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田原の語源について

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こんにちは。田原町民として生まれ、現在は田原市民のAboshiです。 さて、田原市において田原を吉田の原であると書いておられますが、その元資料は何でしょうか?地理的には田原の中心地と豊橋(吉田)は山と川を隔てて離れており、田原が吉田の原などといわれても土地勘的にピンと来ませんし、子供のころからそれなりに歴史に興味を持ってきましたが、そういった話を一切聞いたことがありません。回答いただけるまでは、コメントアウトさせていただきますので(一時的に内容を見えなくするもので、実際に消去するわけではありません)、よろしくお願いいたします。Aboshi 2005年12月27日 (火) 14:49 (UTC)[返信]

>>>>>>>>>>>>> 自治体HPやネットを検索しても田原の由来が確認できません。よって、推測の仮説です。 田原城が築城された当時、吉田(豊橋)から田原まで戸田氏が支配していました。 吉田(城・宿・橋)という中心地から見て、渥美半島は緩やかな丘陵地帯が広がっているので、吉田ノ原=田原ではないかと。長篠城西方を設楽原、豊川市西部を本ノ原というようですし。同様の事例かと。 現在の田原市中心部を指すのではなく、豊橋市南西部一帯を指すのだと思いますよ。 豊橋市南西部は、河川の中下流域なので稲作も盛ん。ただ半島も先端に行くに従って、米作(田)には適しない原野。 よって、田原。現在の田原市の産業は、豊川用水開通後の畑作ですよね。 御領主の戸田氏も田が付く姓だし。 それから、中世は豊川は吉田川と呼ばれています。

飽海川(あくみがわ)→吉田川→豊川(とよがわ)、名称の変遷。

>>>>>>>>>>>>>>>>> 東三河地域の歴史は捏造が多く、当時の呼称などから判断しています。江戸時代中期以降の古代史研究の国学者の意見(発行された書物など)は、無視しています。 私は地元民ではないので、冷静に第3者の視点で分析しています。

東三河地域の歴史を見ると、豊川市の豊川稲荷などが台頭してきた江戸時代中期以降に、古代史観や地域観が確立提唱されているので、作為が加わる以前の事実から判断するべきです。

ご高説は承りました。ただし、個人の推測をウィキペディアに載せることはできませんので、掲載はできません。あしからず。Aboshi 2005年12月29日 (木) 13:06 (UTC)[返信]

著作権にご注意

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ノート:三河国について:外部サイトの文章を転載するのは著作権侵害の虞がありますのでおやめください。--miya 2005年12月28日 (水) 16:21 (UTC)[返信]

三河国の削除依頼について

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調査不十分で削除依頼に出してしまったことをお詫びします。ただし、他人の編集を押しのけて、自分の研究成果(?)を発表することはつつしむことをお願いします。--H.L.LEE 2005年12月29日 (木) 00:29 (UTC)[返信]

東三河・奥三河などの問題について

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ノート:豊橋市新城市穂国造東三河三河国などの記事に、名称・歴史に関する意見・主張を色々書き込んでいるようですが、Wikipediaはそういう事をする場ではありません。「勝手に名乗る」とか、「捏造」などと言われても対処しようがありませんし…。そういった意見は、役所や専門の歴史学者などに主張すべき事ではないでしょうか?--松茸 2005年12月29日 (木) 05:03 (UTC)[返信]