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利用者‐会話:203.205.154.41

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プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。ウィキペディアにご寄稿頂きましてありがとうございます。203.205.154.41さんが同じ記事に対して短時間に何度も投稿されているようなので、同じ記事への連続投稿を控えて頂くようお願いに参りました。

投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明があるのでよろしければお読み頂けると幸いです。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますのであわせてお読みください。ご理解とご協力をよろしくお願いします。 --Tietew 2006年1月17日 (火) 05:42 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。ウィキペディアにご寄稿頂きましてありがとうございます。203.205.154.41さんが同じ記事に対して短時間に何度も投稿されているようなので、同じ記事への連続投稿を控えて頂くようお願いに参りました。

投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明があるのでよろしければお読み頂けると幸いです。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますのであわせてお読みください。ご理解とご協力をよろしくお願いします。 --Tietew 2006年2月5日 (日) 14:37 (UTC)[返信]

らしい

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はじめまして、代言人と申します。沢山の三国志関連の投稿をされ、深い知識に驚かされます。さて、貴方の投稿を拝見いたしますと表題の様に『らしい』と表現している文章が散見されます。らしいと言う表現は私個人の感覚では真偽が極めて不明で非常に無責任な印象を持ちます。『噂では』と近い表現ではないかと。しかし、貴方の文章は正史等の文献を元に執筆されていると推察します。実際に正史等の原典に記されているのなら『らしい』にはあたらないのではないかと思います。また、後世の歴史家が独自の研究によって導き出した説であるならばこれもまた研究ではこうであると表現をすべきであって『らしい』にはあたらないでしょう。『らしい』としか表現できないほどの情報であるならば記述すべきではありません。ある程度の根拠を元に執筆されているのでしたら表現を変えてみては如何かと思い、個人的な意見ですが筆をとりました。--代言人 2006年2月5日 (日) 14:48 (UTC)[返信]

参考文献は何でしょうか?

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いつも三国志記事の新設をして頂きましてありがとうございます。記事執筆に当たって一つお伺いさせて頂きたいと存じます。203.205.154.41さんはどの様な文献を主に参照されていらっしゃいますでしょうか。日本語版ウィキペディアでは2006年2月7日 (火) 12:20 (UTC)現在 転載や引用はできず、内容をご自身の言葉で書き下す必要が御座います。もし転載の虞があるとされると後日一斉に削除されてしまう事も御座います。 203.205.154.41さんがご執筆下さった記事が削除されない様にする為にも、ぜひ参考文献をご教授下されますようお願い申し上げます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。代言人 2006年2月7日 (火) 12:20 (UTC)[返信]

お答えしましょう

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203.205.154.41です。ご丁寧どうも…

自分の参考文章は、徳間書店の「三国志全人名事典」と陳舜臣氏の「中国の歴史③」と河出書房新社の「中国歴代皇帝人物人物事典」(岡崎由美&王敏 著)と「三国志/きらめく群像」(高島俊男 著)を大いに参考として、自分独特の言葉で書き下ろしています。あとは借り物の本の「華陽国志」も参照としてます。

これからもよろしくお願します。 203.205.154.41 2006年2月7日 (火) 1:55 (UTC)

お返事ありがとうございます。話は変わりますがログインしてアカウントを作成することをお勧めします。ログインユーザになりますと編集にあたっての色々な機能が使える様になります。203.205.154.41さんはIPアドレスが変動しない環境と御見受けしますがIPアドレスのままですと居住地域やISPが容易に判明するだけでなく、その道のプロなら個人情報まで手に入れる事が出来るといいます。ログインせねばIPアドレスが表示されるのはウィキペディアの仕様として致し方ありませんのでアカウント作成を是非ご検討ください。きっと私の文章の下に斜体でリンクが表示されていることでしょう。--代言人 2006年2月7日 (火) 17:43 (UTC)[返信]

わかりました

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上記の通りに検討してみましょう。

203.205.154.41 2006年2月7日 (火) 2:47 (UTC)

項伯と張魯について

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初めまして、らりたと申します。中国史関連の積極的な投稿ありがとうございます。
二つほど質問がありましてご面倒でしょうがよろしくお願いします。
項伯項羽の叔父ではないということと張魯張良の末裔であるということはどちらの史料がソースになっているのでしょうか?
私は今までそのようなことは聞いたことがないのです。
それでは今回はこれで失礼します。お返事待ってます。らりた 2006年2月13日 (月) 11:41 (UTC)[返信]


張魯と項伯についての解釈

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らりたさん。初めまして。質問にできる限りお答えしましょう。

張魯が張良の末裔の説の場合は詳しくはわかりませんが…張良が政界から隠棲し晩年は漢中の紫柏山の山奥に籠っていたとか… 後漢末になって、張良も大いに関わった道教系の五斗米道教の教祖で沛の人の張魯が張良の子孫と称し、劉焉に従ってその紫柏山付近で張良を祀る名目で張良廟を建てた… その原文は張良廟内にある「到了東漢末年、張良的十代玄孫漢中王張魯、為紀念其先祖建立此廟」…とあります。※漢中から張良廟まで、或いは関中の宝鷄から張良廟方面ののバスもあると…聞きます。

項伯の場合は定説では確かに項梁の末弟ともいわれますね。でも、史記を読むと項梁よりも項羽とは縁が薄そうな感じがしますし……また項羽とは距離を置かれてる節があり、最後の垓下の戦いの前後ではは今まで家臣扱いされて項伯自身が項羽に不快感を感じたとか。 楚では親族の年長者を敬う習慣があるのは周知の通りです。これは父の兄弟なら全く該当しますが、 父の従弟なら、父の兄弟ほどでなく親近感が薄れ、どこかぞんざいに扱う感じが出るのが人情ではないかと… そういう意味で項伯は項羽の叔父ではなく「従父」(亡父の従弟)ではないかと窺いました。つまり項燕の甥ということになりますが… 以上、個人的な解釈でした。

