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利用者:伊佐坂安物/sandbox4

略年譜

[編集]
  • 1909年
  • 1910年(1歳) - 2月の父母の離婚により、しばらく母のもとで養育される[2]
  • 1911年(2歳)
  • 1914年(5歳) - 父親が2月に紺家カツと再婚[1][2]
  • 1915年(6歳)
  • 1920年(11歳)
  • 1922年(13歳)
    • 4月 - 朝鮮京城府公立京城中学校に入学[2]
  • 1923年(14歳)
    • 3月 - 異母妹・澄子が11日に出生[1]。その5日後の16日に継母カツ死去[1][2]
  • 1924年(15歳)
    • 4月 - 父親が飯尾コウと再婚[1][2]
  • 1925年(16歳)
  • 1927年(18歳)
    • 4月 - 春に伊豆下田に旅行。隣室の氷上英廣と知り合う[2]
    • 8月 - 大連に帰省中に肋膜炎にかかり、1年間休学となる[1]
    • 11月 - 『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」が掲載される[3][2]
  • 1928年(19歳)
    • 4月 - 寮を出て、渋谷町の弁護士・岡本武尚邸に寄寓[2]
  • 1929年(20歳)
    • 4月 - 文芸部委員となり『校友会雑誌』編集に参加。この年の夏に岡本邸を出て、同潤会アパートに移る[2]
    • 秋 - 氷上英廣らと共に季刊同人誌『しむぽしおん』(翌年夏まで4冊発行)をおこす[3][2]
  • 1930年(21歳)
    • 3月 - 第一高等学校を卒業。
    • 4月 - 東京帝国大学国文学科に入学[1][2]
    • 6月13日 - 伯父・中島端(斗南先生)が山本開蔵(5番目の伯父)宅で逝去(享年78)[2]。この年、本郷区西片町の第一・三陽館に移る[2]
  • 1931年(22歳)
    • 3月 - 橋本タカと初めて会う[2]
    • 10月 - 大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、荏原郡駒沢町上馬の借家で父母と同居する[2]
  • 1932年(23歳)
    • 春 - 橋本タカとの結婚話が固まる[2]
    • 8月 - 旅順にいる叔父の中島比多吉を頼り、南満州・中国北部を旅行[2]
    • 11月 - 卒業論文耽美派の研究」を書き上げ提出[1][2]
  • 1933年(24歳)
    • 3月 - 東京帝国大学文学部国文科を卒業[1][2]
    • 4月 - 同月、私立横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)に国語英語の教師として赴任する[1][2]。横浜市中区長者町に単身で移る[2]
    • 4月 - 長男・桓(たけし)が出生[1][2]
    • 6月 - 3年前逝去した伯父・中島端を題材にした「斗南先生」を脱稿[2]。この頃から「北方行」が執筆開始。秋には文芸研究会創設に参画[2]
    • 12月11日 - 橋本タカと入籍[1][2]。11月には妻子が上京する[2]
1934年2月に撮影された中島敦。
  • 1934年(25歳)
    • 7月 - 雑誌『中央公論』の懸賞募集に応募した「虎狩」が選外佳作と発表される[2]
  • 1935年(26歳)
    • 4月 - 釘本久春を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合う[2]
    • 6月 - 横浜市中区本郷町の借家に初めて一家を構え、妻子と同居する[2]
  • 1936年(27歳)
  • 1937年(28歳)
    • 1月 - 長女・正子が11日に出生するが、13日に夭折[1][2]
    • 11月から12月にかけて歌稿となる「和歌でない歌」などを含めた和歌500首を作る[3][2]
  • 1940年(31歳)
    • 1月31日 - 次男・格(のぼる)が出生[1]
    • 6月11日 - 伯父・中島竦が逝去(享年79)[2]
  • 1941年(32歳)
    • 3月 - 転地療養と文学に専念するため横浜高女を休職[1][2]
    • 6月 - 国語教科書の編修書記としてパラオに赴任する[1]。赴任前、深田久弥に原稿を預ける[1][2]
    • 7月 - パラオ着[2]
    • 9月-11月 - 近隣諸島を巡り公学校を訪問する第1回長期出張旅行[2]
  • 1942年(33歳)
    • 2月 - 「古譚」の名で「山月記」と「文字禍」の2篇が『文學界』に掲載される[1]
    • 3月 - 土方久功と共に帰国[4][2]
    • 5月 - 「光と風と夢――五河荘日記抄」を『文學界』に発表、第15回(昭和17年度上半期)芥川賞候補となる[1][2]。同月、「悟浄出世」を完成させ、「弟子」を執筆[2]
    • 7月 - 7日に第一創作集『光と風と夢』を筑摩書房より刊行[2][5]
    • 8月 - 南洋庁に辞表を提出[6][2]。専業作家生活に入る[2]
    • 10月 - 「李陵」「名人伝」を執筆[2]
    • 11月 - 15日に第二創作集『南島譚』を今日の問題社より刊行。同時期、心臓の衰弱が激しくなり世田谷の岡田医院に入院[7][2]
    • 12月 - 4日、気管支喘息で午前6時に死去[2]。33歳没。「名人伝」が『文庫』に掲載[2]
  • 1943年
  • 1944年
    • 8月 - 盧錫台による中国語訳で上海の太平出版公司から『李陵』が刊行[2]
  • 1949年 - 『中島敦全集』(筑摩書房出版)が第3回毎日出版文化賞を受賞[2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191).
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be 「中島敦年譜」(ちくま3 1993, pp. 445–459)
  3. ^ a b c d e 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「nenpu-s」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  4. ^ 森田 1995, p. 120.
  5. ^ NCID BA44738108
  6. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「mondai」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  7. ^ 森田 1995, p. 158.