利用者‐会話:漬けマグロ
松平忠輝
[編集]「阿茶局」⇔「茶阿局」訂正ありがとうございます。--お館さま 2009年8月21日 (金) 09:46 (UTC)
孝蔵主については騙すという形容は適切ではないかもしれませんが、秀吉の呼び出しを拒む秀次に甘言を弄して結果的に誘い出したことを「騙す」としました。西堂は伯母のこのような策略を恥じて、僧ながら殉死を選んだのでしょう。お館さま
- 孝蔵主が利用されただけで秀吉が騙した(彼女はただ呼び出すよう頼まれただけだった)のか、騙しに関与していたかは史料の上からは定かでありません。一つ言えることは、彼女は騙すようなことをしたという記録はこのことに限らず、一つもないということです。(石田三成の娘を保護し続けるなど、義理堅い人であったことは証拠があります)証拠がない以上、彼女の名誉のためにもそのような書き方は避けるべきだと思います。また、西堂が孝蔵主の甥とあなたが主張するのは、いかなる史料に基づくものでしょうか?是非示していただきたいと思います。私の思い過ごしならいいのですが、司馬遼太郎の「豊臣家の人々」を根拠にしているのなら、それは間違いですよ。あれはあくまでも司馬氏の創作です。西堂が殉じた理由にしても、あなたの推測で書いてはいけません。彼が秀次を慕っていたからかもしれませんし、孝蔵主が彼の叔母だとして、叔母が全く知らないところで秀吉に利用されたことに対して責任を感じたのかもしれません。いずれにしても「孝蔵主の策略を恥じて」というのは証拠がない以上推測です。推測でないとおっしゃるなら、是非証拠を示してください。--漬けマグロ 2009年8月22日 (土) 01:39 (UTC)
私の利用者頁に書き込みをすることは止めていただきたい。ここは私本人しか記せない場所のはずです。これは厳重に抗議し謝罪を要求します。管理者に要請し記録が残らないように白紙に戻す手続きを直ちに行っていただきたい。
別にこの記述に固執するつもりはありませんし、付けマグロさんが書き換えられた事項を戻すつもりはありませんが、歴史的事象というのは殆ど憶測と類推から成り立つもので、その資料の信頼性を様々な状況証拠から相対的に推測するしかないということはおわかりいただければ幸いです。ま、これは歴史学のイロハですが。たかが400年前の桶狭間の戦い、小山会議が行われた場所でさえ特定できないのですから。「騙した」「騙さない」についても日記でさえ当時は当人の心情をあからさまに記すという習慣もなかったわけですからこれを正確に示せと申されても無理難題ですよ。そのように判断したのはその後の彼女の身の処し方から一癖も二癖もある人物であると判断したからです。奉行達でさえ出頭に応じさせられなかった秀次をおびき出すのに成功したのは何らかの巧言を弄したと考えるのが最も合理的な解釈でしょう。結果的に秀次は計略に引っかかり殺されたのですから。--お館さま 2009年8月22日 (土) 03:02 (UTC)
- まず抗議についてですが、なぜあなたが抗議しているのか、おっしゃる言葉の意味がわかりません。それを言うならここは私の会話ページであって、あなたが勝手に書き込みをすることも間違っています。あなたがするのは許されて、あなたの会話ページに私が書き込みをするのが許されないのでしょうか。もしあなたがこのページでの書き込みを白紙にすることに同意されるなら、私も白紙に戻す手続きを行いましょう。私自身、自分のページに押しかけてきたのはあなたが初めてなので驚いているのですが、まさか自分のやっていることと同じことをされて起こるなんて非常識なことを言われるとは思いませんでした。それなら私の会話ページに乗り込んだりしないでいただきたい。松平忠輝のノートページで論争を行いましょう。
- 次にあなたに偉そうに言われるまでもなく、史料的な裏づけがあるからこそ論理的な帰結や類推もありでしょう。しかし、騙したという書き込みに対して、そういう類推をするだけの論拠が示されていないからそう書いたまでです。それこそ歴史学のイロハですよ。決して無理難題ではなく、それだけの論拠が必要なんですよ。たとえば足利義昭のような人が謀略をめぐらしたというなら、その経歴からあり得ると頷くこともできるでしょう。それに対し、彼女の身の処し方のどこが一癖も二癖もあるのか理解できません。彼女は首尾一貫して石田三成と親しく、彼を見捨てた人を許せないでいただけの話です。これは「時慶卿記」などの史料で、高台院の元を去る前に頻繁に三成夫人の妹と会ったり、三成の娘を去る時に連れている事実などから類推できることです。このように類推するにはそれだけの史料的な根拠が必要なのです。最も合理的な解釈というのはあなたの勝手な思い込みであって、女性であるから油断した(謀殺されることはないと判断した)とか、いくらでも解釈の仕様はありますよ。これは何の史料的な論拠もないのですから呼び出したという事実だけを書けばいいのです。それ以外の解釈を書くのは適当ではありません。--漬けマグロ 2009年8月22日 (土) 06:10 (UTC)
