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利用者:仙人です/sandbox2

本記事では大正時代の教育について解説する。

概要

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大正時代の教育は明治末期の中等諸学校や専門学校の急速な発展[1]や教育の変化を受け継ぎながら大正デモクラシーと国際調和温調の中で大正新教育運動生活綴方運動(もしくは生活綴方教育)によって教育は変化していった[2][3]。また第一次世界大戦後、戦後終戦に反動し不景気が襲う。これに対し政府も対応しなければならないということで、1917年には臨時教育会議が設置された[2]

これらの教育方針の変化は児童の興味や自己活動を尊重するというものである。北村和夫はこれらの運動を「方法的改良」や「定型・定型批判の枠組み」の次元でとらえるのは様々な不可解な点が出ることから成城小学校の例を挙げながら運動は「明治的な義務教育感の枠組みの中で遂行された」と述べている[4]

また軍事面での教育においても変化していった。大きく挙げられるのが、1925年(大正14年)の「陸軍現役将校学校配属令(学校教練も参照)」及び1926年(大正15年)の「青年訓練所令」の成立であろう[5]。これらの大正の僅か2年の内に総力戦体制の確立の重要な制度的布石がなされたのだった[5]

国語科

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国語科の概要

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上記の概要節でも記したように、大正デモクラシーや大正新教育運動、生活綴方運動といった社会の風潮により明治期の教育から大幅な変貌を遂げようとしていた。教育で取り上げられる文学の種類についても議論が重ねられ、明治後期国民文学運動による文学の変容も重なった。また、後々の研究に非常に重要視される雑誌『国語教育』も創刊され、当時の国語科に対して行われた議論を見ることができる[2][3]

小学校

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現在における国語科学習指導要領の指導過程は主に「内容と構造の把握」「精査・解釈」「考えの形成」「共有」の4つに分けられている[6][7]。また音読に関しては現在〔知識及び技能〕の指導事項として扱われており〔思考力・判断力・表現力等〕との関連も図られている[8]。この一連の読むことに関する教育は1872年の「学制」及び「小学教則」に始まる。その後1900年第三次小学校令に基づき「小学校令施行規則」の発布により読書・作文・習字の3教科は正式に「国語科」となった。そしてそれと共に読み・書き・綴りがすべて一教科にまとめられた[9]。その後明治は地理・理科といった内容的・実践的国語読本を扱うことが主流だったが大正、また昭和期において文学的学力が重視されるようになった[10]

同時に国語科の教育の研究成果の公開の為の媒体が東京高等師範学校等では整えられた。同校の大正に行ったその目的のための行動を知る前に、まずその流れが明治末期から行われていたことを説明する。流れは以下の通りである。

  • 1904年(明治37年)2月・・・同校の主事および訓導で構成される初等教育研究会が発足[11](初等教育の理論および実際についての研究が組織的に行われるようになった。国語科のみの話ではなく各教科ごとに研究部を設けて研究会を開催し、その研究成果を同校での教育実践の改善に役立てるとともに、学外の教師に向けて発信した[11]
  • 上記の伝達手段として雑誌『教育研究』が刊行[12]、冬期講習会の実施[13]
  • 1913年(大正2年)に全国小学校訓導協議会が初めて開催[14](全国から教師が参集して教育現場における実践経験を報告し相互に批評討論 することによってこの経験を帰納的にまとめ、教育実践の発展を目指すことを目標に会議した[14]

読方教育

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大正期頃(詳細にすると1920年代)に入ってから単語(語句)から入る読みの指導から分全体の要旨を把握してから部分的に読解していく「センテンス・メソッド(文章を読むことを通して、文字や語句をも教えて行こうという方法[15])」による教育の重要性が説かれたり、また国語の中心学力として主題・構想・叙述を理解しようとする詳細な読解力が意識されるようになった[10]。例えば『尋常小学国語読本』の内容も理科・社会の内容もありながらも文学的な教材(児童文学など)が多くなっていった[16][注 1]。そして読方の教育においては明治末期からの自学主義教育法の流れを受け継ぎ昭和初期に繋げた。この自学主義教育法は「センテンス・メソッド」に基づく読方教授過程を受け入れる為の基盤となった[17]

