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下書き:熊本大学生誘拐殺人事件
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本記事の主題である事件の主犯・田本竜也は、実名で事件に関する手記を『死刑囚からあなたへ』2巻(#参考文献)に寄稿しており、削除の方針ケースB-2の「削除されず、伝統的に認められている例」に該当するため、実名を掲載しています。 |
熊本大学生誘拐殺人事件 | |
---|---|
場所 | 日本: 熊本県玉名市 |
日付 |
1987年(昭和62年)9月14日 22時ごろ[1] (UTC+9) |
攻撃側人数 | 4人 |
死亡者 | 1人(男子大学生A) |
被害者 | 男子大学生A(事件当時21歳)と恋人の女性B() |
犯人 | 田本竜也(事件当時21歳)ら男4人 |
対処 | 田本ら犯人4人を逮捕・起訴 |
刑事訴訟 | |
管轄 |
|
熊本大学生誘拐殺人事件(くまもと だいがくせいゆうかいさつじんじけん)は、1987年(昭和62年)9月14日に日本の熊本県玉名市で発生した身代金目的の誘拐殺人事件[3]。4人の男が大学生の男性を殺害後、被害者の家族に身代金5000万円を要求した[3]。主犯の田本 竜也[4]は被害者の小学校時代の同級生で、1998年(平成10年)に最高裁で死刑判決が確定、2002年(平成14年)9月18日に福岡拘置所で死刑を執行された(36歳没)[3]。
この事件は、戦後日本で初めて成人男性が殺害された身代金目的誘拐殺人事件である[5]。また田本は最高裁に上告中だった1996年(平成8年)12月、収監されていた福岡拘置所で看守Xと共謀して脱獄未遂事件を起こし[6]、共犯Xは懲戒免職され、懲役2年6月の実刑判決を言い渡されている[7]。この脱獄未遂事件発生を受け、当時の福岡拘置所長が飛び降り自殺したほか、Xの上司ら12人が訓告、戒告などの処分を受けている[7]。
田本竜也
[編集]犯人は主犯格の田本竜也(逮捕当時21歳)と男SM(同35歳)、男Y(同20歳)、男SS(同20歳)の計4人である[8]。4人のうち田本とSSの2人は玉名市伊倉北方の出身であり、田本は市立玉名町小学校で5年生・6年生の時にAと同じクラスだった[9]。しかしAが誘拐される直前まで一緒にいたAの親友は『熊本日日新聞』の取材に対し、田本とAは小学校時代から仲が悪く、事件の2、3か月前には玉名市内のスナックで2人が口論になり、Aが田本に殴られていたという旨を証言している[9]。SSは専大玉名高校の商業科に在学していたが、Aも同校の普通科に在学しており、SSとAは顔見知りの関係だった[9]。またYは鹿児島県鹿児島市出身で、田本とは少年院時代の知り合いである[10]。
田本は1966年(昭和41年)4月、玉名市で暴力団組員の父と2人目の妻との間に生まれ、幼少期は病弱で一人っ子だったことから甘やかされて育った[1]。玉名中学校時代から不良グループのリーダーとなってシンナーを吸引したり、バイクの無免許運転をしたりして何度も警察から補導されたりするようになった[1]。中学校卒業後は調理学校に入学したが、2か月余りで退学し、その直後には傷害事件を起こして熊本家庭裁判所で保護観察処分を受け、配管工として働き出したが、それも1か月程度で辞めた[1]。1983年(昭和58年)1月から縁者の経営する福岡県久留米市の食堂で住み込みの見習いとして働き出したが、同年3月には自動二輪車の無免許運転で歩行者を撥ねて死亡させ、逃走したとして中等少年院送致となり、1984年(昭和59年)3月に福岡少年院を仮退院した[1]。『熊本日日新聞』は、田本は1983年に玉名市内でオートバイを無免許運転して死亡ひき逃げ事故を起こし[注 1]、鹿児島県の少年院に送られたが、その少年院で一緒にいたYと知り合ったと報じている[9]。
