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利用者:なまけもの人間/sandbox

https://www.suac.ac.jp/about/pr/newsletter/newsletter2021/file/25834/04_020422_shiz.pdf

浅間古墳

南側からの全景(2024年8月)
右側が前方部、左側が後方部
北側からの全景(2024年8月)
左側が前方部
別名 浅間神社古墳
所属 須津古墳群増川I群
所在地 静岡県富士市増川西村624
位置 北緯35度09分51秒 東経138度44分48秒 / 北緯35.16417度 東経138.74667度 / 35.16417; 138.74667座標: 北緯35度09分51秒 東経138度44分48秒 / 北緯35.16417度 東経138.74667度 / 35.16417; 138.74667
形状 前方後方墳
規模 全長:98m
全方部幅:36m
同高さ:8m
後方部幅:60m
同高さ:11m
埋葬施設 天井石がない竪穴式石室あるいは粘土槨
出土品 須恵器
築造時期 古墳時代前期から中期
被葬者 珠流河国造
史跡 国の史跡 「浅間古墳」
特記事項 東海地方最大規模の前方後方墳[1]
地図
浅間古墳の位置(静岡県内)
浅間古墳
浅間古墳
浅間古墳の位置(日本内)
浅間古墳
浅間古墳
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墳頂にある浅間神社

浅間古墳 (せんげんこふん、:Sengen KofunまたはSengen Ancient Tomb)は、静岡県富士市増川西村にある須津古墳群の増川I群に属する前方後方墳[2][3][4][5][6][7]。国の史跡に指定されている[7]

東海地方で最も大きい前方後方墳で[8][9]、地元では「浅間さん」という愛称で親しまれている[10][11]。浅間古墳の墳頂部に浅間神社を祀っていることから浅間神社古墳とも呼ばれる[12]考古学上の正式名称は増川I第一号古墳[13][14]

概要

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浅間古墳が属する須津古墳群は、209基以上の古墳から構成され[15]、須津川西岸の中里地域に群在するものを中里K群、須津川東岸の神谷地域に群在するものを須津(神谷)J群、増川地域に群在するものを増川I群と呼ばれており[16][17]、浅間古墳はその古墳群の中心的な古墳である[6]

また、富士市教育委員会は増川地域の政治社会文化の重要な位置を占めていたことを示す貴重な文化財であると評価している[4]

浅間古墳は、浅間神社を祀っており、墳頂部に社殿がある[3]。この地域名から「須津浅間神社」「増川浅間神社」と呼ばれることもある。浅間古墳の名称は、この浅間神社が由来である[7][18]

この地域を収めていた国造である珠流河国の王の墓とされていて[2][19]4世紀後半[3]から5世紀初頭[6][12]築造されたと推定される[4][20]。 葺石が墳丘の全面にあるが[4][7][12]埴輪の有無についてはさまざまな意見に分かれる[12]発掘調査が行われていないため、埋葬施設は不明だが、2020年に行われた地中レーダー探査により、天井石がない竪穴式石室あるいは粘土槨のような埋葬施設があると考えられている[8][21]

1957年昭和32年)7月1日に国の史跡に指定された[4][6][22][23][24]

自然地形と立地

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地図
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構文エラー: 予期しない演算子 < です。
宮添遺跡
祢宜ノ前遺跡
宇東川遺跡
舟久保遺跡
東平古墳
.
浅間古墳
根方街道に沿って点在する古墳遺跡

浅間古墳は、愛鷹山から延びる丘陵の先端部である標高53mの等高線と並行して墳丘が盛り上がっており、後方部を西に向けるように立地している[25]。そのため、下の平野部から望むと墳丘の側面を見上げることになる。権力誇示し見せつけるために造られる政治的モニュメント(記念碑)である古墳の特徴は浅間古墳でも当てはまる[26][9]。事実、浅間古墳は南側(海側)から見ると、とても高く見上げるほどだが、周りから見えない北側(山側)から見ると、さほど高くない[27]。その様にすることにより、地形を巧みに利用し視覚効果を高め、見えないところには労力をかけず最大限大きく見えるようにしてあることが窺える[26]。また、浅間古墳は権力を誇示しているのと同時に海上からの目印である灯台のような役割も果たしていた[19]。今もなお、浅間古墳は権力を誇示しており、背後に富士山を仰ぎ、眼下に浮島沼を見下ろし、その向こうに駿河湾を一望できる[19][23]