そして教科書編纂や理論・指導のレベルではなく現場の実践のレベルにより焦点を当て読方教育の地方における具体的事例を明らかにした研究も見られる。例えば富山県師範学校附属小学校や石川県師範学校附属小学校では高森邦明深川明子の幾つもの論文でそれが判明している。その論文を基に今回大まかな「センテンス・メソッド」の普及の流れを示す。まず大正初期では富山県師範学校附属小学校等では「センテンス・メソッド」ではなく従来から使われていた「ワード・メソッド(文字を使用せずに単語を聴覚のみで教え、知識を段階的に覚えることで文章全体を理解する教授法[14][18])」を使用した実践があったことが分かっている[19]。一応言えば本来「センテンス・メソッド」は「ワード・メソッド」を否定するものである[15][20]。また小学校教員として活躍した奥野庄太郎も「センテンス・メソッド」に対して真っ向から対立した[21]。しかし大正末期となると旧来の教授感を持ちながらも「センテンス・メソッド」的な教え方になっていった[22]。しかし1915年(大正4年)に実践が開始されたとされる芦田恵之助の『冬景色』のようにすでに「センテンス・メソッド」による実践を模索する行動が見られ[23]昌子佳広島根県師範学校附属小学校を事例とし、国語科の教授案や実践記録などを対象に大正期から既に現場実践レベルでの文学教育への志向の高まりがあったことを発表している。

このように大正期から読み方教育に関しては「センテンス・メソッド」が主流になりそのバトンが昭和前期に受け渡されることになったのである。

書方教育

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書方教育は前述したように1900年(明治33年)の小学校令施行規則によって国語科の一環として誕生した。

小学校令施行規則における書方の記述は以下である。

国語ハ普通ノ言語、日常須知ノ文字及文章ヲ知ラシメ、正確ニ思想、ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ、兼テ智徳、ヲ啓発スルヲ以テ要旨卜ス

(中略) 書キ方ニ用フル漢字ノ書体ハ棺書行書ノ一種若ハ二種トス他ノ教科目ヲ授クル際ニ於テモ、常ニ言語ノ練習ニ注意シ、又文字ヲ書カシメルトキハ其ノ字形及字行ヲ正シクセシメンコトヲ要ス

—「小学校令施行規則」文部省令第14号、明治33年 8月21日

上記のように小学校令施行規則において国語科が新しく設置されたということもあり、さほど細かく書方に関する内容が書かれているわけではない[24]。「楢書行書ノ一種若ハ二種」と漢字の書体を選んではいるものの硬筆・毛筆のどちらを教育に用いるかでさえ書かれていないもので、そのため当時は、硬筆指導が法令に抵触するのではないかという議論もあったという[24]

前提としてこの毛筆書字が国語科に取り入れられ事は、現在の評価として多くは「毛筆書字教育理念のターニングポイント」であるとしながらも伝統を有する習字が、ペン書法と同一視せられ、「ライティング」の訳語たる「書方」の名称を以て国語科の中に入れられてしまった等批判的に受け止められている[25][26]

話方教育

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まず「話しことば」による言語活動はあらゆる教育活動において最も中心的な位置を占めているのに対し、それの研究は関心度が低く尚且つ教科書教材という枠で扱いきれない・単に評価が難しい・分野として「読むこと」「書くこと」に比べて極端に立ち遅れていることがある[27][28]。また指導したとしても教育実践に結び付けられる可能性は低く今日において多く授業を行ったとして他の分野以外の効果が見られるかは不明である[28]。一方で

大正期には(略)児童みずからの取材、表現になっていくよう、話材、 話方の指導も意欲的に研究されるようになった(略)地方地方に熱心な実践者がいて、 それぞれに先駆者としての活動をしたことを認めなければならない
—野地潤家