1984年6月、田本は無免許運転・器物損壊事件を引き起こして在宅試験観察になり、同年9月には再び無免許運転で逮捕状を出され、逃走して上京する[1]。同年12月に玉名市へ戻り、暴力団道仁会系古賀組の事務所に見を置いていたが、1985年(昭和60年)3月に逮捕されて中等少年院送致となり、1986年(昭和61年)3月に人吉農芸学院を仮退院した[1]。その後、再び古賀組に身を置いたが、嫌になって自宅に戻り、東京・玉名・長崎などで営業マンやボーリング工などの仕事をしたものの、いずれも長続きせず自宅に戻り、無為徒食の生活を送っていた[1]。
被害者
[編集]同事件の被害者である男子大学生A(21歳没)は会社社長の長男で[2]、事件当時は第一経済大学の2年生で[8]、高校生の弟、小学生の妹がいた[13]。
Aの父親は玉名郡長洲町で洋品店を経営していたが、1968年(昭和43年)3月に玉名市へ進出し、同市の目抜き通りに「司洋品店」を開店した[9]。その後も事業拡張を続け[9]、事件当時は玉名市高瀬で洋品店を経営していたほか[14]、山鹿市・八代市・人吉市・本渡市(現:天草市)・水俣市、そして県外にも福岡県大牟田市、大分県大分市、福岡県福岡市など13支店を有し、パチンコ店経営や貸しビル業も経営するなど玉名市でも有数の資産家として知られ、その年商は数十億円と言われていた[9]。
事件前の動向
[編集]1987年(昭和62年)3月ごろ、田本は共犯の男SS(1966年生まれ)とともに上京した際に「大場組」の世話になり、1984年から同組の組員になっていた男SM(1951年〈昭和26年〉生まれ)と知り合う[1]。田本は大場組の組員になり、SMと親しく付き合うようになったが、同年7月10日ごろに組の金銭を持ち逃げしたとしてSMとともに組を追われるようになったため、玉名市の自宅に一緒に帰った[1]。たもとはこのころから、適当な仕事がなければ最後の手段としてAを誘拐して殺害し、身代金を奪うという話をSMに持ちかけるようになった[1]。同月末ごろ、男Y(1967年〈昭和42年〉生まれ)が田本宅に居候するようになり、またSSも足繁く田本宅に出入りするようになった一方、同年8月上旬には両親が家を出たため、田本たちは奔放な生活を営むようになった[1]。
田本は公判で、SMから犯行前に「玉名で企業を相手に恐喝できないか」と持ちかけられ、Aの父親が経営する会社を恐喝しようと計画したが、難しいと見たのでAの弟や妹を誘拐する計画に変更し、2人で計画を練ったものの、SMから「Aと同級生だろう」と言われ、顔を知っていたAを狙う計画に変更した、と述べている[16]。一方でSMは、1987年8月、上京中の田本から「玉名に金持ちがいる。子供を誘拐して金をとろう」と持ちかけられ、当初はAの弟や妹を誘拐の標的にする話が出たが、彼らの顔がわからなかったため、田本の小学生時代の同級生で面識のあるAを標的に決めたと述べ[13]、また第一審の公判では、東京から玉名に帰る新幹線の車内で同乗していた田本から、Tグループの社長は金を持っているし、後ろめたいことをやっているから、それを種に脅したら金を出すはずだと聞かされており、後に田本の家で世話になっているうちに田本から、当時小学生だったTグループの社長の娘を誘拐して金を奪うことを持ちかけられた、と供述した[17]。そのため、田本の運転する自動車に乗り、社長の娘の通学していた小学校や洋品店、そして金を取る場所として考えた明星病院の近くを下見するなどしたが、小さい子供は泣くから誘拐は難しいのではないかと話したところ、田本から自身の同級生であり[17]、社長の長男である被害者Aを誘拐し[18]、殺害することを持ちかけられた[17]。
