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利用者:加藤勝憲/古典講習科

古典講習科(こてんこうしゅうか)は、1882年(明治15年)5月30日に東京大学文学部に本科とは別に付設された教育組織[1]

設置の経緯

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明治10年代初頭の東京大学文学部は洋学尊重の時代的風潮に影響されて和漢文学を専攻する学生は乏しかった。これを憂えた東京大学法理文三部総理だった加藤弘之の明治14年の建議が発端となり、小中村清矩の尽力によって文学部に古典講習科が付設された[1][2]。修業年限は3年[3]であった。本科に比してこの科に学ぶものが多落合直文らの実力を有する学者が輩出して、古典研究の発展に寄与するものが少なくなかった。

組織

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設置当初は甲部と乙部の名称で2科構成されたが、後に名称をそれぞれ国書課と漢書課と改めた。

【文学部】

和漢文学科 -------------------- 和文学科

        -------------------- 漢文学科

   古典講習科 ------ 古典講習科甲部 ---- 国書課

           ------ 古典講習科乙部 ---- 漢書課

教員

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小中村正矩木村正辞本唐豊霜黒川真霜栗由富小杉榲部中村正直重野成齋川田甕江三鳥中洲島田篁村南摩網紀内藤耻里

学生

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本科に比してこの科に学ぶものが多く(明治17年、国書課 53(給費22 自費31、漢書課 57(給費21 自費36))[4][1]落合直文池辺義象赤堀又次郎らの実力を有する学者が輩出して古典研究の発展に寄与するものが少なくなく、また今泉定助らの国学に基づく政治思想家も卒業生の中にいる。

東京大学『古典講習科』の人々

教授陣は、東京大学教授の中村正直(漢文学,文那哲学)、三島毅(漢文学)、島田重礼(漢文学,支那哲学)、助教授に 井上哲次郎(史学及び東洋哲学史)が配され、他に秋月韋軒・南摩羽峯・信夫恕軒・内藤耻叟らも出講した。履修課目 は經史子集のいわゆる四部と法制とを主とするが、授業は教授のがわからする漢籍講読と輪読、いわゆるゼミナール があり、漢作文は毎月一篇が課されていた。 当時実際にどのような講義が行われていたのかは不明であるが、その一端を島田重礼の最晩年に教えをうけた宇野 哲人は、「島田先生は朝の学問ばかりでした」「いまでもおはえておりますが、「死生契測、子と説を成さむ」とい う契澗は『毛伝』に勧苦なりとある。勧苦というけれども、これは何という本にはこうある、あれにはこうあると、 いろいろな本を引いてお話になる。先生何の本をもっておられるかわからない。仕方がないから、あとで図書館に入 って『皇情経解」を出して探してみる。ははあ、ここにあったというわけで⋯⋯先先生は、これを読めばいいというこ (8) とはおつしゃらないんです。島田先生は、そういうお方でした」という。そして「毛詩」はもっぱら「真清経解統 編」所収の清の胡承琪撰、陳典補の「毛詩後箋』三十巻によったという。いわば「皇清経蟹」という中国の最新の研 究装書をたよりにして実証的に研究を進め、学生を指導しようと試みているわけである。この姿勢は、従来の漢学と いえば「左国史選」と激時、あるいは道微修薬論で終始したものとは異質の「近代的な学問、教育」を目ぎすものと いってよい。史学の重野安縁の「学問は考証学」とする立場も、これに近い。 元来この文学部附設の「古典講習科一の運営費は、大学の通常経費の外に請求したものであったが、これが認めら れず学内経費で支弁することとなり、当初から経済的に維持の難しい状況にあった。世間一般も「洋学」尊重の気風 に傾いてい、世論の理解をうることも困難であった。こうした状況の中で、大学当局は、十八年に至り講習科生徒の 募集を停止した。しかも二十年には修業年限を一年短縮することとなり、二十一年には遂に全廃に至った。結局「古 典講習科一は二十年と二十一年の二回卒業生を送り出すに止まった。前期二十年の卒業二十八名、翌二十一年の後期卒業生は十六名。学士の称号は与えられなかった。 卒業生は次の通り。


前期 市村瓚次郎林泰輔松平良郎岡田正之花輪時之輔熊田鉄次郎今井恒郎名取弘三須藤求馬瀧川亀太郎末永允安原富次宮川熊三郎、堀捨次郎、安本健吉、深井鑑一郎、福島操、池上幸次郎、渡辺恕之允、橋本好蔵、萱間保蔵、日置政太郎、福田重政 鈴木栄次郎 松本胤泰與野山熊男(二十八名) 後期 竹治三郎島田田鈞一 山田準 児島献古郎 長尾慎太郎 黒木安雄 平井頼吉 竹中信以 北原文治藤 沢碩一郎斎藤坦蔵 菅沼貞風 大作延寿 桜井成明 関藤十郎 牧瀬三弥(十三名) 氏名の脇に〇印を附してある者はその後の消息の知られる者である。また中途退学者が多数いたが、その中に西村 天囚、裁野由之らがい、隣接する中部国書課出身に落合直文、小中村義象、安井小太郎らがいる。

黒木欽堂:漢書課後期入学、1888年(明治21年)7月卒業。二松學舍から同じ東大古典講習科に学んだ同級生に児島献吉郎長尾雨山山田済斎らがいる。

長尾雨山:明治21年(1888年)、東京帝国大学文科大学古典講習科卒業[5]

廃止

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影響

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服装規定

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当時の東京大学には制服規定によって制服・制帽が定められていた。文部省に伺いをたてたところ[6]、古典講習科生徒などについては「別課医学生製薬学生及古典講習科生徒ハ制服制帽ヲ着用スルヿヲ得ズ」(大学院分科大学々生服制之件達、明治19年4月28日)と達しが返ってきて[7]着用を免れた。

脚注・参考文献

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脚注

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  1. ^ a b c 藤田『古典講習科の展開』、101頁。 
  2. ^ 東京大学百年史 部局史 1』、713頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12112705/1/380 
  3. ^ 東京大学百年史 部局史 1』、416頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12112705/1/380 
  4. ^ 東京大学所蔵中央大学関係史料』〈中央大学史資料集 第3集〉、225頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12051628/1/126 
  5. ^ 松村茂樹「長尾雨山と呉昌碩」『中国文化 : 研究と教育』第72巻、中国文化学会、2014年6月、40-51頁、doi:10.15068/00151002 
  6. ^ 東京大学百年史 資料 1』、845頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12114654/1/471。「「別科医学生製薬学生及古典講習科生徒ハ制服制帽着用不差許候様致度候也」」 
  7. ^ 東京大学百年史 資料 1』、846頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12114654/1/472 