前方部

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浅間古墳の前方部前端の北側斜面一帯はとても乱れている。その乱れた部分を調査すると、横穴状の貯蔵穴であると判明した。この穴の壁面を観察すると愛鷹山麓に厚く堆積するローム層が浅間古墳の等高線6メートル付近まで及んでいる。また、後方部北西斜面の畑と墳丘斜面を区切る壁面を観察すると、同様のローム層が等高線5メートル付近まである。その2つの事実から空濠のある側では等高線5メートル付近まで地山であり、墳丘はその上に盛土したもので、浅間古墳の南西の側面は丘陵傾斜を考慮し、等高線8メートル付近まで地山を整形し、その上に盛土をして墳丘を築いたものであると推定される。そして、その盛土の一部は空濠を作ると同時に採土を利用したものである[28]

付近の遺跡や古墳との位置関係

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浅間古墳の南側には根方街道静岡県道22号三島富士線)が通っている。鎌倉時代以前にはこの街道はなかったが、その当時から人の行き来があったと考えられる[29]富士市役所の北側に位置する東平古墳を起点に、東に舟久保遺跡、宇東川遺跡、祢宜ノ前遺跡、そして浅間古墳の南東に宮添遺跡といずれも拠点的な大集落が約2kmの間隔で根方街道に沿い点在している。それぞれの集落の人が他の集落と交流し密接な地域社会を生み出していると考えられている[29]。 

浮島沼湿地を利用しての稲作、川や海の幸を利用して他地域との交流も行われていたと考えられている[23]

外部施設と出土品

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浅間古墳には、外部施設として葺石と周溝・周濠がある。出土品は須恵器が出土されたとしているが[30]埴輪に関してはさまざまな意見があり、存在は不明である[12]

後方部で確認された葺石

葺石

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墳丘の全体に直径20〜50センチメートルの河原石が敷き詰められている[5][22][31][12][29][6]。この石は土留めや草木の繁茂を防いだり、墳丘の偉容さを表した葺石とされていて、墳頂部にある浅間神社の社殿基壇にされている[32]。しかし、後方部西北斜面はに利用されているため葺石は明らかではない[33][28]

周溝・周濠

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浅間古墳には、周溝と呼ばれる墳丘の周囲に掘られた溝の痕跡が残っている[4][6][7]。また、前方部から見て右側である北東方向、愛鷹山寄りの丘陵と墳丘の間に幅16メートル、長さ50メートルの畑があり、丘陵と墳丘を区切る空濠(周濠のうち水が入っていないもの)の一部とされている[12][28]

埴輪

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浅間古墳に埴輪が存在したのかについては存在したという意見[6][34]と存在していないという意見[20]がある。また、埴輪の存在は不明である意見もある[12][35]

1930年に編纂された『静岡県史』には、以下のように埴輪の存在はなかったと記述されている。

また埴輪類も見當たらないやうである。 — 静岡県、『静岡県史 苐一卷』[35]

また、内藤晃による測量調査及び静岡大学人文学部考古学研究室による測量調査においても埴輪の存在は確認されなかった[20][36]

写真でみる日本史跡大事典』では、埴輪列が認められていたとしており[6]、『全国遺跡・博物館マップ』によれば、埴輪片が見つかったこともあるとしている[34]。また、『ふるさと静岡県文化財写真集』では円筒埴輪片が出土されたとしている[37]

築造時代と被葬者

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日本で古墳が作られた時代である古墳時代を年代ごとに分類すると3世紀末〜4世紀代を古墳時代前期、5世紀を古墳時代中期、6世紀以降を古墳時代後期となる。浅間古墳は4世紀後半から5世紀初頭に造営されたと考えられているため、古墳時代の分類に当てはめ、古墳時代前期〜中期に造営されたとわかる[11]。また、浅間古墳の立地や葺石があることからも古墳時代の前期〜中期に築かれたとわかる[3][5][6][22][20]

