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利用者:みっち/記事の書き方

前置き

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これは私ことみっちが約10年間、ウィキペディアに記事を書いてきた経験から、考え方や編集手法をお示しすることで、書き手の利用者の方々の今後の参考にしていただければと思って記すものです。したがって、こんなこと考えている利用者もいたのか、あるいはこういう方法もあるのかということで、これが正しいとか優れているとか、ましてやベストとか唯一とかいうつもりはまったくありませんので、お気を確かに。

何を書くか

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記事作成の目安

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方法論を書く前に、まずこのことは一応触れておいた方がいいように思います。題材をどう選ぶかという問題です。ふつうは自分が興味のある分野で、こういう項目がほしいというものを書くと思います。しかし、その題材によっては、こんな項目いらない、などといわれて削除依頼に出される可能性があります。ウィキペディアで、かつては「著名性」、先ごろまで「特筆性」、このごろ「Wikipedia:独立記事作成の目安」などといわれるようになっているもののことです。本来この文書は、基準を満たさないからといって単純に削除すべきではなく、ふさわしい項目に統合しましょう、それも無理でどうしようもないのは削除しましょうという趣旨だと思うんですが、ウィキペディアには短絡的な方々もいて、お気に召さない記事を削除したがるものでf^^;。

この基準は、言い換えれば「百科事典に必要な項目は何か」ということです。さらに言い換えれば「百科事典観」の問題でもあります。言い換えばかりで申し訳ないですが、たいていの物事には裏表やメリット・デメリットがあるもので、AでありBでもありかつCでもある、などと考えていくのは、Wikipedia:中立的な観点からも望ましく、物事を多面的・重層的にとらえる訓練にもなりますから、どんどんやってみてよいと思います。気をつけないといけないのは、それらの中から一面だけを恣意的に強調したり、逆に無視したりすることです。

脱線しましたが、百科事典に必要な項目については、ひとりひとり考え方が違います。つまりそこには幅がある。その前提に立って、私の場合は、その「幅」がもっとも狭い場合でもこれは必要だと考えてもらえそうな項目を選びました。優先順位の高そうなものから書けば、誰も異を唱えたりはしないでしょう。もうひとつは、本になっている資料があるものを書く。このごろはネット上でもたいていの資料が見つかりますが、書籍になっているものの方が重みがあるのは当然でしょう。要は、なるべく王道・本道を行きましょう、ということです。奇道は危道でもあります。

体系として考える

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もうひとつ考えた方がいいと思うのは、項目で説明する範囲です。どこまで広げて(絞って)書くのか。これにも大項目主義・小項目主義という考え方の違いがあって、幅があります。大項目の方が根本的に受けいられやすいことは、考えればわかりますよね。大は小を兼ねるf^^;。ただ、あんまり大風呂敷を広げてもまとまらず、書くのが大変ですし、長い記事に抵抗のある人には読んでもらえなくなるという恐れもあります。ちょうどよい大きさってないものでしょうか。私はこの間、舟歌即興曲など、フォーレのピアノ曲をジャンルごとにまとめて記事にしてきましたが、これは「フォーレのピアノ曲」といった大項目と、「舟歌第何番 (フォーレ)」のような少項目の中間の形です。こういうのは「中項目主義」ということになるでしょうか。同時にこれは、項目体系をどう考えるかということにつながっていて、百科事典として、ある程度は体系として俯瞰できるような説明があるべきという私の問題意識の表れでもあります。

グローバル・スタンダード

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ここからは、たぶん余計な一言です。上の節で王道・本道を行くと書きましたが、さらに別の言い方をすれば、時空を越えた地球的・宇宙的規模の大きな目で項目を捉えることも必要です。残念ながら、ウィキペディア日本語版はこの点が弱いのではないかと思います。Wikipedia:日本中心にならないようにという文書もありますが、整ったものになっていません。メインカルチャー分野の書き手が少なく、主要項目の多くを外国語版からの翻訳に頼らざるを得ないのは、個人的にとくに残念な点です。日本語文献が限られていることが背景にあるのでしょうが、それにしても弱い、と。これは決して外国語版の翻訳を否定しているのではなく、むしろ翻訳作業に従事・苦心されている方には厚く感謝と敬意を表します。それでも、できるものなら日本語版から逆移入させたいじゃないですか。そういうわけで、私自身は外国語が苦手なこともあり、日本語の資料を使って極力外国語版よりも項目を充実させることを心がけてきました。これが私のこだわりといえばこだわりです。