参考文献

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  • 町田三郎 (1992-03-30). “東京大学『古典講習科』の人々”. 九州大学哲学年報 (九州大学文学部) 51: 59 - 78. https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2328493/p059.pdf. 
  • 藤田大誠明治国家形成と近代的国学構想--古典講習科の展開・終焉と國學院の設立」(PDF)『明治聖徳記念学会紀要』第40号、明治聖徳記念学会、2004年12月、100-139頁、ISSN 09160655オリジナルの2016年1月14日時点におけるアーカイブ、2024年6月29日閲覧 
  • 東京大学百年史編集委員会 編『東京大学百年史 部局史 1』東京大学出版会、1986年https://dl.ndl.go.jp/pid/12112705/1/5 
  • 東京大学百年史編集委員会 編『東京大学百年史 資料 3』東京大学出版会、1986年https://dl.ndl.go.jp/pid/12109819 
  • 中央大学百年史編集委員会専門委員会 編『東京大学所蔵中央大学関係史料』中央大学大学史編纂課〈中央大学史資料集 第3集〉、1988年https://dl.ndl.go.jp/pid/12051628/1/126 


九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository 東京大学『古典講習科』の人々 町田, 三郎 https://doi.org/10.15017/2328493 出版情報:哲學年報. 51, pp.59-78, 1992-03-30. 九州大学文学部