古墳時代前期〜中期に造営された古墳の特徴として、規模が比較的大きく単独で存在していることが挙げられる[11]。そのことから浅間古墳でも一般的な前期〜中期の古墳と同様、弥生時代以降に各地で成長してきた在地豪族である首長が祀られていると考えられている[22]。首長の勢力範囲については一般には、後の国造の勢力範囲とほぼ同じと考えられているため、この地域では富士市から沼津市駿東郡の一部である珠流河国とされている。したがって、浅間古墳の被葬者は弥生時代以降この地域で勢力を伸ばし、在地豪族の頂点に立った者、すなわち珠流河国の王とも言うべき位置を占めた首長である[29]珠流河国造とされている[2][11][5][19][38]

浅間古墳築造に続いて造営された東駿河の古墳は富士市にある墳丘長約60メートルの前方後円墳である東坂古墳である[10]


浅間古墳は前方後方墳で東坂古墳は前方後円墳という謎があるがそれには邪馬台国(前方後円墳)と闘った狗奴国(前方後方墳)勢力を表す説があるが、詳細は不明である[29]

浅間古墳の特徴からわかる被葬者像

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世界的に一般的墳墓の形は円墳であるが方墳というものは円墳のように世界的に一般的でなく特殊なもので中国のみで一般的な形であった[39][40]。その中国の墳墓の形に前方部を付けたのが浅間古墳の形状である前方後方墳である。そのため、この前方後方墳を築いた人物が何か中国に関わりのある人物であるとされている[40]西暦6世紀から7世紀に入ると方墳及び前方後方墳は一般的になり推古天皇陵とされている山田高塚古墳など多くの方墳、前方後方墳が築造された。しかし、浅間古墳が築造された西暦4世紀から5世紀ごろはほとんど方墳及び前方後方墳は築造されていなかった[40]。やはり、浅間古墳の被葬者である片堅石命は中国に関わりのある人物、つまり中国からの帰化人または中国文化に深い関わりのある人物であることが言える[40][41]

測量調査と歴史

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1901年明治34年)、富士市の東部、須津地区の増川地域に考古学者である坪井正五郎が来訪し、浅間塚古墳(現在の浅間古墳)を発見した[42]

浅間神社古墳
(原本は1930年に発行された『静岡県史 苐一卷』)

1930年昭和5年)、足立鍬太郎編纂した『静岡県史』は、浅間古墳を以下のように記述している。

墳丘は正しき前方後円墳の形式を崩したものになっている — 静岡県、『静岡県史 苐一卷』[35]
浅間古墳実測図
(原本は1930年に発行された『静岡県史 苐一卷』)

県史編纂当時は、前方後方墳に関する知識はとても浅かったため、前方後方墳ではなく前方後円墳と分類されていた[6][43]

1955年(昭和30年)3月に小野真一が踏査した結果も静岡県史と同様、前方後円墳であるということが判明した[44]

また、静岡県史に掲載されていた浅間古墳実測図は現在の見取略図に匹敵するほどの正確さに欠けており、墳丘の形式を理解することさえ不可能に近く[44]、前方後方墳と前方後円墳の理解に苦しむものであり、故に浅間古墳は前方後円墳であると信じられていた[45]。このような前方後方墳を前方後円墳と誤って理解することは、奈良県にある新山古墳のように浅間古墳の他にも例があり、古墳文化の研究における問題意識高揚させた[44]2024年時点でも文化庁が提供する文化遺産オンラインでは、前方後円墳と静岡県史と同様の掲載がされている[46]

後藤守一による測量調査(1955年)

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1955年(昭和30年)頃、古墳北側の畑を吉原市が買い上げることとなり、それを機会に、考古学者である後藤守一に測量調査を依頼した[47]。その結果、前方後方墳であり大きさが全長100メートルの最大級の古墳と判明した[47]

内藤晃による測量調査(1957年)

