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利用者:従六位上河内介/sandbox2

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本作長義
指定情報
種別 重要文化財
名称銘本作長義天正十八年
五月三日ニ九州日向住国広
銘打長尾新五郎平朝臣顕長所持云々[注釈 1]
基本情報
種類 打刀
時代 南北朝時代
刀工 長義
刀派 長船派(相伝備前)
全長 87.9 cm
刃長 71.2 cm
反り 2.4 cm
先幅 3.0 cm
元幅 3.4 cm
重量 877.0 g
所蔵 徳川美術館愛知県名古屋市
所有 公益財団法人 徳川黎明会
番号 什宝番号23[1]

本作長義(ほんさく ちょうぎ / ながよし)は南北朝時代に作られたとされる日本刀打刀)である。日本重要文化財に指定されており、愛知県名古屋市徳川美術館が所蔵している。重要文化財としての指定名称は「刀銘本作長義天正十八年
五月三日ニ九州日向住国広
銘打長尾新五郎平朝臣顕長所持云々
」である[2][注釈 2]

概要

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刀工および名前の由来

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南北朝時代に活躍した備前長船派の刀工である長義(「ながよし」または「ちょうぎ」)[注釈 3]の代表作のうちの一振りである。長義は長船派長光景光兼光と続く主流派とは別系統の刀工であり、従来の備前風の作風を基本に相州風の作風も加味した、いわゆる相伝備前(そうでんびぜん、相州伝備前とも)を生み出した刀工とされている[6]。本作も相伝備前の典型作であり、身幅が広く豪壮な姿をしている[7]

本作長義の名前の由来は、1590年(天正18年)に新刀期を代表する刀工である堀川国広によって、「本作・・・」から始まる計62文字からなる長文の切付銘はが刻まれたことによる。なお、長義本人の手によって元々あった銘は磨上(すりあげ、長寸の刀を短くすること)により残っていない。後述の経緯から山姥切長義とも呼ばれている。

小田原北条家から長尾顕長へ

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本作は北条氏直から長尾顕長へ、臣従儀礼の一環として贈られたものである。顕長率いる長尾家は領地周辺を治める戦国武将の動向に合わせて臣従する主君を度々変えており、「屋形様」とされる氏直率いる小田原北条家とも敵対と臣従を繰り返していた[8]

1584年(天正12年)に勃発した小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉側についた長尾家ら国人衆徳川家康側についた小田原北条家との間で8月末に講和が成立していた[9]沼尻の合戦#経過)。しかし小田原北条家は講和後も国人衆への攻撃を停止せず、同年末には長尾家は館林領を失ったことで翌年初頭には小田原北条家に降伏・臣従することを余儀なくされた[9]

戦国時代の臣従儀礼として、臣従する国人当主は主君の許へ自ら赴かないと臣従の保証がされず、一方で臣従を受け入れる主君も完全臣従させたことを世間にアピールするためそれ相応の待遇で迎える必要があった[9]。本作もその一環として贈られたものであり、長尾家と小田原北条家との関係が日本刀の銘文で裏付けされた極めて珍しいものである[9]

本作は長義自身によって切られた銘が磨り上げによって残っておらず、堀川国広によって(なかご、柄に収まる手に持つ部分)に計62字にわたる銘が切られており、刀剣の銘として異例の長文かつ説明的な銘文となっている[8]。その内容から、本作は1586年(天正14年)7月21日に長尾顕長が小田原城へ参上した際に北条氏直から下賜されたものであり、4年後の1590年(天正18年)5月3日に伝来を記録する追刻銘が堀川国広によって彫られたことが判る[6]。1590年(天正18年)は豊臣秀吉による小田原攻めが行われた年であり、敗戦を察した顕長が国広に命じて刀の由緒について銘を切らせたともいわれる[7]。銘入れの場所については小田原城説と[10]足利学校説がある[11][12]。なお、銘文の原文・現代語訳は以下の通りである。

指表(カッコ内は書き下し文の読み)

原文:本作長義天正十八年庚刁五月三日ニ九州日向住國廣銘打 (ほんさくながよしてんしょうじゅうはちねんかのえとらごがつさんひにきゅうしゅうひゅうがのじゅうくにひろめいをうつ)