バージョン: 権利関係: 東京大学 『古典講習科』 の人々


田I 一 、.,, ( 十年ぶりに一同に会したその折の文章である。全て漢文でおよそこうである。 田 良店 西村天囚の『碩園先生文集』巻三に「古典科師友寿諦記」なる一文がある。大正四年のことで、天囚の師である加 藤弘之の八十の寿を祝い、かつ同学名取士毅の古稀を併せ祝おうと、「古典講習科」の同窓三十余人が、卒業以来三 維新以降、長を取り短を補うの説起り、教学兵刑より以て技芸の末に至るまで、 一切西法を崇尚す。是れ固より可 なり。然うして推波助澗、往きて反らず。明治十五六年の交に壁り、海内藤然として洋風を模倣し、奮俗を抵排し、 国典漢書、なお且に棄てて講ぜず、将に彼の短を併取して、又我の長を舎つ。その弊言うに勝えざるものあり。今 植密顧問官男爵加藤(弘之)博士、時に東京大学総理たり。深く此を慨み、朝に奏して、古典科を大学に特設す。 四年一期、諸生を募りて以て国典漢籍を講習せしむ。前後両期、入学する者一百余人。四方向往し、奮学復興して 気運も亦た一変に随う:::。 当時これが教授たる者、小中村(正矩)木村(正辞)本居(豊穎)黒川(虞頼)栗田(寛)小杉(極郁)諸先生の 国典に於ける、中村(正直)重野(成薪)川田(棄江)一一一島(中洲)島田(筆村)南摩(綱紀)内藤(恥史)諸先 九 五 六O 生の漢籍に於けるが知き、並びに碩学鴻儒一代の誉宿たり。科廃するの後、相い腫いで道山に帰し、その今なお存 する者は二先生あるのみ:::。抑も当時諸老先生の彬彬として此くの如きありと難も、倫し古典科の設けなければ、 則ち前を継ぎ後を啓くもの、恐らくはその人に乏しからん。而るに幸にして博士の群議を排して、斯の科を特設し、 以て読書の種子を養い、古典奮学をして地に堕ちぎらしむるを得しは、その功援乱反正と相似たり。宜なり、山宗報 加隆、入りて植府の班に入りしは。 大正四年乙卯、博士年八十。同学の京に在る者、訴を上野常盤花壇に張りて、以て博士の寿を為す。名取土毅、同 学中に在りて歯最も長ぜり。入学の時、年巳に不惑。教職を棄去し、妻子を親家に托し、年少の諸生と伍して、吃 吃として業を睦む。好学篤志なる者に非ざれば能くせざるなり。今亦齢古稀に腰る。乃ち兼ねて士毅の寿を為す。 会する者共に三十鈴人。長尾子生京都よりし、時彦浪華より亦た来り与る。その余の同学、或いは早世、或いは京 あ 寿を献ず。博士と士毅と折然として醐す。情意曜沿として一家の親の如きなり。 外にありて会賀するを得ざるもの砂なからず。甫めて坐定り、萩野札卿、衆に代わりて賀詞を陳べ、衆皆腸を称げ 時彦因りて在学交渉の楽しみを回想するに、歴々として昨の如きも、荏幕として己に三十年なり。少き者も亦た将 しめ に頒白ならんとし、長者は則ち毅髪幡婚として、風度藷然、老成の典型を見し、人意を強くするに足るも、死生衆 散の感も亦た中に動くなきこと能わず。鳴呼、我輩の士毅を寿する所以は、即ち自ら寿する所以なるも、博士を寿 する所以に至りては、則ちその関する所亦た大なり。惟うに方今学術大いに開け、宜しく復た外に待つなかるべき に、而も今なお我を棄てて彼に向かうは何ぞや。夫れ権あり然る後軽重を知り、度あり然る後長短を知る。古典膏 学なる者は、政教の権度ここに存す。是れを以て古典講ぜざれば則ち権度正しからず、権度正しからざれば則ち何 を以て軽重長短を排ぜんや。 今博士歯望並びに高く、学識兼ねて優れ、慮を弾くし誠を掲くして以て今上の顧問に備う。而して今上重明、含粋 稽古、政教の権度を正して彼我の軽重長短を排ずる所以の者は、博士必ず献替する所あらん。則ち博士の寿は、天 下の為に賀するに足りて、独り我輩頓轄の私のみならざるなり。衆多為めに歌詩す。時彦乃ち退きてこれが記を作 る。 これより先き明治三十五年、重野成粛は、「古典科諸子との会飲」と題する七絶を詠じている。 不用嵯陀歎白髪 只須漆倒醇青春 年々此舎人倍健 相遇相逢好飲醇 一 一 ( 七 ) 年 塩谷糞山、三上是蓄、九年 東京大学『古典講習科』の人々 芳野金陵、池田草庵。 幕末に活躍した漢学の大家たちも明治の新政を迎え、しだいに年を遂って凋謝していった。明治六年 門田撲斎、 安井息軒、閑藤藤陰、十年 山田方谷、十一年 林鶴梁、春日潜庵、大槻盤渓、 むろんかれらの弟子や生き残りの漢学者もなお多かった。中村敬字、重野成斎、 川田重江、島田筆村、三島中洲、 東沢潟、木下犀湾等々であるが、こうした顔ぶれを見ても、安井息軒を代表とした幕末漢学の隆盛期は終わったとの 感は否めない。そのうえ時流は、和漢の旧学を拒否して、万事が西欧をよしとした。中村正直も明治初年をこう述懐 する。「此時ニ当リテハ漢学ハ土宜ノ如クニ棄ラレ、或漢学者ハ欝憤一一堪エズ不平ノ余リ海ニ入リテ死スルニ至レリ」 「吾カ訳スル西国立志編十部ハカリヲ以テ、侃文韻府ノ古渡リノ最上ノ本ト交換シ書摩ハ欣然トシテ喜色アリ。偽書 ニ至リテハ更ニ甚シ:::」 ノ、 ム ム ノ、 明治十年、東京大学は創設された。その文学部の第二科として和漢文学科が設置された。当時の法理文の三学部綜 理の加藤弘之は文部省に提出した「伺書」に、設置理由をこう述べている。 今、文学部中、特ニ和漢文ノ一科ヲ加フル所以ハ、目今ノ勢、斯文幾ンド家々辰星ノ如ク、今之ヲ大学ノ科目中ニ 置カザレパ、到底永久維持スベカラザルノミナラズ、自ラ日本学士ト称スル者ノ唯ダ英文ニノミ通ジテ国文ニ芋」乎 タルアラパ、民ニ文運ノ精美ヲ収ム可カラザレパナリ。但シ和漢文ノミニテハ固随一一失スルヲ免レザルノ憂アレパ、 井ニ英文・哲学・西洋歴史ヲ兼学セシメ、以テ有用ノ人材ヲ育セント欲ス。 要するに和漢学を大学の一科に組みこむことによって衰退の一途を辿る日本の伝統的な学問を保護し維持しようと 図ったわけである。しかし当時の意見として、和漢学はとかく偏狭に失する倶れがあるからとして、相当の時間英文 学が必要学課として課せられ、他にフランス語・ドイツ語の兼修が命ぜられた。従ってその習得すべき学課目の範囲 すべて英語であった。日本語による教授は、明治十六年四月からのことである。 が広すぎて、純然たる和漢学の専門とは言い切れないというのが実状であった。ましてこの頃東京大学での講義は、 そこで史学や政治学等の研究に必要な和漢の古典、歴史・文学等の基礎知識をしっかり修得し、 しかも漢学の老大 家の凋謝したのちを承けつぐべき後継者養成の必要性から、これを民間のみに任せてはおれず、大学内に「古典講習 科」を設置して新進の徒の教育に当たらねばならぬとする意見が拍頭してきた。 