利用者:のりまき/第七作業室
寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代に松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と並称される。この記事では、この時期の幕政に関する事項も併せて扱う。
概要
[編集]体制の危機
[編集]幕府財政の困窮化
[編集]江戸幕府開府当初、幕府財政は健全財政であった。17世紀前半から中ごろにかけては幕府直轄領からの年貢に加えて、金山、銀山からの収入、そして貿易による収入によって幕府財政は潤っていたが、鉱山収入は鉱脈を掘りつくしたことにより激減し、貿易も縮小していったため、年貢外収入は激減した。結局17世紀末には幕府財政のほとんどは直轄領からの年貢収入に依存するようになった。しかも明暦3年(1657年)の明暦の大火からの復興、徳川綱吉が盛んに行った寺社仏閣の造営に巨額の費用がかかった上に、貨幣経済の発展に伴い物価が上昇し、収入源、支出の増大、そして物価高に直撃された形の幕府財政は17世紀末以降急激に悪化し、財政問題が幕府における最重要の政策課題となった[1]。
財政難に対して幕府は直轄領を増やして年貢収入を増やすことを図り、江戸初期の二百数十万石から17世紀末には約四百万石まで増大した。そして幕府の直轄領からの収入増大のもう一つの手立ては年貢増徴であった。享保年間、幕府は直轄領の更なる増大と年貢増徴に腐心し、厳しい倹約策などによる支出の減少の効果もあって、幕府財政は好転した。しかし年貢増徴にも限度があった、年貢増徴は必然的に農民の激しい抵抗を招き、藩領全域が蜂起する全藩一揆といった大規模な騒動が勃発するようになった、その上、享保年間には米価が低落しているのにも関わらず、他の物価が高止まりする「米価安の諸色高」という状況が続いた。米価が低迷した上に他の物価が高いままであれば、いくら年貢を増徴して米を多く手に入れたところで、幕府の実収入の増加は見込めない。結局、幕府は高い年貢率の維持を図りながらも他の収入を得る方向への政策転換を図らざるを得なくなっていった[2]。
江戸時代の年貢収公のピークは延享元年(1744年)であった。この年、幕府領463万石から得た年貢は180万石であり。その後、厳しい収奪に対する農民層の反発もあって、年貢量は少しづつ減少していく[3]。農民層の抵抗の中で代表的なものが宝暦4年(1754年)から宝暦8年(1758年)にかけての郡上一揆である。郡上一揆は一揆を行った農民たちのみならず、郡上藩主の金森家が改易となり、時の幕府の老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが失脚するという異例の決着となった[4]。この郡上一揆の結果、幕府内では年貢増徴によって財政再建を目指す直接税増徴派が力を失い、替わって田沼意次に代表される、商人たちに特権を認める代わりに冥加金を徴収するなどの間接税方式の導入、推進を図る勢力が台頭してきた[5]。
田沼意次が主導した幕政は、鉱山開発、朝鮮人参、白砂糖の国産化など、積極的な殖産興業政策を取った。年貢収入の増加を見込めない現状から積極的な殖産興業策を取り、新たな産業の創設を図って収入源を得ようともくろんだのである。また流通や金融の仕組みの改革を図り、そこからも幕府は利益を得ようと試みた。このような情勢下、日本全体に新たな「国益」、「御益」を作り出そうとする試みが活発化した。田沼時代、このような利益追求を目指す人々を「山師」と呼んだ[6]。そして幕府は広く株仲間を公認して運上、冥加金を徴収するなど、流通、金融、商工業、農業などの各分野に対して運上、冥加金の新規賦課、増額によって収入を増やそうと試み、いわゆる山師たちはこうした幕府政策に迎合して、運上、冥加金収入を増やす様々な建策をするようになった[7]。田沼政権の施策は、基本的には17世紀末以降の民間経済発展を見据え、民間に蓄えられてきた資金や技術、ノウハウを幕政に生かすという、民間活力の導入によって幕府財政の行き詰まりを克服しようとしたものであった。そのため民間からの提言を生かして積極的に政策に生かしてきたが、そのあまりの利益追求に偏重したやり方は、あやしげな山師の横行を招き、何よりも利によって政策が推進され、その結果、社会全体が利によって動くようになったとの批判を浴びるようになった[8]。とりわけ幕府役人らと商人たちとの癒着が深まり、賄賂や汚職が顕著になっていった[9]。
幕府中心主義と高まる軋轢
[編集]田沼意次に主導された幕政の特徴として、露骨な幕府中心主義がある。まず全国政権としての責務である大規模河川の治水事業は、幕府は工事の施工管理を担うとともに工事費の10分の一を負担し、あとは仙台藩、長州藩、広島藩などといった大藩に工事を請け負わせる国役普請を行うこととした。国役普請による重負担は諸藩の財政を著しく悪化させ、幕府と諸藩との関係に亀裂を生んだ[10]。またこれまで凶作、大規模な火災などによって経済的に打撃を被った諸大名に対し、幕府は無利子で資金を貸し付ける拝借金という制度があったが、幕府はこの拝借金制度も縮小、停止した[11]。この幕府の拝借金制度縮小が大きな影響をもたらすことになったのが天明3年(1783年)から天明4年(1784年)にかけての天明の大飢饉である。幕府は大飢饉に襲われた東北地方諸藩に対する救済に極めて消極的であり、わずかに弘前藩や相馬藩などに拝借金を認めるに過ぎなかった。享保の飢饉時、幕府は被災諸藩に拝借金を認め、大規模な回米を行うといった積極的な被災地救援に乗り出したが、天明の大飢饉の際における幕府の無策ぶりは、江戸幕府の全国政権としての役割の後退を示している[12]。
また、田沼政権は大名が行っていた蔵米切手の発行を規制した。蔵米切手は諸藩が徴収した年貢米を蔵屋敷から売却するに当たり、米の買い付け商人たちに発行した倉庫証券であるが、深刻な財政難に見舞われていた諸藩は、米の現物在庫が無いにも関わらず蔵米切手を発行するようになった。諸藩はいわば米の空売りを行うようになったわけであるが、幕府は米価の安定を図るために蔵米切手の発行規制に乗り出した。この規制によって諸藩の財政運営は更に厳しくなった[13]。
田沼時代には本来的には幕府が責任を持って支出すべき費用を、利用者負担に転嫁することも行われた。例えば金貨を発行する金座を維持する費用、交通機能維持のための伝馬役助成金、そして幕府が創設した医学館再建費用などを、幕府は自らの財政支出によらず、利用者などに負担させることとした。このように田沼時代の幕府は財政負担の軽減を図るため、諸大名、そして民間への負担転嫁を進めていった[14]。
また幕府はより露骨な幕益重視策も取った、江戸幕府は以前から藩領を収公して幕府領とする上知を行ってきた。もちろん領地を取り上げられた藩は代替地を給付されるが、以前から幕府の利益を重視したものになりがちであった。しかし17世紀半ば以降、露骨な幕益重視策による強引な上知が現れた。尼崎藩領の兵庫、西宮の上知や、このときは実現はしなかったが松前藩の蝦夷地直轄化のもくろみなどである。これまでの上知は幕益優先とはいえ藩側も納得できる範囲のものであったが、あまりにあからさまな幕益重視の上知の強行は、幕政に対する反発をより強めることになった[15]。
変容、弛緩する体制
[編集]宝暦、天明期の社会情勢の大きな流れとしては、幕藩体制の根幹を支える農民層の疲弊、没落が目立ってきたことが挙げられる。享保年間以降、地主制が容認される中、農民たちの多くは公租と小作料という二重の負担に苦しむようになり、没落し、離農していく農民が激増していた。やがて離農者の激増は地主層にも深刻な打撃をもたらすに至る。田畑を実際に耕す人たちが少なくなれば、地主経営そのものが成り立たなくなる。寛政の改革が始まる直前、関東やその周辺では耕作放棄された荒地が広がっていると松平定信が指摘するに至った[16]。
離農した貧農たちの多くは江戸などの都市部に流入した。これまでの都市は、主に武家、都市の家持や地主たちとそれらに仕える奉公人たちによって構成されていた。しかし農村から大量に流入してきたことによって都市貧民層が増大するという、農村の疲弊は新たな都市問題を生み出していった。しかも奉公人たちと異なり、増大した都市貧民層は基本的に反体制的であり、都市における打ちこわしが増大する要因の一つとなる[17]。
また、これまで都市部の手工業者に独占されてきた技術が各地方に伝播し、全国各地で商品生産が増大した。その結果、商品の流通、価格形成に大きな変化が見られるようになってきた。まずこれまで圧倒的な実力を持ってきた大阪の経済的地位の低下が見られるようになった。また商品生産の活性化は経済全般の活性化とともに、商品の独占販売をもくろむ既存の都市商人ら、特産品の専売による利益確保を目指す諸藩、そして在郷商人や豪農たちの利害が衝突し、一揆や打ちこわしの原因ともなった。そして生産者との直結という手段で市場への割り込みを図る在郷商人たちや、都市における新興商人層の勢力伸張は、これまでの流通機構や価格形成のやり方に大きな動揺を与え始めていた[18]。
著しい農村の疲弊、都市問題の深刻化、これまでの流通、価格形成機構からの変革などといった大きな社会構造の変化を背景に、寛政の改革開始を前にして幕府は、このような幕藩体制全般の構造的危機にどのように対応していくのかという大きな課題を突きつけられていた。更に幕府が対応を迫られていた問題として、幕藩体制全般の構造的危機と並んで統治体制の弛緩があった[19]。田沼時代、無役や下級幕臣など、下層武士階級の支配体制からの遊離、逃避が目立つようになっていた。これは賄賂、情実による人事が顕著であった田沼時代、出世コースから取り残された無役、下級幕臣の不満が背景にあった[20]。このような中、無役や下級幕臣、諸藩の江戸詰め家臣の中に、俳諧、川柳、狂歌を嗜み、更には洒落本、黄表紙などの著者として活躍する者が現れる。黄表紙の著者、恋川春町、狂歌の大田南畝などがその例である。このような現象を士風の退廃であると眉をひそめる人たちも多かったが、やがて単に趣味の世界では終わらず、文芸分野で活躍する武士階級の人たちが政治への不平不満を作品化して発表するに至った。無役や下級幕臣らが幕政批判を作品化し、発表するなどという現象を前に、幕府は幕臣団を改めて掌握した上で、幕府に忠実な人材の登用、育成をしていくことが急務となった[21]。
そして田沼時代には幕府と朝廷の関係にもこれまでとは異なる緊張関係が生まれた。宝暦、天明期になると垂加神道がこれまでの吉田神道に替わって朝廷内で影響力を強めていた。中世期以降の神仏習合色が強い吉田神道と比べ、垂加神道は仏教色を排除し、万世一系たる天皇への尊崇を重視し、万世一系の天皇を戴く日本の国体を重んじるなどという特徴が見られた。天皇の存在を極めて重視する垂加神道の朝廷内での浸透は、中世時に廃絶していた大嘗祭、新嘗祭といった朝廷神事、祭祀の再興と結びつき、それらに思想的、宗教的な解釈を与えた[22]。
このような中で朝廷内で影響力を強めてきたのが竹内式部である。万世一系たる天皇を至尊のものとする垂加神道を説く竹内は、天皇への絶対的な忠誠を主張し、天皇、そして天皇の臣下たる公家たちが学問に励む中で徳を身につけていけば、将軍はおのずから政権を天皇に奉還するであろうという王政復古を主張するようになっていた。竹内は垂加神道を多くの公家たちに講義していたが、中でも天皇の側近である近習にその影響力が強まっていった。竹内式部から垂加神道を学んだ近習たちは、時の桃園天皇に対して垂加神道における解釈による日本書紀の講義を始めた。この情勢を見た関白近衛内前を中心とする五摂家は、王政復古を主張する竹内式部の言説が天皇に吹き込まれることが反幕行為と見なされることを恐れ、更に天皇の近習たちに朝廷の実権が移ってしまいかねないと危惧した。結局、関白たちは天皇の垂加神道解釈による日本書紀学習を差し止めさせ、講義に携わっていた公家ら、そして竹内式部本人も処分された。これが宝暦事件である[23]。
同じ頃、江戸で私塾を開いていた山県大弐は竹内式部を上回る過激な幕府批判、尊王論を展開していた。山県は幕府政治を利益追求に奔走し、農民からの収奪に明け暮れていると厳しく断じ、かつての朝廷政治への復古を唱えていた。これが幕府への謀反と見なされ、山県は死罪とされ、山県大弐との関係性を疑われた竹内式部も八丈島に流罪となった。これが明和事件であり、先の宝暦事件と並んで天皇にこれまでとは異なる価値が見いだされ、天皇、朝廷の存在がクローズアップされるようになっていくことを示している。当然、幕府と朝廷間の関係にはこれまでとは次元が異なる緊張関係が生まれるようになり、体制引き締めという観点からも幕府は対朝廷関係でも箍の締め直しを迫られていた[24]。
諸侯の困窮と改革
[編集]深刻な財政難に苦しめられていたのは幕府ばかりではなく、諸藩もまた厳しい財政難に見舞われていた。田沼意次が台頭してくる17世紀半ばの宝暦期以降、多くの藩が中期藩政改革と総称される藩政改革に乗り出した。中期藩政改革で採られた政策には多くの共通点が見いだせる。まず徹底した倹約による支出の削減、藩士の綱紀粛正、藩校の設置、整備などの教育の振興、藩政を担う新たな人材の登用と育成。そして民生面では農村支配の強化、てこ入れにより年貢収入の確保、養蚕などの殖産興業策と特産物の藩専売制である[25]。中期藩政改革の代表例としては宝暦期から行われた熊本藩主細川重賢による熊本藩の改革、そして明和、安永期からの米沢藩主上杉鷹山による米沢藩の改革が挙げられる。熊本藩、米沢藩の改革はともに成果を上げ、改革の模範とされ、厳しい財政難による藩政の行き詰まりに苦しむ諸藩は、改革のモデルケースとして熊本藩、米沢藩の施策を学び、自らの藩政改革に生かしていった[26]。
寛政の改革を主導する松平定信もまた、まずは自らの白河藩政の参考とすべく、藩政に優れているとされた諸侯との交流を深め、政治術、統治術を学んでいった[27]。諸侯の中期藩政改革の内容の多くは、寛政の改革における施策に類似しており、これは幕藩体制が曲がり角に差し掛かった18世紀中盤から後半にかけて、諸藩の藩政と幕政がともに影響を受けあいながら改革を進めていったことを示している[28]。
外圧の影と蝦夷地の問題
[編集]18世紀半ば以降、幕府は外交問題に対処していく必要性に迫られるようになった。カムチャッカ半島までやってきたロシア人が千島列島北部で毛皮の徴税に乗り出し、それを嫌った千島列島北部の住民たちは千島列島の南部に逃げ出すようになった。1760年代後半になるとカムチャッカ半島のロシア人は千島列島南部へ逃げた住民たちの捜索隊を組織するようになり、ついには択捉島までやってきた。そして1771年、逃亡住民捜索隊のあとを追ってやってきたロシア人狩猟業者がウルップ島に毛皮漁独占、そして徴税を試み、ウルップ島のアイヌ人長老を殺害した。このようなロシア人たちにアイヌ人たちは激しく抵抗し、双方に死傷者が出るという事態が発生した[29]。