翻って、日本国内の事件や時事問題をネタにした記事がよく物議を醸してブロック依頼とかに発展していますが、はっきりって島国根性以外のなにものでもないと思います。なにをやっているんだと。志が低すぎでしょう。もちろん国内ネタでも世界に通用し、かつ必要とされている記事はあります。その場合は、日本語文献に不足はないわけですから、ぜひぜひ外国語版のお手本になるような記事を書きましょうよ。テニスの松岡修造の言葉を借りれば、「おまえら、世界を感じろ!」ですかね(爆)。

どう書くか

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資料集め

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いよいよ具体的な記事の書き方です。まずは、資料を集めましょう。手持ちの書籍があれば、当然真っ先に使います。とはいえ、ひとつの資料だけでは限界があることが多く、なるべく複数集めた方が記事が書きやすくなります。これひとつで総合的かつ詳細な解説が読めるような集大成的な本も存在しますが、あとで述べる著作権問題に引っかからないためにも、複数の資料から多角的に当たることが望ましい。私の場合、図書館に行って、該当部分をコピーする手をよく使っています。

もちろん、ネット上でも使える資料はあります。ただ、なるべくなら論文や解説的な記事など、単に主張や報道しているだけでないものを選びましょう。その資料がどんなものなのかを見抜く目も必要ですが、これは経験を重ねるうちに身につくでしょう。

エディタに抽出

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資料の使い方ですが、まずは、使えそうなところをローカルのエディタに片っ端から書き写していきます。私の場合はワードパッドを使っています。ウィンドウズのアクセサリなら、ウィンドウズPCはすべて利用可能なので便利です。この時点では、ウィキペディアの下書きページなどはまだ使いません。丸写しがバレたら、下書き段階でも著作権侵害で削除依頼される恐れがありますから。

写すと書きましたが、できればこの時点で言い回しや文章構造などを適当にいじって資料と同じ表現にならないようにしておくといっそう安心です。あとでも触れますが、著作権侵害には気をつけましょう。また、あらかじめ記事の骨格をおおまかに考えておき、冒頭文、特徴、歴史、個別の問題などの大段落に分けて書き出していけば、後の編集が楽になります。慣れてくると、記事を書こうと思う時点で、おおよその節構成は頭に浮かぶものです。

それから、書き出す際には、脚注を忘れないようにしてください。ここで忘れると、また資料に戻らないといけなくなって面倒です。基本的には、一文ずつに脚注を付けていきます。もちろん二つ以上の文に付けたり、段落ごとに付けたりでもいいのですが、あとで「パッチワーク作業」するので、「あれ、この文の脚注はどれだったっけ?」みたいなことにならないようにしましょう。脚注については留意点でも触れます。

また、脚注を付けた文ごとに改行しておきます。改行しておくと画面が見やすく、編集が楽になります。ウィキペディアでは改行は反映されないので、段落を分ける場合は1行分空けることはご存じですよね。なぜか、この反映されない改行をなくすだけみたいな編集をしてくる人がいるんですよね(ーー;)。

節構成を考える

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ここまではわりと単純な作業で、言い回しなどを工夫したのでなければ、それほど頭を使うようなことでもありません。しかし、すでにあなたは複数の資料を読み、必要な部分を抽出して書き出しているわけですから、内容はもちろん把握しており、その記事のできあがりについてもかなりイメージできてきているはずです。料理でいえば、素材を集めて下ごしらえをした段階でしょうか。

