while German U-boats stalked the Strait looking for targets. On two occasions, Gibraltar's guns unsuccessfully fired on two U-boats travelling through the Strait.[155] Anti-submarine warfare was in its infancy and it proved impossible to prevent U-boats operating through the Strait. Only two days before the end of the war, on 9 November 1918, SM UB-50 torpedoed and sank the British battleship HMS Britannia off Cape Trafalgar to the west of Gibraltar.[156]
The restoration of peace inevitably meant a reduction in military expenditure, but this was more than offset by a large increase in liner and cruise ship traffic to Gibraltar. British liners travelling to and from India and South Africa customarily stopped there, as did French, Italian and Greek liners travelling to and from America. Oil bunkering became a major industry alongside coaling. An airfield was established in 1933 on the isthmus linking Gibraltar to Spain. Civil society was reformed as well; in 1921 an Executive Council and an elected City Council were established to advise the governor, in the first step towards self-government of the territory.[157]
The outbreak of the Spanish Civil War in July 1936 presented Gibraltar with major security concerns, as it was initially on the front lines of the conflict. The ultimately successful rebellion led by General Francisco Franco broke out across the Strait in Morocco, and the Spanish Republican government sought on several occasions to regain control of the Nationalist-controlled area around Algeciras. Although Gibraltar was not directly affected by the fighting, the war caused significant disruption. An undetermined number of Spanish refugees, perhaps as many as 10,000 persons, fled to Gibraltar, resulting in severe overcrowding.[158][159] A Non-Intervention Patrol was mounted by the Royal Navy, operating from Gibraltar, to prevent foreign military aid reaching the belligerents in Spain. In May 1937, one of the ships involved in the patrol, the destroyer HMS Hunter, hit a Nationalist mine and had to be towed back to Gibraltar with eight of her crew dead.[159] The Spanish Civil War had a deep impact on Gibraltarian society. On one hand, the British authorities, the Anglican and Catholic churches and the Gibraltarian moneyed class supported the Nationalists in the War, while the working class sided with the Republicans.[160] With Europe sliding towards a general war, the British Government decided to strengthen Gibraltar's defences and upgrade the naval base to accommodate the latest generation of battleships and aircraft carriers. A Gibraltar Defence Force (now the Royal Gibraltar Regiment) was established in March 1939 to assist with home defence.[161]
Second World War
[編集]The outbreak of the Second World War in September 1939 did not initially cause much disruption in Gibraltar, as Spain and Italy were neutral at the time. The situation changed drastically after April 1940 when Germany invaded France, with Italy joining the invasion in June 1940. The British Government feared that Spain would also enter the war and it was decided to evacuate the entire civilian population of Gibraltar in May 1940.[161] Most went to the United Kingdom and others to Madeira and Jamaica, while some made their own way to Tangier and Spain. An intensive programme of tunnelling and refortification was undertaken; over 30マイル (48 km) of tunnels were dug in the Rock, and anti-aircraft batteries were installed in numerous locations in the territory. A new and powerful naval group called Force H was established at Gibraltar to control the entrance to the Mediterranean and support Allied forces in North Africa, the Mediterranean and the Atlantic.[162] The airfield, which was now designated RAF North Front, was also extended using spoil from the tunnelling works so that it could accommodate bomber aircraft being ferried to North Africa.[163] The garrison was greatly expanded, reaching a peak of 17,000 in 1943 with another 20,000 sailors and airmen accommodated in Gibraltar at the same time.[164]
During the Battle of the Atlantic, Gibraltar played a key role. The Ocean Convoy System adopted by Britain after the fall of France in June 1940 ran on two routes – an east–west route between the UK and North America, and a north–south route between the UK, Gibraltar and Freetown in British-ruled Sierra Leone.[165] Even before the war, Gibraltar had been designated as one of the main assembly points for convoys heading inbound to Europe.[166] From late 1942, Gibraltar was the destination of the Central Atlantic convoy route between the United States and the Mediterranean in support of Allied operations in North Africa, Sicily, Italy and elsewhere in the region.[167] A huge number of Allied troops and ships travelled this route; between November 1942 and August 1945, 11,119 ships travelled in 189 convoys between Gibraltar and the United States and vice-versa, and between December 1942 and March 1945, 536,134 troops were transported from the United States to Gibraltar.[168]