同月末以降はSSも田本宅で寝泊まりするようになり、SMは田本から持ちかけられていた誘拐殺人の計画にYとSSも引き入れることを提案、身代金の額も5,000万円にすることに決定した[1]。一方でかねてから居候していたSM・Y・SSの3人を追い出すように注意していた田本の父親が9月10日に退院してくることになったため、田本は自宅を出るからには計画を実行するしかないと決意し、同日に4人で軽トラックに乗って自宅を出た[1]。同日夜、4人は福岡市内のラブホテルからAの在学していた第一経済大学へ電話をかけ、Aの住所を調べたうえで呼び出すことや、田本がAを飲み屋に連れて行ってビールに睡眠薬を入れて眠らせ、福岡市内の山中でロープで縛り、穴に埋めて殺すこと、SMが電話で身代金を要求することなどを決めた[19]。
翌11日、4人は福岡のモーテルで田本主導の下に犯行計画を練り、概括的共謀を遂げ、その費用として「大場組」から上京のための費用と偽って10万円の送金を受けた[1]。同日[1]、大学や実家に電話をかけるなどしてAの居所を探したが[20]、Aは玉名市内にいることが判明した[1]。このため4人は急遽予定を変更し[19]、レンタカー会社から借りた軽トラック[注 2]に乗り換え、玉名市に向かった[1]。犯行に用いた車は福岡市内で借りたものだが、4人はこの車を借りた直後、Uターン禁止違反で福岡県警察に検挙された際に本名を答えており、これがその後の事件捜査の過程で割り出される遠因となった[20]。また、4人は殺害後にAの遺体の足を縛るための荷造り用ロープを準備していた[20]。
そして4人は偶然Aを見つけたが、その日は立ち話をしただけで別れた[1]。翌12日、4人は犯行に使用するためのガムテープやロープを購入した上で、殺害場所の下見をしたり、殺害現場について話し合ったりした[1]。そして12日・13日とモーテルに宿泊したが、Aが見つからないことに焦りを感じていたところ、14日21時ごろになってAの恋人である女性Bが同乗しているAの車を発見したため、追尾しながらその車内で具体的な犯行の共謀を遂げた[1]。Aの車を見つけたのは、その車がAの友人宅から出てきた際であり、一時見失ったものの、その後再発見したという[20]。
犯行当日
[編集]Aを誘拐・殺害
[編集]4人は9月14日21時30分ごろ[1]、玉名市にある蛇ケ谷公園(座標)の駐車場で[21]、BとドライブしていたAの車を呼び止めた[22]。Aが同公園駐車場に車を駐車したところ、Aの車を尾行していた田本はその側に自分の車を停めて車を降り、同様に車から降りたAに対し、品物を熊本まで届けてほしいなどと話しかけ、それを承諾したAに対し自分たちについてくるよう言い[1]、Aを玉名市築地の小岱山[注 3]中までついて来させた[19]。その目的地は、殺害現場および遺体発見現場となった廃材捨て場(座標)で、蓮華院誕生寺奥之院から500 m入った山中に位置している[8]。Aは当初、Bを連れたまま田本たちについて来ていたたが、田本は殺害現場となる廃材捨て場へ向かう途中、「今から品物を取りに行くから、彼女はやばいから置いといてくれ」などと言い、Aのみを自車の後部中央座席に乗り込ませて誘拐した[1]。4人は当初、Aが一人になったところを誘拐する計画だったため[13]、呼び止めた時点でAがBと一緒にいたことは捜査員曰く「完全な予想外」であり、それが「とにかく遠くへ逃げよう」という心理を誘発、Bを11日間にわたって連れ回す遠因になったという[20]。
かくして22時ごろ、4人はAを廃材捨て場に連れ込み、田本以外の3人は品物を探すふりをしてAに攻撃を加える機会を窺ったが、最初の一撃を加える予定だったYは空の一升瓶を手にしたものの、実行を躊躇っていた[1]。それを見た田本はYに近づき「それですっとや」と話しかけて実行を促し、SSも背後からついてくるよう合図したため、YはSSの背中で隠すようにしながらAの背後に近づき、一升瓶でAの後頭部を1回殴りつけた[1]。Aがその場にしゃがみ込んだところ、SMはAを右足で蹴ってうつ伏せに倒した[1]。Aは「自分は何も悪いことはしていない。何でも言うことを聞くから、勘弁してくれ。」と哀願したが、4人はそれを意に介さず、田本以外の3人はAの頭部めがけて順次、重さ10 kgのコンクリートブロック片を持ち上げながら計10回程度投げつけた[1]。それでもAは絶命せず「タモッチ助けてくれ」と田本に助けを求めたため、3人は一時犯行の手を止めたが、田本はその3人に対し「まだ生きとるけんが、とどめばささんや。」と指示しながらブロック片をAの頭部に2回投げつけ、Aを殺害した[1]。Aの死因は右側頭部頭蓋骨骨折による脳内出血である[1]。