千島の地元アイヌ人たちからの収奪で利益を得ようとしたロシア人たちは、激しい抵抗に直面して作戦を変更することにした。蝦夷地まで行き、日本人との交易で利益を得ようと試みたのである。安永7年(1778年)、ロシア人は納沙布岬に現れて松前藩に通商を要求し、翌年も厚岸で松前藩と接触して通商を求めたが、松前藩はこれを拒絶した。しかしロシアは千島列島南部、そして蝦夷地への関心を失わなかった。1784年には再びウルップ島に現れたロシア人たちは越冬してラッコ漁を行った。彼らはアイヌ人からの襲撃を受ける前にウルップ島を後にすることとしたが、一部のロシア人たちはウルップ島に残り、その後択捉島に南下して最上徳内らと接触し、長崎からオランダ経由でロシア帰国をしたいとの申請をした[30]。
この頃、日本国内では対外貿易の内容が変化しつつあった。日本国内では金、銀、銅の産出量が減少しているのに反して、先述のように商品経済の発展は通貨需要の増大を招いていた。江戸時代初頭は豊富な金銀の産出を背景に、日本産の金銀を輸出し、諸外国から輸入品を得ていた長崎貿易は、金銀の産出量が減少すると銅を輸出するように変化していたが、銅の産出量減少、そして国内の通貨需要の増大は日本国内の銅需要を逼迫させ、輸出に回すことが困難となってきた。豊富な地下資源で貿易収支を成り立たせていた日本は、18世紀後半になると鉱物資源の輸出を行うことが困難となった。それどころか田沼政権の経済政策は日本国内の銀需要を増大させるものであり、逆に銀を輸入しなければならないようになった[31]。
田沼意次は通貨制度の大改革を試みていた。当時、江戸を中心とする東国経済圏の金中心の経済と、大坂を中心とする西国経済圏の銀中心の経済が並存していたが、田沼はそれを統合する方向へ持っていこうと試みたのである。実際、日本国内の経済の発展、流通の活性化によって、東国経済圏と西国経済圏とで金と銀という異なった決済通貨を用いる煩瑣な体制の弊害が噴出しており、通貨統合の必要性は明らかであった。まず明和2年(1765年)に五匁銀を発行した。これはこれまでの銀貨である丁銀、豆板銀が秤量貨幣であるのに対し、一定の品位、重量を持ち、金貨と一定の交換比率が定められた計数貨幣であった。しかしこれは強固な東西の商慣習、そして金銀貨の両替で利益を得てきた両替商の頑強な抵抗により失敗に終わった[32]。
田沼政権は五匁銀の失敗で通貨統合の試みを放棄したわけではなかった。安永元年(1772年)、今度は南鐐二朱銀を発行し、改めて通貨統合への方針を明確にした。この五匁銀、南鐐二朱銀発行には多量の銀が必要であった。もちろん国内鉱山で産出される銀、そして丁銀を吹き替えることによって銀を確保したが、それ以外にも長崎貿易によって海外から銀を入手して五匁銀、南鐐二朱銀発行に宛てたのである[33]。
金、銀、銅といった鉱物資源の輸出が困難となり、そればかりか逆に銀の輸入に迫られるといった状況下で、輸出品として急速にウエイトが高まってきたのが俵物と呼ばれる海産物であった。俵物とは煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ)の三品を指す言葉であり、中華料理の食材、薬材として中国での大きな需要があった。その他、昆布、スルメなどといった海産物の需要も高く、盛んに輸出された。田沼政権は長崎貿易安定を目指し、長崎会所が独占的に俵物集荷を行う体制を構築した。同時期さらに中国向けのラッコ毛皮の輸出も開始した、これは1780年代以降に北太平洋地域で毛皮貿易が本格化する動きと連動したものであった。田沼意次に主導された幕府は、長崎貿易を掌握、安定化させ、鉱産物の輸出抑制を徹底することによって日本国内の貨幣需要の安定化を図ったのである。[34]。
ところで輸出主力商品となった俵物などの海産物は日本各地で生産されていたが、なんといっても最大の生産地は蝦夷地であった。また当時、蝦夷地で生産されるニシンの油を絞った粕である〆粕は、肥料としての需要が増大していた。〆粕は商品経済の発展に伴って関西などで盛んに栽培されるようになった綿花などの肥料として大量に消費されるようになったのである。このように蝦夷地は日本の産業、経済、そして貿易にとって極めて重要な存在となっていった。そのような蝦夷地にロシアが食指を伸ばしてきたのである[35]。
田沼政権は利益中心主義であり、利を求めて大胆な政策提言が数多くなされていた。千島、蝦夷地への関心を隠そうとしないロシアという外圧の登場は、もともとその存在意義が高まりつつあった蝦夷地への注目度を更に高めていった。まずは蝦夷地に金銀山を開発し、ロシアとの貿易を開始するという案が出された。これは大国ロシアにみすみす蝦夷地を横取りされるのを防ぎ、更に蝦夷地の鉱山開発、ロシアとの交易を通じて富国を目指すといった程度のものであったが、やがて蝦夷地を本格開拓し、1116万6400石という膨大な新田を開発し、当時の日本の2割ないし4割の米を生産するようにして、更に蝦夷地開拓によって強国となった日本が満州、ロシアまで服属させるといった、大胆というよりもはや荒唐無稽としか言いようが無い蝦夷地についての政策提言がなされるようになった。結局、蝦夷地について見分した結果、金銀山、ロシア貿易で得られる利益はもくろみとは大きく異なって大したものではないとされ、蝦夷地新田開拓についても当時の資金力、技術、人材面などからみて実現性に欠けたものであったのは明らかであり、田沼政権による蝦夷地開発構想は頓挫した[36]。
また田沼政権による蝦夷地開拓構想はもう一つの波紋を呼んだ。この開拓構想はこれまで松前藩によって統治されてきた蝦夷地を幕府が収公して直轄地とした上で、大規模な開発を行うというものであり、藩の意向を無視した極めて強引な幕府の利益中心主義政策の強行を図った典型とされた[37]。
改革開始への道のり
[編集]高まりゆく田沼意次への批判
[編集]田沼意次は紀州藩士田沼意行の長男として生まれた。田沼意行は徳川吉宗がまだ部屋住みの時代から仕えており、吉宗が将軍就任後は幕臣として江戸住まいになった。息子である意次は徳川吉宗の側近であった父の後を追うように、吉宗の嫡子、徳川家重に小姓として仕えるようになった。家重に仕え、その深い信任を得たことが意次栄達のきっかけとなった。先述のように郡上一揆の裁判で高い政治、行政能力を発揮した田沼意次は宝暦8年(1758年)には大名に列し、家重の子である徳川家治の世になっても将軍側近として栄達を続け、明和9年(1772年)には将軍側近である側用人と老中を兼ね、幕府の実権を掌握していく[38]。
また田沼意次は大名家や有力な旗本らと縁戚関係を結び、幕府高官や大奥に人脈を築き上げ、幕府組織の要所に親族や自らの息がかかった人材を配置していった。こうして当初将軍嫡子、家重の小姓であった田沼意次は、老中兼側用人として幕府の実権を握るに至った。このようないわば成り上がり者である田沼が幕政を壟断する事態に、御三家、御三卿を中心とした徳川幕府の譜代派は不満を募らせるようになった[39]。
表と奥を掌握した田沼意次の強み
[編集]徳川幕府は、将軍の意思のもとにその政治を補佐し、行政を行うように構成されており、体制的には将軍に権力が集中するシステムとなっている。しかし実際には実務を行う老中や、その下の諸役人らの協議を経て政務が遂行されており、将軍が権力を行使しようとする際にはこのような官僚機構が壁となった。そのため将軍の手足となって働く将軍側近が必要となる。将軍側近の役職として著名なのもが側用人であり、側用人は将軍と老中との間を取り次ぐことを主たる業務としていた[40]。
将軍と老中との間を取り次ぐという、当初いわば御用聞きのような役目であった側用人であるが、将軍の深い信任を得た側用人の中には、将軍の威光を背景に老中や諸役人に対して指導指示を行うようになり、強大な権力を握るようになった。徳川綱吉時代の柳沢吉保がその例である。将軍側近が強い実権を持つ状態は徳川家宣、徳川家綱時代も間部詮房、新井白石と続いたが、将軍側近政治に対する譜代派の批判の高まりを見た徳川吉宗は、表向きは老中と諸役人による幕府本来の政治システムを尊重した[41]。
しかし実際には、吉宗も紀州藩主時代からの側近である有馬氏倫、加納久通を御側御用取次に任じ、老中や老中以下の諸役人と将軍との業務取次に従事させた。吉宗もまた自らの意思を体した側近を巧みに用い、政務を遂行していったのである。続いて吉宗の子である家重の時代になると、言語障害があった家重は自らの意思を表現することが困難であったが、側近の大岡忠光は家重の意思を良く理解することが出来た。そのため大岡忠光は将軍家重にとって無くてはならない人材として昇進を重ね、ついには若年寄兼任の側用人となった。これまで将軍側近として権勢を振るった柳沢吉保も間部詮房も、それぞれ大老格、老中格を与えられたものの、表の正式な役職である若年寄や老中とはならなかった。大岡忠光の若年寄と側用人の兼任は、将軍側近と表の幕府の重職を兼任する先例となった[42]。
そして将軍家重、家治の側近として頭角を現して側用人となり、ついには表の老中を兼務するに至った田沼意次が登場する。側用人に代表される将軍側近は、将軍に権力が集中する徳川幕府においてその将軍の意思を体する役職であり。しかも実際の政務執行においては諸役人中での最高責任者である老中を兼任したのであるから、いわば将軍の意思の代弁者兼政務の最高責任者となったわけで、家重、家治と政務への関与に消極的であった将軍のもとであったこともあり、田沼は幕府において極めて強い権力を振るうことが可能となった[43]。
田沼政治の行き詰まり
[編集]将軍側近である側用人と、江戸幕府の諸役人の中で最高責任者である老中を兼ね、更に諸大名、有力旗本との縁組などによって強固な自派を形成した田沼意次の権勢は1770年代から80年代にかけての安永期から天明期、頂点に達した。天明元年(1781年)、田沼意次の息子田沼意知は奏者番に任じられ、天明3年(1783年)には若年寄となる。これは父から子への権力移譲を目指したものであるとともに、田沼意次の権勢が絶大なものとなった象徴でもあった。しかしまもなく田沼意次の転落が始まることになる[44]。
天明4年3月24日(1784年5月13日)、若年寄田沼意知は旗本佐野政言に切りかかられ重傷を負った。意知の傷は深く、2日後に死去した(公表された死亡日は受傷の8日後)。事件を審理した評定所は佐野政言の乱心が事件の原因とし、佐野は切腹を言い渡された。切腹後、佐野が葬られた寺は大勢の人々が墓参に駆けつけ、たまたま佐野の切腹直後に高騰した米価が下がり始めた偶然も重なり、佐野は世直し大明神と崇められた。一方、田沼意知の葬儀はみじめであった。葬列に対して人々は罵声を投げつげ、投石までされるしまつであった。これは田沼意次の施政に対して世の不満が鬱積していたことを示していた[45]。
この頃から、打ち続く天災が田沼の足を引っ張った。天明3年(1783年)には浅間山が大噴火を起こし大きな被害をもたらした。更に天明3年から4年にかけて、東北地方を襲った冷害が引き金となり、数十万人の人々が死亡したと推定される天明の大飢饉が起こった。天明5年(1785年)は平穏な年であったが、天明6年(1786年)になると今度は関東地方に大水害が襲った。また天明6年は大風によって全国的に田畑が被害を蒙り、米の生産高が全国平均で平年の三分の一にまで落ち込んだといわれた[46]。
また天明年間の後半には通貨政策の失敗によって物価高が著しくなり、庶民の生活を圧迫した。経済が活発となるに従い、庶民が主に用いる銭の不足が目立つようになり、銭の相場が高止まりすることが多くなった。そのため銭の発行量を増やすことによって銭不足を克服し、銭の相場を安定させようと試みた。しかし銭の供給量不足を補おうと鉄銭の鋳造を開始し始めると、今度は逆に銭の相場が暴落してしまった。田沼政権は銭の相場を回復させようと施策を講じるもはかばかしい成果が見られず、庶民が主に用いる銭の価値が低下して購買力が低下した状態が続き、人々の生活は極めて厳しくなった[47]。
そして関東、関西の通貨統合を行うという通貨政策の大改革を目指した南鐐二朱銀の発行も混乱に拍車をかけることになった。当初なかなか流通しなかった南鐐二朱銀であったが、天明期に入ると受け入れが進み、流通が進むようになってきた。すると今度は金の価格が下落し、銀が高騰するといった事態が発生した。南鐐二朱銀は一定の品位、重量を持ち、金貨と一定の交換比率が定められた計数貨幣で、これまでの秤量貨幣である丁銀を吹き替えるなどして発行していた。発行量の調整を上手く図らずに丁銀を吹き替えて南鐐二朱銀の発行量を増大させていけば、金貨と同様の扱いである計数貨幣の南鐐二朱銀、そして金貨の価値は下落して、秤量貨幣である銀貨の価値は上昇する。また流通が盛んになってきたとはいえ、天明期の南鐐二朱銀流通は江戸、京都、大坂の三都に集中して地方にまでは及んでおらず、流通に著しい偏りが見られ、しかも田沼意次の施策に対する不信感が、田沼の代表的経済政策の一つである南鐐二朱銀への不信感へと繋がるという悪循環も発生し、結局金の価値の著しい下落、銀の価値の暴騰という事態を招くに至り、先述の銭相場の下落と並んで田沼時代の末期、経済は大混乱に陥ってしまった[48]。
天明期の田沼政権は大坂の豪商たちから資金を拠出させ、その資金を運用して財政難にあえぐ大名たちへ融資を行い、その中で幕府も利息収入を得ることをもくろんだ。まず天明3年(1783年)には大坂有数の両替商の鴻池ら11軒の豪商を融通方に指名し、大名への融資を行わせた。この融資には幕府の保障が付けられ、一方で幕府も利息収入の一部を手に入れる仕組みであった[49]。
天明5年(1785年)には、天明3年の政策の拡大版ともいうべき御用金令が出された。今度は大坂の豪商、町人、大坂周辺を含む豪農や資産を持つ寺社など600ないし700軒を対象としたもので、御用金の総額は600万両に及ぶとされた。この御用金令では大名たちの資金難はいわゆる貸し渋りが原因であるとして、大名の領知を担保とし、もし返済が滞った場合には領知を幕府代官が一時的に管理し、その年貢で返済に充てるとした。つまり大坂の豪商たちに大名の領知を担保とし、返済困難となったら幕府の手で担保の領知からの収入で確実に返済をさせるので、大名たちに金を貸せというのである。もちろん幕府は利息収入の一部を得るもくろみであった。しかし手元のお金を御用金として貸付することに大坂の商人たちは抵抗を示し、実際の大名融資は思ったようには進まなかった[50]。
そして天明6年(1786年)には、天明5年の大坂御用金令の全国版ともいうべき政策が公布された。今度は日本全国の農民、町人、寺社に基準に応じて一定額の資金を拠出するように命じ、資金は幕府が新たに設置する大坂の貸金会所に集められ、大名貸しに運用することとした。担保は大名が発行する空米切手ではない米切手ないし大名領知であり、担保もしっかりしており貸し倒れの心配はないとされた。そしてあくまで資金は大名融資が目的であるので、利子を付けて返済するとした。いいかえれば国債を全国民に強制購入させる形に近い。しかしこのいわば全国御用金令は国民全般に対し反田沼感情をさらに掻き立てる結果となった。民衆たちからすれば、これまでの大名、そして幕府そのものの借金の返済状況を見るにつけ、強制的に融資させられたお金が利子を付けて本当に戻って来るとは信じ難かった。そうなるとこの全国御用金令は単なる負担の増大に終わってしまう[51]。