もう一度警告します。他人の利用者ページに書き込みをするのは止めなさい。Help:ノートページを読んで自分のしていることの意味を理解しなさい。--お館さま 2009年8月22日 (土) 07:43 (UTC)
こちらこそ警告します。では私のページにも書き込みをしないで下さい。--漬けマグロ 2009年8月22日 (土) 07:48 (UTC)
- 横から失礼します。他の利用者へのメッセージは利用者ページではなく利用者の会話ページにお願いします。こちらのページは漬けマグロさんの会話ページですので他者がメッセージを書き込むことができますが、漬けマグロさんがお館さまさんへのメッセージを書き込んだページはお館さまさんの利用者ページです(お館さまさんの会話ページはこちら)。他者の利用者ページを編集することは、一部の例外を除いて認められませんのでご注意ください。Wikipedia:利用者ページをご一読ください。--あるふぁるふぁ 2009年8月22日 (土) 08:04 (UTC)内部リンク追加他。--あるふぁるふぁ 2009年8月22日 (土) 08:09 (UTC)
私が会話ページと利用者ページを間違えてしまったようです。会話ページに書いたつもりでおりました。お館さまさん、この点については申し訳ありませんでした。謝罪します。訂正する手続きのやり方を知らないので、教えていただければそのようにいたします。それからあるふぁるふぁさん、ご助言ありがとうございました。指摘されるまで全く気づきませんでした。--漬けマグロ 2009年8月22日 (土) 10:26 (UTC)
了解いたしました。私のほうもきつい物言いになってしまい失礼いたしました。訂正手続きについてはどなたか管理者の方に相談してみてください。--お館さま 2009年8月22日 (土) 11:01 (UTC)
- 管理者ではありませんが…、お館さまさんが「{{sd|利用者本人希望(投稿者も[[利用者‐会話:漬けマグロ]]で同意済み)}}」と貼付することで即時削除されると思います。漬けマグロさんが必要であると思われるのであれば、事前に会話ページに転記されるか改めて書き込んでください。--あるふぁるふぁ 2009年8月23日 (日) 15:08 (UTC)
::私の方は同じ内容をこのページに書いているのでお館さまさんの利用者ページからは私の書き込みが削除されてもかまいません。お館さまさん、あなたの手を煩わせるのは恐縮ですが、なにとぞよろしくお願いいたします。あるふぁるふぁさん、ご助言ありがとうございます。--漬けマグロ 2009年8月24日 (月) 08:59 (UTC)
テンプレの剝がし
[編集]石田三成において出典が示されない部分のテンプレを剥がされていますが、これはウィキでは「剥がし」といって、このような行為には、コメント依頼に掛けられ投稿ブロックなどのサンクションが科せられることになりますのでご自重ください。初心者でない漬けマグロさんならお分かりと思いますが、異なるセンテンスにまたがる出典についてはそれなりの示し方がありますのでそれをご使用ください。しばらく様子を見ますのでご訂正ください。--110.162.208.189 2012年12月30日 (日) 00:16 (UTC)
島清興の妻
[編集]初めまして、八幡鳩と申します。 昨年12月8日に「島清興」「柳生宗厳」の両項目に『柳生宗厳の娘が島清興に嫁している』旨の編集をされているようですが、こちらの内容は、どの史料を出典とした記述でしょうか。(会話ページは初めての利用ですので、不手際等あればご指摘下さい)--八幡鳩(会話) 2013年3月5日 (火) 19:28 (UTC)
こちらこそ、初めまして。漬けマグロです。 ご質問にお答えしたいのですが、現在私は仕事で出張中でして、来週帰宅して蔵書を調べないと正確なところを回答できません。たしか、新人物往来社の「戦国人名辞典」の島左近、または島清興の項にそういう記載があったと記憶しています。正確なところは帰宅以後にお答えさせていただきます。--漬けマグロ(会話) 2013年3月6日 (水) 08:32 (UTC)
漬けマグロさん、迅速な回答ありがとうございます。島と柳生双方の書籍・史料で該当する情報を見かけたことがなかったため、もし「〇〇によれば~」などの高次出典の記載があれば、是非お教え頂きたく思います。当方でも手を広げて調べたく思いますので、お忙しい中恐縮ですが、宜しくお願いいたします。 --八幡鳩(会話) 2013年3月6日 (水) 22:32 (UTC)