殺害後、4人はAの遺体を約5 m下の崖下に投げ捨てた[8]。犯行後の16日、現場では整地作業が行われており、土石や廃材がブルドーザーで崖下へ押し出されていたため、遺体はそれらの中に隠れる格好になっていた[8]。
Bを監禁
[編集]かくしてAを殺害した4人は、車の中で待たせていたBの下へ引き返す途中で犯行の発覚を防止するため、Bを監禁することを共謀した[1]。4人は「彼女を連れてきてくれ」と頼まれたと嘘を言い、Bを乗せたAの車にSMとSSが乗り込んで発進させ、佐賀県のホテル「フレンド」まで連行した[1]。『朝日新聞』によれば、田本らは15日未明に佐賀県杵島郡江北町のホテルに到着したという[24]。そしてAから電話があったと騙してBをホテル室内へ連れ込み、15日2時ごろ、田本とY・SSは室内のベッドに座っていたBに背後から飛びつき、布団をかぶせてベッドの上に押さえつけ、「暴れたら腹打って気絶させるぞ。」などと言って反抗を抑圧した上で衣服を脱がせて全裸にし、SS・田本・Yの順にBを強姦した[25]。同日4時ごろ、田本らは強姦されたことにより畏怖状態にあったBに対し、逃走すれば自身やAの生命・身体に危害を加えられるかもしれないが、言われるがままにしていればAと会えるかのように誤信させて逃走を断念させた上で、25日に解放するまでBを福岡・久留米・東京・大阪・愛知・静岡・横須賀などへ連れ回した[26]。SSはBを長期間にわたって連れ回した理由について、仮にBを解放すればA殺害が発覚して逮捕されると思ったためであると述べている[27]。熊本地裁 (1988) の認定によれば、田本らは当初、Bも殺害するつもりで監禁していたとされる[28]。
同日夜、Bは実家に「友達の家に泊まる」と電話していたが、実際にはSMらと共に久留米市のホテルに入っていた[24]。これは田本らがBに電話をかけるよう命じたもので、田本らはこれ以外にもあちこちに電話をかけ続けており、捜査員はその行動理由について「殺害がバレていないか、探りを入れていたのでは」と評している[15]。16日から17日にかけ、田本らはBを連れて同市内の田本の知人宅に泊まり、18日21時に福岡市内で犯行に用いられた車両を返却、Aの外車に乗って東京方面へ向かい、同日夜は姫路や大阪のドライブイン、パチンコ店の駐車場などに駐車して睡眠を取った[24]。19日、田本らは愛知県のYの知人宅で金を借りようとしたが断られ、同日も車中泊した[24]。20日、田本らは静岡・横浜を経由して東京へ入り、21日まで都内のモテルに宿泊、22日は東京都八王子市の高尾山で時間を潰した後、高尾駅近くの友人宅に泊まった[24]。
その後も4人はBを連れ回しながら一緒に行動していたが、23日にSM以外の3人(田本・Y・SS)は警察の追及の手が迫っていることを感じ、SMにBの監視を託して相次いで姿を消した[26]。まず同日朝にYが姿を消し、田本とSSもBを連れたSMと別れ、SMはBとともに引き続き友人宅に残ったという[24]。SMは同月25日11時ごろ、Bに命じて彼女の実家に電話をかけさせ[21]、新横浜駅前でBを解放した[26]。このころ、Bは神奈川県横浜市内から実家へ「帰る交通費を送金してほしい」と連絡している[24]。捜査員はSMが最終的にBを解放した理由について、Aに続いてBも殺害することに躊躇があったためだろうと評している[15]。同日午後に「Bを保護、博多駅まで送る」という電話が入り[2]、Bは13時5分に東海道新幹線「ひかり203号」に乗車[24]、同日20時に博多駅に到着したところを捜査員に保護された[2]。
身代金要求