ここからいよいよ調理じゃなかった、編集に入ります。まずは、記事の骨格である節構成を考えます。すでにできているかもしれませんが、ここでもう一度考えます。具体的には「Wikipedia:スタイルマニュアル (レイアウト)」を参考にしてください。ただし、あくまで参考です。個人的に、「関連項目」は「脚注」や「参考文献」よりも上位にくるべきだと思っています。上でも述べましたが、項目を体系的に説明する必要があると考えるからです。そのために、関連項目の説明をひとことふたこと加えたり、もっと大規模なものにしたりといった試みもやっています。なのに、なぜかこの節の順番だけ入れ替えるみたいな編集をしてくる人がいるんですよね(ーー;)。

「概要」について

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以前、記事の冒頭文を機械的に「概要」にして回る人がいて問題になったことがあります。「概要」は新聞で言えば、リード文みたいなもので、細かいことは後回しにして概略だけ読めるようにするサービスです。冒頭文とは異なり、記事ごとにあった方がいいかどうかを判断すべきで、一律に配置するものではありません。例えば、長い記事で一読しただけでは記事内容が把握しにくいような場合は、記事全体の要約版として概要を作ります。したがって、記事書きの順番としては、一番最後に書くかどうか考えます。最初ではありません。「概要」ばかり充実させて、ほかの節の記述が不足気味というのも逆方向です。

編集作業

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節構成ができたら、これまで書きためた素材を「節見出し」ごとに振り分けていきます。ここからが編集ならぬ「パッチワーク作業」で、それぞれの節の中で、振り分けた各素材を入れ替えたり組み合わせたりしながら、文章のまとまりととおりをよくしていきます。ここでも言い換えは大事で、常にもっと別の書き方はないのかと候補を考えることが読みやすさにつながります。同時に、こうすることによって著作権侵害のリスクにも対応できると考えています。このことは別に留意点で触れます。

この作業をやっていくうちに、「これはここじゃなくてこっちにあった方がいい」とか「この部分は別に節を立てた方がいい」などというところが出てくるかもしれません。思いついたらどんどんやりましょう。もしかすると、むしろ別の記事で述べた方がいい、といようなものもあるかもしれません。そうやって、ウィキペディアの記事体系が充実していくわけですf^^;。

表記

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ウィキペディアの一般的な表記についてはWikipedia:表記ガイド、外来語の表記についてはWikipedia:外来語表記法(提案中)を参照してください。こうしたガイドライン類が整備されているにもかかわらず、表記をめぐる論争はしばしば紛糾し、「ウィキペディア名物」みたいになっています。とくにもめやすいのは外国語のカタカナ書きで、「マッカ」対「メッカ」、「ミュンヘン」対「ミュンヒェン」、「ボジョレー」対「ボージョレ」、「サラエボ」対「サラエヴォ」など地名に多く見られます。対立の要因としては、ウィキペディアでは慣用的な表記を優先しているのに対し、なにが慣用的かで争いがあるだけでなく、専門的あるいは「原語の発音と近い」表記を採るように主張する意見も根強いことがあります。

例えば、現在慣用的な表記が採用されていない分野として、イスラム圏の用語があり、先に上げた「マッカ」や「クルアーン」などが項目名とされています。ギリシア神話関連でも、「オルペウス」や「アプロディーテー」などが使われています。これらは知らない人が目にするとびっくりしたり違和感があるかもしれませんが、各専門プロジェクトにおいて表記を決め、分野内ではそれを統一的に用いるという合意があります。一方で、ハンガリー人ならなんでも「姓・名の順に直す」というのは、そうした合意がないはずで、「原音原理主義」と似てもめる要因でしょう。また、ロシア(旧ソ連)対ウクライナ、カトリック対正教といった歴史的・宗教的な対立が背景となっている場合もあり、そうなるとお互いの存在意義をかけた戦いとして解決が長引くわけです。

外来語以外でも論争の種は尽きません。「関数」対「函数」、「九州平定」対「九州征伐」は、表記をめぐる争いの中でも最長を誇る?部類で、とくに後者は少なからぬブロック者を出すまでの乱闘騒ぎとなりました。部外者にとってはほとんどどっちでもいい話に果てしなく夢中になれるのはどうしてか、選べる項目名はひとつといっても、他の表記も文中の説明やリダイレクトとして活かすことはできるのに、なぜこれほどまでに譲れないのか、研究対象にしてみてもいいかもしれませんねf^^;。

