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古家時雄(ふるいえ ときお)
[編集]古家時雄(ふるいえ ときお、- 2018年8月12日)は、今昔文字鏡の開発制作者で、販売会社であるエーアイ・ネットの代表取締役社長。
今昔文字鏡
[編集]Windows用の漢字検索ソフトと印字用フォントを組み合わせた入力、印字用アプリケーションソフトウェア。
関連項目
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議所
[編集]内裏の宜陽殿にある一室で、公卿が集議したところ。叙位や除目が行われた。
宜陽殿(ぎようでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。 内裏の南東にあり、紫宸殿の東南、綾綺殿の南、日華門を挟んで春興殿の北に位置する。南庭西側の校書殿とは東西に相対する。 母屋は天皇累代の御物・宝物を保管しておく納殿として用いられた。西庇に左近衛陣座が置かれ、そこで陣定が盛んに行われたが、後に陣定の会場は紫宸殿につながる軒廊へと移っていった。『貞観儀式』(飛駅条)には宜陽殿を「為政殿」と呼んでおり、平安時代前期に太政官の会議は宜陽殿にて開催され、必要に応じて下級役人や諸国の使者を隣の左近衛陣座に呼んで喚問していたものが、会議の場所自体が陣座に移されて開かれるようになったとする説もある[1]。
- ~南廂には議所(ぎのところ)があり,除目(じもく)を行った。執筆者:今泉 隆雄 改訂新版 世界大百科事典『宜陽殿』 - コトバンク
- 南廂の西側には議所があり、叙位・除目(じもく)の際の公卿の集合場所となった。 日本大百科全書(ニッポニカ)『宜陽殿』 - コトバンク
関連項目
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造寺司
[編集]造寺司(ぞうじし)とは、奈良時代に官寺あるいはこれに准じた寺院を造営するために設置された令外官のこと。
概要
[編集]寺院単位で設置され、施設の建築やそこで使われる用具の製造(経典の写経も含む)にあたった。最古の例は法興寺創建時において蘇我善徳(馬子の子)が任じられたとされ、飛鳥寺創建の際にも設置されていた(その施設内から大量の富本銭が発掘されている)が、本格的な設置は律令制導入以後とされている。本来こうした造営は木工寮などが担当することとなっていたが、鎮護国家思想の高まりによって造寺が盛んになり、更に遷都なども重なって木工寮への業務の集中を避けると同時に、権力や利権の集中を防ぐことも目的であったとされている。
大規模な寺院造営を行う造寺司では四等官(長官・次官・判官・主典)が導入されて人員や官位相当は省に准じる場合もあった他、下部の官司として「所」が設置されることもあった。東大寺造営のための造寺司である造東大寺司の下に置かれた「写経所」の公文書の一部は正倉院文書として現代に伝えられている。四等官の下には史生・舎人、更には技術や熟練度によって位置づけられた大工・少工・長上・番上以下多数の工匠を抱えていた。
財源は封戸が主であったが、墾田永年私財法施行以後は初期荘園なども加えられるようになった。こうした財源は造寺司を経由して寺院の財源となるために、一面においては僧尼令や僧綱とは別の意味で寺院や三綱以下の僧侶を監督・統制する手段ともなり得たのである。
だが、奈良時代末期の宇佐八幡宮神託事件をきっかけとした仏教に対する規制強化や朝廷の財政難などによって造寺事業は縮小され、遅くても平安時代初期には殆どの造寺司は廃止され、財源や寺院の監督は別当や三綱に移ることになった。
主な造寺司
[編集]- 奈良薬師寺-造薬師寺司
- 大安寺-造大安寺司
- 東大寺-造東大寺司
- 石山寺-造石山寺所(造東大寺司の下部官司)
- 下野薬師寺-造下野薬師寺司
- 法華寺-造法華寺司
- 西大寺-造西大寺司
- 興福寺-造興福寺仏殿司
- 西隆寺-造西隆寺司
- 観世音寺-造観世音寺司[2][3][4]
脚注・参考文献
[編集]- ^ 川尻秋生「陣定の成立」吉村武彦 編『日本古代の国家と王権・社会』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1268-3
- ^ 正木喜三郎『太宰府官制の一考察』 14巻、東海大学史学会〈東海史学〉、1980年、63頁 。「観世音寺の場合、造寺司そのものについて史料的には不明であるが、造観世音寺別当の任命があるのを見れば、同様に設置されたものであろう。養老七年(723)二月、満誓は勅により造観世音寺別当として着任し・・・」
- ^ 『続日本紀 巻第9 文武天皇養老七年二月』経済雑誌社〈六国史 : 国史大系 続日本紀〉、1913年、138頁。doi:10.11501/950689 。
- ^ 『高知大学学術研究報告』 5巻、2号、高知大学、1956年、5頁。doi:10.11501/1786061 。
関連項目
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観世音寺
[編集]観世音寺 | |
---|---|
講堂(福岡県指定文化財) | |
所在地 | 福岡県太宰府市観世音寺五丁目6番1号 |
位置 | 北緯33度30分54.1秒 東経130度31分16.7秒 / 北緯33.515028度 東経130.521306度座標: 北緯33度30分54.1秒 東経130度31分16.7秒 / 北緯33.515028度 東経130.521306度 |
山号 | 清水山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 聖観音 |
創建年 |
7世紀後半の発願 完成は天平18年(746年) |
開基 | 天智天皇 |
札所等 | 九州西国33観音33番 |