また大名たちにとってみても全国御用金令は困ったものであった。天明5年の大坂御用金令までの段階であればあくまで融資先は大坂の豪商らであったが、天明6年の全国御用金令となると幕府が新たに設置する貸金会所である。こうなると藩の財政状況は文字通り幕府に筒抜けとなってしまう。そして何よりも全国御用金令は国民広範からの強い反発を招いていた。このような政策の強行は全国的に一揆を激発させる可能性が高いと判断した各大名は強く抵抗し、結局頓挫を余儀なくされる[52]。その他にも天明6年(1786年)に入り、田沼が中心となって押し進めてきた重要政策が相次いで破綻した。例えば先述した関東地方を襲った大洪水の影響をもろに被り、印旛沼干拓事業は失敗に終わった。しかも時を同じくしてこれまで田沼意次を深く信任してきた将軍家治が重病に侵された[53]。
松平定信の登場
[編集]松平定信は田安宗武の七男として宝暦8年(1758年)に生まれた。父、田安宗武は第8代将軍徳川吉宗の次男であり、吉宗の四男である一橋宗尹、9代将軍家重の次男である清水重好とともに、御三卿と呼ばれた[54]。
父が創始した田安家は兄の田安治察が継いだ。安永3年(1774年)3月、定信は時の将軍家治の命により白河藩主松平定邦の婿養子となることが決定した。病弱で子に恵まれなかった治察は定信の養子行きに難色を示したものの、これは認められなかった。定信が松平定邦の養子となった背景には、白河藩主である久松松平家はかねてから溜詰への家格の昇格を望み続けており、田沼意次の助力を得て、吉宗の孫という貴種の定信を養子に迎えて溜詰昇格を図ったと言われている[55]。
このような中、兄、田安治察が安永3年(1774年)8月に没する。田安治察と定信との間には松平定国がいたが、すでに伊予松山藩主の松平家に養子に入ってしまっていた。一方、定信は白河藩主松平定邦の婿養子になることが決定していたものの、まだ養家には入っていなかった。そこで定信が田安家を相続するように願ったものの、その願いは却下された[† 1]。結局翌安永4年(1775年)、定信は正式に松平定邦の養嗣子となる。その結果、定信には御三卿である実家の田安家を継げなかったという不満を抱くようになった[56]。
松平定信と天明の大飢饉
[編集]白河藩主松平家の世子となった定信は、安永年間の末頃に本多忠籌と知り合うことになる。本多忠籌は定信よりも19歳年上の陸奥泉藩主であった。その後、天明期に入ると播磨山崎藩主の本多忠可、美濃大垣藩主の戸田氏教らと親交を持つようになった。また定信は当時、名藩主として知られた細川重賢、上杉治憲の両名に私淑しており、しばしば細川邸、上杉邸を訪問して語り合っている[57]。
松平定信が知己を増やしている天明2年から3年にかけて、奥州を中心に天明の大飢饉が襲った。陸奥の白河藩もまた大凶作に見舞われた。大凶作の中、白河藩では米価引き上げをもくろむ米屋が打ちこわしにあったり、大量の米を所持している藩士や商人がひそかに米を藩外で販売しているとか、米の隠匿などの風説が流布されるなど騒然とした状況に陥った。定信は養父定邦に助言し、積極的に事態の収拾を図った。まず白河の米屋に一日一名につき三合の米を販売するよう命じた。その上で、米の確保のために江戸の白河藩扶持米と交換で会津藩米を白河藩に融通してもらい、更に白河藩の越後領から白河への米の移送時、会津藩に協力してもらう約束を取り付けた。更に米を他藩、そして上方からも購入して何とか米不足を乗り切った[58]。
白河藩が天明の大飢饉対策に忙殺される中、天明3年10月1日(1783年10月26日)、養父定邦は隠居を発表した。これは大飢饉によって藩が立たされた危機的状況に藩主定邦では対処しきれないため、改革に積極的な定信のリーダーシップによって困難な事態を乗り切ろうとしたものと考えられる[59]。そして松平定信の藩主正式就任直前、藩士に支給する俸禄米の全量確保が困難となったため、白河藩では時限を切って人別扶持と呼ばれる俸禄米支給方法を採用することが決定された。これは本来定められた量の俸禄米の支給ではなく、藩士の家族、奉公人の頭割で俸禄米を支給し、金銭も定額の半額支給として、事態が沈静化したら差額を追って支給するとしたものであった。この人別扶持制の採用に当たり、門閥藩士を中心に強い反発が起こった。これは門閥藩士たちに相談なくして人別扶持の採用が決定された上に、彼らにまで人別扶持が適用されることに対する怒りとともに、改革志向が明らかである松平定信の藩主承継に当たり、定信、そして定信のブレーンたちに対して牽制を行うといった意味合いがあった[60]。
定信は領内の郡代に対して領民が飢餓に陥らないように対策を講じるように指示した。その上で領内の豪商、豪農たちに資金を拠出させ、その資金をもとに困窮民に対する救済を実施した。定信は資金拠出を行った豪商、豪農らの善行を賞するために、感状を板に記した感札を与え、感札を門に掲げさせた[61]。
天明3年10月16日(1783年11月10日)、正式に藩主に就任した松平定信は、更に積極的に事態収拾に乗り出した。藩主就任直後、定信はまず自らの衣食を簡素にして質素倹約を率先垂範した上で、藩士たちに厳しい質素倹約を命じた。そして藩主の元、政務遂行を統括する月番の統率力が弱いことを問題視し、月番、用人らを毎日召しだし、権威が付いて行くように図った。また勘定所、台所の帳簿を毎日定信自身が検閲することにした。そして定信は藩士たちに対して役職ごとの心得書を作成し、その中で例えば郡代の農民たちに対する強圧的な態度をたしなめ、食料の確保、倹約の励行によって窮民救済が可能となり、郡代は農民たちを我がの子のように愛し、その結果として農民たちが郡代を親のように慕うようになるべきであると説いた[62]。
定信は藩主就任直後、これまでの白河松平家の家例には無い、四十歳以前の四位への昇格が内定した。これは公式には定信の実家である田安家からの、田安、一橋家出身者は家督相続時には皆、四位となっているので、定信も四位を認めて欲しいとの請願が認められたものである。これは溜詰昇格を悲願としていた白河松平家の家格上昇という大願成就に定信が配慮を示したものであった。また定信は養父定邦に対しての隠居料も十分に手当てしており、これらは隠居した養父定邦や藩の重臣たちを懐柔し、改革への抵抗を減殺することを狙ったものであった。しかし実際にはその後も門閥藩士を中心として、定信の藩政改革に対する頑強な抵抗が続くことになる[63]。
松平定信が藩主を継承した天明3年、天明の大飢饉という異常事態の中、自らのお膝元である白河で発生した打ちこわし、そして藩政改革に対して現れた藩士たちからの抵抗は、藩主自らによる積極的な政治主導による改革、倹約などによる非常時に備えた食糧備蓄、商業資本の統制、風説の流布とそれに伴う人心の動揺に対する対応などに対する必要性を痛感することになった。これらは藩政改革のみならず、後の幕政における寛政の改革に生かされていくことになる[64]。一方、迅速な米の確保、困窮した民衆への支援策といった定信が主導した白河藩の天明の大飢饉対策は、本多忠籌から高く評価されるなど諸大名から注目を集めることになった[65]。
自派の形成
[編集]天明の大飢饉によって国内が混乱する中、幕府では田沼意次の嫡子である田沼意知が若年寄に就任したものの、刺殺されるという変事に見舞われていた。このように混乱する国内と政治情勢に影響を受けつつ、松平定信は諸大名中に知己を増やしていき、やがて一種の党派のようなものが形成されていった。定信は自邸に諸大名を招いては会合を繰り返した。定信邸での会合は料理を出したとしても一汁三菜、あとは二種の酒肴程度という簡素なものであり、衣服も質素なものを着用していた。集まった諸大名は定信と時の政治情勢から道徳、文武のことなどを語り合った。当時の情勢から見て窮乏する財政状況、荒廃する農村問題、そして藩政改革に抵抗する藩士たちに対する対応などについて話し合ったと考えられ、話はやがて時の田沼政権への批判にまで及んだと推測される[† 2][66]。
定信邸で行われた大名会合の参加者の中で、本多忠籌、そして本多忠可の存在感が大きかった。松平定信と本多忠可は強い譜代意識を持ち、また本多忠籌、本多忠可らの本多一族は祖である本多忠勝以来の江戸幕府の譜代名門であるものの、一族は不遇の状況が続いていた。特に本多忠央は若年寄にまで昇格するものの、郡上一揆の責任を問われ失脚の憂き目に遭った。田沼意次は郡上一揆の訴訟指揮を通じて栄達の糸口をつかみ、しかも失脚した本多忠央の領知である遠江相良藩は田沼の領知となって大名に列し、その後、沈滞し続ける本多一族に対して成り上がり者の田沼意次は幕府の実権を掌握するに至った。本多一族である忠籌、忠可は御三卿の田安家出身という毛並みの良さを誇り、幕政改革に意欲を見せる松平定信に接近して党派形成を援助し、その上、天明6年(1786年)には定信を本多忠籌邸に逼塞していた本多忠央に引き合わせ、本多忠央の口から田沼意次から受けた仕打ちを語らせ、定信の田沼に対する敵愾心を更に高めていった。このように忠籌、忠可は松平定信に接近することによって田沼政権の打倒と本多忠央の名誉回復を目指していった[67]。
また定信は摂津尼崎藩主松平忠告の嫡子、松平忠宝に会合への参加を働きかけた。摂津尼崎藩の松平家は藩領の兵庫、西宮の上知によって大きな打撃を受けており、忠宝の参加によって会合に参加する諸大名の反田沼意識を更に煽ろうとしたと推測されている。ちなみに松平忠宝が定信邸での会合に実際に参加したかどうかは今のところはっきりとしない[68]。
このように松平定信が党派を形成することが可能となった背景には、定信の白河藩政に対する評価の高さがあった。天明4年(1784年)、定信は家臣たちに対してこれまでかつての領知、桑名藩への復帰を請願し続けてきたのを止め、白河に腰を据えていくと宣言する。同年、藩主として初の白河入りを行った定信は、家臣たちに武芸の奨励を命じ、桑名に安置されていた藩祖松平定綱像を譲り受け、城内に霊廟を建立した。そして家臣たちに霊廟への拝礼を行わせるとともに、武芸の祭りを実施するようにした。このように藩祖を祭る霊廟を整備することは他藩の藩政改革でも見られた事例であり、武芸の祭りを行うことによって家臣たちに武芸に親しませるとともに、一揆への備えとした。また、霊廟の建立は内外に対して今後白河に土着していく方針であることを示すものであり、これまで桑名復帰を望み白河における藩政に後ろ向きで、領民たちからの信頼を得難かった状況を改善することを狙っていた。しかし藩祖を祭る霊廟建立の最大の狙いは、藩祖の権威をもって家臣、とりわけ門閥藩士を自らの藩政改革路線に従わせることにあった[69]。
そして定信は生活困窮者に対する支援。藩に対する領民の不満の吸い上げと藩役人に対する牽制をもくろんだ目安箱の設置。藩による学問所の設立。予算制度の導入。過去の藩政に関する文書を調査、編集しするとともに、藩主から家臣末端に至るまでの指針や衣服、座席の規定などを整備するなどの藩政改革を行っていった。このような定信の藩政改革は他の大名たちに改革の成功例として喧伝され、求心力を高めていった[70]。
松平定信の党派に加入していた大名の中に、当時奏者番を務めていた牧野忠精、松平信明がいた。つまり牧野忠精、松平信明ともども田沼政権の構成員であった。定信は両名が老中に昇格して政治の刷新に取り組むことを期待するとして、老中昇格を果たすよう促した。そして牧野忠精、松平信明らのグループには加納久周、大岡忠要といった譜代大名が加わっていった。皆、田沼政権下ではどちらかというと冷遇されていた者たちであり、定信は現状の政治のあり方に不満を抱く譜代大名グループのリーダーとして反田沼勢力の中核となり、将来の幕府役職への就任を目指して人材の育成を目指していった[71]。
田沼意次に取り入る松平定信
[編集]松平定信の天明3年(1783年)の藩主就任直後に行われた四位昇進には、定信の贈賄工作が役立った[72]。そして天明4年(1784年)の若年寄田沼意知の殺傷事件後、権勢を振るった田沼意次に頽勢が見えるようになったが、そのような情勢下、例えば天明4年11月には約70年ぶりに大老に譜代大名の代表格である彦根藩主井伊家の井伊直幸を任命するなど、田沼は親藩、譜代大名に対する懐柔策を取るようになっていた。藩政改革について高い評価を受けるようになっていた松平定信は、この機を逃さず政治工作を強化した[73]。
松平定信はかねてから幕政改革を行うことを念願していた。定信は特に賄賂の横行など当時の政治情勢に対して深く憂慮しており、幕府の最高実力者であった田沼意次に対して「敵であり盗賊同様」であると激しい憤りを抱いていた。定信本人の談によれば、二度に渡って田沼意次の刺殺を企てたものの断念し、まずは田沼が親藩、譜代大名に対する融和策を取っている機会を捉えて幕府内での地位を高め、発言力を強化して後に備えることとした。そのためには敵であり盗賊同様である田沼意次に対する贈賄工作も厭わなかった[74]。
定信の政治工作は実家、田安家の初代、田安宗武の正妻である宝蓮院によるルートと、田沼意次本人、そして大奥に対する工作などがあった。定信は白河松平家の悲願である溜詰昇格を目指した。天明5年(1785年)12月には宝蓮院の請願を理由として、控えの間と礼席については溜詰並みの扱いとするとされた。近衛家出身の宝蓮院の請願によって幕府内の待遇向上がなされたと発表されたことは、定信が御三卿の田安家出身の貴種であることを世間に改めて印象付け、求心力を更に高める効果をもたらした。そしてその期を逃さず定信は白河の国許で、自らの幕府内での待遇向上についてはこれまでの藩政を幕府が高く評価したものであり、同僚大名からも質素倹約に努めていることを賞賛されているとして、質素倹約など藩政改革の正統性を誇示し、改めて風儀を遵守していくように指示した[75]。
定信は控えの間と礼席については溜詰並みの扱いとなるに際して、政治工作に動いた家臣たちを賞するとともに更なる政治工作の強化を指示した。待遇向上獲得後、大奥から田安家に対して、天明7年には定信は溜詰に昇格する見通しであると伝えられた。天明6年(1786年)正月には宝蓮院が没するが、宝蓮院の遺言として定信の溜詰昇格を大奥の実力者に改めて確認したところ、前言の通りであるとの回答を得た。このような中で宝蓮院亡き後の定信は、更に田沼意次本人をターゲットにした贈賄工作を強化した[76]。
天明6年の春には、松平定信自身が高価な銀製の花活に梅の花を活けた上に、自らの溜詰昇格を願った歌を添えて田沼意次に贈った。こうして定信は幕府の最高実力者である田沼意次に取り入ることによって自らの幕府内地位の更なる向上を図り、最終的には幕政改革を断行することを目標に、まずは幕政への関与を目指して行くことになる[77]。
田沼派との権力闘争
[編集]松平定信政権の成立
[編集]天明の打ちこわしと政争の決着
[編集]天明7年5月10日(1787年6月25日)夜、大坂で始まった打ちこわしは瞬く間に全国各地へと波及し、ついには将軍お膝元の江戸でも天明7年5月20日(1787年7月5日)から広範囲に渡って激しい打ちこわしが起こった。これまで高騰し続けてきた米価やそれに伴う民衆の生活苦に対して本格的な対策を怠ってきた幕府も、江戸全域で激しい打ちこわしが勃発し、しかも全国各地で同時多発的に打ちこわしが発生するという緊急事態を前に、遅まきながら対応に乗り出さざるを得なくなった[78]。