[編集]一方で16日ごろ、田本らは身代金の受け渡し場所を下見した[26]。17日15時10分、SMは久留米市内から[27]「司グループ」本部事務所に電話をかけ、応対したAの父親を「お前の息子を誘拐した」「警察に言うと息子を殺すぞ」などと脅し、翌18日の18時に久留米市内の喫茶店まで身代金として5000万円を持って来るよう要求した[26]。しかし4人組からAの家族に対する接触はこの1回のみであり、『熊本日日新聞』の取材に応じた捜査員はその理由について、Bまで誘拐することになって計画が狂ったことや、電話に応対したAの父親が動揺したことから、それまで考えていた身代金奪取を断念したのだろうと考察している[13]。またこの時、田本が用意したメモをSMが読み上げる形で要求を伝えたが、電話を受けたAの父親は動転していたため、受け渡し時間が性格に伝わらなかったという[20]。
捜査
[編集]脅迫電話を受けて30分後の17日15時30分、Aの父親は熊本県警察に事件を通報した[29]。同日17時、県警は169人体制の「玉名市における大学生身代金目的誘拐事件捜査本部」(本部長は県警刑事部長・前中幸弘)を設置し[29]、捜査一課内に対策本部を、所轄警察署である玉名警察署にも現地本部をそれぞれ設置した[24]。県警はA宅の電話に逆探知装置を設置して犯人からの2回目の電話を待ったが、その後も2回目の電話はかかってこなかった[2]。また、18日朝には身代金の受け渡し場所に指定された久留米市の喫茶店に捜査員70人を張り込ませたが[24]、犯人側からの接触はなく[2]、18時50分の閉店とともに同日の張り込みを打ち切った[29]。また翌19日も同様に張り込みを行ったが、同日も連絡はなかった[29]。
一方で熊本県警は21日、九州管区警察局を通してAの外車を手配し、22日には福岡県警察が久留米のホテルで、Aの外車と田本らが借りていたレンタカーが一緒だったことを突き止めた[24]。翌23日、熊本県警はAが事件に巻き込まれている疑いがあるとして、警察庁に正式に手配した[24]。
Bが保護された25日夜、Yは東京・新宿をうろついていたところで職務質問を受け、「玉名ででかいことをした」と話したため、警視庁は玉名署に照会した[2]。その結果、Bの供述からYがA誘拐事件に関与していることが判明したため、Yは26日5時50分に不法監禁容疑で警視庁に逮捕された[2]。またYの取り調べとBの証言から田本やSM・SSの存在が浮上し、県警などは立ち回り先などを探していたが、SMはY逮捕のニュースを見て「逃げ切れない」と思い、同日19時30分[30]もしくは20時に警視庁へ出頭、21時に逮捕監禁容疑で逮捕された[24]。県警は同日、田本とSSを全国に指名手配し[30]、またSMの自供に基づいて警視庁八王子警察署管内でAの白い外車を発見した[24]。一方でSSは同日、それまで共に行動していた田本と都内で別れたという[27]。
また県警はYやSMの供述に基づいてAの遺体を捜索し、同月27日16時20分、Aの遺体を発見した[8]。同月28日午後、SSは所持金がなく、逃げ切れないと思ったことや、父親から説得を受けたことなどを理由に警視庁へ出頭し、同日15時30分に逮捕された[21]。同月30日11時5分、最後まで逃走していた田本は東京都渋谷区内の知人宅に潜伏していたところ、県警からの連絡で警視庁に逮捕された[10]。田本ら4被疑者は同年10月2日までに、身代金目的誘拐、殺人、死体遺棄容疑で捜査本部に再逮捕され[31]、同月3日、それらの逮捕容疑で熊本地方検察庁へ追送検された[32]。
熊本地検は同年10月22日、田本ら4被疑者を身代金目的誘拐、殺人などの罪で熊本地方裁判所へ起訴した[20]。また同年11月10日、熊本地検はBに対する監禁罪などで4人を追起訴し、捜査終了を受けて県警は捜査本部を解散した[33]。
刑事裁判
[編集]田本は身の代金目的拐取、殺人、拐取者身の代金要求、監禁、強姦の罪に問われた[34]。
第一審