と指摘されるように明治から大正に渡っては実践が行われていた。明治後期には実践の推進、大正期となってはさらなる指導の発展がなされていたと考えられている[28]。明治期は発音のみにこだわったものだったが、大正期ではいくつか革新を行おうとする動きが見られた。保科孝一は従来の教育レベルから当時行われていた直観授業における「発音の矯正」「形式と用語の指導」「発表の方法」などの指導の在り方を改め、より尋常小学校を中心に広義の指導内容への提唱をした[28][注 2][注 3]。一方飯田恒作は大正の教育というテーマからは逸れるが明治末期の時点で「話し言葉の指導の独自性」、取材の態度に対しては「綴方話方の内面から培うことの過程を重視しつつ発表を前提とした話方」を提唱している[28][注 4]。飯田と同様に話方を独立した領域として実践を重ねた友納友次郎は話すという行為に至るまでの内面性に注目しそれと教育の関連を明確に意識するようになった[28][注 5]。また大友の意見に賛同した田中確治はより話方指導の雑多な内容を整理し自身の実践を重ね合わせ話し言葉の構想の指導の必要性を述べていった[28][注 6]山口喜一郎は「話方」と「聞法」の同時学習の大切さ、研究・学習が最重要であること(教材は文学教材や標準語学習が有効であるとも述べている)、対話・独話の積極的な取り入れなどを自身の本で指摘している[29][30][31][32]

このような理論的先駆者が大正期は何名も生まれながらも話し方教育は不振であった。昭和五年六月の『教育研究』誌上にて飯田は「話し方教育を手段と見て指導する方面、読方教育を行ふ準備として、標準語の普及として、乃至は事物の観察として行ふ第二義的な話し方は(略)広く試みられていた」と概況を述べながら、彼自身の研究推進が可能であった理由に同校の本田正一の指導体制を挙げ、既に発音から教授に及ぶ広範囲の基礎指導がなされていたこと語っている[28]。それは同校小学校の児童による読本の朗読レコードの存在からも裏付けられている[33]

つまり大正期においては何名もの先駆的な理論家が生まれ話し言葉の教育と音声表現の内面的なプロセスとの結びつきが注目されたわけであり、そして話し言葉指導は当時も多く問題があったということである[28]

綴方教育

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そして大正は「綴方指導」において活発な検討が行われ、盛んに指導方法の研鑽が進められた。そしてそれらの蓄積が今現在現在の「書くこと」領域を支えてきている。大きく見ると「自由主義的な綴方実践」、またその源流である「随意選題綴方(型にはめ込む文章指導から子供の自発的意思に基づいて題を決め自由に綴らせる)」が議論のテーマとなった[34]。ここでその検討を見ていく。

下が峰地光重が定めた編纂方法六か条[35]

一、綴方を児童の人生科として組織立てゝゐる こと。 (中略)

二、自由の気分を濃厚にあらはしたこと。(中略)

(イ)自由選題を多く取り入れたこと。(中略)

(ロ)教材の内容を広くしたこと。(中略)

三、教材を創作教材、指導教材の二方面からとつたこと(中略)

四、総合的指導並に鑑賞力を養成するため、四十幾篇の模範文を採り入れたこと。(中略)

五、適当なる文例をも排当したこと。(中略)

六、教授の実際に使用するにあたり、最も便利なるやう留意したこと。

—復刻版『国語教育』第九巻 五号 58頁より 一部中略

さらに峰地は続けてこう指摘している[35]

この外、私が留意してゐるのは一単元の教授字数を従来の細目のそれよりも多くとつてゐることである。従来は一単元の教授に一時乃至二時を配当するにすぎなかつた。そのために教授が不徹底に終わつたやうに思ふ。或る一つの単元が廻つて来るとそれを一二時間教授する。やがて又次の単元が来る。教授はたゞ間口を覗いたぎりで、次から次へとうつつて行く。そして遂に教授は徹底する時はなかつた。かうした弊を除くために私は一単元の教授時間を多くとつてゐるのである。例へば尋五に於ては三時乃至五時をあてゝゐるのである。しかし、これを変更して、一単元七八時を要する取扱をしてもいいと思ふのである。
—復刻版『国語教育』第九巻 五号 58頁より

その次は『国語教育』第九巻第七号(大正13年7月号)におけるもの[36]