現代語訳:この長義の刀は、天正18年5月3日に九州日向出身の国広が銘を入れた。

指裏(カッコ内は書き下し文の読み)

原文:長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従 屋形様被下置也 (ながおしんごろうたいらのあそんあきながしょじ てんしょうじゅうよねんしちがつにじゅういちにちおだわらさんぷのとき やかたさまよりくだしおかるなり)

現代語訳:この刀は長尾新五郎顕長が所持している刀である。天正14年7月21日に長尾が小田原へ参府した際、屋形様(北条氏直)より拝領した刀である。

刀工堀川国広へ与えた影響

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顕長が伝来を記録する追刻銘のみを依頼したのか[11]、磨上(すりあげ、元来長寸の太刀を短く切り詰めて仕立て直すこと)も含めて工作を依頼したのかは判明していない[10]。しかし堀川国広が本作を研究する機会は十分にあったようであり、追刻銘に先立って1590年(天正18年)2月に国広作の写し(山姥切国広)が作られている[6]。本作長義(本歌)と山姥切国広(写し)は峰の形状と樋先の位置関係などは正確だが反りを含めた全体の姿形と茎仕立てはあまり似ていないものの[6]、本作をねらったことが明らかな相似形と両方の銘にある「天正十八年」「顕長」から[13]両者が本歌と写しの関係にあることは大前提で語られており[14][15][6]、現代の復元模造に対する意識と当時の刀工が持つ写しに対する意識が異なることが表れている[6]。堀川国広の「慶長打(堀川打)」と呼ばれる相州伝に学んだ後期の作風は、本作を写したことが契機になったとみる説もある[16]

尾張徳川家所有以降

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長尾家没落以降の伝来は不詳であるが、1681年(延宝9年)6月に尾張藩3代藩主である徳川綱誠が購入し、以後は尾張徳川家に伝来している[17][7]。本作の白鞘の鞘書には「仁壱ノ七拾九 備前国長義御刀 磨上無銘長弐尺三寸六分 延宝三乙折紙 代金拾五枚」とあり、刀の鑑定を行う本阿弥家12代当主である本阿弥光常によって金15枚と極められた折紙が附属している[7]。鞘書きの「仁」は尾張徳川で門外不出の刀剣であることを示す蔵帳(刀剣管理台帳)の分類であるが、「仁」の分類に格上げとなったのは1872年(明治5年)のことであり、それまでは「禮」の当主差料としての扱いであった[18][19]。しかし拵えが制作されていないことから、尾張徳川家所有になったあと実際に佩刀された可能性は低い[20]

明治維新後も尾張徳川家に伝来し、1949年(昭和24年)2月18日に尾張徳川黎明会の所有名義で重要文化財に指定された[14]。なお本作の写しの一つである山姥切国広も1962年(昭和37年)6月21日に重要文化財に指定されており[21]、2020年(令和2年)現在、刀剣において本歌と写しが共に重要文化財である唯一の事例となっている[22][21]

年表

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  • 南北朝時代(十四世紀) - 備前長船長義(作刀期間:1352-1380)[23]により打たれる[注釈 4]
  • 時期不明年後北条氏に伝来。
  • 1586年(天正14年)7月21日 - 北条氏直から長尾顕長へ下賜[6]
  • 1590年(天正18年)2月 - 堀川国広が写し(山姥切国広)を打つ[15]
  • 1590年(天正18年)5月3日 - 堀川国広が本作長義に切付銘を入れる[6]
  • 1590年(天正18年)7月 - 後北条氏滅亡により長尾顕長浪人、それに伴い本作長義は所在不明となる。
  • 1681年(延宝9)6月 - 尾張徳川家第三代藩主徳川綱誠が本阿弥家の仲介により購入[注釈 5]
以降は尾張徳川家(1931年からは尾張徳川黎明会(現・徳川黎明会))に伝来。
  • 1745年(延享2年) - 尾張徳川家の蔵帳(刀剣管理台帳)で「れノ十」[18](れ:購入したもの[19])に分類。
  • 1824年(文政7年) - 「禮一ノ六」[18](禮:当主差料 一:太刀・打刀[19])に分類。
  • 1872年(明治5年) - 「仁一ノ七十九」[18](仁:門外不出の刀剣 一:太刀・打刀[19])に格上げ。
  • 1939年(昭和14年)9月6日 - 重要美術品指定[25]
  • 1949年(昭和24年)2月18日 - 重要文化財指定[14][26]