Gibraltar was directly attacked, both overtly and covertly, on several occasions during the war. Vichy French aircraft carried out bombing attacks in 1940 and there were sporadic raids from Italian and German long-range aircraft, though the damage caused was not significant.[169] Franco's position changed subtly from one of neutrality to "non-belligerence",[170] which in practice meant allowing the Axis powers to operate covertly against Gibraltar from Spanish territory. Despite Franco's willingness to overlook German and Italian activities in and around the Bay of Gibraltar, he decided not to join Hitler's planned Operation Felix to seize the territory.[171] A major factor influencing his decision was the vulnerability of Spain's food supplies, as the country was unable to feed itself after the destruction of the Civil War. It relied on grain imports from the Americas, which would certainly have been cut off had Franco gone to war with the Allies.[172] Hitler eventually abandoned Felix to pursue other priorities such as the invasions of Yugoslavia and the Soviet Union.[171]
German and Italian spies kept a constant watch on Gibraltar and sought to carry out sabotage operations, sometimes successfully. The Italians repeatedly carried out raids on Gibraltar's harbour using human torpedoes and divers operating from the Spanish shore, damaging a number of merchant ships and sinking one.[173] Three Spaniards being run as spies and saboteurs by the German Abwehr were caught in Gibraltar in 1942–43 and hanged.[164] The threat to Gibraltar was greatly reduced after the collapse of Italy in September 1943.[164]
Post-war Gibraltar
[編集]Although Gibraltar's civilian inhabitants had started to return as early as April 1944, the last evacuees did not arrive back home until as late as February 1951. The immediate problem after VJ Day was a lack of shipping, as all available vessels were needed to bring troops home, but the longer-term problem was a lack of civilian housing. The garrison was relocated to the southern end of the peninsula to free up space and military accommodation was temporarily reused to house the returning civilians. A programme to build housing projects was implemented, though progress was slow due to shortages of building materials. By 1969, over 2,500 flats had either been built or were under construction.[174]
In the war's aftermath, Gibraltar took decisive steps towards implementing civilian self-governance over most issues of public policy. The Association for the Advancement of Civil Rights (AACR), led by Gibraltarian lawyer Joshua Hassan, won all of the seats in the first post-war City Council elections in 1945. Women were given the right to vote in 1947, and in 1950 a Legislative Council was established.[175] A two-party system had emerged by 1955 with the creation of the Commonwealth Party as a rival to the AACR. That same year Hassan became the first Mayor of Gibraltar.[176] The Governor still retained overall authority and could overrule the Legislative Council. This inevitably caused tension and controversy if the Governor and Legislative Council disagreed, but in 1964 the British Government agreed to confine the powers of the Governor to matters of defence, security and foreign relations.[177] A new constitution was decided on in 1968 and promulgated in 1969, merging the City Council and Legislative Council into a single House of Assembly (known as the Gibraltar Parliament since 2006) with 15 elected members, two non-elected officials and a speaker. The old title of "Colony of Gibraltar" was dropped and the territory was renamed as the City of Gibraltar.[178]
Gibraltar's post-war relationship with Spain was marred by an intensification of the long-running dispute over the territory's sovereignty. Although Spain had not attempted to use military force to regain Gibraltar since 1783, the question of sovereignty was still present. Disputes over smuggling and the sea frontier between Gibraltar and Spain had repeatedly caused diplomatic tensions during the 19th century.[179] The neutral zone between Spain and Gibraltar had also been a cause of disputes during the 19th and 20th centuries. This originally had been an undemarcated strip of sand on the isthmus between the British and Spanish lines of fortifications, about 1キロメートル (0.62 mi) wide – the distance of a cannon shot in 1704. Over the years, however, Britain took control of most of the neutral zone, much of which is now occupied by Gibraltar's airport. This expansion provoked repeated protests from Spain.[180]
