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利用者:いかえんぺら/sandbox

福知山市夜久野町京都府北西部に位置し、古くから日本でも有数の漆の産地で、質の良い漆を産出することで知られている[1]

本項では夜久野町における丹波漆と漆搔き(やくのちょうにおけるたんばうるしとうるしかき)について述べる。

丹波漆は品質が良く、夜久野地方の貴重な産物であり、地元経済を大きく支えてきた生業であった。

漆の栽培と生産の推移

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漆の歴史

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江戸時代
福知山藩で主要な特産物であり、その中でも夜久野郷は主生産地の一つだった。
百姓それぞれが畑地やサキ地末に栽培し、枯れ木になった木はすぐに植え替え、木数を減らさないようにしていた。木数を減らさないようにしていた要因は、役人からそう言われており、それを承知した文書を提出していることが分かっている。
幕末になると、産物に関する法律も作られ、「産物を抜いて売買する者は最も重罪」など、厳しい内容であったため、藩内農民から反感を買い、市川騒動へと発展した。この騒動は、夜久野郷が主動力であったとも言われている。
明治時代
中国大陸から安い外国漆が輸入され始め、日本の漆採取業者は徐々に苦しい立場に陥る。
昭和時代(戦前・戦時中)
生漆の生産は漸減し、輸入漆への依存が高まっていく。この状況下から脱出しようと、国は国産漆の増産奨励に乗り出す(10ヵ年計画)。しかし、10ヵ年計画の最終年は、太平洋戦争真っ最中で計画が進行されていたかは未だ疑問である。
昭和時代(戦後)
国内資源の活用の推奨がGHQの指示のもと始動される。1948年に京都商工会議所で漆液増産についての協議がなされ、そこで丹波漆生産組合が設立される。

漆生産不振の要因

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漆の生産不振の要因は、明治時代以降の大陸漆の輸入、昭和初期の不況、養蚕業の盛況、植林の盛栄が主な要因とされている。その中でも、養蚕業の盛況は、漆畑を畑に転換する農家が増え、漆掻きから蚕飼いで生計を立てるようになったからだと言われている[3]

夜久野の漆掻き

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明治初年時、漆関係の仕事が福知山では首位を占めていた。

額田旦の漆掻き

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額田旦では、農業を営むかたわら、漆掻きを従事していた。耕地が比較的少なかったため、戸主が漆掻きに出ても家内手だけで農業が出来る規模の農家が多くいた。盛時は、漆の木が多くあったが、掻き手の方が多くいたため、多くの掻き手が漆を求めて出稼ぎに行っていた。

その掻き手が節の日(5月)5人、10人を連れて出稼ぎに行くので、「5月の節行き」と称していた。出稼ぎ先は、天田郡中心で、京都府内や若狭遠敷郡但馬美作備中、遠方だと、石見九州まで出向いた。出稼ぎ先では、掻き手のことを「掻きさん」と呼ばれていた。

「山たて」

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漆掻きの仕事を終えてから次の仕事の手筈を整えることを、「山たて」という。

よい木のある場所を同業仲間で紹介し合い、次の仕事場の選定をするとともに、そこで仕事をするための資金を調達するための段取りも含んでいる。

漆の木の成育度や良否を見て、仕事場を設定するには長年の経験と勘が必要とされ、紅葉した木には質の良い漆液がでるが、早くから黄色く色づいた木からは漆が出ないという。

徒弟奉行

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良質の漆液を採取するためにはそれなりの技術、経験が必要とされ、農業の片手間でできる仕事ではないという。

漆掻きの前提条件
漆掻きの前提条件として、漆にかぶれないこと、大きな農業経営をしていないこと、辛抱強く働ける者であることなどが挙げられる。また、漆掻きを目指すものは年頃になると思い思いに親方をとって弟子になり、修行を積む。

山の神講

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漆掻き仲間だけの山ノ神講の風習があり、内容としては、山仕事の無事や資金融通の話などもされた[7]

漆掻きの時期・手順・方法

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漆掻き暦

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[7]