作風

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刀身

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刃長(はちょう、刃部分の長さ)は74.2センチメートル、元幅(もとはば、刃から棟まで直線の長さ)は3.3センチメートルと身幅は広い[5][注釈 6]。徳川美術館では刀剣の研ぎを行っていないため、江戸時代の研ぎの重厚な輝きが保たれている[27]。反り(切先から鎺元まで直線を引いて直線から棟が一番離れている長さ)は2.4センチメートルもある高い反りを持ち、切先(きっさき、刃の先端部分)の長さは7.2センチメートルある力強い大切先である[5]

造込(つくりこみ)[用語 1]は鎬造(しのぎつくり、平地<ひらじ>と鎬地<しのぎじ>を区切る稜線が刀身にあるもの)であり、棟は庵棟(いおりむね、刀を背面から断面で見た際に屋根の形に見える棟)となっている[5]。表裏の鎬地には、棒樋(ぼうひ、刀身に掘られた太い一本の溝)が茎から切先にかけていっぱいにかき通してあり樋先は上がる[5][用語 2]

鍛え[用語 3]は、小板目(こいため、板材の表面のような文様のうち細かく詰まったもの)に杢目(もくめ、木材の木目のような文様)が交っており、地沸(じにえ、平地の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見えるもの)がよくついている[5]

刃文(はもん)[用語 4]は、大互の目(ぐのめ、丸い碁石が連続したように規則的な丸みを帯びた刃文)で、乱の谷の中に小乱(こみだれ、直刃の中に刃と地鉄の境目に互の目が混じっている)交じりで華やかとなっている[5][33]。帽子(ぼうし、切先部分の刃文)は、表裏ともはげしく乱れ込み(刃文の乱れが切先まで続いているもの)尖り(刃文が棟の方に反って鋭角になっているもの)心に返る[8]

(なかご、柄に収まる手に持つ部分)長は16.7センチメートルあり、目釘孔は3個[8]。大磨上(おおすりあげ、元の茎を完全に切断し元々あった銘も無くなってしまったもの)であり、茎尻は先一文字(鎬筋から垂直にまっすぐ切り離したようなもの)である[8]。現在茎に見られる銘は前述の通り国広によって追銘されたものであり、指表に「本作長義天正十八年庚刁五月三日二九州日向住国広」の25字、指裏(さしうら)には「長尾新五郎平朝臣顕長所持天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也」37文字が刻まれている[8]

刀装具

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本作には金無垢二重鎺が附属している。明治初年に至る一連の蔵帳で一貫して拵(こしらえ、刀身以外の外装)に関する記載が無いことから、綱誠によって購入されてから拵が作られたことがなく購入した時点での白鞘に附属していた(はばき、刀身の手元の部分にとめる金具)であると考えられる[20]

尾張徳川家では刀身を保管する白鞘を拵の柄と鎺を一体化して彫り出す木鎺という特殊な造りに統一されており、本作についても『御腰物元帳』成立する1745年(延享2年)までの間で、尾張徳川家にて統一された形式である木鎺に作り直されたものと考えられる[34]。ただし、現在まで伝わる白鞘については、江戸時代中期のものであるかは定かではない[34]。白鞘の柄(つか、刀の持ち手部分)には「第壱部第二十三號」と書かれており、鞘の中央部分には「仁一ノ七十九備前國長義御刀磨上無銘長弐尺参寸六分」、物打ち(刀身の中心より少し上側)付近に「延宝五巳年折紙代金拾五枚」と記されている[34]

山姥切の名前

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本作は通称で山姥切長義とも呼ばれるが、「山姥切」が本作長義(本歌)と山姥切国広(写し)のどちらを指すのかは不明だという説がある[15][35]。長義を山姥切とする説とその逸話は佐藤寒山の著作が初出で、佐藤は1962年(昭和37年)に刊行された『堀川國廣とその弟子』にて「この刀は古来山姥切と称しているが、号のいわれはあきらかではない。(中略)元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥切の号は山姥なる化物を退治た(原文ママ)ためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。」と言及しており、山姥切=本作長義の可能性を指摘する一方で断定は避けている[36]