Spain's push to regain sovereignty over Gibraltar was fuelled by the decolonisation agenda of the United Nations, which had been initiated in 1946. In that year, Britain had listed Gibraltar among other "Overseas Dependent Territories" in conjunction with the drive towards decolonisation, but it was not appreciated at the time that Gibraltar was in a unique position; due to the terms of the Treaty of Utrecht, it could only be British or Spanish and could not gain independence.[181] Franco's government calculated that Britain would be willing to give up an expensive possession that no longer had a great deal of military value,[182] but this turned out to be a fundamental misjudgement. The British government followed a policy of allowing its colonies to become self-governing entities before giving them the option of independence. Almost all took it, choosing to become independent republics. That option was not available to Gibraltar under the terms of the Treaty of Utrecht, which required that if Britain ever relinquished control it was to be handed back to Spain.[183] The Gibraltarians strongly opposed this and organised a referendum in September 1967 in which 12,138 voters opted to remain with Britain and only 44 supported union with Spain.[178] Spain dismissed the outcome of the referendum, calling the city's inhabitants "pseudo-Gibraltarians"[184] and stating that the "real" Gibraltarians were the descendants of the Spanish inhabitants who had resettled elsewhere in the region over 250 years earlier.[177]
The dispute initially took the form of symbolic protests and a campaign by Spanish diplomats and the state-controlled media. From 1954, Spain imposed increasingly stringent restrictions on trade and the movements of vehicles and people across the border with Gibraltar.[185] Further restrictions were imposed in 1964,[186] and in 1966 the frontier was closed to vehicles. In 1969, after the passing of the Gibraltar Constitution Order, to which Spain strongly objected, the frontier was closed completely and Gibraltar's telecommunications links through Spain were cut.[187]
The Spanish decision had major consequences not only for the political relationship between Spain and the United Kingdom, but for the people of Gibraltar, many of whom had relatives or homes in Spain. As one of the Gibraltarians that suffered the closure of the frontier explains:
The saddest sight was seeing people behind the wire fences on both sides of the land frontier yelling at the top of their voices across the wide dividing space to enquire about the state of relatives, as telephone communications had been cut by the Spaniards. Local housewives with Spanish relatives in the Campo area kept their radios tuned to the nearby Spanish stations for news of family members who were gravely ill. In critical cases the parties concerned would rush to Spain via Tangiers but unfortunately sometimes the patient was dead and buried by the time they arrived. The Spanish authorities would not allow access across the land frontier even on compassionate grounds.[188]
Franco's death in 1975 led to the beginnings of diplomatic movement between Britain and Spain on the Gibraltar issue, though not immediately. Spain applied to join the European Economic Community (EEC) and NATO, for which it needed British support.[189] In 1980, talks between British and Spanish ministers led to the Lisbon Agreement, a statement on cooperation between the two countries which committed them to starting negotiations on Gibraltar's future and lifting the Spanish restrictions on communications with Gibraltar. Although Britain promised to "honour the freely and democratically expressed wishes of the people of Gibraltar",[190] Prime Minister Margaret Thatcher indicated in the House of Commons that sovereignty would be on the table, in a change from the previous policy. However, the border was not reopened due to "technical issues" – code for unresolved issues between the two governments – and the agreement was strongly opposed by many Gibraltarians, who did not wish their sovereignty to be under discussion and objected to the lack of Gibraltarian representatives at the talks.[191] The outbreak of the Falklands War in 1982 caused a further delay.[192] Argentina carried out an unsuccessful sabotage operation, kept secret at the time, that was intended to sink a Royal Navy frigate in Gibraltar's harbour; the saboteurs were captured by the Spanish police in Algeciras before they could carry out their attack.[193] A further agreement was reached in Brussels in 1984 which clarified the Lisbon Agreement and required that Britain allow Spaniards to live and work in Gibraltar, which they would have the right to do anyway as EEC citizens. The border was finally fully reopened on 4–5 February 1985.[192]