初夏・盛夏・秋・晩秋の各時期に採取される漆液は質も異なり、それぞれ特別な呼称がある。

6月上旬 ハツウルシ
中旬
下旬
7月上旬 サカリウルシ
中旬
下旬
8月上旬
中旬
下旬
9月上旬
中旬 オソウルシ

(トメウルシ)

下旬
10月上旬
中旬
下旬
11月上旬 セシメウルシ
中旬
下旬
12月上旬

採取に当たって1本の木から毎日連続して採ると樹勢が弱まり、また樹液の質も落ちるため、常に適度な間隔をあけて休ませながら採る。その際、あまり長く休ませると樹液に水分が多くなって質が落ちるので、5日目に元の木に戻る「5日ヘン」が一番良い。「山たて」に当たっては上記のことを考慮し、一人掻きを行う。樹液の質が良く仕事もやりやすいのは15 - 16年生の径5、廻り15寸くらいの木で、これを中心に300本で一人掻きをすることが理想とされた。

ハツウルシ

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初鎌を入れる時期は漆の花が7割程度開花した頃が適期で、丹波では6月上旬。二辺鎌、三辺鎌、四・五・六辺鎌と時間がたつごとに漆の量や色、粘性なども徐々に変わっていく。初鎌から20日余り過ぎると漆が大分出るようになり、この時期の漆を「ハツウルシ」と呼ぶ。この時期までに初鎌、二辺鎌、三辺鎌、四・五・六辺鎌までを行う[8]

サカリウルシ

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七辺鎌は6月末か7月初めになり、この辺掻きから「サカリウルシ」となる。漆掻きにとってはこの7 - 8月の2か月間は勝負の時である。この期間は気温が高く、樹力も旺盛で樹液の分泌も多い。この時期に良い漆をたくさん掻くために6月初めから準備をしてきたわけである[9]

オソウルシ

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9月に入り気温が下がり始めると樹液の量も減り、質も落ちる。この時期から「オソウルシ」、別名「トメウルシ」となる。この時期に出る樹液は樹脂が多く粘いものである[10]

セシメウルシ

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11月からは「セシメウルシ」となり、「枝ウルシ」とも呼ばれる。トメウルシもセシメウルシを量は結構出るが透明度は劣る。しかし粘着力が強いため、友禅の型紙を作るのに適し、重宝がられた[10]

丹波漆の復活と現状

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丹波漆の復活に生涯をかけた故衣川光治の志を受け継ぎ、1986年(昭和61年)に漆の研究に力が注がれるようになった。また、1999年(平成11年)にオープンした「農匠の郷やくの」の「やくの木と漆の館」では丹波漆関連の展示と漆器製作、漆樹細工の民芸品つくりなどが試みられており、復活への足掛かりができている。

漆樹の栽培

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樹液を掻いた木は役目が終わり、毎年続けていくためには計画的な植樹が必要。しかし、幼木の段階は鹿の害もあり防獣対策を行わなければならない苦労もある。

京都府教育委員会は1991年(平成3年)4月19日付で、丹波漆生産組合あてに漆掻きの技を「丹波の漆掻き」として京都府指定無形民俗文化財に指定した。歴史的特産物の丹波漆が伝統の技を継承しながら復活発展することを願うものである。

脚注

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  1. ^ NPO法人 丹波漆”. NPO法人 丹波漆. 2019年11月19日閲覧。
  2. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, pp. 450–453.
  3. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, p. 453.
  4. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, p. 454.
  5. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, pp. 454–455.
  6. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, pp. 455–456.
  7. ^ a b 夜久野町史編集委員会 2005, p. 456.
  8. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, pp. 456–458.
  9. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, pp. 458–459.
  10. ^ a b 夜久野町史編集委員会 2005, p. 459.
  11. ^ 夜久野町史編集委員会 2005, p. 461.

参考文献

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  • 夜久野町史編集委員会 編『夜久野町史』 第1巻(自然科学・民俗編)、夜久野町、2005年2月。全国書誌番号:20758742 

関連項目

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外部リンク

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