文化財 |
梵鐘(国宝) 木造観音菩薩坐像等17件(国の重要文化財) 境内および子院跡(国の史跡) 金堂・講堂(福岡県指定文化財) |
観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音[1](しょうかんのん)。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。
九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。
歴史
[編集]創建
[編集]九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。
『続日本紀』の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される[2]。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年-683年)のことであるとの記事が見える。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされる[3]。
観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである[4]。この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる。。
満誓作の有名な和歌作品に以下がある[5]。この一首は平安時代の『拾遺和歌集』巻20にも哀傷歌として収められている[6]。
- 世の中を 何にたとへむ 朝びらき 漕ぎいにし船の 跡なきごとし「世間乎何物尓将譬旦開榜去師船之跡無如」(『万葉集』[7])
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位下
- 大宝4年(704年) 正月7日:従五位下
- 慶雲3年(706年) 7月20日:美濃守
- 時期不詳:従五位上
- 和銅元年(708年) 3月13日:美濃守
- 和銅4年(711年) 4月7日:正五位上
- 和銅6年(713年) 正月23日:従四位下
- 霊亀2年(716年) 6月20日:兼尾張守
- 養老元年(717年) 11月17日:従四位上
- 養老3年(719年) 7月13日:尾張三河信濃按察使
- 養老4年(720年) 10月9日:右大弁
- 養老5年(721年) 5月12日:出家して満誓に。最終官位は右大弁従四位上
- 養老7年(723年) 2月2日:造観世音寺使
子孫
[編集]満誓は天平年間に観世音寺の造寺司を務めていた際、赤須という名の寺家女との間に男子を儲けた。この子孫は観世音寺の寺家人となり、子孫の夏麻呂は良民として扱ってもらうよう太政官と大宰府に対して頻繁に訴えるが許可を得られなかった。貞観8年(866年)になって、観世音寺の講師・性忠が大宰府に対して、麻呂の五世の子孫にあたる清貞・貞雄・宗主を良民として筑後国竹野郡へ貫附するように訴え出て、太政官に認められている[8][9][注釈 1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 金堂本尊は阿弥陀如来(現在は宝蔵に安置)、講堂本尊は聖観音であるが、天台宗九州西教区のサイトにある観世音寺の紹介ページ 観世音寺によると、宗教法人観世音寺の規則上の本尊は、現在宝蔵に安置されている聖観音坐像(旧講堂本尊)であるという。なお、現在講堂に安置されているのは上述の聖観音坐像とは別の、立像の聖観音像である。また、上述のサイトによれば、創建当初の本尊は不空羂索観音で、平安時代後期に聖観音が本尊になった。
- ^ 九州歴史資料館(2006), p. 12.
- ^ 九州歴史資料館(2006), p. 18.
- ^ 九州歴史資料館(2006), p. 13.
- ^ 稲岡.
- ^ 和歌データベース『拾遺集』 - [./国際日本文化研究センター 国際日本文化研究センター]
- ^ 『万葉集』巻3-351
- ^ 『[./日本三代実録 日本三代実録]』貞観8年3月4日条
- ^ Miller 1981, p. 145.
参考文献
[編集]- 稲岡耕二. “『日本大百科全書(ニッポニカ)』「満誓」”. 小学館. 2017年3月15日閲覧。
- Miller, Roy Andrew (1981). “The Lost Poetic Sequence of the Priest Manzei” (英語). Monumenta Nipponica (上智大学) 36 (2): 133-172. doi:10.2307/2384144. ISSN 1880-1390.
- “『世界大百科事典〈第2版〉』「沙弥満誓」”. 平凡社. 2017年3月15日閲覧。
- 宇治谷, 孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年11月6日。ISBN 9784061590328。
- 武田祐吉・佐藤謙三 訳『読み下し 日本三代実録 (上)』戎光祥出版、2009年10月。ISBN 9784864030014。
- 松平君山『吉蘇志略』(写本、明治8年) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年4月。国立国会図書館書誌ID:000001831027。
- 志津田藤四郎「沙彌満誓の歌について : 旅人と満誓との関係を中心に」『佐賀龍谷學會紀要』第12号、九州龍谷短期大学、1965年12月、17-37頁、CRID 1572824501698352896、ISSN 0286-3758、2017年3月16日閲覧。
関連項目
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