利用者:桂鷺淵/下書き12
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天正13年(1585年) |
死没 | 万治4年2月27日(1661年3月27日) |
別名 | 清兵衛(通称)[1][2]、正重、幽山(隠居号)[2] |
戒名 | 玄高院幽山日性[2] |
墓所 | 東京都文京区白山の浄心寺[2] |
官位 | 従五位下、筑後守 |
幕府 | 江戸幕府大目付 |
藩 | 下総高岡藩主 |
氏族 | 井上氏 |
父母 | 父:井上清秀、母:永田氏 |
兄弟 | 重成、正友、正就、政重 |
妻 | 正室:太田重正娘[2] |
子 | 政次 |
井上 政重(いのうえ まさしげ)は、江戸時代前期の旗本・大名。1632年に最初に任命された4人の大目付のうちの1人で、幕藩体制確立に功績を残した。特に宗門改役としてキリスト教の禁圧に辣腕を振るったことから「キリシタン弾圧の中心人物」として知られる[3][4]。その一方で、西洋諸科学に深い関心を寄せて日本への導入を図った人物でもあり、西洋(とくにオランダ)との外交交渉に尽力した人物である。
官位から井上筑後守として言及されることも多い。政重は定府の大名であり、領地に居所を定めなかったが、子孫が下総国高岡(現在の千葉県成田市高岡)を居所としたために、高岡藩初代藩主に位置づけられる。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]天正13年(1585年)、井上清秀の四男として遠江国で生まれる[2]。父の井上清秀は松平家(のちの徳川家)家臣阿部定吉の実子とされる人物で[5]、一時織田家家臣佐久間信盛に属したのち、徳川家家臣の大須賀康高(遠江国横須賀城主)に属したという経歴を持つ[5][注釈 1]。
7歳年長の同母兄井上正就は、早くから徳川秀忠の側近くに仕えており[注釈 2]、のちには永井尚政・板倉重宗とともに「近侍の三臣」と称され老中(「加判の列」)に進んでいる。
なお、正就・政重の母(永田氏)は、徳川秀忠の乳母の一人であったともされる人物で[6]、のちには江戸城中で暮らして「御うば様」と呼ばれたというが、秀忠の乳母であったことには異論もある[注釈 3]。
徳川幕府に仕える
[編集]慶長13年(1608年)より徳川秀忠に仕え、御書院番士として蔵米300俵を給される[2][注釈 4]。元和元年(1615年)には大坂の陣に従軍し、首級1つを挙げる[2]。
元和2年(1616年)9月15日、徳川家光(当時は竹千代)附きの家臣となる[2]。元和4年(1618年)、蔵米に替えて知行500石を与えられる[2]。元和9年(1623年)には家光の上洛に供奉し(この際に家光は将軍宣下を受ける)、500石を加増される[2]。この頃、政重は書院番士の勤務状況を記録する役目についている[6]。寛永2年(1625年)、目付に就任し1000石を加増された[2]。事務能力や監察の才が評価されたものとみられる[6]。寛永3年(1626年)の家光上洛にも随行している[2]。寛永4年(1627年)12月29日、従五位下・筑後守に叙任[2]。
寛永9年(1632年)1月に大御所秀忠が死去し、家光が親政を開始する。この年にはほかの9人と共に、家光側近の年長者として「五の字の指物」の使用を許されているという[6][注釈 5]。同年10月3日に2000石を加増される[2]。同年12月17日[2]、江戸幕府が最初に大目付(当時は総目付という名称)を置いた際に、その1人となる。相役は柳生宗矩、水野守信、秋山正重であった[3]。
大目付・宗門改役としての活動
[編集]寛永14年(1637年)島原の乱が発生し、その鎮圧が難航すると、寛永15年(1638年)1月2日に家光は政重に上使として肥前有馬に赴き、松平信綱および戸田氏鉄の相談相手になるよう命じた[10]。現地に到着した政重は、原城攻略のための作戦立案にも関わっている[11]。なお、この頃から政重はキリスト教禁圧とも関わるようになっており、寛永15年(1638年)末に陸奥国仙台、翌寛永16年(1639年)はじめに出羽国最上でそれぞれ捕縛されたキリスト教徒の詮議にたずさわっている[10]。寛永17年(1640年)6月12日、6000石を加増されて合計1万石となり[2]、大名に列した(のちの下総高岡藩[注釈 6])。この年には宗門改役を兼任した[4]。
政重はしばしば西国・長崎に赴き、異国商船やキリスト教禁制に関する裁許を行った[2]。寛永16年(1639年)の紅毛子女の国外追放[注釈 7]、寛永17年(1640年)の平戸オランダ商館の破却、翌寛永18年(1641年)のオランダ商館の長崎(出島)への移転に関する諸事務にあたった[10]。寛永20年(1643年)5月23日、さらに3000石を加えられたが[2]、これはキリスト教禁圧の功績によるという[10]。
正保元年(1644年)12月16日、大目付として宮城和甫と共に、諸大名に正保国絵図・正保郷帳の作成を命じた。寛永20年(1643年)5月、筑前国で捕らえられたジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)が同年7月、江戸に移送され、政重の小石川の下屋敷に預けられて取り調べを受けた。キアラを転宗させた政重は、その後「切支丹屋敷」にキアラを置いて給与を与え、キリスト教徒取り締まりの助手とした[10]。
1643年、金銀諸島の探索のためにオランダから来航し、南部藩に上陸したオランダのブレスケンス号の船員が捕縛されるブレスケンス号事件が発生し、これをうけて1650年に、バタヴィア側は信任状のない特使を送る事になる。この特使に対して大目付の井上政重が対応した。紅毛流測量術はこのとき伝えられたと一般に考えられている[12]。