尋一入学当初に於ける綴方―まだ文字を知らない時代の綴方ほど困難なものはない。それでこの時代のうるさい労力を除くために、綴方を第二学期から初めるやうにしてゐる学校もある。しかし綴方を第二学期から初めるといふことは、何れの方面から考へて見ても妥当ではない。綴方の芽生は入学の当初―いやそれ以前から既に内部にあるのであるから、それを何等かの形で啓培して置かなければならないのである。面倒だとか、うるさいとかいふことの為に、この大切な仕事を投つて置いて顧みないといふことは、実に遺憾なことだと思はれる。私は尋一の綴方はやはり第一学期から始めなければならないと思ふ。読方に於て口頭綴方として練習するのは勿論時間を特設しての取扱をなさねばならないと思ふ。

私が現在受持つてゐる尋一の児童に時間を特設して綴方を課したのは、入学後十二日目に当たる四月十五日だったのである。私はこの綴方の時間を迎へるのに、或緊張感をさへ感じるのであった。

—復刻版『国語教育』第九巻 第七号 39頁

一連の引用は一部分の他、あくまで一人の論文を引用しているだけであるが、それでもこのように綴方で大きな議論があったことが見て取れる。

俳句教育

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小学校国語科において俳句が行われるようになったのは1933年(昭和8年)からであるが、大正末期であっても尋常高等小学校で小学校国語科で俳句を行おうとした事例があったことが分かっている。ここで一例として兵庫県古市尋常高等小学校の俳句教育について解説する。大正末期には同校において俳句は学校文集の紙面の中心に据えるほどで、児童の作句が盛んに行われており1921年(大正10年)より刊行された学校文集『芽生え』は俳句以外にも様々なジャンルのものが掲載されていたが、それでも主は俳句だった。中でも『芽生え』6-8号(大正13年-大正15年)の同文集で大きなウエイトを占めている。これらの俳句は兼題による作品募集に始まり、教員による選評を通して賞の設定という順で載る仕組みであった[37]

一方尋常科が明治後期から大正期にかけて使用された第二期国定国語教科書における俳句作品はわずか2句であった[37]。それも「俳句そのものの学習というよりは、日本の歴史的なよさ、日本人の風趣が息づく風土を印象付けるための教材」という感覚での教育であった[38]

つまりは「大正における俳句の勉強はほとんどなかったものの一部の学校ではあった」ということである。

文学的教育

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文学的教育も始まる。1918年(大正7年)の「第三期国定読本」は教育実践の場から支持を得て、大正より大きなスタートを切る文学的教育にも影響を与えた[39]

中学校

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初等教育国語科との違い

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綴り方教育など大幅な変革を迎えた初等教育の国語科であるが、中等教育はそれほど明治期に比べ変わったりはしなかった。中等教育をうける層が限られていたからである。実際に大正期において中等教育における教授要目の変更は行われなった[3]

教育内容は、明治44年の中学校教授要目改正により、中学校国語科の重点的に教育される「講読ノ材料」は現代文を中心とし、遡っても近世近古までとなった。これのほかの法規が中学校における国語講読の教科内容を定めるにおいて明確とは言えなかったが、「文章ノ妙味ヲ玩味」や「文学上ノ趣味ヲ養」としていた[3]

現代文

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1894年(明治27年)頃、同年に発表されたた「尋常中学校国語科の要領」より

国語に古今の差あり。(中略)今日の法令書簡新聞の論説記事等の文は今日の国語なり 国語の範囲はかくのごとく広けれども中学校にては主として近世以下の国語を講習せしめ進んで中古の国語に及ぼしむ

との表記があり中学校において同時代の言語表現(今文)もまた中学校の教科内容となるという「国語観の時代的拡大」が起こったとされている。つまりそれ以前は現代文は中学校国語科の範囲ではなかったということである[40]

1931年(昭和6年)の教授要目までの間に「現代文」と「古文」の概念が確立し始めた一因として大正期より進められた現代文の定着があった。この定着までの道は1925年(大正14年)に雑誌『国語教育』が現代文の特集を組んだことから始まる[41]。しかし現代文について法規における説明が不足しており、「明治・大正の言葉」や「日清戦役後」、「日露戦役後」、「近世語」、「近代語」と「現代文の範囲」が論者によって異なるという事態が招かれた[42][43]