漬けマグロです。昨日の深夜に帰宅しまして、今蔵書のどれにその記述があったのか、その部分を捜索中です。私の記憶では、左近が関ヶ原の後、柳生宗厳の婿であるゆえに柳生の里に匿われていたという記述があったはずなんですが、その論拠となる史料の記述が一晩探しても見つかりません。今しばらくお待ち頂ければと存じます。その間、私の記述を削除しておいた方がいいと八幡鳩さんが判断するのであれば、同意します。--漬けマグロ(会話) 2013年3月15日 (金) 21:00 (UTC)
お疲れのところ申し訳ありません。私も範囲を広げて再度探したのですが、宗厳女のうち動向を確認できたのは、和州の福岡孫左衛門(福岡孝悌子爵の祖)に嫁した長女のみでした。
左近生存説に関しても「佐和山城自刃説(福島大夫殿御事)」「京都立本寺説(立本寺墓碑)」「滋賀奥川並説(余呉の民話)」「静岡天竜市説(烏兔)」「岩手陸前高田説(気仙風土草)」「対馬説(関ヶ原軍記大全)」「西国説(石田軍記・古今武家盛衰記)」「細川仕官説(西岸寺由来記)」「徳川仕官説(関ヶ原御合戦当日記)」「大坂入城説(大坂春秋)」など一通り浚いましたが、柳生谷に入った記録は無いようです。可能性がある以上後ろ髪を引かれますが、信頼できる出典が見つかるまでは、削除しておくのが適当かと思います。『島左近は柳生石舟斎の娘婿』というのは、検索してきた方に、インパクトのある『事実』として印象付けられてしまいそうですので…。
明日の夜に「島清興」「柳生宗厳」の両項目から、該当部分を削除させて頂きます。情報を発見された場合は、お手数ですが脚注を添えて再編集をお願い致します。真摯な対応をありがとうございました。 --八幡鳩(会話) 2013年3月16日 (土) 17:39 (UTC)
沢庵和尚の生涯の記述について
[編集]始めまして。「2013年5月24日 (金) 12:37」に編集をしました「124.35.82.194」です。
会話ページの使い方が今一つわかっておりませんでしたので、前回、前もっての確認もなく、一括削除の形になってしまい、大変失礼しました。
その上で、現状記載されている沢庵和尚の「生涯」についての項目のうち、漬けマグロさんが記載された箇所について、気になる点が複数ありましたので、御確認させて頂ければと思います。
- 和尚と三成長男宗亨の関係について
- >逆に三成の長男石田重家(助命され、宗園の弟子になって出家し、宗亨と名乗っていた)とは深く交流している
とありますが、その「宗亨との深い関係」を示す史料はございますでしょうか。出典に上げておられる「石田三成とその子孫」には、春屋和尚と宗亨の交流を示す書が提示されており、そこから春屋の弟子である沢庵とも交流があったであろうという推測が記されていましたが、沢庵和尚は慶長6年には春屋和尚の元を離れ、大悟も一凍紹滴の元で行っていることから見て、宗亨と春屋和尚に交流があっても、沢庵と交流があったことを示す史料としては説得力に欠けると思われます。また、宗亨が師事したのは妙心寺の伯蒲恵稜であり、当時和尚がいた堺とは距離的に気軽に会うのも難しいものと思われます。
また、沢庵和尚の書状は現在も大量に残っており(岩波の「沢庵和尚書簡集」などで確認可能です)、縁がある人物とはかなりの量の手紙がやり取りされているのですが、そこで宗亨の名を見たことがありませんでしたので、「深い交流」というなら、それなりの量の史料があって当然ではないでしょうか。
- 豊臣家や大名家との関係について
- >三成を見捨てた豊臣家や、敵対した豊臣系東軍大名との交流を拒絶していたとみられている
こちらですが、御提示頂いた事蹟は問題ないと思われますが、中公新書「沢庵―徳川家光に慕われた名僧 (船岡誠)」や中公文庫「沢庵(沢庵)」によると、関ヶ原後すぐの慶長6年、忠興の父である細川幽斎のところに出向いて百首ほど歌の添削を頼んでいたり、忠興の縁戚(息子の嫁が忠興の娘)である烏丸光広とも歌の交流をするなど、一概に豊臣系東軍大名と縁を切っているとは言えません。 逆に、三成と関係のない高松宮好仁親王(後水尾天皇の弟)が自ら沢庵の庵を訪れて弟子入りを願ったのを拒絶したり、後に一糸文守が配流先まで出向いて弟子入りを願った時も、これを帰らせたことなどから見るに、三成を思ったというより、権門そのものに対して距離を置いていたと見る方が妥当ではないでしょうか。(大名たちの強きになびく態度に拒絶感を示した、というものは間違ってはいないでしょうが、 それを「三成を見捨てたから」というには、上がっている記述だけでは論拠が薄いのではないでしょうか)
- 赦免と石田家の関係について