退隠
[編集]嫡男の政次は早世したため、政次の嫡男である政清に万治3年(1660年)7月9日、家督を譲って隠居し幽山と号した。万治4年(1661年)2月27日、死去[3]。享年77。
人物
[編集]キリシタンの弾圧・取り締まり
[編集]下屋敷が文京区小日向にあり、キリシタンを幽閉する施設(切支丹屋敷)として使用された。脇に切支丹坂と呼ばれる坂が残る。
西洋科学への関心
[編集]「元キリシタン」説
[編集]「自身も元キリシタンであった」とされるが、史料的な裏付けは取れない。
フィクションにおける井上政重
[編集]遠藤周作の小説『沈黙』では、重要人物の一人として登場する。本作では井上は元キリシタンという設定。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 清宗の義父にあたる井上清宗は大須賀康高に属していた[5]。清宗は慶長元年(1596年)没、清秀は慶長9年(1604年)没[5]。
- ^ 正就は秀忠の2歳年長。天正17年(1589年)に正就は13歳で秀忠の御目見を得た[5]。
- ^ 徳川秀忠の庶子である会津藩祖保科正之(慶長16年(1611年)生まれ)の生母・浄光院(志津)は「大姥局」の侍女であったとされるが、これに関連して「大姥局」=「徳川秀忠の乳母」=「井上正就の母」という情報が付与されることがある。『落穂集』によれば、浄光院が仕えたのは「御うば様」という秀忠の乳母で井上正就の母といい、『会津藩家世実紀』にも同種の記述(呼称は「大乳母殿」)がある。しかし、『寛政重修諸家譜』によれば秀忠の乳母で「大姥局」と呼ばれたのは川村重忠の妻(岡部貞綱の娘)である[7][8][9]。
- ^ 長谷川一夫(1976年)は、秀忠に仕えるまでの政重は大須賀家に仕え、次いで蒲生家に仕えていたとしているが[6]、この間の事情は『寛政譜』には明示されていない。
- ^ 長谷川はこの記述の出典に『寛政重修諸家譜』(国民図書版)を挙げているが、当該ページに当該事項の記載はなく、出典提示時の錯誤かと思われる。
- ^ 政重および2代藩主政清は定府であった。3代藩主政蔽の時にはじめて下総高岡に陣屋を築いて居所と定め、参勤交代を行った。
- ^ 第五次鎖国令。「じゃがたらお春」も参照。
出典
[編集]- ^ “井上政重”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十三「井上」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.253。
- ^ a b c “井上政重”. 朝日日本歴史人物事典(コトバンク所収). 2022年3月18日閲覧。
- ^ a b “井上政重”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 2022年3月18日閲覧。
- ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十一「井上」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.241。
- ^ a b c d e 長谷川一夫 1976, p. 125.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十「川村」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.394。
- ^ “保科肥後守由緒之事”. 大佗坊の在目在口. 2022年9月10日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ “正之公生母浄光院とその周辺(3)”. 大佗坊の在目在口. 2022年9月10日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b c d e 長谷川一夫 1976, p. 126.
- ^ 長谷川一夫 1976, pp. 126, 135.
- ^ 小曽根淳 2012, p. 9999.
参考文献
[編集]- 長谷川一夫「井上筑後守政重の海外知識について」『法政史学』第21号、1969年。doi:10.15002/00010836。
- 川村博忠「江戸幕府撰日本図の編成について」『人文地理』第33巻、第6号、1981年。doi:10.4200/jjhg1948.33.525。
- 川村博忠「現存した寛永15年日本図の下書き図」『地図』第48巻、第3号、2010年。doi:10.11212/jjca.48.3_1。
- ミヒェル、ヴォルフガング「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動について」『日本医史学会』第41巻、第1号、1995年 。
- 小曽根淳「紅毛流として伝来した測量術について (I)」『数理解析研究所講究録』第1787巻、京都大学数理解析研究所、2012年 。December 11, 2020閲覧。
- 金子務「日本における「科学技術」概念の成立」『東アジアにおける知的交流──キイ・コンセプトの再検討──』第44巻、2013年。doi:10.15055/00002199。
外部リンク
[編集]- 朝日日本歴史人物事典、デジタル版 日本人名大辞典+Plus 他『井上政重』 - コトバンク
- 「井上筑後守に関する覚書」 - 平岡隆二「長崎ノート」