まず天明7年5月22日(1787年7月7日)には、これまで江戸町方からのお救い願いに対応しなかったことを改め、江戸住民に対する広範なお救い、つまり本格的な困窮者支援を決定した[79]。続いて幕府はとにかく江戸市中に米が流通するようになるように対策を講じ始める。天明7年の江戸における米不足の最大の要因は米の絶対量の不足ではなく、米の著しい値上がりを見た米問屋のみならず他の町人、寺社、そして武士たちも、米を買い占めた上に隠匿して利益を得ようとしていたことにあった。このような事態を把握していた幕府は米の隠匿に対して厳罰を処すると宣言し、米の流通量を増やすことを試みた[80]。しかし幕府のもくろみとは異なり、江戸市中に流通する米は増えなかった。実際に米を隠し持っていた者たちは、この期に及んで米を放出したら処罰されてしまうと恐れ、また高止まりしていた米価を見て、相変わらず米の隠匿を継続して利益を得ようともくろんでいた。その上、米の隠匿を取り締まる町奉行所の役人が賄賂を受け取り、米の検分に手心を加えているとの風説がしきりと流されていた。また江戸市中での激しい打ちこわしの結果、地方から江戸に送られる米の流通がストップするという悪影響も起きていた。このような状態が続けば早晩江戸市中から米が払拭してしまい、再び激しい打ちこわしが起きてしまう。とにかく何とかして江戸市中に米を流通させ、米価を下げなければならない[81]。
このような緊急事態で、切り札として登用されたのが関東郡代伊奈忠尊であった。天明7年6月8日(1787年7月22日)、伊奈忠尊は御小姓番頭格に昇進した上、幕府から20万両を拝借の上、江戸町方の救済に当たるよう命じられた。江戸町方の救済は職務的には町奉行の管轄である。しかし永年関東郡代に任じてきた伊奈家は米を大量に入手し、江戸に輸送するという大役にうってつけであったことと、今回の打ちこわしの経緯から考えると、もし町奉行が江戸町方救済の責任者となったとしたら世論からの反発は必至であった。伊奈忠尊は幕府の期待に見事応え、関東一円、甲斐、信濃、遠くは奥州からも大量の米を迅速に集め、江戸に供給した。その結果、天明7年6月18日(1787年8月1日)からは江戸市中に伊奈が集めた米の供給が開始され、まもなく米不足状態は急速に改善が進み、みるみるうちに事態は好転した[82]。
江戸以外の都市でも、幕府は駿府、大坂など、そして打ちこわしこそ発生しなかったものの御所千度参りという形で幕府への不信、不満が表面化した京都で御救い米の支給に乗り出した[83]。このように幕府は全国各地で打ちこわしが発生し、とりわけ将軍お膝元の江戸で広範囲に渡って激しい打ちこわしが発生したという緊急事態に必死に対応していた。一方このような中、膠着状態に陥っていた田沼派と譜代派の幕府内抗争にようやく決着を見ることになった。まず、田沼派最強の牙城であった将軍側近、御側御用取次の中で田沼派の本郷泰行、田沼意致、そして将軍側近一の実力者と目されていた横田準松が相次いで失脚する。その結果、御側御用取次には譜代派の小笠原信喜のみが残ることになり、松平定信の老中擁立に対する最大の障害は取り除けられた[84]。
譜代派の御側御用取次の小笠原信喜は、先述の江戸町方救済に伊奈忠尊を担ぎ出す件においても中心的な役割を果たした[85]。そして伊奈忠尊による江戸町方救済が進み始めた天明7年6月19日(1787年8月2日)、松平定信は老中首座に任じられた。あれほど頑強な抵抗を続けてきた田沼派の敗北は、江戸全域で激しい打ちこわしが勃発し、しかも全国各地で同時多発的に打ちこわしが発生するという前代未聞の異常事態がもたらしたものであった。つまり松平定信政権は打ちこわしという民衆蜂起の結果、成立することが可能となった政権であった[86]。江戸時代を通して民衆蜂起の結果として政権交代が実現したケースはこの松平定信政権成立時のみであり[87]、松平定信政権は体制の危機意識を露わにして各種の改革に取り組んでいくことになった[88]。
新政権に課せられた重い課題
[編集]松平定信政権は、天明7年(1787年)、全国で同時発生的に勃発した打ちこわし、とりわけ江戸全体を大混乱に陥れた江戸打ちこわしによって、頑強な抵抗を続けてきた田沼派が排除されることによって成立することが可能となった、いわば打ちこわしによって成立した政権であった[89]。天明7年の打ちこわし以前にも、天明3年(1783年)から翌年にかけて東北地方を襲い、数十万の死者を出した天明の大飢饉、そして天明の打ちこわし以外にも全国各地で一揆が続発しており、また農村の荒廃も進行していた[90]。一揆、打ちこわしの続発、農村の荒廃、大凶作時における対応、救援体制の著しい不備などは、松平定信政権登場前の宝暦~天明期に、これまでの幕藩体制の根幹を揺るがすような社会体制の構造変化が進行しており、その結果としてもたらされたものであると考えられる[91]。
その上、18世紀後半になるとロシアの千島、蝦夷地進出が始まっていた。この流れはやがて19世紀に入るとヨーロッパ諸国、アメリカが圧倒的な経済力、軍事力で全世界を席巻し、東アジアにその脅威が本格化し、日本のその流れに翻弄されていくことになる。つまり寛政の改革開始時の18世紀末は、日本社会の変化に伴う内憂とともに、外交問題といういわゆる外患についても対応していくことが求められ始めており、いわば改革は内憂外患によって混乱、弱体化していた幕藩体制を立て直すという使命を持つこととなった[92]。
松平定信自身、当時の情勢を「戦国より危うき時節」と評し、体制の危機感を露わにしていた[93]。また老中首座就任直前の天明7年6月13日(1787年7月27日)には、田沼政権が徳川吉宗の政治路線を継承したならばこのような騒動(天明の打ちこわし)は起こらなかっただろうと指摘しており、寛政の改革は享保時における吉宗の政治、すなわち享保の改革への回帰を標榜した[94]。
定信は田沼政治を批判し、享保の改革への回帰を標榜したものの、実際には寛政の改革における少なからぬ政策は田沼の政策を継承、発展させていくことになる。しかし天明の打ちこわしという一大民衆蜂起の直後に成立した政権として、まずは新政権に対して民衆の怒りのエネルギーが向けられるのを避けねばならない。そこで田沼政治に対する批判と享保の改革への回帰というスローガンのもと、新政権は田沼意次に対して厳しい追罰を実行する[95]。
政権基盤確立への苦闘
[編集]激しい政争の結果ようやく老中首座に就任したとはいえ、就任当初、定信以外の老中は田沼派のままであった。また老中首座就任当初、松平定信は幕府内では無役でありまだ30歳であった。江戸時代全期間を通じて老中就任時の平均年齢は45歳であり、若年寄や京都所司代の経験者の中から任命される者が多く、無役からの抜擢は稀なことであった。しかも老中首座は現役老中の中から選任されるのが常であり、30歳にして無役からのいきなりの老中首座抜擢はまさに異例尽くめの人事であった。このような情勢下では定信は自らの施策を実行に移すためにも、まずは人事面などから様々な対策を講じていかねばならなかった[96]。
老中就任直後の天明7年6月26日(1787年8月9日)、まずは田沼時代の末期に定信の党派に属した加納久周が御側御用取次の上座に任命された。これは翌天明8年(1788年)2月に、やはり定信の党派に属する松平信明を側用人に任命したのと同じく、改革を進めるに当たって将軍側近を監視、統制するとともに将軍本人の意思の制御を図り、更には将軍直属機関である御庭番を通じた情報の収集を円滑に進めるもくろみがあった[97]。
天明7年7月1日(1787年8月13日)定信は諸役人に対して享保の改革への復帰を掲げ、改革断行の宣言を行った[98]。しかし人事の刷新はなかなか定信の思い通りにはいかなかった。天明7年7月17日(1787年8月29日)には定信が最も信頼する本多忠籌が若年寄に就任し、9月には大老井伊直幸が退任し、12月に自派の松平乗完を京都所司代に任じ、天明8年(1788年)2月に老中阿部正倫が退任したが、肝心の老中に自派の人物を送り込までには至らなかった[99]。
政権基盤の確立に苦心していた松平定信に、ここに来て新たな難題が降りかかった。定信の実兄である伊予松山藩藩主松平定国からの横槍であった。松平定国は強気で軽率なところがある人物と評されており、実弟、定信とは元来不和であった。定信が老中首座に就任したのを見た定国は、定信の家臣を自邸に呼びつけては人事、政策を批判し続けてきた。そして天明7年(1787年)10月には、尾張藩、水戸藩の付家老を通じて一橋治済に、定信の政権は口では徳川吉宗の享保の改革への回帰を唱えながら実際には新法を実施しているとして、田沼政権の方がまだましであったと痛烈に批判し、弟であり分家でもある定信を辞任させたいと考えているが、それが無理であるならば自らも老中に就任させて欲しいとの書状を送るに至った。しかし前述のように松平定国は軽率なところがある人物と見なされており、このような人物が新政権に影響力を持つこと自体、政権運営に悪影響をもたらすと一橋治済は判断し、松平定信に対して定国を隠居させるように指示した。しかし政権の邪魔者として兄を排除したと世間から指弾されることを恐れた定信は、定国を隠居させることに反対した。結局、尾張藩、水戸藩を通じて道後温泉で湯治を行うとの名目で、定国に当面の間在国するように指示することで決着した[100]。
田沼意次への追罰
[編集]田沼意次は、前述のように将軍家治の死後、家治の遺命によるとものとして二万石の減封、謹慎、そして大坂蔵屋敷と神田橋の上屋敷の収公を命じられていた。しかし譜代派の筆頭格である御三家、一橋治済は度重なる失政という極めて重大な政治責任がありながらこの程度の処分であったとその内容に不満であった。実際、天明6年末には田沼意次の謹慎は解除され、その後も田沼は幕府内で陰然たる発言権を保持し続け、幕閣内でも田沼派の執拗な抵抗が続いた。このような情勢下、米価の暴騰などによって生活苦に追い込まれていた庶民たちは、庶民の生活苦を尻目に不正蓄財に勤しんでいたと、田沼に対する処罰の甘さに不満を募らせていた[101]。
天明の打ちこわしの結果、ようやく成立した松平定信政権にとって、打ちこわしでその猛威を実感させられた民衆の怒りのエネルギーが新政権に向かうことはぜひとも避けねばならなかった。このため民衆の怨嗟を一身に集めていた田沼意次を一種のスケープゴートとして、厳しい追罰が実行されることになった。追罰に当たり、松平定信を始めとする幕閣はその内容について検討を重ねた。その中で田沼意次を詮議の上で極めて厳しい処分、いわゆる改易に処する案も出された。しかし改易を行った場合、長年田沼意次を重用し続けた徳川家重、徳川家治の名誉に傷が付くと判断された。また多岐にわたる田沼の罪状を考えると、詮議の過程で田沼の同僚老中以下、多くの役人の罪状が明るみとなり、結果として田沼と連座して処罰されることになるのは必至であり、全国規模で発生した大規模な民衆蜂起直後という不安定な時期に幕閣の大規模な粛正を強行するのは極めてリスクが高いと判断された。しかも田沼意次に贈賄をして政治的立場を強化してきた前歴を抱えていた一橋治済、そして松平定信自身にまで火の粉が降りかかる可能性もあった。結局田沼意次一人に対し、改易までには至らぬものの極めて厳しい追罰を行うことで決着した[102]。
結局、天明7年10月2日(1787年11月11日)、田沼意次への追罰が通告された。追罰の申渡書によれば田沼意次は役職在任中、不正を行っていたが、このことが将軍家斉の耳に届き、将軍は不埒の極みであるとお考えである。先代の家治も病の床でこのことをお聞きになっており、処罰のご指示を出していたところであった。このため2万7000石の没収と隠居謹慎を命じるといったものであった。そして隠居謹慎を命じられた田沼意次の孫、田沼意明に対しては祖父の意次は役職在任中の不正行為のため隠居謹慎を命じたところであるが、先々代の家重が取り立てた人物であることと、先代家治が寛大な処分をお望みであったことを考慮し、田沼家の家督継承者として新たに一万石を与えるので、遠州相良城は没収する、謹慎せよとの申渡しであった。一方、田沼家の親類縁者、そして田沼とこれまで親しかった者たちには一切お咎めはないので安心せよとの通告もなされた[103]。
結局田沼家は現領知である相良藩、そして相良城を没収され、代わりに一万石を与えられ、かろうじて大名家としての存続が認められたという厳罰を受けることになった。田沼家、そして田沼意次に対する処罰はこれに止まらなかった。天明8年(1788年)に入り、没収された相良城は破却された。そして田沼家に新たに給付された領知は痩せ地であり、実高は約6000石に過ぎないと言われていた。その後も田沼意次の死去直後の天明8年(1788年)7月末には、祖父意次の不正蓄財を保有し続けていると見なされていた田沼意明に対し、川の普請手伝いを名目に六万両という巨額の金の上納が命じられた。六万両の資金拠出命令は事実上の不正蓄財没収措置であったが、もはや田沼家をスケープゴートとして叩き続ける材料は出尽くしてしまった[104]。
将軍補佐役就任と松平定信体制の確立
[編集]旧田沼派の老中たちは、田沼意次の追罰の実行に抵抗を見せなかった。これはもし事態を紛糾させ、田沼意次の罪状を詮議せねばならない事態に陥った場合、自らも処罰の対象となることは確実であり、また各老中自身も一藩主であり、うかつに民衆の怨嗟を一身に集めていた田沼を擁護して、民衆蜂起の引き金となってしまうことを恐れた。結局彼らは事態を静観し続け、田沼意次を見殺しにした[105]。もちろん松平定信とすれば、田沼意次の厳しい追罰を通じて自ら以外の旧田沼派老中たちに圧迫を加えていくことは計算済みであった。実際、田沼の追罰が発表されると旧田沼派老中たちは進退伺いを提出したが、このときはいったん慰留されている。これは田沼意次一人が罰則の対象であり、他の旧田沼派の人々は免責されるということを公式に確認する意味があった[106]。
定信は田沼意次追罰後に一橋治済を通じて尾張家、水戸家に書状を送った。この中で老中同士の会議の際に、田沼への追罰について協議しようとしてみてもお辞儀ばかりして話し合いにならなかったことや、田沼追罰に対する世間の反応はおおむね歓迎する声が多く、世論の動向を見て旧田沼派の同僚老中たちは更迭を予想しておびえていると報告した。この後、定信、一橋治済、尾張家、水戸家の間で老中人事について煮詰められていくことになる[107]。
尾張家、水戸家は旧田沼派老中の一斉更迭は困難であると判断した。この判断に一橋治済も賛意を示し、旧田沼派老中の排除は段階を追って進められることになった[108]。このような中で定信は改革推進のために自らに強い権限が付与されることを望んだ。具体的には大老就任など、将軍の厚い信任を表す待遇を望んだものであったが、結局天明8年3月4日(1788年4月9日)将軍補佐役に任命されることになった。これは当時まだ16歳であった将軍家斉の政務補佐のみならず教育、指導も行う役職であり、定信は将軍直属の御庭番を完全に掌握するに至った。将軍補佐役という大権を付与された定信は急ピッチに人事を固め、寛政2年(1790年)2月までに旧田沼派老中は一掃され、自派で老中を固めることに成功した[109]。