はやく明治十二年十二月、綜理加藤弘之はこの設置を文部省に建議したが認められず、 ついで十四年十二月再びこ れを建議した。このときは文部省も提案に賛成し、翌十五年五月、文学部付属として「国学」を内容とする「古典講 習科」が新設された。 ついで同年の十一月、文部省専門局長浜尾新から、特に漢文学講習科の設立の要が説かれ、そ こで以前に設立された「古典講習科」を甲部とし、新たに「漢文学」を内容とする「支那古典講習科」を乙部として 設立運営することとなった。これが「大学古典科前期」と称されるものである。 乙部の場合、修業年限は四年、生徒は官費生十五名、私費生二十五名、計四十名を定員とし、十六年九月、第一回 の募集開始。四十名の定員に対して応募者は百六十名であった。四倍の競争率であった。そして翌十七年、甲乙部は 「図書課」「漢書課」と改称される。これを「大学古典科後期」と呼ぶ。 明治十六年四月十六日、中村正直は「古典講習科乙部開業式」に参列して、こう述べる。 夫レ方今洋学ヲ以テ名家ト称セラルル者ヲ観ルニ元来漢学ノ質地アリテ洋学ヲ活用スルニ非ルモノナシ。漢学ノ素 ナキモノハ或ハ七八年或ハ十鈴年西洋一一留学シ帰国スル後ト難モ頭角ノ薪排出タルヲ露サス。ソノ運用ノ力乏シク殊 ニ翻訳ニ至リテハ決シテ手ヲ下ス能ハサルナリ。然レハ則チ今日朝野ノ間ニ在テ卓然トシテ衆ニ顕ハレ有用ノ人物 ウチ ト推サルルモノ漢学者ニ非サルハ無シト断言スルモ可ナリ。唯漢学ヲ裡ニシテ洋学ヲ表ニスル者アルノミ:::。夫 ト云ハサラント欲ストモ其レ量得へケンヤ。 東京大学『古典講習科』の人々 ルハ吾ノ信スル所ナリ。 如此ナルトキハ漢学書生何ソ明治ノ維新ニ背カンヤ、独リ明治ノ維新ニ負カサルノミナラス明治ノ維新ニ勲労アリ 以下応神天皇の世に濫暢せる漢学周孔の学の変遷をみ、それが常に人材を造成し政事を禅補し綱常倫理を保持して きたと説くが、今や「人或ハ之ヲ察セス漢学ヲ以テ迂潤ナリト為ルモノアリ」と歎じ、「今日ノ情態ニテソノ成リ行 キニ任セテ数十年ヲ経過セハ専門ノ漢学者ハ跡ヲ絶サルヲ保シ難シ」ともいう。こうした状況の中で、 今東京大学ニ於テ古典講習科乙部ヲ設クルハ数十年ノ後ニ至リ鴻儒碩匠トナル種子ヲ下スモノナリ。後ノ今ヲ視ル ハナホ今ノ昔ヲ視ルガゴトシ。舜何人ゾヤ我何人ゾヤ。諸子他日ニ至リ祖篠・白石ヲシテ美ヲ前時ニ撞ニセシメサ 5) ( 漢学の専門学徒がやがてこの中から輩出するであろうと期待して演説をしめくくる。そして事実、中村の期待は裏 切られることはなかった。 乙部の規定は次の知くである。 ノ、 ム 六四 古典講習科乙部規則 第 第 条 条 第三条 古典講習科乙部ノ課程ヲ四周年トシ之ヲ八期ニ区分ス 該部中、経学、諸子、法制、詩文、卒業論文ノ六課目ヲ立テ之ヲ兼修セシム 人期ニ於テ講習スル課目即左ノ如シ 第一期経学諸子史学詩文 第二期 第 期 第四期 第五期 宅, イシ 今 ,シ ’〉 宅P 今 法 制 諸子 ペシ 。 詩文 イシ 第六期 イシ 第七期 そシ 今 ,, ク 諸子法制漢文 ィシ イシ 第八期 第四条 第五条 一経書 イシ 名〉 4シ ,〉 卒業論文 イシ 該部ニ入ルヘキ者ハ二十年以上三十年以下トス 該部ニ入ルヘキ者ハ天然痘又ハ種痘ヲ了ヘ身体壮健子ンテEツ左ノ課目ノ試業ニ合格スル者ニ限ル、但官 費生十五名自費生二十五名ヲ限リ入学ヲ許ス 経 其一一 他席歴 ノ上史 諸作答 規文排辞 則五三史左書 ハ百百記伝 都字字 書 Z宗主 典 講 習 科 甲 部 同 ン 教授障は、東京大学教授の中村正直(漢文学・支那哲学)、三島毅(漢文学)、島田重礼(漢文学・支那哲学)、助教授に 井上哲次郎(史学及び東洋哲学史)が配され、他に秋月掌軒・南摩羽峯・信夫恕軒・内藤耽史らも出講した。履修課目 は経史子集のいわゆる四部と法制とを主とするが、授業は教授のがわからする漢籍講読と輪読、いわゆるゼミナール があり、漢作文は毎月一篇が課されていた。 当時実際にどのような講義が行われていたのかは不明であるが、その一端を島田重礼の最晩年に教えを、つけた宇野 哲人は、「島田先生は清朝の学問ばかりでした」「いまでもおぼえておりますが、「死生契潤、子と説を成さむ』とい う契潤は『毛伝』に勧苦なりとある。勧苦というけれども、これは何という本にはこうある、あれにはこうあると、 いろいろな本を引いてお話になる。先生何の本をもっておられるかわからない。仕方がないから、あとで図書館に入 東京大学『古典講習科』の人々 って『皇清経解』を出して探してみる。ははあ、ここにあったというわけで:::先生は、これを読めばいいというこ 8) ( とはおっしゃらないんです。島田先生は、そういうお方でした」という。そして「毛詩」はもっぱら 『皇清経解続 編』所収の清の胡承挟撰、陳失補の 『毛詩後筆』三十巻によったという。いわば「皇清経解』 という中国の最新の研 究叢書をたよりにして実証的に研究を進め、学生を指導しようと試みているわけである。この姿勢は、従来の漢学と いえば「左国史漢」と漢詩、あるいは道徳修養論で終始したものとは異質の「近代的な学問、教育」を目ざすものと いってよい。史学の重野安繕の「学問は考証学」とする立場も、これに近い。 元来この文学部附設の「古典講習科」の運営費は、大学の通常経費の外に請求したものであったが、これが認めら れず学内経費で支弁することとなり、当初から経済的に維持の難しい状況にあった。世間一般も「洋学」尊重の気風 に傾いてい、世論の理解をうることも困難であった。こうした状況の中で、大学当局は、十八年に至り講習科生徒の 募集を停止した。しかも二十年には修業年限を一年短縮することとなり、二十一年には遂に全廃に至った。結局「古 典講習科」は二十年と二十一年の二回卒業生を送り出すに止まった。前期二十年の卒業生二十八名、翌二十一年の後 六五 ムハ品ハ 期卒業生は十六名。学士の称号は与えられなかった。 前卒 。期業 JII 亀。生 Z賓oの 次。通 郎。り 太。市oは 郎。村。左 林泰輔 末永允 安 松 平 良 原 富 允橋本好蔵 査問保蔵 後 期 竹 添 治 沢碩一郎 斎。三 藤。郎 THO 蔵。鳥。 田o 目。次 置。 政。宮 風。山。 因。 : : l l ー ー 一) ( まとめた。その一節にこうある。 co 郎語 問。 因。 正。 堀o之。 五ヨ 良E 太。川 郎。熊 示。準 0 円=。 延。児。 4 福田重政 吉。 郎。 寿。島。 献。 目立。 玩。花。 郎。翰。 之。 輔。 熊 田 安本健吉 鈴木栄次郎 i案。