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利用者:ヒトシセキ/sandbox

 
友田興藤
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文10年(1541年)4月5日
戒名 東光寺殿玉叟長琳[1]
墓所 洞雲寺 (廿日市市)
官位 上野介、兵部少輔
主君 大内義興義隆
氏族 厳島神主家
父母 父:不明
兄弟 某、 興藤藤原広就
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友田 興藤(ともだ おきふじ)は、戦国時代の武将。厳島神主家の当主。藤原親藤の孫で、教親の甥、興親の従兄弟にあたる。弟に藤原広就がいる[2]。興親死後に断絶していた厳島神主を自称し、大内氏と戦った。

生涯

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上洛

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永正5年(1508年)12月8日、足利義稙および大内義興に従って上洛していた厳島神主・藤原興親が、京都で病没した。この時、興藤は小方加賀守とともに在京していた[3]。興親とともに上洛していたとみられる。

永正14年(1517年)閏10月、大内義興は京都を離れて和泉国に移っており[4]、興藤もこれに従って堺に滞在した。翌永正15年(1518年)3月と5月、興藤は大内氏重臣・陶興房とともに連歌会を興行。この連歌会には当時の著名な連歌師・牡丹花梢柏宗碩宗牧周桂らも参加している[5][注釈 1]

一方国元の神領(安芸国佐西郡)では、神主興親の死後、神領衆が東方と西方の二派に分裂しての抗争が勃発。東方は宍戸治部少輔らが桜尾城に立て籠もり、西方は新里若狭守らが藤懸城に立て籠もって数年合戦に及んだという。この内戦は安芸武田氏ら周辺諸勢力の介入を受けながら、永正14年(1517年)頃まで続いた[6]

神主となる

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永正15年(1518年)8月、大内義興は長年の畿内滞在に終止符を打ち、帰国の途につく[7]。興藤と小方加賀守も、国元に帰還した。前神主興親の親類である両名は帰国後、義興に自身を神主職に補任するよう愁訴。しかし義興はこれを退け、己斐城内藤孫六石道本城[注釈 2]杉甲斐守桜尾城嶋田越中守をそれぞれ城番として送り込み、大内氏による神領の直接支配に乗り出した。桜尾城については、前神主興親が陶氏の縁類だったという理由で、後に陶隆満の家臣・大藤加賀守毛利下野守が城番となった[8]。また神領衆の一員であった吉原親直の所領安堵も行っており[9]、神主家の被官である神領衆を大内氏家臣に位置付ける動きもみせている。

神領を直轄支配下においた大内氏は、陶興房を大将として大永2年(1523年)3月から安芸武田氏への大規模な攻勢に出た。しかし同氏の防衛線を突破できず、8月に興房は帰国した[10]。翌大永3年(1523年)閏3月、陶興房は長崎元康に対し、桜尾城の改修の為に登城するよう命じている[11]。神領の不穏な動きを察知していたのかもしれない。

そんな同年4月11日、興藤は武田光和らの後援を得て桜尾城を奪取して自らを神主と称し、大内氏に反旗をひるがえした。桜尾城番の大藤加賀守、己斐城番の内藤孫六は追放され、石道本城の杉甲斐守は廿日市後小路において武田方に討たれた。この時興藤の被官も討死している[12]

大内氏は神領(安芸国佐西郡)が敵対勢力になったことで、安芸国への出入口を閉ざされた。同年6月、出雲国の尼子経久が安芸国に侵入し、平賀氏毛利氏吉川氏ら安芸国諸勢力を従えて大内氏の拠点・鏡山城を攻略した。尼子氏は興藤の動向を気にかけており[注釈 3]、両者の間で何らかの交渉があったとも推定される[14]

大内氏との戦い

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芸予諸島の大島から眺めた中渡島(中途島)。


脚注

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注釈

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  1. ^ 他にも連歌師の重吟宗訊宗全宗珀能登永閑、幕府奉行人・諏訪長俊、大内氏家臣・阿川勝康吉見弘頼らが参加者としてみえる。
  2. ^ 現在の広島市佐伯区五日市町石内にあった城塞。有井城に比定される。
  3. ^ 大永3年5月、尼子家臣内田泰家が吉川氏に対して石見の情勢や厳島神主の態度、大内氏の動静などについて情報を収集して尼子氏に注進するよう依頼している。[13]

出典

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  1. ^  『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年 p.459
  2. ^  『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年 p.384
  3. ^ 「房顕覚書」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.504)
  4. ^ 藤井崇 『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014年 p.125
  5. ^ 「野坂家蔵古写本」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.787)
  6. ^ 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年 p.380〜382
  7. ^ 藤井崇 『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014年 p.126
  8. ^ 「房顕覚書」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.505)
  9. ^ 「萩藩譜録 吉原市兵衛」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.700)
  10. ^ 河村昭一 『安芸武田氏』戎光祥出版 2010年 p.113〜p.114
  11. ^ 「萩藩譜録 山中八郎兵衛種房」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.698)
  12. ^ 「房顕覚書」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.506)
  13. ^ 「大日本古文書 吉川家文書378」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.539)
  14. ^ 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年 p.385

参考文献

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  • 山内譲 「海賊衆の成立」(山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998年 ISBN 4-588-25046-9
  • 山内譲 『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』 講談社 2005年 ISBN 4-06-258322-4