[編集]刑事裁判の第一審は熊本地方裁判所刑事第1部に係属し[26]、初公判から判決公判まで荒木勝己が裁判長を務めた[19][35]。第一審の初公判は1987年12月8日に開かれ、罪状認否で田本ら4被告人は起訴事実を全面的に認めたが、田本は自身が積極的に持ちかけたものではなく、4人全員で話し合って犯行におよんだと主張し、主犯性を否定した[19]。
同月21日の第2回公判では検察官によるSSへの被告人質問が行われ、SSは田本が誘拐計画を持ちかけたこと、また4人で殺害現場の小岱山を下見した際に田本から死体の隠し方について具体的な方法を提案されたことなどを挙げ、常に田本が計画の中心になっていたと証言した[36]。続く1988年(昭和63年)1月11日に開かれた第3回公判では、SSに対する弁護人の被告人質門と、SMに対する検察官・弁護人双方による被告人質問が行われ、2人はそれぞれ田本が計画段階から実行段階まで主導的に動いていたり、自身よりも15歳年上であるSMが犯行をやめさせようとしても「おっかないんじゃないの」と聞かず、かえってSMを引きずる形で犯行に加担させたりした、という旨を証言した[37]。同年2月2日の第4回公判では田本とYに対する被告人質問が行われ、田本は犯行計画は自身の主導ではなく、SMと2人で進めたものであると主張した一方、Yは田本が常に犯行計画を主導していたと述べた[16]。同年2月8日の第5回公判でも田本に対する被告人質問が行われ、田本は自身だけが主導的に動いたわけではなく、当初はSMと2人で犯行計画を練っていたところ、後にYやSSも積極的に加担するようになったことや、いったん東京の暴力団から勧誘されたことから計画をやめようとしたが、他の3人から煽られて実行することになったこと、そして取り調べ調書の内容とは異なり、自身が殺害を指示したわけではなく、自身に対する取り調べはそれ以前に調べが住んでいた3人の供述に合わせる形で行われたものであり、事実と異なる点も多いことなどを主張した[38]。同月22日の第6回公判では、田本は殺害方法などは当初から明確に計画していたわけではなく、成り行き任せな面もあったことなどを主張した一方、Aの母親が出廷し、犯人への極刑を求めた[39]。
同年3月1日の論告求刑公判で、検察官は田本に死刑、従犯であるSM・Y・SSの3人にいずれも無期懲役をそれぞれ求刑した[40]。同月15日の第8回公判で最終弁論が行われ、第一審の審理は結審した[41]。
1988年3月30日の判決公判で、熊本地裁(荒木勝己裁判長)は田本を死刑、SMを無期懲役、Yを懲役20年、SSを懲役18年とする第一審判決を言い渡した[35]。田本は事実誤認および量刑不当を、無期懲役を言い渡されたSMも量刑不当を理由として、それぞれ福岡高等裁判所へ控訴した[42][43]。一方で無期懲役を求刑されたものの、有期懲役刑を言い渡されたY・SSの2人について、熊本地検は控訴を検討したが[42]、田本やSMに比べて犯情に差があるとして、控訴期限の同年4月13日までに控訴を断念したため、それぞれ懲役20年と懲役18年の刑が確定した[44]。
控訴審
[編集]田本とSMの控訴審は福岡高等裁判所刑事第1部に係属し[26]、初公判では丸山明が[45]、最終弁論公判および判決公判では前田一昭が裁判長を務めた[46][47][48]。また判決公判時の陪席裁判官は森岡安廣・林秀文である[48]。初公判は1989年(平成元年)1月24日に開かれ、被告人側は犯行は集団による異常心理の下で行われたものであり、原判決は死刑を廃止する世界の大勢に反しているなどという旨の控訴趣意書を提出、2被告人の兄弟らを証人として申請した[45]。
控訴審は1991年(平成3年)1月22日の公判で結審した[46]。田本の弁護人は、犯行は集団心理の中で行われたものであり、田本を主犯とした原判決は事実誤認であると主張した上で、死刑廃止は世界の潮流であると訴え、死刑判決の破棄を求めた[46]。またSMの弁護人も、SMは原判決が認定した「参謀格」ではなく、他の共犯者と比べて量刑が不当に重いと主張した[46]。