- >天海や柳生宗矩や祖心尼の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。
祖心尼が沢庵和尚の赦免のために働いたとありますが、「石田三成とその子孫」を確認しましたところ、寛永4年、春日局が沢庵に見舞いを送ったという記録がある程度で、それ以外に沢庵和尚の赦免について祖心尼が何かをしたという記述は確認できませんでした。 沢庵和尚は、後に紫衣事件の際、自分の赦免の為に尽力してくれた人物に対し、名前を上げて感謝をしておりますが、そこで名が挙がっているのは、「天海僧正」「堀直寄」「柳生宗矩」の3名であり、春日局も祖心尼も出ておりません(沢庵和尚の寛永13年が出典)。 何か祖心尼が沢庵和尚赦免のために働き、それに沢庵が感謝していることを示す史料がありましたら、御提示頂けないでしょうか。
- >沢庵が赦免された理由や、後に家光の要請を受け入れた理由は、石田家を通じて彼らと沢庵が互いの人物を知っていたためと考えられる(白川亨「石田三成とその子孫」)。
こちらについて、宗亨と沢庵の関係が特に確認できないことは前述しましたが、それに関連し、祖心尼と沢庵の関係も曖昧になってしまっております。また、先日削除のあった柳生宗矩についても、和尚自身の書状で「若年からの道縁なり」と記されており、特に石田三成についての言及はありません。石田家を通じて互いの人物を知っていたという記述は、論拠が曖昧なのではないでしょうか。 何か適切な史料がありましたらお示しください。
- 江戸出府以降のことについて
- >沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。
このようにありますが、寛永13年、寛永15年、正保元年と和尚は上方に帰っています。特に寛永15年の帰郷では、後水尾天皇に自ら「原人録」を講義をし、ここから国師号を授けるという内示が下りたものの、これを断ったという記録があります。これらは当時の和尚の手紙でも確認可能ですし、沢庵和尚紀年禄や万松祖録でも確認できます。帰ってないとする論拠は何になりますでしょうか?
- >家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。
家光から政治に関する相談を持ちかけられたことについては、沢庵和尚は「自分は崇伝のようには仕えられない」と断っており、懐柔どころか、真っ向から拒絶されています。そのため、家光はたびたび和尚が上方へ戻るのを許さざるを得ませんでした。またこの時期の沢庵和尚の影響力は、家光の師僧であることによるものもあり、その意味では順序が逆転しているのではないでしょうか(沢庵和尚の手紙で「自分が大名好きだという噂が立っている」という記述があります)
- 家光の側に仕えたことについて
- >晩年の沢庵が多くの諸侯の招きを拒絶しながら家光の要請を受け入れたのは、前述の経歴から見て、彼が終生にわたって三成を慕い、三成ゆかりの人間が周辺に多かった家光に好意を持ったためと考えられる。
和尚が家光の元に近侍したのは紫衣事件の解決が大きく、寛永18年、大徳・妙心両寺の寺法が旧復した際、「大徳寺の儀、首尾能く相済み、年来の苦々其の功有る様に存じ、満足せしめ候」という和尚の書状があります。また、出典にされたと思われる白川亨氏の著作における沢庵関連の記述を読みましたが、沢庵が家光に仕えたのは、三成に関連する要素があったからではないかとする文章は見当たらなかったのですが、どちらにありますでしょうか?あるいは、それらとは別の史料で、沢庵和尚の出仕に石田三成が影響していたことを示す史料がありましたら、御提示頂けないでしょうか。
ひとまず以上です。
こちらで沢庵和尚についての資料を調べた限り、沢庵和尚側の史料で確認できる石田三成との関係は、佐和山城に出向いたことと、亡骸を春屋和尚と一緒に受け取ったこと程度で、それ以外は特に確認できませんでした。
また、出典にされている白川氏の著作にしましても、そもそも石田三成についての資料であることもあり、記述に誤りがあったり(「沢庵は春屋の元で大悟した」など)、白川氏の推測が混じっていたり(「佐和山城で過ごした1年で、沢庵はすっかり三成のファンになってしまったのではないか」とか)で、沢庵和尚本人の資料と比べると、怪しい個所がいくつか見受けられます。それを元に沢庵和尚について記述されるのは問題があるのではないでしょうか。(というか記載された部分は、沢庵和尚の生涯というより、「石田三成やその縁者は沢庵和尚に強い影響を与えている」という内容に見受けられます。それなら、仮にこれが事実であったとしても、三成かその他当人の項に書いた方が良いのではないでしょうか?)