1966年(昭和41年)に本間順治、佐藤両氏監修にて刊行された『日本刀大鑑新刀篇』では、山姥切国広の解説をした沼田鎌次は「山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられたもので、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治したためといい。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。」と書き、佐藤の上記解説文をほぼ踏襲している[36]

以降の研究書も初出の佐藤、沼田らの文章に対して検証も行わず文章を使いまわしており、昭和時代を代表する刀剣研究家である本間順治、佐藤寒山両氏が編集した研究書に記されていた影響力や、多くの研究書に繰り返し山姥切=本作長義と断定されていたことから、山姥切の号は本作長義に付されたものだという観念が定着したものと考えられる[37]

一方で「山姥切」の名前の由来は国広作の写し(山姥切国広)によるものとする根拠として、1920年(大正9年)10月25日に杉原祥造によってとられた押形があり、この押形が1928年(昭和3年)に刊行された『新刀名作集』に収録されたことで山姥切国広の逸話が知られるようになった[38]。この時点で山姥切国広を所有していた三居某が「山姥切国広」の名で呼んでおり、山姥切伝説と来歴が伝わっていたことが確認できる[39]。この押形を読み解いた福永酔剣(勝美)は1975年(昭和50年)に刊行された『日向の刀と鐔』にて山姥切伝説と来歴を紹介し、山姥切伝説は山姥切国広のものであるとした[要出典]

脚注

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注釈

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  1. ^ 所蔵館による正式名称は記事本文を参照のこと
  2. ^ 徳川美術館の書籍は正式名称を「刀 銘 本作長義天正十八年庚刁五月三日ニ九州日向住國廣銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従 屋形様被下置也」としている[3]
  3. ^ 小笠原信夫は「長義」に「ながよし」と読み仮名を振ったうえで、「一般にちょうぎと呼称される」と注記している[4]。徳川美術館の図録では、「ながよし」と読み仮名を振っている[5]
  4. ^ 磨上が行われていることから、作刀時は太刀もしくは大太刀だったと考えられている[11]
  5. ^ その時点での所有者は不明[24]
  6. ^ 2018年(平成30年)に京都国立博物館で行われた「特別展京のかたな」の図録では、刃長は71.3センチメートル、元幅は3.41センチメートルと記されているが、本項では収蔵元である徳川美術館の図録に準ずる[6]

用語解説

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  • 作風節のカッコ内解説及び用語解説については、刀剣春秋編集部「日本刀を嗜む」、ナツメ社、2016年3月1日、NAID BB20942912識別子"BB20942912"は正しくありません。 に準拠する。
  1. ^ 「造込」は、刃の付け方や刀身の断面形状の違いなど形状の区分けのことを指す[28]
  2. ^ 「樋」は、鎬地に掘られた溝であり、その多くは少しでも刀身の重量を軽くするために彫られている[29]。「樋先上がる」は、樋の先端が横手を伸びて、切先の近くまで伸びていることを指す[30]
  3. ^ 「鍛え」は、別名で地鉄や地肌とも呼ばれており、刃の濃いグレーや薄いグレーが折り重なって見えてる文様のことである[31]。これらの文様は原料の鉄を折り返しては延ばすのを繰り返す鍛錬を経て、鍛着した面が線となって刀身表面に現れるものであり、1つの刀に様々な文様(肌)が現れる中で、最も強く出ている文様を指している[31]
  4. ^ 「刃文」は、赤く焼けた刀身を水で焼き入れを行った際に、急冷することであられる刃部分の白い模様である[32]。焼き入れ時に焼付土を刀身につけるが、地鉄部分と刃部分の焼付土の厚みが異なるので急冷時に温度差が生じることで鉄の組織が変化して発生する[32]。この焼付土の付け方によって刃文が変化するため、流派や刀工の特徴がよく表れる[32]