松平定信が登用していった人材の多くは、田沼時代末期に定信をリーダーとして形成されていた反田沼グループに所属していた中小譜代大名たちであった。田沼意次追罰、将軍補佐役就任という流れの中で、定信は老中以下の人事、そして大奥や将軍側近の粛正を進めていった。田沼意次追罰前後から、京都町奉行、京都所司代、大坂町奉行という要職の交代がなされ、大奥に倹約係を任命し、更には身持ちが悪いとされた将軍側近を罷免し、大奥における将軍本人にも倹約を求めていった[110]。
寛政元年(1789年)4月頃には、松平定信は老中首座兼将軍補佐役という大権を握り、更には幕閣をおおむね自派で固めることに成功した。体制固めを終えた定信は、いよいよ本格的な改革に取り組んでいくことになる[111]。
定信の世論対策
[編集]天明7年6月19日(1787年8月2日)、老中首座に任命されて政権の座に就いた松平定信であったが、定信が改革に邁進出来るようになるためには幕閣人事を自派で固める必要があり、前述のとおりこれは当初順調に進まなかった。そのため政権開始後約2年間は、定信は主に体制固めに追われ、倹約令や文武奨励などの精神作興を目的とした政策が主に公布されており、政策の重心はむしろ反田沼キャンペーンを通じて政権に対する不満を逸らすことに当てられていた[112]。
天明末年から寛政初年かけて、田沼意次の腐敗した賄賂政治、佐野政言による若年寄田沼意知刃傷事件、天明7年の天明江戸打ちこわし、そして寛政の改革についてなど、当時の政治情勢を題材とした黄表紙が数多く出版された。これら黄表紙の内容は政治情勢、政治家、幕府役人、事件などを痛烈にあてこすった内容であり、本来であれば幕府の言論統制に抵触し、出版が許可されない類のものであった。しかし松平定信政権開始当初、これらの黄表紙出版は当局から黙認されていた[113]。
激しい権力闘争の結果、天明の打ちこわしを経て田沼派が排除されたことによってようやく老中首座に就任した松平定信であったが、当初その権力基盤は脆弱であった。田沼の失政を痛烈にあてこすった黄表紙は、改革を始めるに当たって推進された反田沼キャンペーンを支援するものと判断された。また松平定信政権の開始当初、下級武士や民衆の声を吸い上げることに気を配っていた。徳川吉宗の享保の改革時に始められ、田沼時代に事実上中絶した目安箱の制度復活を目指したり、幕政に関する献策を記した上書が数多く提出されたのはその一例であった。このような情勢下では、皮肉を交えながら寛政の改革によって仁政が行われることを求めた黄表紙も、当局にとって許容可能なものであった[114]。
また、松平定信の老中首座就任直後、定信は八丁堀にある藩邸の近隣住民たちに銭の施行をしたが、このことを瓦版として発行させ、しばらくの間販売するという宣伝も行っていた[115]。
天明8年(1788年)から寛政元年(1789年)にかけて、松平定信はようやく幕閣内を自派で固めることに成功し、改革を目指した政策が次々と公布されていくことになった。こうして寛政の改革が本格的に始動するようになると、下級武士や民衆の声を吸い上げていくことよりも、民衆が政治に口出しすることを取り締まる方向へ政治の舵を切っていった、そのため寛政元年の春以降、松平定信政権は黄表紙の弾圧に乗り出していった。とりわけ武士の作者に対して強い圧力がかけられ、「文武二道万石道」の作者であった秋田藩士朋誠堂喜三二は、定信が秋田藩主に直接圧力をかけて江戸詰家老から国許への配置転換を強要したと言われた。実際、朋誠堂喜三二は断筆を余儀なくされた。そして「鸚鵡返文武二道」の著者である駿河小島藩江戸詰家臣の恋川春町は、定信から直接呼出しを受けたものの病気と称して応じず、結局自殺に追い込まれたと噂された。家譜によれば、寛政元年4月に病を理由に御役御免となり、7月に病死したとされている[116]。
このような松平定信政権による弾圧に直面した作者、出版社らは自己規制に追い込まれていった。しかし幕府の規制は更に強化され、少しでも政治風刺を記した出版物は弾圧対象となってしまった。そして幕府の出版統制策は、寛政2年(1790年)5月公布の出版統制令としてまとめられることになった[117]。
寛政の改革の諸政策とその進展
[編集]米価対策
[編集]松平定信が老中首座に就任した際の施政方針の第一番に、米と金、銀、銭の相場を幕府の統制下に取り戻すことを掲げていた。これは寛政の改革では政治が商業資本に優位に立つ体制を取り戻していくことを第一目標としたことを示していた。しかし米と貨幣の相場を幕府の手に取り戻すといったところで、そのためには米や貨幣に関する専門知識、経験、技術が要求され、何よりも相場を思うがままに動かすためには莫大な資金が必要である。厳しい財政難にあえいでいた幕府にそのような経済的余裕は全く無いことは明らかであり、商業資本を政治主導で統制していくことを目指した寛政の改革であるが、経済政策を進めていく中で、どうしても一部の商業資本との提携を図っていかざるを得なかった[118]。
勘定所御用達
[編集]天明8年(1788年)10月、勘定奉行は7名の富裕な江戸商人を勘定所御用達に任命した。これ以前も幕府は富裕な商人を指名して御用金などを命じることはしばしば見られたことであったが、寛政の改革時の勘定所御用達はこれまでの一時的に御用を命じるものとは異なり、米価調節、諸物価調節等を目的とした常設の御用達であり、米価、物価調節などのために幕府から常時出金を求められる、いわば幕府御用の町人出金組織であった。幕府は大資本を持ち、しかも優れた商人であった勘定所御用達のノウハウを活用して米価調節、諸物価調節を図り、一般商人の活動を統制していくことを試みたのである[119]。
この勘定所御用達任命の発想は、松平定信と本多忠籌連名による天明8年(1788年)6月ないし7月初旬に勘定奉行宛に出された政策諮問から始まった。諮問の内容は、米価が一部の有力町人の手によって左右されている状況から幕府の手に取り戻すために、一部の有力商人を公儀御用達に任命したいと考えているが、どうであろうかというものであった。その後勘定奉行と松平定信、本多忠籌の間で討議を重ねて政策の実現に至った。定信らはいくら幕府が頑張ってみたところで米相場のことはその道のプロの商人たちに太刀打ちできるはずがないと、冷静な分析の上に立ち、それならば有力商人を幕府御用に登用して、彼らの資本力と経験を活用し、幕府の意を挺した米価への介入をさせるのが良いのではないかと結論に至った。討議の中で勘定奉行は町人たちに御用達の称号を与えることは、もし不祥事等が発生して交代が必要なときに手続きが面倒になるとして、御用達ではなく取り計らい御用とすることを提案しており、登用した商人たちが行う幕府御用の活動もかなり限定的なものを考えていた[120]。
しかし定信は米価のみならずもっと広く幕府の経済政策全般に渡って、幕府御用に登用した有力商人たちを活用したいと考えていた。そのため勘定所御用達という名称となり、幕府御用として行う活動も広いものとなった。続いて問題となったのは実際にどのような商人を選ぶかということであった。まず登用目的を考えれば大資本を保有する有力商人でなければならない。しかし御用達に任命するに相応しい商人の条件は大資本ばかりではなかった。その商人本人、そして手代、番頭らが廉直で儲け第一主義に走るような人物でないこと、そして米屋、札差を候補者から除外することとした。これは勘定所御用達の任命が天明の打ちこわしという大規模な民衆蜂起直後に行われたことに関係している。天明の打ちこわし時、米商人関係者は米価高騰に乗じて暴利をむさぼっていると軒並み打ちこわしのターゲットとなった。米商人らが選考から外され、しかも儲け第一主義ではない廉直な商人を選ぶというのは、当時の庶民感情を考えれば当然の選択であった[121]。
勘定所御用達は天明8年(1788年)10月に任命された7名の他、寛政元年(1789年)9月、3名が追加で任命され、計10名となり、世間では十人衆と呼ばれた[122]。
勘定所御用達 天明8年(1788年)10月任命[123]
- 三谷三九郎
- 中井新右衛門
- 仙波太郎兵衛
- 堤弥三郎
- 松沢孫八
- 鹿島清兵衛
- 田村十右衛門
寛政元年(1789年)9月任命[124]
- 竹原文右衛門
- 森川五郎右衛門
- 川村伝左衛門
選任された10名の勘定所御用達の顔ぶれを見ると、いくつかの特徴を指摘できる。まず任命された商人たちは全て江戸町人であり、上方に本拠地を持つ豪商の江戸支店の商人は登用されなかった。これは後述のように、寛政の改革では上方に対して江戸の経済的地位を引き上げようとする政策を取ったことに通じている。続いて三谷三九郎以外は比較的歴史の浅い新興商人たちであり、都市門閥特権商人は三谷三九郎以外選ばれなかった。しかも三谷三九郎以外は延享期にはまだ一流商人とはされておらず、近年になって急成長を遂げた商人たちであった。従って彼らの商売も新興商人らしく、薄利多売の小売商人として大衆から支持を集めていた田村十右衛門、生活必需品を取り扱う問屋である松沢孫八、貨幣経済の浸透、発展に伴い急成長していた金融業者である中井新右衛門など、享保期以降急成長を遂げた業種の者が多い。そして選ばれた商人たちの多くが、貸金、特に大名貸に従事していた。大名貸は当時、極めて有効な利殖手段であり、大名貸に従事している商人たちの金融市場における影響力は極めて大きかった。勘定所御用達を使っての経済コントロールを図るならば、大資本と利殖のノウハウを持つ彼らを任命しないわけにはいかなかった[125]。
かつて田沼意次も商人たちを使って金融市場への介入を図ったが、このとき利用していたのは呉服商、金座、銀座など江戸幕府草創の徳川家康の時代以降、幕府と密接な関係を持ち続けてきた都市門閥特権商人たちであった。しかし18世紀後半、すでに彼らは時代遅れとなって市場での実力を喪失しており、実際には幕府に寄生する存在となっていた。このような伝統にあぐらをかいた実力無き商人たちに金融市場の介入は無理であった。田沼意次の経済政策そのものは確かに時代を読んだ新しいものであったのだが、経済政策を進める手段として新興商人層ではなく家康以来の都市門閥特権商人を使ったことは政策失敗の要因となるとともに、田沼も古い思考から抜けきれない一面を持っていたことを示している[126]。
一方、松平定信はこのような幕府に寄生する存在となっていた都市門閥特権商人たちに断固たる措置を取った。7名の豪商を勘定所御用達に任命する手続きが進んでいた天明8年(1778年)10月、幕府はこれまで幕府御用を勤めてきた商人、職人ら全ての御用達を呼びつけ、今後これまでのような前貸しは一切行わないと宣言し、もし言いつけに逆らう不届きな者がいれば、御用を差し止め他の町人を新たに任じるとした。実際に都市門閥特権商人の一人、後藤縫殿助には実際に御用差し止めを通告した上にこれまでの貸付金の返済を厳しく申し渡すなど、たとえ幕府草創以来の関係であったとしても利用価値が無くなった者たちを容赦なく切り捨てていき、真に実力ある新興商人たちに利用価値を認め、提携を進めていった[127]。
納宿の廃止と廻米納方・米方御用達
[編集]米価の調節にその力量を期待されていた勘定所御用達であるが、メンバーの中に米屋は誰もいなかった。米についての専門知識が欠如していては、いくら勘定所御用達が豊かな資産を持ち、商売のエキスパートであったとしても米の相場を操作するのは困難であった。また寛政の改革開始当時、せっかく農民たちから納められた年貢米を幕府に納めるルートが機能不全を起こしていた。これらの課題を解決すべく、松平定信政権は新たな御用達を創設する[128]。
宝暦年間、大坂、江戸の幕府米蔵に付属した形で納宿と呼ばれる株仲間が結成された。納宿の本来業務は年貢米を幕府米蔵に収納する業務であるが、年貢米移送の際の事故で欠納が出てしまった場合には、村方に貸付を実施したり代納用の米の手配をしたりした。また幕府や諸藩の払出米の仲買を行うなど、本来業務以外にも年貢米に関する業務を広く行っていた。しかし年貢米欠納時に貸付を行っていくうちに納宿は村方に対する発言力を強め、しだいに正規の手数料以外に不当なコミッションを要求するようになり、村方は年貢米確保のみならず、せっかく用意した年貢米の納入にも大変な苦心をせねばならなくなっていた。納宿の弊害の大きさを問題視した松平定信政権は、寛政元年(1789年)から翌寛政2年(1790年)にかけて、大坂、江戸の納宿の全廃に踏み切った[129]。
廃止された納宿の替わりに、江戸では四軒の米商人が年貢米収納の業務を引き受けることになった。そして寛政6年(1794年)には、四軒の米商人は新たに創設された廻米納方会所に所属する廻米納方御用達となり、廻米納方御用達は全国から納入される年貢米を検査の上、幕府米蔵に納入する業務を担った。納宿から廻米納方御用達へと年貢米収納の担当者が変わることにより、村方が年貢米収納に要する費用は半分以下になったとされる。つまり寛政の改革では、年貢米納入に際して商人の不法な中間搾取を排除し、直納に近い形へと変更をしたものの、米の輸送、品質検査、保存といった、米を扱うに必須の知識に欠ける幕府役人のみではとうてい年貢米収納業務は成り立ちようもなく、そこで専門家である米商人を半官半民的な御用達として登用したのである[130]。
廻米納方御用達は米についてのエキスパートであったので、豊富な資金力を持つ勘定所御用達の主要業務の一つである米価調節に活躍することになった。つまり幕府より勘定所御用達が買米御用を命じられた際には、廻米納方御用達が相談に乗っていた。つまり米価調節の際の財布は勘定所御用達、頭脳は廻米納方御用達という連携がなされていたのである。そして江戸町会所の運営でも、江戸町民たちから集められた資金の約半額は米の購入に充てられており、購入した囲籾の運用については米方御用達が任じられて活躍した。なお、廻米納方御用達と米方御用達は基本的に同一メンバーで構成されており、廻米納方会所の業務では廻米納方御用達、江戸町会所の業務では米方御用達と呼ばれることになっていたため、やがて廻米納方・米方御用達と呼ばれるようになった[131]。
また廻米納方・米方御用達の制度がスタートした寛政年間、一軒を除いて皆、米の仲買商であった。これは米の売買に関する技術は仲買商が最も高いと判断されており、米の相場操作に関与させることを考えれば、仲買が最適任であると判断したものと考えられる。また選ばれた米商人たちは当時江戸で最も力があった米商人ではなかったと見られている。これは天明の江戸打ちこわし時に打ちこわしの標的とならず、更に田沼時代に政商として黒い噂が立たなかった米商人を選ぶ中で、必然的に一番実力があるクラスの米商人は外されることになったと見られる[132]。
このように寛政の改革時、幕府は豊富な財力を持つ勘定所御用達と米の専門家集団である廻米納方・米方御用達を分けることによって、特権商人を分断して利用するという方策を採用した。しかし寛政の改革が大きく変質していく文化年間になると、廻米納方・米方御用達の石橋弥兵衛が勘定所御用達にも任命され、政商たちをリードしていくことになる[133]。