同年3月26日の判決公判で、福岡高裁(前田一昭裁判長)は田本ら2被告人の控訴を棄却する判決を言い渡した[47]。同日、福岡高裁は主文を後回しにしたが、閉廷間際に前田が主文を言い渡したところ、傍聴席にいた死刑廃止団体が「裁判所に人を殺す権利はない」などと叫び、法廷が騒然とする場面があった[47]。田本のみが上告し、SMは上告しなかった[26]。上告期限は同年4月9日。
上告審
[編集]田本の上告審の弁論期日は当初、1997年(平成9年)7月に指定されたが、田本は同年6月に弁護人5人全員の解任届を提出し、新たに私選弁護人2人が選任された[49]。その後、新たに選任された弁護人の請求によって弁論期日は同年10月に延期されたが、その期日についても直前に再度の変更請求がなされ[49]、後に最高裁第一小法廷(遠藤光男裁判長)は公判期日を1998年(平成10年)1月29日に指定した[50]。しかし、田本はその直前の同年1月17日付で再び弁護人の解任届を提出、また解任届を提出された弁護人2人も自ら辞任届を提出したが、同小法廷はいずれも訴訟を遅延させる目的であるとして、弁護人の解任・辞任を無効とする決定を出した[50]。同決定は、1987年に言い渡された連続企業爆破事件の上告審判決(訴訟を遅延させる目的で提出された弁護人解任届は認められないという見解を示した判例)を踏襲したものだったが、弁護人の辞任届も含めて無効とした判断は極めて異例と報じられている[50]。
このため29日の公判は予定通り開かれたが、弁護人は同日行われた口頭弁論で、同小法廷の決定に対し「解任と辞任は訴訟を遅らせる目的ではない。死刑に直面する者が防御を尽くそうとしているだけで、今回の措置は不当で違法だ」と主張したほか、原判決には重大な事実誤認がある(田本を主導者と認定した原判決は共犯者SMによる虚偽の供述に基づく判断である)点を主張し、原判決破棄を求めた[50]。一方で検察官は、田本は上告中の1996年(平成8年)12月に脱獄未遂事件(後述)を起こすなどしており、反省が認められないとして上告棄却を求めた[50]。
同年4月23日に上告審判決公判が開かれ、同小法廷は田本の上告を棄却する判決を言い渡した[51]。同年7月24日付で死刑判決が確定した[52]。
2002年(平成14年)9月18日、死刑確定者(死刑囚)となっていた田本は福岡拘置所で死刑を執行された(36歳没)[3]。死刑執行時、田本は「春田」へ改姓していた[3]。なお同日には名古屋拘置所でももう1人の死刑確定者が死刑を執行されているが、当時は死刑確定から執行までの期間は通常7、8年程度とされていた一方、田本ら2人はいずれも死刑確定から4年余りで死刑を執行されており[3]、当時は「異例のスピード執行」と言われていた[53]。
脱獄未遂事件
[編集]田本は上告中の1996年(平成8年)12月、
上告中の1996年12月、福岡拘置所に勾留中の田本が夜間、窓の鉄格子を切断しているのを看守が発見。実は田本が別の看守Aと共謀して脱獄を計画していたことが発覚する。TとAは年齢が近いことから友人のような間柄となり、Tが冗談交じりに脱獄計画をAに語っていたが、やがて親に一目会って必ず帰ってくるという田本の言葉を信じたAが金切りノコや現金3千円を渡していた。
看守が囚人の脱獄を援助するという前代未聞の事件の調査の過程で、関東地方の拘置所に長年勤務していたAが、家族の病気により帰郷し福岡拘置所勤務となり、看守同士の人間関係に悩んでいたことが判明。
この脱獄事件の調査中に、当時の福岡拘置所所長が所長室で自殺未遂を起こし、病院に運ばれた直後に飛び降り自殺を遂げた。
Xは事件後に懲戒免職され、1997年(平成9年)7月16日、福岡地方裁判所(照屋常信裁判長)で懲役2年6月の実刑判決(求刑:懲役3年)を言い渡された[7][54]。また法務省は同判決直前の同月14日、福岡拘置所職員計12人に対し訓告、戒告、減給、厳重注意などの懲戒処分を下した[55]。その内訳は、最高責任者であった当時の福岡拘置所処遇部長ら4人が訓告、首席矯正処遇官ら2人が戒告、事件発生当夜の監督当直者が100分の1の減給1か月、夜勤監督看守部長が100分の3の減給3か月、3人が厳重注意、1人が注意である[55]。