作文教育

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中学校における作文教育は非常に難しいものであった。しかし、金子彦二郎が発行した『現代女子作文』が高等女学校で広く採用され、「暗示的指導」が勧められた。暗示的指導とは、「話題の想起と焦点の絞り方」及び「視点の発見と転換」といったことである。例えば、巻一第4課「山へ、野へ、海へ」では、金子は

四月の末から五月にかけて、どこの学校でも遠足が行はれる。そして遠足のあとではせねばならぬものSやうに遠足の記が書かされる。それで生徒達の中には「遠足は愉快だけれど、すぐそれを作文に書かされるかと思ふとうんざりする。」とかこつ者が少くない、それは「遠足の記」とさへ言へば、一、出発。二、途中の有様。三、目的地に到着。四、昼食。五、昼食後の行動。六、帰途.七、所感。などと示された順序や型にはめて書かねばならぬものにきめてゐるから、「又か」といふ歎声が出るのである。喜んで遠足の記を書き、楽しい一日の思出を書残さうと思ふなら、活眼を開いて新鮮な材料を取入れることもよいが、思ひ切つて新しい、ぴりっとするやうな試みをするがよい。それにはどんなやり口があるかと言ふに、何でも其の一日の遠足中、一番痛快であつたこと、苦しかった事。楽しかつた事、頭に残つた事柄の「どれか」を中心として描いて、其の他の誰にも共通な経験であった筈の出発時刻や、通過した地名や、お弁当を食べたなどいふことは、特に書くべき必要のない限り、ごくざつと書く位にして、大体端折ってしまつてよい。言ひかへれば、出発の前夜の模様とか、途中の面白かった出来事とか、到着地点に於ける催し事とか、昼飯を頂く時の珍談とか、帰宅後の疲れや肉刺の療治とか、各人各個が体験した最もよい材料と思ふものゝ一つ二つを中心にして書くのである。かやうに一つ事柄に注意を集めて精細にかくと、きっと力のある纏った作が出来る。諸子は絵葉書や、硝子窓の枠から覗いた戸外の景色について何か思ひ当るふしがないか。平凡な、どこと言つて取柄のない山野の眺望も、絵葉書に区ぎって收めると、「これがあそこか、素敵ね」と歎賞する程に見えるに違ひない。又硝子の窓枠でしきつて見た庭の景色は、毎日見飽きてゐる平凡さとは全然ちがつた引きしまつた美景とうつるに違ひない。そこです、そこです。凡ての物は、小部分に区ぎつて、そこだけを精細に鮮明にあらはすと、非常に美的効果が増して来るものです。「天の橋立股めがね」といふ言葉は、美学上の真理を言ひ表した諺なのです。遠足の記にもここつの骨を応用して見るがよい。次に記述の態様ですが、必ずしも説明体にかゝねばならぬと決ったものでない。遠足の行列をぱ、路傍の田圃に働く農夫や、並木などの位置から観察したやうにかいてもよからう。或は遠足した人に携へられた洋傘とか、靴とか、バスケツトとかいふ附属物となつて、其の主入一即ち遠足した少女の動作をかいて見るも面白からう。「文は人なり」で、出発から帰宅までの事を順序を追うて書く事も、其の人の腕次第でいくらも良い作が出来るにきまつてゐるが、志ある人は以上述べた材料の取り方と記述のすがたとの二点に一工夫して見るがよい。

としている。このように作文の題材を出来るだけ日常生活から見つけるように大正期で変わった中学校作文教育。また、リライト作文と言われたものも、視点の転換や文体を変えることで想像力と認識力を高めるために行われた[44]