結論としては、「郷に入れば郷に従え」で、こだわらないのがいちばんです。表記はあくまでも便宜的なものであり、識別、検索できればいいと割り切りましょう。もちろん個人的には好みや身近な表記がありますが、それは他の人にとっても同じことがいえます。自分の名前が他人にどう呼ばれようが自分は自分であるのと同じで、ウィキペディアにそのような真実を求めても仕方のないことです。逆に、他者の「真実」を押しつけられれば生理的に反発を覚えるんですよねえ、これが。

マークアップと約物

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節構成がおおよそできて、各節の文章がある程度まとまってきたら、編集作業と並行して見出しや内部リンクなどのマークアップを始めます。このタイミングなのは、先にやると文章が前後して二度手間になったりするためです。とはいえ、二度手間三度手間は付きものだと思ってください。

表や引用など別掲の約物があると、レイアウトに変化が出て読みやすくなります。

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フォーレの即興曲一覧(作曲順)
番号 調性 作品番号 作曲年 区分
第1番 変ホ長調 25 1881 第一期
第2番 ヘ短調 31 1883
第3番 変イ長調 34 1883
ハープのための即興曲(第6番) 変ニ長調 86(86bis) 1904 第二期
第4番 変ニ長調 91 1905
第5番 嬰ヘ短調 102 1909 第三期

ここでは、即興曲 (フォーレ)で使った表を例として挙げました。表の作り方の詳しくは、Help:表の作り方を参照してください。表はウィキ上ではまとまって表示されてきれいですが、編集画面では縦長でイメージがつかみにくいですね。あと、改行を省略すると表の体裁が崩れてしまうようなので、気をつけましょう。

引用

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引用に使うテンプレートはたくさんあります。詳しくはTemplate:Quotationを参照のこと。ここでは、Quotation、blockquote 、Quote box の3つの方法を比較してみました。以下にそれぞれ具体例を並べてみましょう。

まずはQuotation のテンプレートを使った場合。例は「ヴァルス=カプリス (フォーレ)」のもので、これは私がよく使うテンプレートです。

「『ヴァルス=カプリス』の各主題の冒頭は、もっとゆっくりめの速度で弾いてくれませんか―作曲者は全くうんざりしています! というのも、私は『ヴァルス=カプリス』という題名そのものを、そもそも運動がいかに変化してゆくかということに基づいて用いているからです。演奏家はいつも一律に速く弾きすぎます。」 — 1919年3月20日付、ロベール・ロルタに宛てたフォーレの手紙[1]

次が、blockquote方式。中央に位置しますが、カコミがなく、見た目は地の文とそれほど変わりません。

「『ヴァルス=カプリス』の各主題の冒頭は、もっとゆっくりめの速度で弾いてくれませんか―作曲者は全くうんざりしています! というのも、私は『ヴァルス=カプリス』という題名そのものを、そもそも運動がいかに変化してゆくかということに基づいて用いているからです。演奏家はいつも一律に速く弾きすぎます。」(1919年3月20日付、ロベール・ロルタに宛てたフォーレの手紙[1]

3つ目がQuote box です。

「気をつけるがいい、不吉な攻撃の手が迫っている。

ドイツの国も民も散り散りになり
異国の虚仮おどしに屈すれば
王侯はたちまち民心を見失い
異国の腐臭ただようがらくたを
ドイツの地に植え付けるであろう。
栄えあるドイツのマイスターに受け継がれぬ限り
ドイツの真正な芸術も人々の記憶から失われよう。
だからこそ、言っておこう。
ドイツのマイスターを敬うのだ!
そうすれば、心ある人々をとらえることができる。
そしてマイスターの仕事を思う心があれば
神聖ローマ帝国は
煙と消えようとも
ドイツの神聖な芸術は

いつまでも変わることなく残るであろう!」
第3幕第5場、「ザックスの最終演説」後半部分(3,074行 -3,089行)[2]