ひとまず目立つ点としてはこの辺りになります。
今後は史料を基に確認を進めつつ、順次訂正・または補足を進めていければと思います。
長文になってしまい恐縮ですが、ご確認よろしくお願い致します。 それでは失礼致します。--124.35.82.194 2013年5月28日 (火) 11:50 (UTC)
124.35.82.194さん、こんにちは。漬けマグロです。 たった今出張から帰宅して、パソコンを久々に開いて書き込みに気付いたところです。 寝不足で疲労困憊しているため、論拠についてはいったん寝てからまとめてお返事させて頂きます。
なお、江戸出府以降の部分、
- >沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。
- >家光は政事に関する相談もたびたび行ったが、これは家光による懐柔工作であると考えられている。それは逆に言えば沢庵の影響力がいかに強かったかを示している。
については、履歴をお調べしていただければお分かりかと思いますが、私の書き込みではありません。 ですので、その部分については書き込んだ方とお話ししていただければと存じます。すみませんが、私が書き込んだ分については今しばらくお待ち下さい。--漬けマグロ(会話) 2013年5月29日 (水) 02:59 (UTC)
お疲れ様です。
漬けマグロさん、お返事ありがとうございます。
ご回答の件、挙げた項目も多いですので、恐縮です。 お時間のある時で構いませんので、まずはゆっくりお休みください。
江戸出府以降の個所につきましては混同する形になってしまい、失礼しました。こちら、了解です。
あと、前述した箇所で、2か所ミスがありましたので、訂正致します。
- 中公文庫「沢庵(沢庵)」 ⇒ 中公文庫「沢庵(水上勉)」
- 寛永4年、春日局が沢庵に見舞いを送ったという記録が ⇒ ”寛永4年”は元の資料にも記載がないので無視でお願いします
よろしくお願い致します。--124.35.82.194 2013年5月29日 (水) 04:50 (UTC)
返事が遅れて申し訳ありません。 まず大前提として、私が編集する以前の版では、沢庵のことを「さんざん権門との交流を拒否しておいて、将軍家光には逆らわなかった変節漢」という編集者の評価が色濃く反映されており、それに対して「沢庵は変節漢ではなく、大名たちを拒否したのにも、家光に応じたのにも、それなりの理由があったからだ」という私の強い思いがあって編集しました。そのため、改めて自分で読み返して勢いが余った面はあったと思います。ですから、あらかじめご連絡を頂いていればもっと冷静な対応もできたのですが、いきなり一括削除されたので私も差し戻ししてしまいました。この点、自省しております。
- >逆に三成の長男石田重家(助命され、宗園の弟子になって出家し、宗亨と名乗っていた)とは深く交流している
これの論拠は宗亨(重家)が著した「霊牌日鑑」に、沢庵と書簡のやり取りをした記述が2回あることです。「たかが2回では深くとは言えないだろう」と言われたら返す言葉はないので、「深く」という部分を削るのには同意します。霊牌日鑑は国立国会図書館で閲覧可能なので、ご確認願います。コピーが取れないので、記述がある正確な年月日までは不明なのですが(メモしておくべきでしたね)。
- >三成を見捨てた豊臣家や、敵対した豊臣系東軍大名との交流を拒絶していたとみられている
細川幽斎と三成が親しかったこと、幽斎が豊臣秀長に対して「三成こそ豊臣家の柱石」と褒めていること、共に前野長康赦免に奔走していることは五宗記で確認できます(白川氏の著書にもその点は書かれています)。この点、浅野長政と幸長の関係に似ていますが、父親が三成と親しいのに対して、息子は秀吉の死後徳川家康に急接近しており、忠興が東軍大名ではあっても、幽斎がそうだとは断言できません。「幽斎は田辺城に籠城して東軍に参加している」という反論もありますが、これは長政同様、三成が家康には勝てないという観測から純粋に生き残りのためにやったことではないでしょうか。このへんは解釈が分かれるところですが、いずれにしても三成との関係性から、幽斎を東軍系大名に入れてこの記述を否定するのはどうでしょうか。権門を拒絶したのなら、なぜ拒絶するようになったのかという点もお考え頂ければと思います。ご納得いただけず、「その程度なら論拠が薄い」ということであれば「三成を見捨てた豊臣家や、敵対した豊臣系東軍大名との交流を拒絶していた可能性もある」ぐらいにするべきかもしれません。
- >天海や柳生宗矩や祖心尼の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。