鉄 郎 。。。。 ’匝 井。次 鑑。郎 郎。今 井 松本胤泰 奥野山熊男(二十人名) 名取弘三 須藤求馬瀧 福島操 池上幸次郎 渡辺恕之 長尾慎太郎黒木安雄 平井頼士ロ 竹中信以北原文治藤 桜井成明 関藤十郎 牧瀬三弥(十三名) 氏名の脇にO印を附してある者はその後の消息の知られる者である。また中途退学者が多数いたが、その中に西村 天国、萩野由之らがい、隣接する甲部国書課出身に落合直文、小中村義象、安井小太郎らがいる。 明治十九年、天皇は東京大学を視察した。その折りの感懐を侍講元田永字に告げ、元田はこれを「聖喰記」として 朕過日大学ニ臨ス、設クル所ノ学科ア巡視スルニ、理科、化科、植物科、医科、法科等ハ盛々其進歩ヲ見ル可シト 難モ、主本トスル所ノ修身ノ学科ニ於テハ、曽テ見ル所ナシ、和漢ノ学科ハ修身ヲ専ラトシ、古典講習科アリト聞 クト難トモ、加何ナル所ニ設ケアルヤ過日観ルコトナシ、抑大学ハ日本教育高等ノ学校ニシテ高等ノ人材ヲ成就ス ヘキ所ナリ、然ルニ今ノ学科子ンテ政治治要ノ道ヲ講習シ得ヘキ人材ヲ求メント欲スルモ、決シテ得ヘカラス、俵 令理科、医科等ノ卒業ニテ、其人物ヲ成シタルトモ、入テ相トナルヘキ者ニ非ス、当世復古ノ功臣内閣ニ入テ政ヲ 執ルト難トモ、永久ヲ保スヘカラス、之ニ継クノ相材ヲ育成セサル可ラス、然ルニ今大学ノ教科、和漢修身ノ科有 ルヤ無キヤモ知ラス、国学漢儒固随ナル者アリト難トモ、其固髄ナルハ其人の過チナリ、其道ノ本体ニ於テハ固ヨ リ皇張セサル可ラス:::。 右の「聖職記」がいうように、学問の主本が修身にあって、和漢の学がこれを担い、その出身者こそが政治治要の 道の実践者、 いわゆる相材にふさわしいか否かには問題があろうが、当時東大内において「古典講習科アリト聞クト 難トモ如何ナル所ニ設ケアルヤ過日観ルコト無シ」との指摘は、「古典講習科」の学内位置を如実に示している。学 内で無視され、経費の面からも厄介物扱いであったのである。明治二十年前後の森有礼を文部大臣とする時代こそ最 も欧化模倣の強烈をきわめた時期であったことを思うとき、社会一般の中での漢学の衰微は覆うべくもなく、この頃 東京大学『古典講習科』の人々 注考誼』 には十年代初中期の和漢学見直しの熱気もすっかり冷えこんでいた。大学内においてその存在さえ知られない「古典 講習科」とは、まことに時代風潮の正直な反映であった。「古典講習科」は大学における日陰の花であった。 しかしこの「古典講習科」から、たしかに「聖職記」が期待する「治要ノ道」を体して政界を動かす人物こそ出現 しなかったが、実は明治の後半から昭和の初年にかけて、 日本の東洋学を代表する俊才たちが輩出することとなった。 天囚のいう「前を継ぎ後を啓く」ものたちである。たとえば東洋史学の市村墳次郎、甲骨文研究の林泰輔、『史記会 で知られる瀧川亀太郎、日本漢学史の岡田正之、中国文学史の児島献吉郎、芸術史の長尾慎太郎らがい、中 退の西村天囚に『日本宋学史』があり、図書課の安井小太郎ももっぱら漢学界で活躍する。異彩を放つ人物に若くし て『大日本商業史』 の名著を残し、 フィリッピンに客死する菅沼貞風がいた。わずかに二回、 四十数名の卒業生を送 り出したに過ぎず、しかも大学内の日陰者的存在であった「古典講習科」は、思えばまことに効率よく逸材を育てあ げていたのである。 六七 六八 さて、「古典講習科」入学前後の事情を説いて精しいのは、前期卒業生の一人である瀧川亀太郎の「碩園博士の初 年と晩年」(録絶問)である。 明治十五年春、余始めて東遊し筆村先生の隻桂精舎に入る。重野先生の塾生なりとて講席に列せし一書生あり、 身の長け五尺八九寸時々塾舎に来り好みて文章を談ず。その一一姥梶聴くべし。 一日同舎生郷里より碑文の起草を頼 まれたれども、先生に願ふも畏多ければ誰人か筆を執るものぞといふ。彼の身長の一書生我作らんと数日ならずし て作り来る。布置斉整文字簡練、自ら大家の規模あり。余一読驚異その郷里と姓名を問ふに、種子島の産西村時彦 と答ふ。これ余が碩園居士と識りし初めなり。 翌十六年東京大学文学部に新に古典講習科を設け、生員を募りて和漢の学を講習せしむ。碩園も余も幸に選抜試 験を通過し官費生として入校することを得たり。碩園才力群を抜きことにその文章は漸く老熟に近く、教授諸先生 も射鴫の才として深く望みを属せられたり。当時大学文学部は神田一橋外に在り、官費生は校中に寄寓すべき規定 なりし故、碩閣と余とは案を朕ね堂を同じくし、相互の交誼遜加はりしが、その後大学の校舎今の本郷赤門内に移 るに及ぴ、諸生も自由に下宿することを許され、碩園は森川町に余は駒込蓬来町に転寓したり・ 十九年、政府庶政の改革より、古典科生の官費は廃止せられ、碩園は学資を得るに由なく、余と別れて再びもと の駿河台袋町なる成務先生の家に寄宿することとなりしが、その後又日本橋演町のホテル屋に転寓せり。当時原田 博文堂の出版にて世間をわかしたる『屑屋の龍』 は此の際の著作なり・:・:。」 瀧川の記述はなお続くのであるが、要するに天囚の場合、十五才で郷里種子島をあとにして、亡父の親友であった 重野成粛を頼って上京する。重野は天囚の人と才を愛し、自分の邸内に住ませ子供同様に遇し、しかも当時都下で有 名であった筆村の襲桂精舎に通わせて経学を学ばせた。ここで瀧川とも逢うのである。こうした折り「古典講習科」 の新設を知り、 しかも給費の制度のあることを知って、勇躍としてこれにとびついたわけである。天囚にとって試験 科目中の漢作文など得意のものであったろう。入学後、天囚は師の成粛の家や寮にいた間は、監督の目もあってまじ めに努めたのであろうが、寮から解放され自由な下宿住いとなり、給費生として収入も安定し身分も一定したとなる と、遊び心が頭をもたげてきた。やがて成驚にも日ごろの不行跡がばれ、以後破門の扱いとなる。やがて追い討ちを かけるように給費制度も打ち切られ、下宿からは焼け出され、借金取りには責めたてられ、四方八方どん詰りの状態 東京大学『古典講習科jの人々 で書き上げたのが、天囚の名を一時に轟かせた『屑屋の龍』 の一作であった。 一方『大日本商業史」を「古典講習科」の卒業論文として書きあげた菅原郎即の場合はどうであったろうか。貞風 は十五才の時、楠本端山に師事し、端山が平戸の旧藩主松浦伯の公子二人の教育をまかされたとき、その学友に選抜 される。明治十三年、新たに平戸に猶興書院が成り、入学する。その翌十四年、十七才で長崎県北松浦郡雇出仕とな る。この時平戸貿易の変革を調査しこれを編纂する。