出典

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  1. ^ 徳川美術館 2018, p. 248.
  2. ^ 文化庁 2000, p. 93.
  3. ^ 徳川美術館 2018, p. 205.
  4. ^ 小笠原信夫『日本刀の歴史と鑑賞』(初)、1989年5月、89頁。ISBN 9784062037310NCID BN03785131 
  5. ^ a b c d e f g 徳川美術館 2020, p. 205.
  6. ^ a b c d e f g h i NHKプラネット近畿『特別展京のかたな : 匠のわざと雅のこころ』(再版)2018年9月29日、160頁。NCID BB26916529
  7. ^ a b c d 【103】刀 銘 本作長義・・・(以下58字略) 秀吉の小田原城攻めとの関係のある名刀 - 「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜 2020年1月1日閲覧。
  8. ^ a b c d e f 原 2020, p. 5.
  9. ^ a b c d 原 2020, p. 6.
  10. ^ a b 徳川美術館 2018, p. 206.
  11. ^ a b c 岩田 2014, p. 12.
  12. ^ 原 2020, pp. 7–10.
  13. ^ 原 2020, p. 8.
  14. ^ a b c 刀〈銘本作長義天正十八年庚寅五月三日二九州日向住国広銘打/長尾新五郎平朝臣顕長所持云々〉 - 文化遺産オンライン 2020年1月1日閲覧
  15. ^ a b c 東京国立博物館『特別展日本のかたな : 鉄のわざと武のこころ』1997年10月、329頁。 NCID BA35353907 
  16. ^ 佐藤寒山『日本名刀物語』河出書房新社、2019年6月20日、189頁。ISBN 978-4-309-22771-9NCID BB28579612 
  17. ^ 徳川美術館 2018, p. 205-206.
  18. ^ a b c d 並木 2018, p. 185.
  19. ^ a b c d 安藤 2018, pp. 190–192.
  20. ^ a b 原 2020, p. 14.
  21. ^ a b 原 2020, p. 27.
  22. ^ 原口鉄哉編「美術鑑賞シリーズ(553)」『刀剣春秋』第776号、刀剣春秋、2017年2月、1頁。
  23. ^ 宮永忠将「備前長船長義の刀剣」『刀剣画報』第3巻、ホビージャパン、55頁、2020年6月5日。ISBN 9784798622316 
  24. ^ 原 2020, pp. 12–14.
  25. ^ 官報第三八〇二號 文部省告示第四百九號(昭和十四年九月六日)(参照:国立国会図書館デジタルコレクション、5コマ目)
  26. ^ 官報第6628号 文部省告示第十六号(昭和二十四年二月十八日)(参照:国立国会図書館デジタルコレクション、3コマ目)
  27. ^ 徳川美術館 編『徳川美術館の名刀』(四)徳川美術館、2018年10月31日、4頁。ISBN 9784886040329NCID BB21886114 
  28. ^ 刀剣春秋編集部 2016, p. 165.
  29. ^ 刀剣春秋編集部 2016, p. 167.
  30. ^ 刀剣春秋編集部 2016, p. 168.
  31. ^ a b 刀剣春秋編集部 2016, p. 174.
  32. ^ a b c 刀剣春秋編集部 2016, p. 176.
  33. ^ 『週刊日本刀』 31巻、デアゴスティーニ・ジャパン、2020年1月14日。 
  34. ^ a b c 原 2020, p. 15.
  35. ^ 得能一男『刀工大鑑 太鼓版』(初)、2013年8月15日、202-203頁。ISBN 9784769401476NCID BB1400116X 
  36. ^ a b 原 2020, p. 29.
  37. ^ 原 2020, p. 30.
  38. ^ 原 2020, pp. 24.
  39. ^ 原 2020, pp. 24–25.

参考文献

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  • 徳川美術館 編『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』(二)徳川美術館、2020年6月1日。ISBN 9784886040343NCID BB26557379 
  • 安藤香織「文政年間における刀剣蔵帳の分類・編成について」『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』2018年7月21日。 
  • 並木昌史「徳川美術館の刀剣・刀装具」『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』2018年7月21日。 
  • 岩田隆「年紀作から見た堀川国廣の考察」『堀川国廣とその一門』、古河歴史博物館、2014年3月。 

関連項目

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外部リンク

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