- >沢庵が赦免された理由や、後に家光の要請を受け入れた理由は、石田家を通じて彼らと沢庵が互いの人物を知っていたためと考えられる
これについては祖心尼が宗亨の弟子であること、宗亨と沢庵の関係から見た私の推測ですが、その関係からも祖心尼が沢庵赦免に全く動かなかったとは考えられません。祖心尼は紫衣事件の時にはまだ大奥入りしておらず、当然政治的な影響力も皆無でしたから事件時には赦免に動いていないでしょうし、沢庵が名前を挙げていないのも当然でしょう。将軍が大奥の女性に動かされたというのは体面的にも表沙汰にはしづらいことですし、大徳寺派の縁故で赦免されたのを表沙汰にするのは他の宗派の非難を受ける可能性もあることですから、沢庵としては祖心尼の名を挙げづらかったことは想像に難くありません。祖心尼が政治的な活動をしていた一つの例としては、正保の騒動(津軽信義が三成の外孫であることから、徳川家への心証をよくするために母親が徳川家の養女である異母弟の信英を擁立しようとする一派の陰謀を信義が処罰した事件)の際に、宗亨が信義の伯父であることからか、祖心尼らが動いてお咎めなしに導いたということがあります。権門を拒絶していた、そして秀忠にも屈せずに流罪になった沢庵が家光にはなぜ応じたのか、そして家光が祖心尼や自証院のような、三成ゆかりの人物が傍にいたことについてももっと考察が必要だと思います。
最後に、沢庵の生涯に対して影響力があった人物として三成の存在が大きかった点に出典として、三池純正さんの「義に生きたもう一人の武将 石田三成」を挙げておきます。三成らの項にこれらのエピソードを載せることもいいですが、私が三成の項に書き加えるのは、ただでさえ単なる三成びいきだと誤解されているくらいですから、遠慮があります。私が常に言いたいのは、「勝者が作った歴史には、自己正当化のために敗者を一方的に悪者にしている面がある」と「近代以前においては、天下の支配者への批判は命がけであり、批判的なこと、不名誉なことを史料に書くことはできなかった」という2点です。だから不当に悪者や愚か者と思われがちな人、蘇我入鹿、平将門、平家、梶原景時、高師直、明智光秀、柴田勝家、三成、淀殿、伊東甲子太郎などに対して、私はそうではないことを指摘したいと考えております。
それらの点についてご考慮頂いたうえで、編集して頂ければと思います。--漬けマグロ(会話) 2013年5月30日 (木) 01:11 (UTC)
お疲れ様です。「124.35.82.194」です。
ご回答、ありがとうございます。
さて、その上でのお話になるのですが、現状の問題点としましては、
- ・事蹟を記述する欄に評価や推測が入っている
- ・和尚本人以外の人物の事蹟について記述が入っている
要はこの2点であって、対応としては、
- 「人物」「評価」などの別欄を設けて、「生涯」とは異なる話はそちらに移す。
⇒論拠が明確なもの(三成を裏切った大名を避けた件など)は、その論拠と共に移し、 論拠が薄いものは一旦差し控え、論拠となり得る史料が出れば改めて再掲する。
- 和尚本人以外の人物についての事蹟は、なるべくその人物の項に転載する。
⇒例えば、祖心尼と宗亨の関係は祖心尼、または宗亨の欄にも載ってないので、
そちらに載せる方が有用かと思います。
この辺りを軸に考えております。
あと、漬けマグロさんの仰るお話については十分理解できるものですが、石田三成(及び扱いが不遇な歴史上の人物)の評価については、論ずるなら、やはりそれぞれ当人の項で行うのが適切かと思います。論拠さえ明確であれば、贔屓であることは論を躊躇う理由にならないでしょうし、その方が再評価の近道になるのではないでしょうか。
逆に推測はいくら載せても、却って批判が出て堂々巡りになる危険性がありますし(だからこそ史料/出典重視の方針がある訳ですし)、それが今回のように当人以外の人物の項であれば、尚更かと思います。
例えば、白川氏の本に、柳生家が三成の庶子を1年保護していたというお話がありましたが、
それを元に三成の家族の欄に「庶子(名前不明)」を追記し、更に
(この三成の庶子が命を長らえたのは柳生家のおかげと子孫の証言がある。柳生家は三成の股肱の臣である島清興と親交があり、後に柳生利厳が清興の娘・珠を娶っているほどであり、その関係から、石田家とも交流があったと思われる。それを踏まえると、三成は柳生家の剣術である柳生新陰流を学んでいたと考えることができる)
などと書き込めば、おそらくすぐにでも
「石田三成本人との関係が薄い事項についての記述は本人の項に書いてください」
「史料上の論拠の薄い推論を書くのは避けてください」
として削除されるでしょう。
(庶子についてと、その論拠の部分くらいは残るかもしれませんが)