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1957年(昭和32年)6月、浅間古墳が国指定史跡に指定されることになり、その時に正確な測量が必要だということになり、静岡県は静岡大学教授内藤晃に依頼した[44][20]。この測量の結果をまとめた、内藤晃の論文遠江駿河の前方後方墳』によると、浅間古墳は全長103メートルの前方後方墳であり、墳丘の表面には葺石が存在する、富士市にある東坂古墳と同様の古墳時代中期にできた古墳であることが指摘されている[20]。この結果はすぐに考古学会に広まり、同年に編纂された「吉原市の古墳」には、浅間古墳が4世紀後半から5世紀初頭に築造された駿河国最古の古墳であると記述された[20]

静岡大学人文学部考古学研究室による測量調査(1997年)

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1997年平成9年)、静岡県が県内の重要遺跡を調査することになり[20]静岡県教育委員会から委託を受けた静岡大学人文学部考古学研究室が測量調査を行った[48]。結果、浅間古墳は全長90メートルの前方後方墳で葺石が存在するが、埴輪は存在しないということが再確認された[36]。南側(海側)が北側(山側)より墳丘が大きく造られているという非対称形の平面プランをもつことが確認された[36]

地中レーダー探査(2019年)

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浅間古墳はこれまで発掘調査が行われていなく、墳丘の状態や埋葬施設の存在が不明だった。そのため、2019年令和元年)10月上旬から中旬、富士市が株式会社フジヤマに委託し、地中レーダー探査を実施した[49][9]。結果、浅間古墳後方部にある浅間神社の西側の地表2.0メートルから2.5メートルの深さに強い異常反応を示す長辺約9.5メートル、短辺約6.8メートルの範囲と、異常反応を示さない長辺約7.4メートル、短辺約2.2メートルの範囲が確認された[9][49][50]。ここの地点は一般的に埋葬施設が作られる場所であるため、1〜3メートル程度の構造物に囲まれた埋蔵物、天井石がない竪穴式石室あるいは粘土槨のような埋葬施設があると考えられている[8][21][51]

『埋蔵文化財ニュース』において考古学者である若狭徹は、「東海地方最大級の古墳の埋蔵施設の構造がわかったことは非常に重要である。また、埋蔵施設が直交するのは浅間古墳に先立って築造された沼津市高尾山古墳と同じであり、高尾山古墳から地域首長権の系譜を弾いていることが推定され、高尾山古墳は木棺直葬であったが次代の浅間古墳の段階で竪穴式石室が採用されたとなると斜面に葺石が採用されていることも含めて中央政権との関係が深まったことが推定される。」と述べている[8][50]

同様に『埋蔵文化財ニュース』において考古学者である滝沢誠は、「埋蔵施設は古墳時代前期に特徴的な長大な竪穴式石室であるものをうかがわせるものである。しかし、天井石が存在しないと推定されるなど、他とは違う特徴を持っている可能性がある。竪穴式石室の存在をもってヤマト政権との関係を強調することはできないかも知れない。」と述べている[8]

UAVレーザー調査(2020年)

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2020年(令和2年)6月、浅間古墳は幾度も測量が行われてきたが、より詳細で広範囲な測量を行い、3次元データを取得するためUAV(ドローン)による調査を古墳の中心より南北に150m、東西300mの範囲で行われた[52]。本調査は上空を飛行するドローンから、地上にレーザーを照射させ、ドローンと地表面との距離を測定した。このレーザーはが生い茂っている場所でも地表面まで到達するため、より正確な古墳の形を測量することが可能である。本調査の結果、後方部側面に平坦部が存在し、浅間古墳は後方部二段、前方部一段の前方後方墳であることが判明した[52][9]。また、以前から判明していた南側(海側)と北側(山側)の高さが異なり、南側(南側)が高く作られているということが明確になった[52][9]

