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利用者:加藤勝憲/鹿島則泰

鹿島則泰(かしま のりやす、1867年(慶應3年)- 1946年(昭和21年))は、鹿島神宮大宮司の鹿島則文の長男、幼名は太郎。鹿島神宮宮司を務め、後に宮司職を弟の敏夫に譲って上京。帝国図書館に奉職して図書館司書養成所で教鞭をとる。

生涯

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父の則文は、1863年(文久3年)、尊皇攘夷や敬神廃仏を唱える水戸藩士が集う文武館に土地を貸して交流をもったことが問題視され[1][2][3]、1865年(慶応元年)八丈島遠島となる[1][4]。則文には遠島になる前にすでに妻がいたが、則泰は八丈島の女性との間にできた子供で庶長子ということになる。

明治維新後の1869年(明治2年)に父が遠島を解かれて赦免[1][4]、帰郷したときに鹿島に来て少年期を過ごし、1883年(明治16年)上京、皇典講究所(現在の國學院大學)に入学。その後、東京大学文学部古典講習科に入学し、1888年(明治21年)に古典講習科を卒業。熊本済々黌の教授となり、翌年秋田県師範学校で教鞭をとる。

この間、父則文は1873年(明治6年)鹿島神宮大宮司[1][5]、1884年(明治17年)には神宮大宮司に任じられたために、在東京の則泰以外は一家を挙げて伊勢に転居[6][7]

1898年(明治31年)、内宮炎上の責を負い父が辞職し、一家は鹿島に戻っている[1][8]

則泰は1890年(明治23年)に鹿島神宮の宮司になり、1898年に父と共に鹿島に戻った弟の敏夫にその職を譲って上京。帝国図書館に奉職して図書館司書養成所で教鞭をとる。

脚注・参考文献

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脚注

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  1. ^ a b c d e 深沢秋男「桜山文庫目録 和書之部(上)」『近世初期文芸』第25号、近世初期文芸研究会、2008年12月、74-112頁。 
  2. ^ 鹿島町史編さん委員会 編「揺れ動く幕末」『鹿島町史 第5巻』鹿嶋市、1997年、33 - 37頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9644892/1/30 
  3. ^ 鹿島敏夫『先考略年譜稿』、435 - 436頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12279118/1/225 
  4. ^ a b 鹿島敏夫『先考略年譜稿』、436頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12279118/1/226 
  5. ^ 鹿島敏夫『先考略年譜稿』、437頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12279118/1/226 
  6. ^ 深沢秋男「桜山文庫目録 和書之部(上)」『近世初期文芸』第25号、近世初期文芸研究会、2008年12月、74-112頁。 
  7. ^ 鹿島敏夫『先考略年譜稿』、438頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12279118/1/227 
  8. ^ 鹿島敏夫『先考略年譜稿』、440頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12279118/1/228 

参考文献

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一族、および帝国図書館奉職まで

帝国図書館司書として

  • 安藤正次国語学』明治書院〈国語科学講座 III〉、1934年https://dl.ndl.go.jp/pid/1870661/1/4 
  • 藤田大誠明治国家形成と近代的国学構想--古典講習科の展開・終焉と國學院の設立」(PDF)『明治聖徳記念学会紀要』第40号、明治聖徳記念学会、2004年12月、100-139頁、ISSN 09160655オリジナルの2016年1月14日時点におけるアーカイブ、2024年6月29日閲覧 
  • 藤田大誠「第5章 近代国学と高等教育機関 − 東京大学文学部附属古典講習科の設置と展開」『近代国学の研究』弘文堂、2007年。 
  • 日本図書館協会図書館雑誌編集委員会, ed (1917-04). “日本図書館協会沿革略”. 図書館雑誌 (日本図書館協会) 30. https://dl.ndl.go.jp/pid/11230057. 
  • 日本印書考、芸軒清話、支那書史學稿』(稲村徹元 解説)青裳堂書店〈日本書誌学大系20〉、1982年https://dl.ndl.go.jp/pid/12236362/1/3 

関連項目

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