グリム童話の導入

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府川源一郎の研究によると、グリム童話の学習への導入は幕末まで遡ると言われている。1859年より『Sargent’s Standard Third Reader』というアメリカの読本が幕末より慶應義塾を中心に日本でも使われるようになり、その中にグリム童話の一つ『くぎ』があった[45][注 7]。その訳本『サルゼント氏第三リイドル』が1873年(明治6年)4月に松山棟庵によって、『銕沓(かなぐつ)の釘の事』という題で紹介されており、これが日本初のグリム童話の邦訳であるとされている。その後明治以後は1875年にイギリスの読本『Chamber’s standard reading book』に『幸運なハンス』が[45]1885年にアメリカの『Swinton’s Third Reader』に『狐と猫』が収録されている[46]。尚『Chamber’s standard reading book』には『シンデレラ』や『赤ずきん』も収録されているが、これはペロー版からである[47]

大正に話を戻すと、大正よりグリム童話は明治のライン推奨のものではなく、日本の徳育教育に適合するものにドイツ語教科書のみでみると掲載内容が変わった。これは森有礼が暗殺され、元田永孚が「徳育教育」を軽視する欧化教育を批判してからヘルバート学科で徳育教育にグリム童話も合わせる動きがあったからである[48]

脚注

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注釈

  1. ^ 昭和となり1933年から使用された所謂『サクラ読本』ではよりこの文学要素が強くなっている。
  2. ^ 『国語教育』大正五年 四月号にて保科は 「話方の練習は綴方に対してもっと鞏固な基礎を形作るものであるから綴方授業の成績を挙げようとすれば、まず話方の練習をおほひに励行しなければならん」と述べている。
  3. ^ 保科は話方教授について「その眞正な目的は標準の發(発)音および言語を以て思想を正確に自由に發表する能力を養成するのにあるのである。」と発音や方言の修正を念頭に置いた教育方法を論じている(保科孝一『国語教授法精義1916年 518頁)。
  4. ^ 飯田は『教育界学術界』明治四十三年三月号にて 「理論の上から話方教授を児童の発達段階に当てはめて研究することをなるべく実際と交渉させ、小学校の児童は如何なる場合に発達するものかを先づ考へて置くが必要」と述べている。
  5. ^ 大友は「発表したいという欲求に駆られて言葉を選ぶ過程=内的発表」「欲求から其思想を整理してそれを表す過程=外的発表」とし内外の両面が合わさって話すという行為が位置付けられるとした。
  6. ^ 大友に対する田中の言及は一文にまとめると「知らず識らずの間に、表現の態度を養ひ表現の力を修練して行くのに対しては賛成だがむしろそれは話の順序・語調・語格の方面まで包括している」というものである
  7. ^ 当時の名称は『The Horse-Shoe Nail』であった。

出典

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  46. ^ 大野 2015, pp. 211–219.
  47. ^ 川戸 2005, pp. 9–11.
  48. ^ 中山 2009, p. 22.

参考文献

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  • 井上敏夫『教科書を中心に見た国語教育史研究』渓水社、2009年。ISBN 9784863270152 
  • 安直哉『国語教育における形象理論の生成と展開』東洋館出版社、2015年。ISBN 9784491031118 
  • 輿水実『国語科基本用語辞典』明治図書出版、1970年。 
  • 保科孝一『国語教授法精義』育英書院、1916年。 
  • 山口喜一郎『話すことの教育』習文社、1952年。 
  • 信廣友江『国民学校「芸能科習字」』出版芸術社、2006年。ISBN 9784882933106 
  • 奥山錦洞『日本書道教育史』1953年。ASIN B000JBACFI 
  • 東京教育大学附属小学校創立百周年記念事業委員会『東京教育大学附属小学校教育百年史 : 沿革と業績』1973年。 NCID BN07257146 
  • 秋保惠子『大正新教育と〈読むこと〉の指導―奥野庄太郎の国語科教育』渓水社、2015年。ISBN 9784863272828 
  • 甲斐雄一郎『国語科の成立』東洋館出版社、2008年。ISBN 9784491023939 
  • 大野寿子『カラー図説 グリムへの扉』勉誠出版、2015年。ISBN 9784585290933 
  • 川戸道昭『明治の「シンデレラ」と「赤ずきん」―日本に西洋童話が根づくまで―』ナダ出版社、2005年。 
  • 中山淳子『グリムのメルヒェンと明治期教育学―童話・児童文学の原点』臨川書店、2009年。ISBN 9784653040040