なお田本も同事件で加重逃走未遂容疑で書類送検されたが、起訴猶予処分となった[54]。当時、法務省には死刑判決を受けた被告人が別の事件で起訴された事例は把握されていなかった一方、田本を起訴猶予とした場合、脱走を幇助したXとの公平を欠く問題があるが、このような処分となった理由について土本武司は、「死刑を執行すべき死刑を執行すべきときは、没収を除き、他の刑を執行せず」とする刑法第51条の規定の存在を指摘し、福岡地検は田本に死刑以外の刑が執行されないならば、田本を起訴する必要はないと判断したのではないかと評しており、福岡地検も田本が死刑判決を受けたことを考慮したかについては否定しなかった[56]。
事件後
[編集]『週刊文春』によれば、被害者遺族であるAの実家は事件後もさらに事業を拡大し、事件から10年となる1997年時点では熊本県内でも有数の高額納税者になっていたため、地元では田本家の話題を口に出す者はほとんどいなくなっていたという。一方、田本の父親は息子が殺人事件を起こしたころには暴力団を離れ、妻とも離婚しており、1994年(平成6年)ごろに肝硬変で死去した[57]。
第一審で熊本地裁の裁判長として事件の審理を担当した荒木勝己は、2009年(平成21年)に『読売新聞』の取材に応じた際、身代金目的の誘拐殺人という点を重視して田本を死刑とすることを選択したものの、田本は捜査段階や公判で反省の言葉を口にし、写経も行って被害者の冥福を祈っていたことから、控訴審判決後も「死刑を回避することはできなかったか」という思いが捨てきれずにいたが、田本が上告中に起こした脱獄未遂事件で福岡拘置所長が自殺したことを知り、「結果として、彼〔田本〕は2人の命を奪ったことになる。やはり極刑という結論は間違っていなかった」と考えるようになったという[58]。一方で翌2010年(平成22年)に同紙の取材に応じた際には、判決には後悔はないが、時折「更生の可能性は本当になかったか」という思いが沸き起こることがあったと述べている[59]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 岩井宜子 1999, p. 209.
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参考文献
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- 岩井宜子「〈最新判例批評〉八一 殺害された被害者の数が一名である身の代金目的拐取、殺人、拐取者身の代金要求、監禁、強姦の事案につき、原判決が維持した第一審判決の死刑の科刑がやむを得ないものとされた事例〔身の代金目的拐取、殺人、拐取者身の代金要求、監禁、強姦被告事件、最高裁平三(あ)四七六号、平10・4・23一小法廷判決、上告棄却、判例時報一六三八号一五四頁〕」『判例時報』第1676号、判例時報社、1999年8月1日、209-212頁、NDLJP:2795689/105。 - 1999年8月1日号。『判例評論』第486号47-50頁。
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- 『最高裁判所裁判集 刑事』第307号、最高裁判所、2012年。 - 平成24年1月 - 4月分。長崎市長射殺事件の上告審決定[2012年1月16日第三小法廷決定:平成21年(あ)第1877号]における検察官の上告趣意書。48 - 55頁に「(別表)被害者1名に対して死刑判決が確定した事案」[収録対象:裕士ちゃん誘拐殺人事件の死刑囚S(死刑確定:1987年1月19日)から、闇サイト殺人事件の死刑囚KT(死刑確定:2009年4月13日)]が掲載されている。