この努力が認められて松浦伯から文学修業として東京遊学を命 ぜられる。十七年一月のことであった。そしてこの秋九月、「古典講習科」後期に入学、二十一年第二回の卒業。か れが政府の給費生であったかどうかは不明。『大日本商業史』 の冒頭に、卒業記念写真が掲げられてい、前列に岡松 菱谷を中心にした教授陣、中上段に十三名の卒業生が並んでいる。欠席は児島献吉郎、山田準、牧瀬三弥の三名であ った。福本日南の『菅原貞風君伝』によると、 君の猶興書院に在るや、砥璃衆に越え、才学群を抜き、山斬然として夙に頭角を顕はせり。書院元と諸生抜擢の法 あり、松浦伯君が奇才を喜び、明治十七年命じて東京に遊学して其器を大成せしむ:::。此年九月帝国大学に入り て古典科に就く。爾来中村敬字、島田筆村、秋月章軒、三島中洲の諸老に従ひて学ぴ益々造詣する所あり、又其傍 ら時々専修学校に至りて経済の学を講ず、而して修史の志たる未だ嘗て一日も懐を離れず。大学に文庫あり。古今 の書数万巻を蔵し校徒の閲覧に便す。君則ち日に庫中に入りて古書を読む。三月忘肉味の思あり。同学皆笑ひて日 く、貞風の正科は登文庫、絵科は則ち臨講娃と。而して人多くは其志を知る者あらず。 六九 。 七 弱年から楠本端山に学才を見こまれていた貞風にとって「古典講習科」の正則の講義に当然ついていけたであろう が、かれの本来の志は、ひとまずは商業史の完成にあった。だからせっせと図書館通いをしていたのである。卒業後 貞風は、 いったん商業学校に職をえ、『日本商業史』 の加筆訂正に従事するが、これも一段落すると、こんどは南海 の諸島の事情を探究し、かつ貿易植民の事業に与かろうとする夢が日ごとにふくらみ止まることがなかった。この時 講習科の同学斎藤坦蔵が、自らは病弱で同行できぬからと数百金の資金を投じ、貞風のマニラ行きを援助した。 てr ラに到着後、わずかに五ヶ月、貞風はこの地で客死する。二十五才の若きであった。 (四) 市村竣次郎は、小永井小舟門下から岡田正之らとともに「古典講習科」前期生となるが、 生の大作延寿、号鋸卿別号蘭城の遺稿の序に次のように書いている。 一学年下のいわゆる後期 余、大学に遊び、友三人を得たり。日く、埼玉の大作鎮卿、日く、平戸の菅沼伯狂、日く、富山の日置子均なり。 子均は眉目清秀、才華燦発にして、筆を執れば千言立ちどころに成る。伯狂は人と為り沈撃寡黙にして、事を行、つ に勇なり。常に一世を不可とするの慨を有す。鎮卿は口附々として言、っ能わざるが若し、而るに中は確然として守 るところ有り。最も詩古文辞に通ず。此の三人なる者は、性行学術各々同じからずと難も、皆卓筆たる奇傑の士な り。余その規益を受くること多し。既にして皆大学を去る。伯狂は事功に奮わんと欲し、慨然として海を渡り、南 のかた呂宋に入るも、痩痛の冒すところとなりて死す。鎮卿は豊後に宜遊し、未だ幾くならずして職を辞して帰る。 環堵粛然、戸を閉じて書を読み、将に大いに発するところ有らんとす。而るに熱を病み以て残す。子均も亦舌癌を 患う。時に余将に爵域に遊ばんとし、訪いて別を叙す。其の形容機体するをみ、懐然として泣下る。数月の後、余 帰りて再ぴ訪えば、則ち巳に亡し。予均の残年二十八、鎮卿の死、子均より少きこと一歳、伯狂は三歳なり。鳴呼、 天果して才有るを忌む乎、何為れぞ我が三人なる者をして此に至らしむるや:::。 菅沼伯狂はいうまでもなくマニラで客死した菅沼貞風のこと。菅招の 『大日本商業史』は人あって上梓の運びとな ったが、大作鎮卿の作る所の「詩古文辞数百篇」は刊行をみない。そこで有志と相謀って遺稿を二巻として刊行する こととした。なお日置子均にも「策論小説」が存するが、これは後日を期したい、というのが市村の右の序のおおよ そである。市村の年譜によれば、「明治二十五年、二十九才の七月、学習院教授となり、同月史蹟調査のため中国へ 出張、帰路北京にて臥病月余、十一月帰国」とある。日置子均の死亡もこの年にあった。「古典講習科」卒業後、わ ずかに四年である。 なお市村は元治元年、茨城の筑波に生まれる。代々の地主であった。はじめ明治法律学校に学ぶがまもなく「古典 講習科」に転じ、卒論は「支那史学一斑」であった。学習院・東大の教授を歴任し、また早稲田での教授歴も長い。 『東洋史統』『支那史要』等の著作がある。昭和二十二年残。八十四歳。 東京大学『古典講習科』の人々 黒木安雄、号欽堂については、「懐徳」の「天囚追悼号」に滝川亀太郎が「碩園博士の初年と晩年」の文章の冒頭 の部分で「桜泉小牧先生鎗去せられし時:・、事は一昨年秋に在り、程なく黒木欽堂逝き、萩野和苓逝き、友人の凋落 相腫ぐ:::」という。天囚の死は大正十三年であるから、欽堂黒木安雄の死はその少し前ということになる。かれは 讃岐の人。片山沖堂に学び、二松学舎をへて「古典講習科」に入学、二十一年卒。在学中「日本文学志」を考究しこ れを上梓しようとし、二十二年島田重札の序もえたが故あって中止。二十四年九月『本邦文学之由来』と改題して進 歩館から刊行。文学とはいうものの内容はわが国の儒学史である。日本漢学史の草分けの一人である。のち東大講師 をつとめ、国学院や二松学舎で教授。漢詩文ならびに書画をよくし、書道の普及に功があった。長尾雨山と親しかっ た。大正十二年授。 札卿萩野由之は佐渡の人。東大教授。漢学よりは国学、史学の分野での活躍で著名。学士院会員。「古典講習科」 七 七 は中退であるが、先述した天囚の「師友寿諜記」をみると、同窓の幹事役でもあったらしく、この時出席者を代表し て挨拶を行っている。大正十三年張。六十五才。 岡田正之は元治元年富山に生まれる。父は昌平餐に学んだ漢学者であった。小永井小舟、重野成粛に学んだのち 「古典講習科」前期へ。卒業後幼年学校教授をへて東大教授。日本漢文学に精しい。「顧ふに、品性の修養と共に、 趣味の領舎が人格を作る上に於て必要とすれば、我が国民は少くとも我等の租先が味い得たる漢文学とその涯ぎ出せ る作品とに向って先ず研究の指を染めざるべからず:::。我が国民の精髄の発したる所は独り和歌と和文とのみにあ らざるなり」とは、岡田の『近江奈良朝の漢文学』 の「序説」の一部である。またこの書はかれの学位請求論文であ り、名著として名高い。昭和二年夜。六十四才。 児島献吉郎、山田準、島田鈎一らは後期の卒業生である。児島献吉郎は慶応二年、岡山に生まれる。父は漢学者で 年夜。七十二才。 あった。上京後三島中洲に学び、「古典講習科」卒業後は熊本の五高教授、この時湯浅廉孫を教える。のち京城大学 教授。