Quote box はいわゆるカコミ形式で、私もそれほど経験がありませんが、右の例は、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で歌詞を一部引用しつつ解説するときに使ったものです。このように、本文と歌詞内容を交互に参照しながら読めるので、使い方によっては便利です。ただし、幅やフォントサイズの指定などは、ブラウザやディスプレイの解像度によって見た目が変わる可能性があり、汎用性という点ではやや難しいところがありそうです。

画像

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画像もコモンズで探しましょう。とりあえず使えそうな画像ファイルを集めて原稿に並べておき、テキスト編集が進んだ時点で配置を考えるといい感じだと思います。配置の基本は節の右上ですが、ワンパターンにならないように左側配置も工夫してみましょう。人物の横顔などは、できるなら画面中央を向くように配置したいものです。画像がたくさんあって通常の配置では載せきれないようなときは、ギャラリー化します。ここでは示しませんが、『ロシアのクラシック音楽史』や『皇帝に捧げた命』でギャラリーを使っているのでご参考まで。

コモンズの画像の探し方は、私の場合は、外国語版や関連項目に使われている画像ファイルからカテゴリなど共通する要素で物色していました。自前で画像をアップするのもいい手ですが、著作権や肖像権に留意が必要です。銅像などの屋外美術に関しても規制(Wikipedia:屋外美術を被写体とする写真の利用方針)があります。なお、画像のアップロードはウィキペディア日本語版とコモンズの両方が可能ですが、外国語版にも使えるのはコモンズ画像ですから、とくに問題がなければなるべくコモンズにアップしましょう。

譜例

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音楽関係記事を書くときに、譜例があるとわかりやすく、記事の体裁としても雰囲気が出ます。楽譜はこれまでコモンズ画像か、自前で作って画像ファイルをアップするかしか手段がないと思っていましたが、マークアップで直接テキスト入力・表示させることが可能であることが判明しました。Help:Scoreがそれです。詳しい譜例作成方法はここだけではわからない部分もありますが、これはありがたいですね。さしあたり、画像同様の使い方として右寄せ方法やキャプションの入力方法などがほしいところですが、上記の引用テンプレートを使うといけるかもしれません。

ここでは例として、練習がてら私が作ったオリジナルのメロディーを載せてみます。一応チェロ演奏を念頭に、ヘ音記号(clef bass)を使ってみました。

\relative d { \clef bass \key d \major \partial 4 a d a'4. b8 a cis a8. fis16 e2 d4 cis4. fis8 a cis a8. fis16 e2. d4 cis4. fis8 a4 cis d8 cis b8. fis16 d4 a' g2( g8) b, d g fis2 e4 }

下書きをアップする

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だいたい形になってきたと思ったら、ウィキペディアの利用者サブページ(下書きページ)にアップしてみましょう。見栄えを確認しながら内部リンクやマークアップの不備を修正し、仕上げていきます。このとき、カテゴリを付けるのはまだ遠慮しておきましょう。別にあったっていいという見解もあるでしょうが、下書きがカテゴリに入るのは困るという見解もあり、トラブルの種になるようなことはしないのが賢明です。カテゴリはいずれ誰かが付けてくれるので、よくわからないなら最初から付けない手もあります。

もしかすると、この時点まで気づいていないことを発見してしまい、大幅な改稿が必要になることもあるかもしれませんが、そのための下書きでもあります。細かい修正も終わって、当面これ以上はないと判断できれば、投稿します。おめでとう! 苦労が報われた瞬間です。自分が書いた記事が、誰かの役に立つ、これは素晴らしいことです。

なお、サブページに下書きをアップすると、Wikipedia:著作権の方針に基づき、一般の記事と同様に複製、改変、再配布を許可したことになります。例えば、もう少しブラッシュアップするつもりで置いていたものを記事としてそのまま反映されてしまったり、別のサイトに掲載・引用されたりしても、権利上はOKです。もちろん「下書きの横取り」など道義的な問題は指摘されるかもしれないとしても、ルール上あらかじめ禁止することはできません。したがって、このような事態を避けたいなら、アップせずにプリビューのみに止めておきましょう。