話の中身はどうあれ、今回の件はこれと同じようなものかと。
ともあれ、和尚について不当な評価が出るのが残念であることは同感ですので、上記の方針で更新していこうかと思います。また「逸話」などの欄も追加して、魅力的な逸話を紹介していければと思います。 (無論、紀年禄や万松祖録、または和尚自身の書簡などに記述があるものが基本になりますが)
ひとまず以上です。
よろしくお願い致します。--124.35.82.194 2013年5月30日 (木) 09:46 (UTC)
了解いたしました。私もご指摘の部分については独自研究に抵触する恐れがある推論があった点が否めませんので、仰る通りの方針で更新して頂ければと存じます。ただ、全て削除するというのではなく、逸話などの形で私の書いたことを生かしていただければと思います。三成などの別の項でも同様です。よろしくお願いいたします。--漬けマグロ(会話) 2013年5月30日 (木) 15:21 (UTC)
お疲れ様です。「124.35.82.194」です。
ご回答ありがとうございます。
和尚の事蹟の更新ですが、逸話も含めると量も多く、確認も要りますので、更新は週明け辺りにしようかなと考えております。
あと、祖心尼と宗亨のところには、お互いの関係を転載する書くつもりですが、
他の項でどのようになっているかは私が気づかない可能性もありますので、
お気づきになられた項がありましたら、漬けマグロさんの方でも対応頂けましたら幸いです。
それでは御対応ありがとうございました。失礼致します。--124.35.82.194 2013年5月31日 (金) 04:08 (UTC)
お願い
[編集]突然失礼いたします。申し訳ありませんが、お願いにあがりました。 漬けマグロ様の様々な編集に置かれまして、書籍名が往々にして「」でくくられていることが多いのですが、通常、書籍名は『』でくくることになっております。Wikipedia:表記ガイド#括弧類の該当場所(かぎ括弧の二重かぎ括弧『……』は次のものに使います。)をご確認ください。 気が付いた所は修正いたしましたが、漬けマグロ様に置かれましても今後ご留意いただければ幸いです。 それでは失礼いたします。--218.41.116.234 2014年3月5日 (水) 14:20 (UTC)
了解いたしました。以後、気を付けます。ご忠告ありがとうございました。--漬けマグロ(会話) 2014年3月6日 (木) 00:02 (UTC)
地方競馬について
[編集]以前は私の会話ページへお越しいただき、ありがとうございます。当時お話した「休止状態の競馬場をリストに掲載するかどうか」についてですが、その後私のほうでも方針文書等を見直し、多少考えが変わった部分がありますので、ご説明に参りました。
節の名称は「地方競馬を開催可能な競馬場」に改めており、出典の明示もされています。実際の契約上の問題はさておき、NARとしては地方競馬の競馬場として出典に記載されているので、表には掲載したほうがよいだろうと考えました。そのうえで、漬けマグロさんの記載から札幌・中京・姫路では2014年現在開催していないことを一文残しています。以前に私の会話ページで漬けマグロさんが疑問を示された「公式に休止が表明されたわけではない」という意見に鑑み、休止という文言はひとまず使わない表現にしました。
以上のように改めましたが、いかがでしょうか。--HOPE(会話) 2015年2月28日 (土) 22:37 (UTC)
:私の意見は一貫して、「現在定期的な開催が行われていない競馬場は全て休止扱いとするべき」です。たしかに「開催可能」という表題なら残すべきなんでしょうが、それでいいのか疑問です。実際に定期的に開催しているかが大事であって、開催可能かどうかは二の次だと思うので。節の名称を「現在地方競馬を開催している競馬場」にした上で、札幌、中京、姫路を全て除外するべきだと思っています。ただ、私の考えに固執するつもりもありませんし、HOPEさんはもちろん、他の方のご意見も伺いたいと思います。--漬けマグロ(会話) 2015年2月28日 (土) 22:51 (UTC)
2021年ウィキメディア財団選挙の候補者を紹介します
[編集]こんにちは!
2021年ウィキメディア財団選挙が8月に始まります。今年の理事会選挙は、2021年8月4日から17日まで実施されます。ウィキペディア日本語版の編集者を含むウィキメディア・コミュニティのメンバーは、3年の任期で4人の新しい理事を選出する機会があります。理事会選挙の開始に先立ち選挙運動期間が設けられており、この期間中にコミュニティが候補者と顔を合わせる機会があります。
- ウィキメディア財団における理事会の役割は何ですか?
