利用者:夢之枕/sandbox/sandbox5
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中條勝次郎(ちゅうじょうかつじろう)は、日本の武術家である。名は澄友(すみとも)、字は思考、号は滝山[1]。
中条塾の創始者であり、無相流新柔術の流祖である。
経歴
[編集]中条勝次郎澄友は、寛政十一年二月七日(1799年)に林田中河原(現在の坂出市)の岩右衛門の嫡男として生まれる。
11歳の時、父の勧めにより高松藩の三野孫兵衛の門に入り儒学を学んだ。12歳の頃には白文をすらすらと読むことができた。
14歳の時に丸亀雑賀の嶋左之右衛門家貞(嶋友三)の門人となり無相流逆捕組討、天下無双流捕縄術、関口流居合を学び、17歳で全ての免許を受けた。 また、嶋友三の門人図子與之助に師事し関口眼流柔術(岸流)、浅山流、萩野流火術、静流長刀を学び目録を受けた。また赤羽流所秘大国火と紙砲の秘伝を学んだ。他に村上流鉄鎖も学んだ。 また、中条は直心影流剣術の免許皆伝を持っている。
18歳の時に高松藩士の守屋氏右衛門の門人となり天文、地理、暦数、周易、無天流剣術を学んだ。
20歳で牢人株に進み、中条姓を名乗った。
文政七年(1824年)ごろに自宅に中条塾を新設し、昼間は武士に夜間は百姓や町人に文武を教えた。
その後、嶋から学んだ無相流逆捕に工夫を加え新たに無相全流を創始し、天保三年(1832年)に流派名を無相流新柔術に改めた。
天保十一年(1840年)、中条勝次郎が41歳の頃に、文武の門人が増加して210余名を数え道場は全盛をきわめた。県内や他国からの武者修行者が相次いだとされる。
脚注
[編集]- ^ 『讃岐柔道史』p49
参考文献
[編集]関連項目
[編集]Category:江戸時代の武術家 Category:柔術家