保存運動

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浅間古墳は同じく富士市にある市指定史跡千人塚古墳や県指定史跡琴平古墳と一体となり保存する活動が行われている。[53]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 国指定史跡浅間古墳×非破壊調査」『埋蔵文化財ニュース』富士市埋蔵文化財調査室、2022年7月吉日。2024年7月18日閲覧。
  2. ^ a b c 富士市教育委員会 2024、67頁
  3. ^ a b c d 学生社 2012、 241頁
  4. ^ a b c d e f 富士文化財愛好会 2006、 9頁
  5. ^ a b c d 渡辺繁治ら 1999、 148頁
  6. ^ a b c d e f g h i j 日本図書センター 1998、 52頁
  7. ^ a b c d e 小林智広 2015、 72頁
  8. ^ a b c d e 国指定史跡浅間古墳 埋葬施設が存在か」『富士市埋蔵文化財調査室』富士市市民部文化振興課、2020年2月吉日。doi:10.24484/sitereports.71130
  9. ^ a b c d e f 浅間古墳の調査成果についてお知らせします”. www.city.fuji.shizuoka.jp. 富士市. 2024年7月18日閲覧。
  10. ^ a b 静岡文化財団 2009、 41頁
  11. ^ a b c d 富士市須津地区まちづくり会議 1997、 70頁
  12. ^ a b c d e f g h 大塚初重、小林三郎 1996、 158頁
  13. ^ 吉原市教育委員会 1958、 146頁
  14. ^ 富士市教育委員会 1988、 125頁
  15. ^ 富士市教育委員会 2023、 117頁
  16. ^ 富士市教育委員会 1988、 88頁
  17. ^ 富士市須津地区まちづくり会議 1997、 84頁
  18. ^ 富士市須津地区まちづくり会議 1997、 352頁
  19. ^ a b c d 富士・愛鷹山麓の古墳を訪ねて”. 富士市教育委員会 文化振興課. pp. 12-13. 2024年6月22日閲覧。
  20. ^ a b c d e f g h 富士市教育委員会 2022、 96頁
  21. ^ a b 富士市教育委員会 2021、 100頁
  22. ^ a b c d 富士市市民部文化振興課 2019、 4頁
  23. ^ a b c 渡辺繁治ら 1999、 149頁
  24. ^ 富士市教育委員会 2022、 71頁
  25. ^ 富士市須津地区まちづくり会議 1997、 71頁
  26. ^ a b 静岡文化財団 2009、 42頁
  27. ^ 富士市須津地区まちづくり会議 1997、 72頁
  28. ^ a b c 富士市史編纂委員会 1972、 220頁
  29. ^ a b c d e 静岡文化財団 2009、43頁
  30. ^ 富士市教育委員会 1988、 126頁
  31. ^ 富士市須津地区まちづくり会議 1997、 72頁
  32. ^ 考古学研究会 1958、 22頁
  33. ^ 吉原市教育委員会 1958、 145頁
  34. ^ a b 浅間古墳 - 静岡県 - 行ってみよう〜全国遺跡・博物館マップ〜”. 全国こども考古学教室. 2024年8月21日閲覧。
  35. ^ a b c 静岡県 1930、 640頁
  36. ^ a b c 富士市教育委員会 2022、 97頁
  37. ^ 静岡県教育委員会 1992、35頁
  38. ^ 富士市史編纂委員会 1972、 351頁
  39. ^ 大塚初重 1964、 132頁
  40. ^ a b c d 吉原市教育委員会 1958、 144頁
  41. ^ 鈴木智博 2012、 45頁
  42. ^ 「約1万5千年前より始まる増川地域の遺跡群を見る」『富士・須津風土記』増川特集号第2号、小野眞一、郷土史研究所、2008年5月10日、1面。
  43. ^ 富士市史編纂委員会 1972、 218頁
  44. ^ a b c d 考古学研究会 1958、 20頁
  45. ^ 吉原市の古墳 1958、 143頁
  46. ^ 浅間古墳 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2024年8月13日閲覧。
  47. ^ a b 富士市須津地区まちづくり会議 1997、295頁
  48. ^ 富士市教育委員会 2019、 127頁
  49. ^ a b 富士市教育委員会 2021、  99頁
  50. ^ a b 富士市、レーダー探査 国史跡・浅間古墳 「埋葬施設」存在か:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2024年9月4日閲覧。
  51. ^ 富士市教育委員会 2022、 114頁
  52. ^ a b c 浅間古墳×ドローン」『埋蔵文化財ニュース』富士市埋蔵文化財調査室、2020年10月吉日。2024年7月18日閲覧。
  53. ^ 目標11「住み続けられるまちづくり」」『富士市埋蔵文化財調査室』富士市市民部文化振興課、2023年4月5日。

参考文献

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遺跡発掘調査報告書

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事典

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