203.205.154.41 2006年2月13日 (月) 22:27 (UTC)[返信]

張魯に関してはその張良廟がソースなのでしょうか。それ以外、史書でそう書かれていた訳ではないのですね?
項梁に関して「史記を読むと・・・」と書かれていますが、その『史記』にはっきり季父(末の叔父)と書かれているのですが?それに従父兄弟と書いていとこと読みますが、国語辞典で調べた所、従父は父方の叔父のことです。それとも古代ではそちらの意味だったのでしょうか?
そしてですが、ウィキペディアは人類共通の知識となったものを記録していく場所です。あなたの個人的な解釈を載せることはおやめください。らりた 2006年2月14日 (火) 12:42 (UTC)[返信]

 続・項伯について 

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くどいようだけど、史記では「季父」とは項伯じゃなく、項梁のことだそうです。 何故かというと、項伯という呼び名は項羽と同じように「字」ほうが有名になってしまったのはもう定説ということで…

つまり、項羽は「項籍」で、項伯は「項纏」…この時点で楚の風習である「伯(孟)・仲・叔・季」がある通り、原則として兄弟順で「字」をつけるのは、 当然のことで。結論としていうと、「伯」の字がある以上、項伯は長男だと思います。それも項燕の兄弟のうち項某の子だと思います。そうじゃないと項梁の「季父」の意義が無くなりますからね。この楚の制度は前漢初期まで続いたそうです。2ちゃんの三戦板のベテランの「ぷらっと」氏も自分と同様に解釈してますよ。 張魯の場合は祖父の「張陵」が誤って「張良」と間違ったということで…

以上です。


もう一つ言い忘れてました。系図の意義を解釈すると「従父」というのは父の従兄弟や双従兄弟のことを指し、「族父」とは父と同世代の遠縁の「族兄弟」のことを指すようです。但し、「伯父」(孟父?)「仲父」「叔父」「季父」は父の兄弟のことには相違ないようです。もし、自分に疑問があるようなら2ちゃんの三戦板で「ぷらっと」氏に直接反論してください。自分はぷらっと氏と同意見なので…

203.205.154.41 2006年2月15日 (月) 23:37 (UTC)

 ちよっと、訂正&まとめ 

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史記で項梁が「季父」とはっきり記されてるから、彼は間違いなく項燕の末子で… 項羽の父は項燕の何番目の子かはわからないけれど、多分、年長の子でしょうね。 今度はらりたに訊きたいんですが、らりたさんは項伯が 項燕の長男だと言いたいわけですか?

自分はそうは思いません。項伯は項羽よりも張良と絆が深いし、項羽とは項梁と比べると縁がいかにも希薄そうだし、鴻門の会でも張良の依頼で、劉邦を刺し殺す指令を受けた項羽の従弟の項荘から、劉邦を庇う行為をしてますし、おそらく項羽自身も自然に項伯に対していい感情は持たなくなったと自分は思いますね。

仮に項伯が項羽の「伯父」だとしたら、これはかなりの高齢でしょうね。文献によっては項梁の末弟ともあるようですが…これは項伯が項梁よりも年少であることを物語ってると思いますね。項梁が「季父」である以上、項梁の兄弟とは考えにくいと思いますがね…

以上です。


 最後に 

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もし、らりたさんが自分の歴史的な解釈が気に入らないというのなら、203.205.154.41のコーナーをを丸ごと削除依頼を出しても問題はありませんよ。自分は全く無問題ですから。自分は自分の歴史解釈がありますから…

どうも丁寧なご返答ありがとうございました。ただ『史記』には項梁も項伯も「季父」と記してあるのです。私も項梁が「季父」と記してあったのをすっかり失念していました。すいません。この二つは明らかな矛盾であり、203.205.154.41さんがおっしゃるような推論も成り立つのですが、推論は推論であり、ウィキペディアには「そういう矛盾がある、こういう解釈をする説もある」と書かねばならないのです。それが完全に定説化しているのならばはっきりそう書いていても良いのですが。それと気に入るとか気に入らないとかいう話ではなくて、私自身には解釈はありません。それは私の能力の範疇を超えています。ウィキペディアに誰かの解釈を載せる場合は専門家の解釈を載せるべきであり、失礼ですが203.205.154.41さんの解釈を載せるわけにはいかないのです。その説を出している専門家の方はおられるのでしょうか?(2ちゃんねるの方の解釈を載せるわけにはいかないのです)
私自身の勘違いもあり、混乱させたかもしれませんがすいません。それではこれで失礼します。らりた 2006年2月16日 (木) 09:18 (UTC)[返信]

 お知らせ 

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自分はもう先月いっぱいで2ちゃんから足を洗いました。 もう全然、未練はありませんし、依存症も全くありません。 これからは、歴史や自分の興味がある分野に専念したいと思います。

以上です。

203.205.154.41 2006年3月10日 (金) 20:03 (UTC)

夏侯佐ほかについて

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こんにちは。ご無沙汰しております。

さて、夏侯佐にソースありと記事を起こされましたが、ならばソースをしっかり本文でもノートでも挙げましょう。記事数が増えたウィキペディアにとって、記事そのものの信用性が大きな課題となっております。他の記事においても、できるだけソースをあげるように心がけてください。一方で、参考書籍に事典・工具類を挙げるのは不適切です。専門書や研究論文を採用してください(私も到底そこには及びませんが、西郷隆盛#主な参考文献の掲載方法を目標としてみてください)。また、小説や趣味書を挙げるならその旨明記してください。よろしくお願いします。Aboshi 2006年5月24日 (水) 10:25 (UTC)[返信]