Modern Gibraltar
[編集]After the border reopened, the British government reduced the military presence in Gibraltar by closing the naval dockyard.[194] The RAF presence was also downgraded; although the airport officially remains an RAF base, military aircraft are no longer permanently stationed there. The British garrison, which had been present since 1704, was withdrawn in 1990 following defence cutbacks at the end of the Cold War. A number of military units continue to be stationed in Gibraltar under the auspices of British Forces Gibraltar; the garrison was replaced with locally-recruited units of the Royal Gibraltar Regiment, while a Royal Navy presence is continued through the Gibraltar Squadron, responsible for overseeing the security of Gibraltar's territorial waters.[195] In March 1988 a British military operation against members of the Provisional IRA (PIRA) planning a car bomb attack in Gibraltar ended in controversy when the Special Air Service shot and killed all three PIRA members.[194]
The military cutbacks inevitably had major implications for Gibraltar's economy, which had up to that point depended largely on defence expenditure.[194] It prompted the territory's government to shift its economic orientation and place a much greater emphasis on encouraging tourism and establishing self-sufficiency.[196] Tourism in Gibraltar was encouraged through refurbishing and pedestrianising key areas of the city, building a new passenger terminal to welcome cruise ship visitors and opening new marinas and leisure facilities.[197] By 2011, Gibraltar was attracting over 10 million visitors a year[198] compared to a population of 29,752,[199] giving it one of the highest tourist-to-resident ratios in the world.[200]
The government also encouraged the development of new industries such as financial services, duty-free shopping, casinos and Internet gambling. Branches of major British chains such as Marks & Spencer were opened in Gibraltar to encourage visits from British expatriates on the nearby Costa del Sol. To facilitate the territory's economic expansion, a major programme of land reclamation was carried out; a tenth of Gibraltar's present-day land area was reclaimed from the sea. These initiatives proved enormously successful. By 2007, Chief Minister Peter Caruana was able to boast that Gibraltar's economic success had made it "one of the most affluent communities in the entire world."[195] As of 2013, Gibraltar is ranked as the second most prosperous territory within the European Union and the 18th most prosperous worldwide in terms of gross domestic product by purchasing power parity per capita (the United Kingdom, for comparison, is 33rd worldwide and Spain is 44th).[201] Today, Gibraltar has one Big Four accounting firm office per 10,000 people, the second highest in the world after the British Virgin Islands, and a bank per 1,700 people, the fifth most banks per capita in the world.[202]
- Key locations in modern Gibraltar
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Grand Casemates Square, renovated and pedestrianised in the late 1990s
-
Ocean Village Marina, a luxury marina resort with premier berths for yachts
-
The new terminal of Gibraltar International Airport, opened in 2012, with the Rock of Gibraltar behind
Gibraltar's relationship with Spain continued to be a sensitive subject. By 2002, Britain and Spain had proposed an agreement to share sovereignty over Gibraltar. However, it was opposed by the government of Gibraltar, which put it to a referendum in November 2002. The agreement was rejected by 17,000 votes to 187 – a majority of 98.97%. Although both governments dismissed the outcome as having no legal weight,[203] the outcome of the referendum caused the talks to stall and the British government accepted that it would be unrealistic to try to reach an agreement without the support of the people of Gibraltar.[204]
The tercentenary of the capture of Gibraltar was celebrated in the territory in August 2004 but attracted criticism from some in Spain.[205] In September 2006, tripartite talks between Spain, Gibraltar and the UK resulted in a deal (known as the Cordoba Agreement) to make it easier to cross the border and to improve transport and communications links between Spain and Gibraltar. Among the changes was an agreement to lift restrictions on Gibraltar's airport to enable airlines operating from Spain to land there and to facilitate use of the airport by Spanish residents.[206] It did not address the vexed issue of sovereignty, but this time the government of Gibraltar supported it. A new Constitution Order was promulgated in the same year, which was approved by a majority of 60.24% in a referendum held in November 2006.[207]
See also
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