いくつかの留意点

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脚注方式

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脚注方式は、Template:Sfnのテンプレート方式をおすすめします。私の場合は「ロシアのクラシック音楽史」以降の記事はすべてこの方式を使っています。理由は、ref 方式よりも簡潔でローカル画面の見通しがよく、編集が楽であると同時に、容量も ref 方式よりコンパクトで地球環境に優しいからです。まあ、記事が長大なほど評価が高まる傾向にある?ウィキペディアでは不利な方式といえなくもありませんが、そんな目先のことには構わないでいきましょうf^^;。

注釈は、本文に書くほどではないがひとこと補足しておきたい場合や、錯誤や誤植の可能性など資料に疑問がある場合などに使います。これも「脚注」でいいはずですが、ウィキペディアでは脚注=出典みたいに扱われているので、混乱を来さないように別にまとめた方がきれい。 脚注と注釈を使い分けしたいときは、注釈用にTemplate:Efnというテンプレートがあります。実は、このテンプレートの存在を知ったのはかなり後になってのことで、それまで注釈には仕方なくref 方式を使っており、私が書いた記事ではこのテンプレートの使用実績がほとんどありません。Help:脚注をよく読めば、書いてあるんですが、ref 方式の紹介がメインみたいになっているので気がつきませんでした。

参考のために、ここで脚注と注釈をひとつずつ使ってみます。脚注がこれ[3]で、注釈がこれ[注釈 1]。ここに挙げている文献例などはもちろんダミーなので、コピペして使うときは、著者名やページ数などの中身を適宜書き換えてください。 sfn のテンプレート方式は、list欄が自動でグループ化されるのも便利です。ref 方式では、同じ文献・ページの脚注を探してグループ化する必要があり(この整理は必須ではないけれど、同じ脚注がずらずら並んでいるより、まとまっている方がスマートでしょう。)、長い記事ではとくに煩雑になってくるのですが、この手間が省けます。 また、「参考文献」節で、文献のテンプレート末尾に例えばref={{sfnref|みっち|2013}}と指定することで、脚注から該当する参考文献に飛べるようにすることが可能です。

なお、脚注リストは2段表示にしています。この文書のように脚注の数が少ないときは複数段表示はあまり意味がありませんが、数が増えてくると、画面スクロールの面倒も馬鹿にできないようになるでしょうから。

「検証可能性」と著作権保護のはざまで

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Wikipedia:検証可能性著作権保護の解釈によって、ウィキペディアの書き手の苦労のあり方も変わってきています。脚注が多い記事を書くと、みっちも「脚厨」(そんな言葉ないかも)なんじゃないかと思われるかもしれませんが、誤解です。ウィキペディアでまだ脚注がそれほどうるさくいわれていなかった時代には、要点だけ押さえて独自の文章を書けばよかったのですが、このごろは通用しなくなった感がありますよね。私としては、脚注至上主義みたいなことを主張する方々には反発を感じるし、脚注がない「秀逸な記事」だって可能だといいたいのですが、脚注を付けながらの編集ができないと思われるのはシャクだし、そうした方々を前もって黙らせるという意図との両方からあえて踏み込んだ感じでしょうかf^^;。迎合ともいいます(爆)。

ただ、出典をより厳しく求めるということは、それだけ著作権侵害のリスクが高まるということでもあると考えます。上に紹介した私の編集方法では、文章の一部には資料と同じ表現があったとしても、文章全体としては違っているということで対応できると考えています。とはいえこれも程度問題であり、一概には言えません。最初の段階で言い回しなどを変えておくとよい、としたのはこのためです。もうひとつ気をつけないといけないのは、資料の組み合わせによって新たな観点や独自の論理を展開しない、ということです。これは「Wikipedia:独自研究は載せない」でダメだとされています。

記事の長さ

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記事の長さは、題材の持つ内容と広がりによって変わります。例えば「○○の歴史」や「△△文化」について書こうとすれば、ある程度の内容を満たすために長くなるのは当然です。しかし、詳しければいいかというと、そこは判断の余地があります。上にも記事体系として考えるということを書きましたが、ひとつの記事でなんでも詳しく書くのでなく、いくつかの関連記事で必要な説明をする、という観点を持ちたいと思います。また本来、記事は簡潔をよしとし、そのためにいかに削るかで苦心すべきものだと思います。などといいながら、「ロシアのクラシック音楽史」(私が書いた初版でいちばん長い記事)ではほかの項目で述べた方がいいものまで書いたかもしれません。このときは関連記事もけっこうがんばって書いたのですが、個人の限界ということでお許しを。