『支那文学考』『支那諸子百家考』等の著がある。昭和六年夜。七十才であった。山田準は慶応三年、岡山の在 所に生まれる。本姓は木村。三島中洲に認められ、山田方谷の後をつぐ。五高教授・七高教授ののち二松学舎学長。 陽明学の泰斗として知られ、また詩文をよくした。『陽明学講話』『伝習録講本』等の著がある。昭和二十七年、八十 六才で夜。島田均一は、慶応二年、重村島田重礼の長男として生まれる。はじめ藤沢南岳につく。「古典講習科」を 了えると、明治二十七年一高教授、 のち昭和三年東京文理科大学教授。『春秋左氏伝新講』等の著がある。昭和十二 なお経歴は未詳だが、明治三十年刊の 『漢文講義全書」に、前期卒の花輪時之輔が『論語」『孟子』「日本外史」、 名取弘一二と堀捨次郎が『文章規範』、深井鑑一郎が『孝経』を書いている。卒業後も連絡をとりあって専門の分野で それぞれ活躍していたようである。 (五) 酒は飲まず、畑草は吸はず、碁も打たず、将棋もささず、書書一骨董も好む所なく、学校の講席に臨む外は、終日 端坐して机に対ひ、書を読み筆を執りて絵念なかりしは、亡友林浩卿博士の日々の生活なり。 右は林泰輔の『支那上代史之研究』の冒頭に掲げる滝川亀太郎の序の一節である。林泰輸は、安政元年千葉の香取 に生まれ、並木栗水の門下に学び、二十年「古典講習科」前期を卒業。 一高・山口高校の教授をへて、東京高師教授。 『周公と其時代」『亀甲獣骨文学』等の大著がある。昭和十一年夜、八十二才。 滝川は先きの文章に続けてこう追憶する。 東京大学『古典講習科』の人々 博士が大学漢学科に入りしは明治十六年九月なり。余も亦幸にその後に列り、共に一橋寄宿舎第八号室に書籍机 案と頓住せり。年歯余より長ずること八九歳、その教室に出でて書を講ずるを聞くに、音吐朗朗解釈明噺、逢に等 傍に超越し、既に大家の規模を具せり。知何なる多忙多事の時と難学課の予習を怠らず。試験前復習の時に至れば 教科書を取りて巻初より巻末に至るまで悉く之を読み、 一字一句も省略せず、尚ほ時日あれば再三之れを反復する こと初の知し。その己の為にして人の為にせず、学問の為にして試験の為にせざる忠誠篤実の読書法は博士の博士 たる所以にして、今の所謂試験勉強を為し、 一時を糊塗して及第をのみ目的とする子弟の鑑戒と為すべきなり。 およそ凡帳面でまじめ一点張りの博士の日常を紹介したあと瀧川は、この勤勉篤実な博士の学問的成果を集約して 次のように評価する。第一は朝鮮史の研究。本邦の率先たる者である。第二はわが国の漢学者たちの秀れた経解の蒐 集。中井履軒や亀井昭陽等の未刊稿本の蒐集である。第三は諸子考。経史とともに重視すべしとの主張。第四は唐虞 三代文献考の著作。甲骨金石文の集成的研究で、『周公と其時代」はその成果の一部であった、と。以上瀧川の林評、 至当公平の見といってよい。今日林泰輔の名は甲骨文研究でのみ記憶されるが、たとえば瀧川の指摘する第二の日本 七 七 回 経解の蒐集、あるいはそれへの著固など時代に先んじた眼識であったこと、忘れてはなるまい。 林泰輔・西村天囚・安井小太郎らと親交のあった瀧川亀太郎、号君山は、慶応元年に松江に生まれ、藩儒内村纏香 に師事、ついで上京して島田重村の塾に入り、やがて「古典講習科」に入学。前期卒。その後長く仙台二高の教授を 勤め、傍ら講師として東北大学へ出講。昭和二十一年、松江の自宅で捜する。八十二才。主著は『史記会注考誼』百 三十巻。昭和五十年、瀧川君山の顕彰碑が旧居の一角に建てられた。吉川幸次郎の「碑文」は、その一節で『会注考 誼」に説き及んでこう述べる。 先生乃ち二十年の功歴を以て衆説を験し、旧本を網羅す。百川の海に吸われ、群峰の岱に小なるが知し。千年の 疑滞殻揮して殆んど壷す。宜なるかな、東京始めて之を刻するの後、海外逓に伝印の本有り。衣被の広きこと、我 が邦儒者の業、其の匹を見ること竿なり:::。 昭和十七年の夜、七十九才。『中国書書一話』 事を伝えている。 長尾甲、通称慎太郎、号は雨山。広く『中図書聾話』 の書で知られる。中国の芸術一般に深く通じていた。元治元 年、四国高松の生まれ。幼時から父に従って漢学を修める。明治二十一年「古典講習科」後期卒。五高・東京高師の 教授を勤めたのち、明治末から大正初期にかけて上海に移住。商務印書館顧問となる。帰国後は、書・詩文の会主宰。 の解題で、吉川幸次郎はかつて狩野直喜から聞いたこととして長尾の逸 明治の初年、東京で白面の書生であったころの長尾氏が、清国公使館を訪問したときの逸話を、私はかつて狩野 氏からきいた。大清帝国の公使察庶昌は、長尾氏が、ひとえの着物をきているのをいぶかり、寒くはないかと、筆 談で問うた。長尾氏は即座に筆を走らせ、昂然と答えた。「寒土ハ寒ニ慣ル、ナンゾ衣ノ単ナルヲ伯レンヤ」、寒士 慣寒、那伯衣車。突差の応答が、寒-単と、韻をふんでいるので、公使は驚倒した、と。 この逸話「明治の初年」といえば家公使第一回目の来日時の明治十五六年のことであるらしく、 もしそうであれば 雨山は二十才を少し過ぎたばかりであった。 「古典講習科」甲部、すなわち国書科の出身ではあるが、明治漢学界に重きをなしたものに安井小太郎、号朴堂が いる。かれは幕末の大儒安井息軒の外孫で、安政五年の生まれ。十九才で島田筆村の門に入り、のち京都の草場船山 に学ぴ、十五年「古典講習科」甲部に入学。卒業後は学習院の助教授・教授、北京大学堂教授をへて一高教授。大正 十四年の退官の際、自らの記念論文集のかわりに息軒の日記「北潜日抄」を刊行する。成辰の江戸崩落の日々の記録 である。 ついで大東文化大学等で教授。『日本儒学史』『曳尾集』等がある。昭和十三年夜、八十才。 (占ハ) て大学の古典科出身者であった。 東京大学『古典講習科』の人々 られる。鐸々たる学者群である。 明治維新以来の漢学の趨勢を回顧して見るに、安井息軒・鷲津毅堂・岡松斐谷・根本通明・中村敬字・島田重 村・竹添井井等次第に凋落して其命脈も漸く絶えゃうとする時に方って、其聞を禰縫して起って来た者は、主とし 右の一文は、林泰輔「支那上代之研究」 の冒頭に附された井上哲次郎の序の一節である。井上の評するとおり、日 本漢学の命脈をつないだものは、まさに「古典講習科」出身の学者たちであった。たとえば市村積次郎・林泰輔・岡 田正之・瀧川亀太郎・児島献吉郎・島田鈎一等々、中退や傍系からの西村時彦・安井小太郎・萩野由之らの名も挙げ 思えば明治十年前後、息軒をはじめとする幕末宿儒の相つぐ死に加藤弘之らが伝統教学の危機を察して、「古典講 習科」を設置したねらいは見事に的中したといってよい。