- 候補者紹介
- 今回の選挙には20名の立候補者がいます。候補者についてはこちらをご覧ください。
理事選挙をサポートするファシリテーター チームは、選挙運動期間中にいくつかの活動を用意しています。
7月31日(土)の19:30(JST)から、日本を含むアジア・太平洋地域のユーザーが候補者と交流できるオンラインイベントが開催されます。日本語による同時通訳も提供される予定ですので、どうぞお気軽にご参加ください。
- こちらのフォームから事前に参加登録をお願いします。
- フォームのプライバシーポリシーをご確認ください。
その他の活動については、メタウィキの理事選挙ページをご覧ください。
ご質問がございましたら、ファシリテーターか選挙ボランティアまでお問い合わせください。
選挙ボランティア一同 2021年7月24日 (土) 15:05 (UTC)
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まもなく終了 理事会選挙へ投票のお願い
[編集]漬けマグロさん
こんばんは。お忙しい時間帯に恐れ入ります。
2021年ウィキメディア財団選挙は最終盤に入っております。これまでご協力いただいた皆様、ご投票いただいた皆様に心より御礼申し上げます。
もし漬けマグロさんが投票をお済ませでなければ、ぜひこちらから清き一票をお願いいたします。
ウィキペディア日本語版の運営にも深く関与する理事会の候補者の選出に際し、投票資格をお持ちの数少ないユーザーの一人である漬けマグロさんのご意見を反映することは非常に重要だと考えています。
投票いただくに際し、まず19名の候補者から漬けマグロさんが支持する方をお選びください。 支持する候補者を選んだら、支持する順に候補者の名前を選び、投票ボタンを押すだけです。 所要時間は5分未満で、完全な匿名性が保証されます。
投票は、日本時間の9月1日(水)の朝9時に締め切られます。
ウィキメディア財団の運営にウィキペディア日本語版コミュニティの意見を反映させるために、漬けマグロさんのご協力を重ねてお願い申し上げます。
どうぞよろしくお願いいたします。
--選挙ボランティア一同 2021年8月31日 (火) 11:14 (UTC)
このお知らせはウィキメディア財団2021年理事会選挙ボランティアにより作成され、botにより配信されました。 •フィードバック •購読解除
ホクトベガに関する編集を差し戻しました。
[編集]Wikipedia:独自研究は載せないはWikipediaの重要なルールですのでご確認ください。
外形的に見て、当該部には出典(別冊宝島『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』31頁。)がついています。
これに対し、漬けマグロさんは(1)「1秒=6馬身というのが常識」と出典を示すことなく決めつけたうえで、(2)だからホクトベガのこの件も「3.6秒は21馬身だ」として修正しました。
これは典型的な独自研究です。
この改変をするには「ホクトベガがエンプレス杯で2着につけた着差は21馬身だ」という直接的な情報源を示す必要があります。なお、そもそも公式は「大差」なので、いずれにしても「○馬身」とするのは観察者の主観ということになりますから、「誰某はこの着差を○馬身とした」というように情報源を帰属化して書く必要があるでしょう。
念のため申し添えますが、現状の記事の「18馬身」という記述は、当該文に出典がつくより以前からあったものです。このため、18という数字が、出典で裏付けられるのか、それとも出典をつけた方が従前の記述をそのまま残したのかはビミョーな感じもするというのが正直な感想です。ただ、その編集時に周囲を修正加筆していますから、情報源で裏付けられるから消さなかった、と推測するのが自然かなあとは思います。
漬けマグロさんが、新たな情報源を示して、当該部分を修正することは歓迎します。--柒月例祭(会話) 2023年7月4日 (火) 02:25 (UTC)
- 必ずしも「信頼できる情報源」とは言えないものもありますが、ググっただけで、「18馬身」とするものに以下のようなものが見当たります。
- --柒月例祭(会話) 2023年7月4日 (火) 04:16 (UTC)
- 全く納得できません。私の独自研究ではなく、JRAはJRAVANなどの公式発表で1秒=6馬身で表記されており、たとえばタイキシャトルが1998年マイルチャンピオンシップで2着ビッグサンデーにつけたタイム差は0,8秒差で5馬身差と明記されています。2006年天皇賞春でディープインパクトが2着リンカーンにつけたタイム差は0,6秒差で3馬身半差、2013年有馬記念でオルフェーヴルが2着ウインバリアシオンにつけたタイム差は1,3秒差で8馬身差です。ぴったり6馬身差の例としては一番直近で先週7月2日の福島6Rのビッグドリームが2着馬につけたのが1秒差で6馬身差と表記されています。念のためJRAホームページとnetkeiba,com
- の表記を載せておきます。
- https://www.jra.go.jp/JRADB/accessS.html?CNAME=pw01sde1003202302020620230702/57
- https://db.netkeiba.com/race/202303020206/
- したがって3,6秒差なら18馬身差ではありません。JRAが10馬身差以上は大差と表記しているから何馬身差と書いていないだけで、あなたが示したのはいずれも個人の著作で目測か個人の感覚を書いているにすぎず、それこそ独自研究です。したがってあなたが差し戻した分は元に戻します。--漬けマグロ(会話) 2023年7月4日 (火) 06:01 (UTC)
- 3.6秒差を21馬身と書いたのは何かの著作を基にしたわけではありませんのでその記述を削除するだけなら同意します。ただ、18馬身差というのは明らかな間違いなので、そこも削除することが必須条件です。このJRAの公式発表に基づく着差表記はホクトベガに限らず、すべてのレースに関して厳正であるべきだと思います。--漬けマグロ(会話) 2023年7月4日 (火) 06:20 (UTC)
- 返信 ご納得いただけないようなので、プロジェクト‐ノート:競馬#ホクトベガのエンプレス杯での着差についてにて、第三者の見解を募ることにします。以後はそちらをご参照ください。--柒月例祭(会話) 2023年7月4日 (火) 09:35 (UTC)