例えばですが、ある人物の記事を書いたとして、その伝記部分があまりにも詳しいのは疑問だと思います。一般に、読者は伝記が読みたいなら「伝記本」を読むはずで、百科事典にはまた違う役割があると思うからです。戦役記事でも、戦闘の経緯が微に入り細をうがつようなのは疑問です。百科事典は戦記やルポではないはずだから。百科事典に必要なのは、その項目が概観できることで、専門書ではなくいわば「入り口」の役割を果たすべきです。まあ、「センス・オブ・ワンダー」としての百科事典の意義も無視できませんf^^;し、せっかく書くからにはなにか発見をと、少々深入りすることについては私もしょっちゅうです。が、あくまで項目としてのバランスを崩さない程度にしたいものです。

センス・オブ・ワンダー

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以下は戯言と受け取ってもらって構いませんが、ホンネです。前節ですでに触れましたが、百科事典の役割として、「驚異の世界」への入り口というものがあると思います。このごろは書棚に百科事典を置いている家は少なくなってきたようですが、私が子供のころ、暇つぶしに開いた百科事典を気がついたら夢中で読みふけっていたという体験があります。思えば、これが私のアルファでありオメガかもしれません。

センス・オブ・ワンダー」は、かつてSF作品の世界で使われていた言葉だと記憶しますが、この世界にはまだ見ていない土地や知らない事物がいっぱいあって、それを垣間見せてくれる点では、百科事典とてSFとそれほど変わらないと思っています。もともとウィキペディアの記事内容の真実性・信頼性にそれほど重きを置いていない(メディア・リテラシー)こともあり、私のこうした考え方は、正確なだけでつまらない記事よりも、多少の修辞は含んでいても読んで面白い方がいいという「読み物」性重視の姿勢につながっています。何年か前、執筆コンテストだったかコンクールだったかに加わっていたときに、これは突き詰めていくとウィキペディアの方向性と乖離していくことになる予感がしました。

ウィキペディアの記事の「質」は、「量」すなわち書き手の裾野の広さによって保証される、というのはある意味逆説的かもしれません。「群盲象を評す」というお話がありますが、この解釈も諸説あるようです。ただ、このプロジェクトが過去の失敗を踏まえて発足した経緯からは、執筆者をどれだけ広く募るかということが根本として位置づけられていることは間違いありません。にもかかわらず、コミュニティの輪が広がることによって、執筆者同士の争いが起こり、記事を書かず議論ばかりの「ケンカ屋」やルールの「専門家」などが現れて、意に沿わない、あるいは「レベル」の低い利用者の締め出しや方針解釈の先鋭化を主導するようになり、コミュニティが自ら間口を狭めていくという反動も起こっています。ウィキペディアとて現実世界の動向や制約からは逃れられませんし、今後揺れ戻したりしながらジグザグに永く発展・推移するのか、それともどんな組織?もいずれは腐って崩壊するという法則がここでも立証されるのかはわかりません。後者であれば、いずれ私もブロックされるか自ら去るかを選ばなければならないときがやってくるでしょう。まあ、そのときが来るまで続けられるかどうかもあるんですけど……。

関連項目

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(以下は例示)

脚注

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注釈

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  1. ^ 注釈に脚注を入れ込むことも可能で、こんな風[3]

出典

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参考文献

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  • 日本ワーグナー協会監修、三宅幸夫池上純一 編訳『ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」』白水社、2007年。ISBN 9784560026656 
  • ジャン=ミシェル・ネクトゥー 著、大谷千正 監訳、日高佳子、宮川文子 訳『評伝フォーレ―明暗の響き』新評論、2000年。ISBN 4794802633 
  • みっち『これであなたも記事が書ける?』お気楽出版、2013年。