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利用者:じょをつん/sandbox

 
武田 義頼
時代 室町時代安土桃山時代 / 戦国時代
生誕 天文 (元号)15年(1546年)以前
死没 天正10年(1582年6月
改名 龍水丸→義頼
別名 六角義頼、六角次郎、左京入道
幼名:龍水丸、流水丸 / 法名:崇喜
官位 従四位下左京兆
幕府 室町幕府
主君 足利義昭
氏族 若狭武田氏(実近江六角氏
父母 六角義実[注釈 1]足利義時[1][注釈 2]
武田義統[注釈 3]
兄弟 六角義堯義頼
武田勝頼養女(武田義信娘)
武田信統武田信隆
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武田 義頼(たけだ よしより)は、室町時代から安土桃山時代戦国時代ごろの武将近江六角氏に生まれたが、若狭武田氏の養子となった[2][1]

概要

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近江国守護大名家、六角氏の六角義実(六角隆頼[3][注釈 1])の次男に産まれる[2][1][注釈 3]。生年は不詳、母親は足利義時の娘[注釈 2]で、幼名は龍水丸[4][5]

天文15年(1546年)、父の義実が没すると、その後見人である六角定頼(箕作定頼)が名実ともに惣領となり、管領代に任ぜられる。これにより、必然的に廃嫡された龍水丸は母方の実家に引き取られる。

同17年(1548年10月9日、生母が若州武田義統正室として嫁ぐと、その猶子となる[4][注釈 3]。この際に馬杉実宗黒田重国を近習家老に付けられたという[4][注釈 4]。嫡流ではなかったため先例に倣って建仁寺十如院で年少期を過ごし、同院と関わりの深い宮川武田氏の管理下に置かれる。

弘治2年(1556)、元栄と三男元康による後継者争いが起きた際には、若狭武田信豊宮川武田信重兄弟が元康を支持した。しかし、騒動の初めの年に信重が死去し、元栄方の武田信方がその地位を継承したため軍事力を掻っ攫われ、元康方は惨敗を喫した。これに応じて信豊・元康父子は若狭を追放され、宮川武田氏の庇護を受けられなくなった龍水丸もこれに連れられて近江六角氏に匿われる。

後に元服して武田義頼を称した[2][1]官位従四位下左京大夫であった[2]が任官時期は不明。若狭武田氏のもとで安田作兵衛(後の天野貞成)などの家臣を従えた[6]。精兵かつ大力であったという[1]

永禄11年(1568年)、亡命中の足利義昭が身を寄せていた越前国守護朝倉義景は、幕臣細川藤孝の進めを受けて上洛を定めた[7]。この時に義頼は催促に応じ、総勢二万三千余の上洛軍のうち三千の兵を動員したという[7]。しかし、下間頼秀率いる加賀国能登国越中国本願寺門徒衆総勢八万余が朝倉義景の留守に乗じて攻め入ろうとしていると聞き、大いに驚いた義景は同年6月18日の予定であった上洛軍の進発を遅らせた[7]。翌7月、足利義昭は一乗谷を去った[7]

天正10年(1582年6月、死去する[8]。法名は崇喜[1]

次男の武田信隆は、宇喜多家に仕えて関ヶ原の戦いで討死し、子孫は和気郡佐伯村に土着した。

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f 『源姓武田氏系図』市立米沢図書館本16コマ目
  2. ^ a b c d 『六角佐々木氏系圖略』東京大学史料編纂所本14コマ目
  3. ^ 『大永六年五月二十八日付青木社中宛六角隆頼願状』
  4. ^ a b c 『江源武鑑』国文学研究資料館本151コマ目
  5. ^ 『岡本豊吉所蔵武田氏系図』東京大学史料編纂所本6コマ目
  6. ^ 『立花宗茂朝鮮事記』巻末
  7. ^ a b c d 『細川家記』こと『緜考輯録』国立国会図書館本38コマ目
  8. ^ 『沙々貴神社所蔵佐々木系図』

注釈

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  1. ^ a b 初名は六角隆頼。後に足利将軍家の偏諱を受けて義久、義実と改める。
  2. ^ a b 別名に足利義範、足利豊後守源右門大夫義範、足利随風とも。足利義遐(足利左馬頭源三位義遐)と六角氏女(六角高頼あるいは六角高成娘)との間に生まれた庶長子で、九里信隆近江国水茎岡山城で生まれた。系譜は足利義久足利義氏足利義制足利義遐足利義範(足利義時)ー足利義房
    『江源武鑑』によれば足利義晴娘。
  3. ^ a b c 『岡本豊吉所蔵武田氏系図』によれば実は木曽義実二男で、武田元信左京大夫、母佐々木定頼女)の養子になったという。ただし、この本では武田義統の子に元信、(信方)、信重永雄を記し、更に「武田信田信景(彦五郎信方)ー信方(彦五郎)」という系譜を記すなど、他系図との大幅な差異、混同がみられる点を留意すべきである。
  4. ^ 原本による表記は「馬杦権守實宗」と「黒田十内左衛門尉重國」。

参考

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