酒造制限令とその波紋
[編集]全国的な米価の著しい高騰が引き金となって勃発した天明の打ちこわしの結果、成立した松平定信政権にとって米価引き下げは政権成立当初においての最重要課題となった。そこで政権成立直後の天明7年6月29日(1787年8月12日)、これまで施行されていた酒造制限令をさらに強化し、酒造を三分の一に制限する法令を施行した。これは高騰した米価を引き下げるために酒米として消費される米の量を減らし、主食としての米の流通量を増やすことを目的とした法令であり、幕府とすれば役人の監督不行き届きのために酒の醸造量が減少しないと判断しており、役人は酒造量をしっかりと把握していくことを指示され、もし違反して制限量以上に酒を醸造した場合、醸造所がある地の役人も処罰対象とするとの厳しいものであった[134]。
酒造制限令は幕府が取った米価引き下げ政策の目玉の一つであった。そのため天明7年末にかけて、幕領、大名領など私領の枠を超えた取り締まり体制を設けるなど、酒造制限令の実効性を高めるための指示を矢継ぎ早に出していく。しかし実際には法令に違反して酒造を行う者は多く、天明7年の秋から翌年にかけて全国各地で酒造制限令に違反した酒屋が打ちこわされるという打ちこわしが発生した。天明の打ちこわし直後にこのような打ちこわしが全国各地で発生したことに松平定信政権は神経をとがらせ、後述する厳しい一揆禁止令の発布に至った[135]。そして幕府による酒造制限は取り締まり、監督を強化しつつ天明8年(1788年)も続けられていった[136]。
ところで酒造制限令は寛政元年(1789年)以降も継続された。この頃になると米価は下落しており、これまでの例に従えば米価が下落すれば酒造制限令は撤廃されるのが常であった。しかし寛政の改革期は米価下落時も酒造制限が続けられた。これは寛政の改革期の経済政策が関係している。当時、江戸に出荷される酒のほとんどは上方からのものであった。酒造制限を継続した幕府であるが、一方では関東での酒造開始を奨励した。松平定信はこの政策の意図を「東西之勢を位よくせん之術」と述べている。つまり上方の経済発展よりも立ち遅れていた江戸を中心とする関東経済圏の地位を引き上げ、東西間の経済発展の不均衡を是正しようと試みたのである。幕府は更に江戸への酒の移入についての総量規制に乗り出した。これは酒造制限のみでは江戸に入ってくる酒の量を減らすためには不十分であるということが判明したため、新たに採られた対策であった[137]。
しかしここで幕府は全国政権として、一地域ではなく全国の利益を考えて政策を進めていかねばならないという現実にぶつかることになった。そもそも東西間の経済発展の不均衡を是正するための政策であるならば、上方を対象にして酒造制限、江戸への酒の移入の総量規制を行うべきである。しかし全国政権である以上、幕府としてはあからさまに上方をねらい撃ちした法令を制定することは出来ず、全国対象の法令として酒造制限令を継続し、江戸への酒の移入の総量規制を行った。結局上方、そして他地域の利益を著しく損なう酒造制限令、江戸への酒の移入の総量規制を継続し続けるのは困難になって、寛政7年(1795年)10月には規制は撤廃されることになった[138]。
物価対策
[編集]田沼時代末期の経済混乱の中、物価高騰によって人々の生活は困窮の度を深めていた。松平定信政権にとって高騰した物価対策は急務であり、田沼派の退場と寛政の改革開始に際して物価問題について数多くの献策が幕府に提出された。これらの献策の中で物価騰貴の原因とされたのがまず生産人口の減少、消費人口の増大であり、続いて金、銀、銭の相場の不均衡、当時の商品流通過程に介在していた株仲間と、その株仲間に課していた運上金の存在であった[139]。
献策の多くは株仲間の不正や横暴を指摘しており、さらに株仲間に課している様々な種類の運上金によって物価が高騰しているとして、株仲間の解散と運上金の廃止を行えば物価は下落すると指摘していた。しかし松平定信は生産人口の減少、消費人口の増大、金、銀、銭の相場の不均衡については物価高騰の原因であると判断していたが、多くの論客が主張していた株仲間とその株仲間に課していた運上金が物価高騰の原因であるとは見なさなかった。定信はむしろ株仲間に物価調節機能を期待しており、株仲間に課している運上金についても問題視しておらず、田沼意次が商業資本からの間接税収入を重視していたのと同じく、株仲間に課す運上金を幕府財源として必要なものであると判断していた。これは松平定信が現実主義的な政治家としての一面を持っていたことを示している[140]。
実際、松平定信が政権を掌握した天明末期には弊害が顕著なもの、有名無実なものなどいくつかの株仲間が解散を命じられたものの、寛政期に入ると解散はほとんど見られなくなり、株仲間、そして株仲間に課せられていた大多数の運上金は維持され続け、運上金の種類によっては徴収額の増額や徴収方法が厳格化されるなど、むしろ田沼期の政策の強化すら見られた。ただし寛政の改革期には新たな株仲間、新規の運上金の創設は行われなかった。そして松平定信は田沼時代、商人らによる米の買占め、隠匿が米価の著しい高騰、そして顕著な米不足を発生させ、ついには天明の打ちこわしを起こしてしまったことに象徴されるように、政権と商業資本との関係が深まったものの、結果として商業資本に振り回されてしまったことを踏まえ、政治主導で商業資本を統制し、既存の株仲間の物価調節機能を積極的に活用していくことをもくろんだ[141]。
物価引下令とその挫折
[編集]寛政2年(1790年)2月、幕府は幕領のみならず全国を対象とした物価引下令を公布した。その内容は、物価の基準は米価にあるとして、天明3年(1783年)の大凶作時に米価高騰に伴い諸物価が高騰してしまったのはどうしようもないことであったとしながら、天明7年(1787年)以降、豊作でありながら物価が高騰したままであるのは、利潤を不当に得ようとしているもので不埒であると決め付けた。そこで生産者が適正な価格まで値段を下げ、更に問屋、仲買人らも適正な利潤のみ得るようにすれば、米価に従って物価も下がるはずとして、天明3年の米価が最も高騰した時期を基準として、米価の下落に合わせて諸物価も引き下げるように仕入れ元、問屋、仲買に申し付けるというものであった[142]。
この物価引下令の特色は、幕領のみならず全国に徹底させるため、諸藩に対して物価引下令の担当を置くように指示し、生産地での価格が下がらない場合、生産地である藩の責任を追及することになるというように、その内容が極めて高圧的なものであった。そして物価引下令に基づき、幕府は勘定奉行を長とした物価引下担当を任命し、江戸町奉行も物価引下担当を任命して強制的な物価引下げに乗り出すことになった。担当者たちは実際に株仲間や株仲間的な商業組織である問屋、仲買に対して物価、商品流通、問屋の実利益などを精査し、不当利益を暴くことによって物価引下げをもくろんだ。つまり松平定信政権は、既存の株仲間組織を政治主導で統制することによって物価を下げようと試みたのである[143]。
ところが鳴り物入りで始められた物価引下げ政策は、わずか1年余りで事実上頓挫してしまった。まずは問屋、仲買の抵抗があった。幕府役人などが調査に入ったところ、問屋、仲買らが過去の価格に関する資料を紛失したと主張したり、お互い示し合わせて問屋、仲買らにとって都合のよいデータを作り上げて報告するなどの事例が相次いだ。調査に当たっている幕府役人らは商業に関して素人であり、このような問屋、仲買の抵抗に対処することは極めて困難であった。そしてより大きな問題は、江戸、大坂などの都市では株仲間に加入しない無株商人が増加しており、また地方では都市商人に対抗して在方商人が成長しつつあったことである。これではいくら株仲間や株仲間的な商業組織を相手に物価統制を行おうとしてみても、統制外の流通組織が活性化しているのだから穴の開いたバケツに水を注ぐようなものである[144]。
そして物価引下げ政策挫折のもう一つの要因として、松平定信自身の政策転換があった。先述のように定信は株仲間の存在が物価問題の要因であるとは考えておらず、株仲間を統制することによって物価を引き下げる政策そのものに、当初からさしたる有効性を感じていなかった可能性がある[145]。そこで物価引下令を施行してみたものの、問屋、仲買の頑強な抵抗、そして既存の株仲間組織に属さぬ無株商人、在方商人らの成長といった大きな障害にぶつかり、政策の実現性の困難さに直面するやいなや、株仲間組織を政治主導で統制するといった商業資本への対抗的な政策ではなく、後述する七分積立令、町会所設立などで見られるように商業資本と共生していくような政策を取るようになった[146]。
通貨政策
[編集]田沼政権の末期、金、銀、銭の相場が混乱を極め、経済が混乱する中で物価が高騰し、庶民は厳しい生活苦に追いやられていた。田沼政権下、江戸を中心とする東日本の金遣い経済圏、大坂を中心とする西日本の銀遣いの経済圏の一元化を目指して発行された計数貨幣である南鐐二朱銀であったが、天明期に入るとその流通に対する抵抗も減少し、広く用いられるようになってきたものの、今度はその流通量が過剰となって秤量貨幣である銀の価値が高くなり、計数貨幣である金貨、そして金貨に準じる南鐐二朱銀の価値が下落し、経済の混乱に拍車をかけていた。また、当時の南鐐二朱銀流通は江戸、大坂、京都の三都に集中して農村部には行き渡っておらず、その結果として三都では南鐐二朱銀が集中して供給過剰が著しくなっており、更には田沼意次の政策に対する不信感が、田沼の経済政策の中でも目玉の一つであった南鐐二朱銀の相場を更に押し下げていた。実際田沼失脚直後、大坂では南鐐二朱銀の通用が停止される等の風説が流れ、相場は更に暴落した[147]。
寛政の改革ではこの南鐐二朱銀による貨幣制度の混乱にメスを入れた。まず天明8年(1788年)4月、供給過剰であると判断された南鐐二朱銀の鋳造が停止され、丁銀の増鋳を命じた。続いて同年12月には南鐐二朱銀を幕府御金蔵に回収し、一方、これまで保管してきた丁銀を市中に放出することを決定し、寛政元年(1789年)3月にも丁銀の流通促進を命じ、その後も回収した南鐐二朱銀四万両分を丁銀に吹き替えた上で、天明8年に焼失した京都御所の再建費用に充当するなどした[148]。
しかしその一方で幕府は南鐐二朱銀は永代通用するものであると強調することも忘れなかった。寛政の改革で目指したものは、あくまで供給過剰の影響で金銀の相場に悪影響を与えていた南鐐二朱銀の通貨量を減少させて相場を安定させることと、市場への悪影響を考慮することなく南鐐二朱銀の増鋳を続けていった田沼政権への批判材料の一つとするのが目的であり、南鐐二朱銀の流通促進という田沼時代の通貨政策は、寛政の改革でもおおむね引き継がれていくことになる。実際、幕府は南鐐二朱銀の供給過剰による弊害が見られた江戸、大坂、京都の三都以外の地方、特に西日本の農村地帯では幕府による貸付金として南鐐二朱銀を引き渡すなど、積極的な南鐐二朱銀の流通促進政策に踏み切っている。この幕府の政策は成功を収め、寛政半ば頃には全国的に南鐐二朱銀が滞りなく流通するようになり、むしろ供給不足気味となっていた。このような中で金、銀の交換比率も標準相場である金一両=銀60匁付近に安定していった。結局、南鐐二朱銀は寛政12年(1800年)に供給不足となったことを理由に鋳造が再開されることになった[149]。
田沼政権と寛政の改革時の南鐐二朱銀流通政策は、東日本の金遣い、西日本の銀遣いの経済圏との間の障壁を撤廃し、計数貨幣である銀貨、南鐐二朱銀を全国流通させ、経済の一元化を目指すという根本政策では一致していた。また二朱は比較的少額の貨幣単位であり、銭を主に使用する庶民たちにとっても扱いやすいものであり、全国的に成長してきた農村部での商品生産の成果を吸収していくのには好都合な貨幣単位でもあった。田沼政権と寛政の改革との差としては、都市の商業資本への過度な依存状態に陥ってしまった田沼政権下では、地方への流通が思うように進まずに三都に集中してしまったものが、幕府による貸付金として南鐐二朱銀を貸し与えるなど、幕府の官僚機構を利用して直接農村部への流通をもくろむなど、流通促進のための施策に大きな違いが見いだせる。これは田沼期までの大都市市場の把握のみで経済の把握が事足りた時代から、地域経済の発展に伴ってもっと広い範囲の経済の把握が求められる時代となっていったことを示すとともに、幕府による貸付に伴って南鐐二朱銀の地方流通が図られたということは、幕藩体制の維持を図るために進められた他の経済政策と連動しながら、南鐐二朱銀の流通促進が図られていったことを表している[150]。
農村問題
[編集]天明8年1月26日(1788年3月3日)、幕府は一揆禁止令を全国向けに発布した。この中でまず酒の密造、米の売り惜しみをする酒屋、米屋に対する処罰は領主の責務であることを強調し、違反者に対する打ちこわしなどを起こした場合、打ちこわし参加者は厳罰に処すると宣言した。その上で一揆などが勃発した場合、領主はまだ騒動が小さなうちに対応して、状況によっては切り捨てて構わないとした。そして騒動時には幕領、私領間で援軍を出し合って鎮圧すべきとし、きちんと対応できずに大騒動に発展してしまった場合、領主の責任問題となるとした[151]。
幕府はこれまでも一揆や打ちこわしに際して、情勢を見て切り捨てを容認したケースはあった。実際、直近の天明7年(1787年)5月の天明江戸打ちこわし時も切り捨てを容認する通達を出している。しかしこれまではあくまで個別の事情を判断して切り捨て許可を出したものであり、全国に通用する法令の中で一揆、打ちこわしの際の切り捨て容認を明記するのは初めてのことであった[152]。
また幕領、私領間で連携して一揆鎮圧に当たるように指示した部分については、もともと一揆の拡大を防ぐために、幕府の指示を待たず現地の代官、藩のレベルで援軍を出し合って鎮圧に当たることは認められており、いわば臨機応変な対応を求められていた。しかし実際には代官、各藩ともどうしても自領の対応を優先させてしまい、一揆、打ちこわしに連携して対応することは難しく、そうこうしているうちに騒動が拡大してしまうようになった。そこで早期対応、そして幕領、私領連携しての対応を 強調するとともに、一揆、打ちこわしが大規模化してしまった場合には責任問題となると明記した[153]。
この一揆禁止令は、天明の打ちこわしによって松平定信政権が成立したという現実を前に、幕府の権威回復のためにも一揆、打ちこわしに対して断固たる姿勢を見せる必要があり、弾圧姿勢を全面に出した厳しい一揆禁止令の公布に至ったと考えられる。しかし一揆や打ちこわしは社会情勢を受けて勃発するものであり、単に弾圧するのみでは事態は改善しないことは松平定信自身よく認識していた。そこで寛政の改革では農村の問題、都市問題に対する様々な新政策を進めていくことになった[154]。
農村の再建、維持と公金貸付政策
