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小笠原事件(おがさわらじけん)とは、太平洋戦争中におがさらわ諸島父島に駐屯する日本軍部隊が米軍の捕虜8名を殺害、遺体を損壊し人肉を嗜食した事件[1]。別名、父島人肉食事件。
経緯
[編集]東京から1000km南方に位置する小笠原諸島父島は古くから父島要塞司令部がおかれていた。太平洋戦争中にサイパンが陥落すると、日本軍は連合国軍の次の目標は硫黄島であると予測し、小笠原諸島を要塞化して侵攻に備えた。硫黄島には第一〇九師団からなる小笠原兵団が置かれその指揮官として栗林忠道中将が派遣された。父島は硫黄島への中継基地として混成第1旅団(立花芳夫指揮、9000名)と海軍の父島方面特別根拠地隊(森国造指揮、6000名)と父島通信隊が置かれた。
1944年6月15日に初めてアメリカ海軍および海兵隊の空母艦載機による父島空襲が行われ、水上機数十機が破壊され要塞司令部が破壊され民間人14名が死亡した。数日後に対空砲火によって撃墜された機の捕虜2名が捕らえられ、横須賀海軍基地に送られた。7月に栗林中将は補給任務に当たらせるため参謀の堀江芳孝少佐を派遣し小笠原兵団派遣司令部を置き、堀江少佐に混成第1旅団の指揮も委ねた。7月4日の独立記念日にあわせて行われた空襲で捕虜となったハーシェル・コーネルは二見湾で日本の小型船に捕らえられた。ウールホフ他その後捕らえられた数名の捕虜は堀江の英会話教師となり数日間を過ごしたのち硫黄島経由で本土へと送られた。サイパンを拠点に小笠原諸島における日本軍の輸送船への偵察、攻撃が行われた。7月4日の攻撃で捕虜となったロイド・リチャード・ウールホフと8月5日に捕虜となったウォレン・ヒンデンラングは8月6日に立花の命令により銃剣で殺害された。
8月から9月にかけても空母艦載機と艦砲射撃による攻撃が行われた。9月2日の攻撃では爆撃機パイロットであったブッシュの操縦する機が撃墜されたが、ブッシュは待機していた潜水艦フィンバックに収容された。生き残ったのはブッシュ1名だけだった。
1945年に入ると2月19日の硫黄島上陸作戦に合わせて大規模な空襲が再び行われた。2月18日にジェームズ・ダイ、グレン・フラツァー、ロイド・ホール、マーヴィン・マーション、グラディー・ヨークが撃墜され捕虜となった。2月23日にはウォレン・ヴォーンが捕らえられた。同日に立花はマーションを処刑するよう末吉少尉に命じ、末吉は森下少尉にこの任務を譲った。森下は軍刀でマーションの首を切り落とし殺害した。翌日に埋葬されていたマーションが掘り起こされ、肝臓と太ももの肉が切られてその夜に行われた宴会において供された。立花は「人肉を食うぐらいの気概がなくてはならぬ」、的場は「諸君が強い兵士になるにいはこんな肉を食わねばならぬ」と述べた。ダイは山下大尉の指揮で軍刀で斬首され、ヨークは吉井海軍大佐の命令で銃剣で殺害された。ヨークの肝臓は佐々木軍医により切り分けられその夜に吉井の催した宴会で食された。吉井は立花からヴォーンの身柄を預かり、通信所に連れて行かれて情報を聞き出された。堀江はこの間ボーンを英会話教師にしていた。3月14日にアメリカ軍が硫黄島の組織的抵抗が終了したと発表すると、17日にヴォーンは二見湾の魚雷艇隊司令部に連行されて海軍将校兵士150人が見守る中で小山少尉により斬首された。松下軍医はヴォーンの肝臓を取り出すよう命じられている。ロバート・D・エルドリッヂは「その後の噂」としてヴォーンのその他の肉も切り取られスープにされ食されたとしている。秦郁彦は「関係者の回想」としてヴォーンの肉は味噌汁に入れられ食膳に出されたとしている。当初殺害役を命じられていた少尉候補生の土屋公献は、ヴォーンの遺体を損壊して食べた事実は無く、ヴォーンの死体は埋葬され当夜に飢えた兵がヴォーンの遺体を掘り起こそうとした際にも当直であった土屋が制止したと主張している[2]。
3月23日に「父島の皆さんさようなら」の通信文を最後に硫黄島との連絡が途絶すると、立花少将を中将に昇進させ第一〇九師団師団長に任じた。小笠原兵団派遣司令部の解散により堀江少佐は第一〇九師団の参謀に転じた。3月25日に的場によって残されたホールが斬首されやはり肝臓と太ももの肉が取り出されて森海軍少将の宴会に出された。的場少佐の部下の供述調書によると、この時に的場少佐が発した命令は次の通り[3]。
- 一、大隊は米人飛行家ホール中尉の肉を食したし
- 二、冠中尉は此の肉の配給を取り計らうべし
- 三、坂部軍医は処刑に立会い、肝臓、胆嚢を取り除くべし
- 1945年3月9日 午前9時 大隊長 陸軍少佐的場末男
- 発令方法…冠中尉並に坂部を面前に呼び口頭命令、報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ
そこで、大木に針金で括りつけた捕虜を予備役応召の伊藤喜久二中佐に師団長命令を発して斬殺させるなどし、さらに軍医に遺体を解体させて、その肉を戦意高揚のためとして焼いて酒宴の肴とした。後の証言によれば、立花は米兵の手足の肉や内臓を食べると、「これは美味い。お代わりだ!」と喜んだという。
戦後
[編集]1945年8月15日終戦、9月2日に父島に上陸した米軍は捕虜の行方を調査し、事実を知り驚愕する。的場大隊および関係者を拘束して事情聴取し1946年2月に立花中将と的場少佐の他、海軍の森国造中将と吉井静雄大佐ら酒宴に参加するなどした27名(29名説あり)をBC級戦犯として起訴した。
その結果、立花、的場、吉井、伊藤、中島昇大尉ら5名が絞首刑(森は終身刑、但し別途オランダによる裁判で刑死)、終身刑5名、有期刑15名となった。立花と的場は処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けた[4]。
参考文献
[編集]- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫、1999年) ISBN 4-16-745305-3
- 第32章 人肉事件の父島から生還したブッシュ p249~p274
- 堀江芳孝『闘魂 硫黄島 小笠原兵団参謀の回想』(光人社NF文庫、2005年) ISBN 4-7698-2449-1
- James Bradley『FLYBOYS : A True Story of Courage』(Little Brown Books、2003年) ISBN 0-316-10728-X
脚注
[編集]- ^ GHQ法務局調査課報告書(INVESTIGATION DIVISION REPORT,LEGAL SECTION,GHQ/SCAP)137号 388号 392号 2704号
- ^ 澤田猛「父島事件 真相の一端」(POW研究会サイトより)
- ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下 p265
- ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下 p270、また半藤一利・秦郁彦・保阪正康・井上亮『「BC級裁判」を読む』(日本経済新聞出版社、2010年) ISBN 978-4-532-16752-3 第4章 その罪、天地に愧ずべし p292~p294
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