井上哲次郎の評も正しい。 それではこの時期、こうした人材がなぜ「古典講習科」にこぞって入学したのであろうか。答えは容易である。理 由はかれらがひとしく筆村や成粛・小舟といった漢学塾の出身であって、 いわゆる外国語を習得していないというこ 七 五 七六 とである。明治十六年まで東京大学での講義は、英語で行なわれていた。漢学塾育ちのかれらは、 いかに才能があろ うとも語学面で東大への進学は難しかった。かれらよりほんの一時期遅い慶応三年生まれの服部字之吉の場合、明治 九年に東京で小学校を了えると、漢学・数学・英語を塾で学ぴ、十四年には大学予備門の予備校に入学、十六年に大 学予備門に入り、二十年、第一高等中学と改称されたその年の第一回卒業で、九月に帝国大学文科大学に入学。服部 は運良く学制が整備されるのに具合よく乗っていった感がある。これに対して十六年に「予備門」即ち旧制一高が関 設されたとき、「古典講習科」 の受験者の多くは、年令的にも服部よりは数才年長で、すでに漢学塾でひと通りの学 聞は身につけ了っていた。まして当時東京や大阪の大都会でこそ数学塾や英語塾が存在したが、地方にそれを望むこ とは難しかった。語学を身につけるべきチャンスもまたなかった。地方にはこうした秀才がごろごろいたのである。 種子島出身の西村天囚にせよ松江から上京した瀧川亀太郎にせよ事情は同じであった。また菅沼貞風の場合、「古 であったのである。ここに秀才たちが雲集したのも当然のことであった。 典講習科」で漢学を学ぶことが本来の目的であるよりは、ともかくここに入学して身分を確保し、図書館に通い本来 の経済史研究に力を注ぎたいとの思いがあった。要するに「古典講習科」は「語学」抜きで入れる大学への唯一の門 それではこの「古典講習科」諸子の総体としての功績とはどのようなものであったのであろうか。むろん天囚のい う「前を継ぎ後を啓く」事業は果たしていたが、それは具体的にはいかなる行動であったのであろうか。 第一にかれらが「古典講習科」に学んだものは、従来の「左国史漢」と漢詩の習作といった漢学から離れた、新来 の『皇清経解』を中心とした純粋に学究的な実証的学問であった。また「聖職記」が期待する相材の育成を志すもの でもなかった。学問はここで政治や道徳とひとまず別離して、学問そのものの道を歩み出していた。いわば近代的な 「漢学」研究がここから開始されたということである。 第二にかれらが漢学の研究領域を拡大しつつ、新しい学問をも見出していったことが挙げられる。たとえば東洋史 の全般的展望に業績を残した市村墳次郎、古代史・甲骨文研究の林泰輔、中国芸術論の長尾雨山等いずれも新分野を 開拓するものであった。そして新たに生み出された学問の一つに「日本漢学史」研究がある。西洋に文学史があって、 文学局発達を跡づけ、これを研究する順序もよく整っているのに対して、わが国にはこれがないのを遺憾として心を 日本の文学史に潜めて研究したものが、「古典講習科」後期の欽堂黒木安雄であった。文学とはいうものの内容は日 本儒学史である。かれの「本邦文学之由来』の出版が明治二十四年。二十七年には安井小太郎が『本邦儒学史」を発 表する。またこれより以前「古典講習科」の教授であった島田重札が日本漢学史のごく大まかなアウトラインを「与 繁菰禁書」で書いている。こうみてくると西洋の学術研究に触発されてわが国の漢学の史的研究も起ってくるわけで あるが、そのはじめは「古典講習科」の人々によって着手されたといってよい。 東京大学『古典講習科Jの人々 代に応じて姿を変えつつ、 東京大学の創設が明治十年。このとき文学部の第二科として和漢文学科が設置された。今日の中国哲学科の前身で ある。しかし明治十九年、帝国大学と改称するまでの十年間に、専攻の卒業生はわずかに二名であった。その後も二 十七年に卒業生三名といった具合に、東大の漢学専攻者はまことに微々たるものであった。当時の俊秀たちの目は一 途にヨーロッパを向いていた。漢学世界は旧くさく若者の心を捉えることはなかった。しかし社会の底流には根強く 伝統教学である漢学は生きていた。また事実として江戸以来の秀れた漢学研究の実績も存していた。当然漢学は、時 かつ優良な伝統を-評価し継承せられねばならない。この任務は果たされねばならない。結 局この分野においても、切角新しい漢学教育を身に体した「古典講習科」諸子の外には、この責務を全うすべきもの は見当たらなかった。この時期、四十数名の「漢学」専攻の卒業生は決して少なしとしない。かれらが漢学界の要所 で活躍するとき、その総体としての活動こそまさに「前を継ぎ後を啓い」て真の近代中国研究への基盤を形成し提供 することとなる。大いなる力であった。第三に評価すべきことがこれである。 七 七 七 J¥. また、かれら「古典講習科」の諸子は、 いずれも幼少年時代から家庭や塾においてきびしい学習を施されていたた めに、漢詩・漢文に習熟してい、自由に漢文を操作し表現しうるわが国最後の団塊世代であった。天囚・君山・雨山、 いずれも然りであった。 注 (1)()内は筆者補、以下同じ。 (2)重野成粛遺稿巻十五 (3)中村正直「古典講習科乙部開業演説」明治十六年四月十六日。 (4)東京大学百年史五O三頁。 (5)注(3)に同じ。 (6)必ずしもこの規則は守られていない。たとえば西村天囚は数えで十九才、名取弘三は四十を過ぎていた。 (7)実際の合格者は、{呂費生二十二名、自費生十八名の四十人であった。 (8)『東洋学の創始者たち』の『狩野直喜』章一七六頁。昭和五十一年講談社刊。 (9)菅沼貞風『大日本商業史』の冒頭に掲げられている。 (叩)『蘭城遺稿序』の一文は、神田喜一郎編『明治漢詩文集」一一一一 O頁に収載されている。 (日)「東方学」五十三輯所収の「先学を語る|市村積次郎博士」の客歴による。 (ロ)「東方学」五十三輯所収の「先学を語る|市村積次郎博士」に経歴は精しい。 (日)原文の訓読は、島根大学教養学部漢文学研究室の釈文によった。 ﹇補注﹈松平良郎については、「斯文」十編一号(昭和三年)に漢文による「七十自述」の一文が掲載されている。 それによると安政五年江戸に生まれ、並木粟水、川田費江に学んでのち「漢学課」に入学。神宮皇学館教授たること 前後四十年、自ら「専講漢文、然徒岬佑畢而己、非有所発明」という。文中「小川則要、字士期、号庚端、陸前の 人」と「漢学課」で同期であったとあるが、この名は卒業者にはない。恐らく中退したものであろう。