[編集]寛政期になると、江戸近郊の関東、大坂近郊の関西などでは農村の荒廃が目立つようになっていた。つまり耕す人が減少し、荒地となってしまった田畑が多くなってしまったのである。このような状況で幕府は、自らが所有する土地を耕す、いわゆる本百姓を増やして荒地と化した田畑を回復させ、一方では農民らの抵抗を少しでも抑えて年貢収入を確実に得ていかねばならないという大きな課題を背負った。また当時進行していた地主制への対応も不可欠であった、これまで没落していく農民が増加する中で地主制は発展してきたが、実際に田畑を耕す人が減少してしまえば地主制自体が成立しない。こうして寛政期には地主制も危機に立たされるようになっていた。寛政の改革期、幕府は農村再建を目的とした法令を立て続けに出していった。まずは寛政元年(1789年)12月には、農具代、種籾代などといった農業経営費用の貸付とその貸付返済猶予令、他国出稼制限令を公布したのに続いて、寛政2年(1790年)から5年(1793年)にかけて繰り返し公布された旧里帰農令などがその例である[155]。
耕作者が減少し、耕す人がいなくなった田畑が荒地化していくという大問題を解決するためには、当然多額の予算が必要とされる。しかし当時の幕府は厳しい財政難に陥っており、農村、農業再建に潤沢な資金を投入する余裕は全くなかった。そこで幕府は農村部に対しての公金貸付制度をたくみに活用し、農村、農業再建資金を捻出する施策を進めていく[156]。
実際、どのような形で公金貸付制度を活用して農村、農業再建資金を捻出したのかというと、まず幕府から代官を通じて公金を富裕な農民層に貸与し、その利息収入で困窮著しい農村、農民層に対して、無利子、長期返済の救済貸付を行うというやり方であった。年利は当時一般の金利よりも低く設定されており、幕府からの低利の融資は富裕な農民層、つまり地主層にとってプラスとなるものであった。また代官を通じて公金を貸し付けるシステムであるため、当然、代官に事務手数料として利息収入の一部が入ることになる。利息収入は代官所の貴重な収入源となったから、公金貸付の実務を担うことになる代官所のモチベーション向上に繋がり、ひいては農村、農業再建の進展、年貢増徴という本来の目的達成に貢献することを幕府当局は期待した[157]。またこの頃から寺社、富裕な農民、町人の一部に、財産の一部を幕府に寄付し、その寄付金を幕府からの公金と同じように貸し付け、利息を困窮者支援に利用するという事例が現れる。寄付金利用の貸付とその利息収入を用いた農村、農業再建資金の捻出は、幕府の懐を全く傷めることなく支援が実現するとともに、実際に支援を受ける困窮した農民にとって大いに役立つとともに、寄付した富裕な農民にとってみても、近隣の困窮農民の生活が改善されることによって地代の徴収が容易になるなど、自らの利益にもなった。このような寛政の改革期の農村再建策は、貢租の収納率が寛政期以降向上しているのである程度の成果を挙げたと考えられる[158]。
しかし公金貸付制度を利用した農村、農業再建策には大きな矛盾があった。まずこれは貸付金の利息を利用した施策であるため、貸付金取り立ての問題があった。この点については幕府公金の貸付であったため取り立ては厳しく、貸し倒れは比較的少なかった。それ以上に大きな問題は、この制度は富裕農民、つまり地主層に対する公金の低利貸し付けを核としていることにあった。つまり自らが所有する土地を耕す本百姓制度の再建を大きな目標とする施策であるのにも関わらず、本百姓制度とは相容れない地主層への支援にもなってしまっている点にある。これは当時既に広く浸透していた地主経営を利用しながら、農民、農村の再建策を立てて年貢収入の増加を図りたいという幕府の苦肉の策ではあったが、貸し付けられた幕府公金の返済を厳しく求められる地主たちは、当然小作人に対する収奪を強化することになる。こうなると困窮農民の生活はますます厳しいものとなり、本百姓制度の再建どころか更なる農村崩壊へと進んでいくことになった。このことは幕府自体も認識しており、寛政の改革時には公金貸付対象は幕領、私領を問わず富裕な農民層であったものの、文政11年(1814年)には幕領農民に対する公金貸付を禁止し、私領にのみ貸し付けるという法令を出した。こうなるともはや公金貸付制度は農村、農民への救済策ではなく、更なる農村崩壊の一因であることを幕府は理解しながらも、私領の農村崩壊には目をつぶって公金貸付を継続し、そこで得た利息を公金貸付を禁止した幕領農村の無利子救済貸付に流用し続けるという極めて露骨な幕府中心主義の現れであった[159]。
代官の統制
[編集]関東郡代伊奈忠尊の失脚
[編集]寛政4年(1793年)2月、関東郡代伊奈忠尊は関東郡代を罷免され、勘定奉行が関東郡代を兼任することになった。この罷免の直接的な原因は、関東郡代伊奈家中の深刻なお家騒動であった。しかし家康以来の累代の関東郡代であった伊奈家が代官職を罷免された背景には、単なるお家騒動を超えた様々な事情があったと考えられる[160]。
関東郡代罷免の背景として、まず関東郡代と江戸町奉行との関係がまず指摘できる。実際、関東郡代と町奉行との間には直近の天明の江戸打ちこわし時、職務権限をめぐって深刻な問題が発生していた。先述のように松平定信政権発足直前、関東郡代伊奈忠尊は深刻な米不足に見舞われていた江戸へ迅速に米を供給するという重要任務を担った。そして伊奈忠尊は大役をみごとにこなし江戸の米不足は急速に改善された。しかしこの措置は町奉行との職務権限をめぐり幕府内では論議を呼んでいた。そもそも町奉行の管轄であるべき江戸町民救済業務を関東郡代の伊奈が担うことについて、町奉行、勘定奉行から反対論が出ていたのである[161]。続いて幕府当局はこれまで幕府が設定してきた運上、冥加の江戸における実態調査と、これらに伴う江戸町民の苦情処理を伊奈に命じた。これらの措置は緊急時対応であった江戸の米不足対応以上に町奉行の職務権限を侵すものであり、さすがに幕閣以外からも町奉行と関東郡代との軋轢を生み、禍根を残すことになるとの批判が出た[† 3][162]。
もちろん幕府首脳部としても、関東郡代と町奉行との間の職務権限上の問題があったことを認識していなかったわけではない。しかし天明の打ちこわしの経緯から、町奉行は江戸町民の信を失っており、庶民に人気がある伊奈以上に緊急事態を治められる適任者はいなかった。また職務権限の問題といってみたところで、実際問題として江戸の発展に伴って江戸近郊も経済的に成長しつつあり、江戸近郊と江戸との間に密接な経済関係、言い換えれば江戸を中心とした経済圏が形成されるようになった。こうなると町奉行と関東郡代との職務領域が被ってしまう場面が増加していて、天明の打ちこわしという非常時であるなしに関わらず、関東郡代と町奉行間の関係は緊張感を孕んだものとなっており、幕府としてもその矛盾の解決を迫られていた[163]。
そして関東郡代は勘定奉行とも職務権限上の問題を抱えていた。幕領の支配を委任されている郡代の職掌は、管轄地内の行政、そして公租の徴収であり、勘定奉行の指揮監督を受けながら業務を遂行する。しかし関東郡代は江戸幕府開府以来の世襲郡代としての権威を持ち、しかも関東では他を圧する管轄地域を持っており、もはや幕府の一地方官僚というよりも大名の存在に近かった。この実力の高さは天明の打ちこわし後の事態収拾など非常時には大変頼りになるものであったが、代官、郡代の指揮監督を職務としている勘定奉行との間に深刻な軋轢を生むようになっていた。実際、伊奈忠尊の代には関東郡代と勘定奉行との関係は極めて険悪となった[164]。
そしてもっと大きな問題として、関東郡代伊奈忠尊は寛政の改革の施策に疑問を持っており、寛政の改革を進める幕府首脳部から見ても、関東郡代が改革推進の障害となっていたことが挙げられる。まず関東郡代の伊奈家と寛政の改革当局者との間では年貢徴収のやり方に違いがあって、寛政の改革当局者の方が厳しい方針を実行しており、伊奈忠尊自身もこのことについて認識していた。事実、伊奈家の失脚後、幕府から関東地方の農村に出された幕令は年貢収納についての具体的な内容にまで踏み込んだものが多く出されるようになった。このように幕領年貢収納の責任者である勘定奉行を始め、幕閣は年貢を厳格に取り立てることを目指した寛政の改革の方針を履行しようとしたため、大名的な権威、実力を持つ伊奈家の存在は寛政の改革が目指す、幕領の年貢収納厳格化の障害となっていた[165]。
また江戸時代中期頃から、幕府の郡代、代官は管轄下の幕領の行政、公租の徴収という業務以外に幕府の金融政策に伴う貸付機関という意味合いも持つようになっていた。つまり幕府の公金、更には富裕な農民や寺社などから代官や御用達の町人が金銭を預かって大名、旗本、町人、農民などに貸し付けるという業務であった。貸付によって得た利息は出資者である幕府や富裕な農民や寺社に還元され、もちろん貸付を行う代官や御用達の町人も利益を得た。伊奈家は他の代官よりも支配地域が広かったため、貸付金は多額に及んでいた。ところで実際に伊奈がお金を貸す対象は一定の上層農民たちであり、一般の農民たちではなかった。しかし寛政期には関東農村は商品経済の浸透に伴う大きな変化の中にあり、農村内での上層、下層農民の対立が激化しており、そのような情勢下でこれまで下層の農民であった者がのし上がっていったり、逆に上層の農民が没落していったりしていた。事実、寛政期には村役人もこれまで村役人を世襲してきた家柄の良い人物ではなく、実際に村で人望がある農民を選ぼうという動きが表面化しつつあり、幕府も寛政の改革期、村役人は家柄が良いからといって選んではならず、村民たちの人望を考慮して選ぶべきであるとの指示を出していた[166]。
このような関東農村の転換期において、伊奈がこれまで貸付対象としてきた一定の上層農民たちは、その多くが時代の流れに取り残されつつあった。結果として伊奈の公金貸付はその多くが利息を得るどころか元金の回収すら困難な状況に追い込まれていた。しかも伊奈から大名、旗本に貸したお金の返済も滞っており、伊奈の不良債権は幕府にとって大きな問題となりつつあった。そこで伊奈の手ではなく、勘定奉行のような幕府の政策に忠実な官僚の手によって、幕府公金の貸付を行う方向に政策を転換していく必要性に迫られたと考えられる[167]。
代官の大量罷免
[編集]寛政の改革期に罷免された代官、郡代は関東郡代の伊奈家に止まらなかった。飛騨郡代の大原家、美濃郡代の千種家、三河遠江代官の大草家といった重要ポストかつ累代の代官が罷免されており、寛政の改革期で計11名の郡代、代官が処罰された。これは関東郡代伊奈忠尊の罷免が決して特異なケースではなく、寛政の改革期、幕府が代官統制を強化する中で起こった出来事の一つであることを示している[168]。
明らかにされている処罰の理由は、主に3点に集約できる。
- 長年にわたる不健全財政
- 手代の不正放置
- 公金の不正貸付、貸付公金の回収困難
まずは不健全財政であるが、これは年貢として取り立てた米や金を使い込んでしまったり、年貢の取り立て不足が累積し多額となった、巨額の借金を負ったなどの理由により財政が悪化して、代官所としての機能が満足に果たせなくなることを指している。幕府は寛政の改革の柱の一つとして、自らの土地を耕す本百姓体制の再編を挙げていたが、幕領支配を担う代官所が財政悪化で首が廻らなくなってしまっては目的達成はとうていおぼつかない、そこで幕府は財政悪化が著しい郡代、代官を処分することにしたと考えられる[169]。
続いて手代の不正放置であるが、これは地元のことを良く知り、事務に長けた農民の中から現地採用してきた手代に、代官が業務を丸投げしてしまう傾向が強かったことが問題視された。地元に通暁して事務能力の高い手代は往々にして独断で業務を進めてしまい、結果、不正の温床になっていたのである。そこで寛政の改革では手代の不正を正してこなかった代官を処分するとともに、代官所に下級幕臣を配属して幕府の意向を代官所の手代レベルまで浸透させようと試みた。この代官所に配属された下級幕臣は手附と呼ばれ、地元採用職員である手代とは区別された。また手附には代官所に幕令を行き届かせるという狙いの他にも下級幕臣の就職先の拡大といった意味合いもあり、制度採用当初は代官所の抵抗もあったが、やがて定着していった[170]。
そして公金の不正貸付、回収の困難については、先にも述べたように関東郡代の伊奈家罷免に際しても問題となったと考えられている。代官、郡代の処罰理由の最初に述べた長年にわたる不健全財政の理由のひとつとして公金貸付が絡んでいる例が多く、また次に述べた手代の不正にもやはり公金貸付に関する案件が多い。寛政の改革で幕府は公金貸付をこれまで以上に積極的に行う政策を進めていくが、このような中で公金の不正貸付を行ったり、元本回収困難となってしまった不良債権を大量に抱え込んだ郡代、代官は政策推進の妨げとなるため、更迭していく必要があった[171]。
都市政策
[編集]旧里帰農奨励令とその挫折
[編集]七分積金令
[編集]出版・思想統制
[編集]外交問題
[編集]蝦夷地政策
[編集]対朝廷関係
[編集]尊号事件
[編集]高まりゆく不満と老中、将軍補佐辞任
[編集]定信辞任後の改革政治
[編集]浅間山噴火から東北地方を中心とした天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、その他にも役人の賄賂などがあったため、前任者の田沼意次は失脚する。このとき、定信は幕府の重臣に金品を送りつけ、田沼意次の失脚を図り、田沼の政策が、大店による独占市場を生み出し、生産基盤を否定かつ破壊する政策である事を幕府にアピールしたともされる。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫にあたる(父は吉宗の次男・田安宗武、第9代将軍徳川家重の弟)。定信は白河藩主として飢饉対策に成功した経験を買われて幕府老中となり、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となる。
定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。また、一連の改革は田沼が推進した重商主義政策とは異なる。蘭学の否定や身分制度改定も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。
改革は6年余りに及ぶが、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげる事は無かった。その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。
しかし定信が失脚した後も松平信明など寛政の遺老達により、この改革の方針は以後の幕政にも引き継がれることになった。
主な改革
[編集]経済政策
[編集]- 囲米
- 諸藩の大名に飢饉に備える為、各地に社倉・義倉を築かせ、穀物の備蓄を命じた。また、江戸の町々にも七分積金(後述)とセットにして実施が命じられた。
- 旧里帰農令
- 当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、江戸からの帰村を奨励したが、強制力はなかった。
- 棄捐令
- 旗本・御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じた。
- 猿屋町会所
- 棄捐令によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済して、今後の札差事業や旗本・御家人への貸付に支障がないように取り計らった。
- 人足寄場
- 無宿人、浮浪人を江戸石川島(東京都中央区)に設置した寄場で職業訓練、治安対策も兼ねた。
- 商人政策
- 田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止した
- 七分積金
- 七分積金は、町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した四万両の七割に、幕府からの1万両を加えて基金にした。町入用の経費は、地主が負担し、木戸番銭・手桶・水桶・梯子費用、上水樋・枡の修繕費、道繕・橋掛け替え修繕・下水浚い・付け替えなどに使われた。ちなみに、この制度はその後の幕府の財政難にも関わらず厳格に運用されて明治維新の際には総額で170万両の余剰があった。この資金は東京市に接収されて学校の建設や近代的な道路整備などのインフラ事業にあてられたという。
その他
- 米価抑制のため、米を大量に使う造酒業に制約(酒株統制)を加えて、生産量を3分の1に削減するように命じた(但し、これは田沼意次が決定したものの、田沼の失脚によって代わりに定信が実施したとする説もある)。
- 田沼意次が推進した南鐐二朱銀を丁銀に改鋳しなおして物価の抑制を図ったが、幕府財政は却って悪化したため、再度南鐐二朱銀を復活させた。
- 定信失脚後、定信の路線を継承した松平信明によって、相対済令が出された。
学問・思想
[編集]- 寛政異学の禁
- 柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していった。
- 処士横議の禁
- 在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
- 学問吟味
- 江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所(昌平坂学問所)で、寛政4年(1792年)から慶応4年(1868年)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。
- 文教振興
- 改革を主導するにあたって幕政初期の精神に立ち戻ることを目的とし、『寛政重修諸家譜』など史書・地誌の編纂や資料の整理・保存などが行われた。また、近江堅田藩主で若年寄として松平定信とも親交のあった堀田正敦など好学大名も文教振興を行った。
その他
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 藤田(2012)pp.59-61
- ^ 藤田(2012)pp.59-62、p.65
- ^ 藤田(2012)p.61
- ^ 大石、榎森(1996)pp.210-214
- ^ 大石、榎森(1996)p.222
- ^ 藤田(2012)pp.87-89
- ^ 藤田(2007)pp.120-121、藤田(2012)p.103
- ^ 藤田(2012)pp.113-114
- ^ 藤田(2007)p.121
- ^ 藤田(2012)pp.69-71
- ^ 藤田(2012)pp.71-72
- ^ 菊池(1997)p.88、pp.98-104、pp.166-167
- ^ 藤田(2002)p.54
- ^ 藤田(2012)pp.72-76
- ^ 藤田(2012)pp.76-78
- ^ 竹内(2009)pp.1-2
- ^ 竹内(2009)p.2
- ^ 佐藤(1996)p.104、竹内(2009)pp.2-3
- ^ 竹内(2009)p.3
- ^ 竹内(1996)p.242、竹内(2009)p.3
- ^ 竹内(2009)pp.3-4、藤田(2012)pp.186-191
- ^ 竹内(2009)p.4、藤田(2012)pp.166-170
- ^ 藤田(2012)pp.170-174
- ^ 竹内(2009)p.4、藤田(2012)pp.173-177
- ^ 藤田(2002)pp.51-52
- ^ 藤田(2012)p.145、p.154
- ^ 藤田(2012)pp.143-145
- ^ 藤田(2002)pp.57-58、藤田(2012)p.164
- ^ 横山(2012)p.32
- ^ 横山(2012)pp.32-33
- ^ 横山(2012)pp.33-34
- ^ 大石、榎森(1996)pp.218-220
- ^ 大石、榎森(1996)pp.220-221、藤田(2012)pp.105-106
- ^ 横山(2012)pp.34-35
- ^ 藤田(2012)pp.120-122、横山(2012)p.34
- ^ 藤田(2012)pp.122-131
- ^ 藤田(2012)pp.77-79
- ^ 藤田(2012)pp.23-28
- ^ 竹内(2009)p.54、藤田(2012)pp.28-32
- ^ 藤田(2002)pp.86-88
- ^ 藤田(2002)pp.88-91
- ^ 藤田(2002)pp.89-93
- ^ 藤田(2002)pp.93-95
- ^ 大石、榎森(1996)pp.214-218、藤田(2012)pp.210-214
- ^ 藤田(2012)pp.210-212
- ^ 菊池(1997)pp.153-162
- ^ 大石、榎森(1996)pp.220-221
- ^ 竹内(2009)pp.236-238
- ^ 藤田(2007)pp.142-145
- ^ 藤田(2007)pp.145-148
- ^ 藤田(2007)pp.148-153
- ^ 藤田(2007)pp.153-155、高澤(2008)pp.49-51
- ^ 藤田(2007)pp.235-236
- ^ 高澤(2012)pp.1-3
- ^ 高澤(2012)pp.6-7
- ^ 高澤(2012)pp.10-12
- ^ 高澤(2012)pp.17-18
- ^ 高澤(2008)pp.357-361
- ^ 高澤(2008)p.361
- ^ 高澤(2008)pp.361-362
- ^ 高澤(2012)p.32
- ^ 高澤(2008)pp.362-363、高澤(2012)p.34
- ^ 高澤(2008)pp.363、高澤(2012)pp.34-35
- ^ 高澤(2008)p.362
- ^ 竹内(1996)p.235、高澤(2012)pp.36-37
- ^ 高澤(2008)pp.41-42、高澤(2012)pp.56-58
- ^ 高澤(2008)pp.44-45、高澤(2012)pp.58-60
- ^ 高澤(2008)pp.45-46、高澤(2012)p.60
- ^ 高澤(2008)pp.363-365、高澤(2012)pp.39-41
- ^ 高澤(2008)pp.364-365、高澤(2012)pp.41-46
- ^ 高澤(2008)pp.46-48、高澤(2012)pp.60-61
- ^ 高澤(2012)p.35
- ^ 高澤(2012)pp.48-49
- ^ 藤田(2007)p.248、高澤(2008)p.31、高澤(2012)pp.48-49
- ^ 高澤(2012)pp.49-52
- ^ 高澤(2012)p.52
- ^ 高澤(2008)pp.35-37
- ^ 安藤(2000)pp.95-97、pp.99-101、岩田(2004)p.167
- ^ 安藤(2000)pp.101-102
- ^ 安藤(2000)pp.97-99、pp.104-105
- ^ 安藤(2000)pp.105-106
- ^ 安藤(2000)pp.106-108、竹内(2009)pp.332-336
- ^ 安藤(2000)pp.157-163
- ^ 安藤(2000)pp.102-104
- ^ 安藤(2000)p.108
- ^ 安藤(2000)p.113、竹内(2009)p.8
- ^ 竹内(2009)pp.106-107
- ^ 竹内(2009)pp.8-9
- ^ 藤田(2002)p.35、竹内(2009)pp.221-223
- ^ 藤田(2002)p.30
- ^ 菊池(1997)pp.142-143、pp.166-167、藤田(2002)p.30
- ^ 藤田(2002)pp.30-31
- ^ 竹内(2009)p.31
- ^ 竹内(2009)pp.8-9
- ^ 竹内(2009)p.9
- ^ 竹内(2009)p.116、高澤(2012)pp.71-73
- ^ 藤田(2002)pp.97-98、竹内(2009)pp.116-117、高澤(2012)p.74
- ^ 竹内(2009)p.116、高澤(2012)p.74
- ^ 竹内(2009)pp.116-117
- ^ 高澤(2008)pp.92-97
- ^ 藤田(2007)pp.241-244、高澤(2008)pp.114-117、竹内(2009)pp.58-62
- ^ 竹内(2005)p.9、高澤(2008)pp.119-123
- ^ 藤田(2007)pp.245-247
- ^ 藤田(2007)pp.248-249、高澤(2008)pp.137-140
- ^ 高澤(2008)pp.122-123
- ^ 高澤(2008)p.133
- ^ 高澤(2008)pp.134-135
- ^ 高澤(2008)p.135
- ^ 竹内(1996)pp.240-241、高澤(2012)pp.79-81
- ^ 竹内(1996)pp.240-241、高澤(2008)pp.136-137
- ^ 竹内(2009)p.117
- ^ 竹内(2009)p.117
- ^ 竹内(2009)pp.104-105
- ^ 竹内(2009)pp.118-119
- ^ 高澤(2012)p.72
- ^ 竹内(2009)pp.120-121
- ^ 竹内(2009)pp.121-122
- ^ 竹内(2009)p.126
- ^ 竹内(1996)p.251、竹内(2009)pp.127-129
- ^ 竹内(2009)pp.178-179
- ^ 竹内(2009)pp.179-180
- ^ 竹内(2009)p.141
- ^ 竹内(2009)pp.141-145
- ^ 竹内(2009)p.146
- ^ 竹内(2009)pp.146-147、p.182
- ^ 竹内(2009)pp.147-149
- ^ 竹内(2009)pp.149-150、竹内(2009)pp.173-174
- ^ 竹内(2009)p.159、p.161、p.164
- ^ 竹内(2009)pp.160-161
- ^ 竹内(2009)pp.160-163
- ^ 竹内(2009)pp.164-166
- ^ 竹内(2009)pp.166-167
- ^ 竹内(2009)pp.167-168
- ^ 安藤(2000)pp.112-113、pp.123-125
- ^ 安藤(2000)p.125、pp.128-135
- ^ 安藤(2000)pp.169-170
- ^ 安藤(2000)pp.184-187、pp.194-199
- ^ 安藤(2000)pp.204-211
- ^ 竹内(2009)pp.208-209
- ^ 竹内(2009)pp.209-210
- ^ 藤田(2002)p.37、竹内(2009)pp.210-213
- ^ 竹内(2009)pp.213-215
- ^ 竹内(2009)pp.215-217
- ^ 竹内(2009)pp.217-221
- ^ 竹内(2009)p.221
- ^ 竹内(2009)pp.221-223
- ^ 竹内(1996)p.254、竹内(2009)pp.235-238
- ^ 竹内(2009)p.238
- ^ 竹内(2009)pp.238-243
- ^ 竹内(1996)p.255、竹内(2009)pp.244-245
- ^ 安藤(2000)pp.136-140
- ^ 安藤(2000)p.137
- ^ 安藤(2000)pp.138-140
- ^ 安藤(2000)pp.140-141、竹内(2009)pp.30-33
- ^ 竹内(2009)p.1-2、p.368
- ^ 竹内(2009)p.369
- ^ 竹内(2009)pp.369-373、p.410
- ^ 竹内(2009)pp.375-377
- ^ 竹内(2009)pp.372-373、pp.398-399、pp.410-411
- ^ 竹内(2009)p.327、p.332
- ^ 安藤(2000)pp.106-108、竹内(2009)p.333
- ^ 安藤(2000)pp.108-109、竹内(2009)pp.333-335
- ^ 竹内(2009)pp.335-337
- ^ 竹内(2009)pp.337-339
- ^ 竹内(2009)pp.340-341
- ^ 竹内(2009)pp.342-349
- ^ 竹内(2009)p.349、pp.353-355
- ^ 竹内(2009)p.350
- ^ 竹内(2009)pp.350-351
- ^ 竹内(2009)pp.351-353
- ^ 竹内(2009)pp.353-355
参考文献
[編集]- 安藤優一郎「寛政改革の都市政策」校倉書房、2000、ISBN 4-751-73130-0
- 岩田浩太郎「近世都市騒擾の研究」吉川弘文社、2004、ISBN 4-642-03384-X
- 大石慎三郎、榎森進「宝暦~天明期の社会」『日本歴史体系10 幕藩体制の展開と動揺(上)』山川出版社、1996、ISBN 4-634-33100-4
- 菊池勇夫『近世の飢饉』吉川弘文館、1997、ISBN 4-642-06654-3
- 高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』清文堂、2009、ISBN 978-4-7924-0632-5
- 高澤憲治『松平定信』吉川弘文館、2012、ISBN 978-4-642-05263-4
- 佐藤常雄「都市と産業の発達 第二節 農業の発達」『日本歴史体系10 幕藩体制の展開と動揺(上)』山川出版社、1996、ISBN 4-634-33100-4
- 竹内誠「寛政の改革」『日本歴史体系10 幕藩体制の展開と動揺(上)』山川出版社、1996、ISBN 4-634-33100-4
- 竹内誠『寛政改革の研究』吉川弘文館、2009、ISBN 978-4-642-03438-8
- 藤田覚『日本史リブレット48 近世の三大改革』山川出版社、2002、ISBN 978-4-634-54480-2
- 藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007、ISBN 978-4-623-04941-7
- 藤田覚『近世天皇論-近世天皇研究の意義と課題』清文堂、2011、ISBN 978-4-7924-0954-8
- 藤田覚『日本近世の歴史4 田沼時代』2012、ISBN 978-4-642-06432-3
- 横山伊徳『日本近世の歴史5 開国前夜の世界』吉川弘文館、2013、ISBN 978-4-642-06433-0