コンテンツにスキップ

利用者‐会話:もね~るmoner/過去ログ2

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

もね~るmoner 殿

[編集]

こんにちは。二高OBの方でしょうか?仙台二高の私の編集部分が、全て削除されていましたので、コメントさせてもらいます。

1.「学区制導入まで県内二番手の地位に甘んじていた。 学区制導入後は県内随一の進学実績を誇るようになり」

とありますが、このような事実はありません。この部分は何を根拠にされているのでしょうか? 昭和30年代までは仙台一高と東北大学合格者数は大差なく、二高がトップだったことも何度もあり進学実績は互角でした。また昭和40年代から15年程、一高が上回った時期がありますが、そのような進学データを確認した上で書かれているのでしょうか?

進学実績は状況によって年々変化するものなので、このような事実関係のみの掲載を要求される場所では、他校との比較は掲載すべきではないと思いますが。

2.「そこは当時の仙台市の北の端にあたり、かつ、仙台上町段丘上にあって周囲よりも高い場所であった」

とありますが、北陵の言われについて、知る限りではそのような事を聞いた事はありません。 根拠となる記事はありますか? 星陵の北側に面している事から北陵と呼ばれたと、河北新報の二高特集号にも明確に記載されています。

3.「仙台北高等学校」という校名が検討されたとありますが、これも初耳です。 ネットの掲示板では、北高だけはありえないという論調でしたが、内密に話し合われたのでしょうか? 同窓会関係者からも、そのような話題は全く出てきておりませんが、どのような経緯からなのでしょうか?

取りあえず、以上3点うかがいます。

--192.76l 2008年11月29日 (土) 06:53 (UTC)

192.76lさん、こんにちは。
  1. 仙台一高と仙台二高のどちらの進学実績が上なのかですが、昭和40年代に確実に一高が上だったのは知ってました。私が二高に在学していた頃になっても、古い先生がよく「学区制導入後に二高が上になったが、それまでは一高が上だった。導入一年目は、制度により仙台一高に行けなかった生徒が悔しくてよく泣いていた」と言ってました。その前については確実なデータは無いものの、学区制導入前は、岩手県の旧仙台藩・一関藩地域から仙台一高や旧仙台一中にわざわざ入る人が多かったと岩手県立博物館の学芸員が統計を持ち出して新聞で語ってたので、二高より上なんだと思ってました。昔の進学実績をどう評価するかは難しいですが、たまにニ高がトップになったからと言って一高と互角と言うのは言い過ぎで、長期的には二高が一高より下だったんだと思います。
  2. 二高の記事で進学実績を取り上げているのは、「一が上で二が下」という他県の常識が学区制導入後の宮城県では通用しないからです。これは特筆すべき特徴であり、仙台市民にとっても常識なので、書くべきだと思います。
  3. 「北陵」の言われは、仙台市街地の北の丘にあるからだと在学中に古い先生から聞きました。実際、東北大学歯学部の場所は周りより高くなっており、広瀬川の河岸段丘によるとされています。
    東北大学史料館の記事によると、「星陵町」(1960年代に導入された新住居表示)の由来は、大学病院勤務の看護婦と東北帝国大学医学部附属看護婦養成所の生徒の寄宿舎とのこと。寄宿舎名は1933年(昭和8年)に正式に「星寮」となり、同時に、寮生の親睦会「星寮会」も発足。「星寮会」はのちに「星陵会」となって星陵町の由来となったとあります。二高の北六番丁校舎時代は1902年(明治35年)から1928年(昭和3年)の移転までですから、「星陵」という言葉が生まれる前に二高は川内に移転したことになります。すると、二高移転後に生まれた「星陵」の北に昔二高があったから「北陵」と呼ばれる、というのはなんともおかしな話。河北新報の取材力に疑問を感じます。
  4. 「仙台北高等学校」については、私以外の執筆者のものを復帰させたものです。単に削除の理由が分からなかったからです。「仙台北高等学校」という案がなかったのなら削除しても結構です。--もね~るmoner 2008年11月29日 (土) 08:03 (UTC)

 連絡ありがとうございます。二高卒の方ですか。私も同じです。

1.「たまにニ高がトップになったからと言って一高と互角というのは言いすぎで・・・」

これはないでしょうね。東北大学合格者数では、学区制導入前の昭和37年、仙台二高の185人というのが最高記録として残っています。

これだけでも、二高が一高に及ばなかったなどとは到底考えられませんが、 さらに、昭和30年代の進学実績では、二高と一高の実績は互角だったという記録が 残っています。何度も二高の方が上にきていますし、通算実績でも大差ありませんね。

昭和31年~昭和37年 東北大学進学実績
    31年  32年  33年  34年  35年  36年  37年
仙台ニ 127  125  140 (120) (127) (125) 185
仙台一 117  107  124 (157) (149) (165) 138

また、新制二高が発足した年の初の東北大学合格者数で、現役が100人を超えた という記録もあります。

一高が常に二高の上に出てくるようになったのは、昭和30年代後半になってからです。それも、県側の強制によるものです。

二高に入りたくても、中学側で無理矢理一高を受験するように、県側の圧力があったから、一高が上になっただけの事で、そのあたりの事情はN同窓会長も、同窓会報の巻頭言にたびたび書いているので確認できます。

古い先生というのは、どれ程二高の事情を知っていたのかわかりませんが、当時の進路指導教師だった何人かの元二高の先生達は、二高は一高を超えている事が多かったと口ぐせのように言っています。元校長のT氏、元日本史の教師で進路指導のS氏などです。 二中二高100年史でも、T氏がその事に一部ふれているので確認できます。

2.「一が上で二が下」という他県の常識が学区制導入後の宮城県では通用しないからです。

これは逆に言うと、それなら学区を外せば「一が上で二が下」に戻るはずだから、早く学区をはずしてくれ」と考える県民が多くなるという事になりませんか。 今学区を外そうとしているのは、正にそう考えての事だと思いますが、それで期待通りにならず逆に二高にトップ層が集中したら何のために学区を外したのか、という事になりませんか?

あるいは、期待通り一高に集中するようになったとして、これでは二高が困りませんか? いずれにしても、不利益をこうむるのは、受験生とその親だと思いますので、高校紹介では、いらぬ混乱を引き起こさないような、配慮が求められるのではないですか。 どのような高校であれ、wikipediaの高校紹介で他校比較はすべきではないと思いますね。二高に関する事実関係だけで良いと思います。判断するのは第三者です。 どうしても成績比較したいのならば、仙台の進学事情などという他のページを立ち上げてそのページにリンクさせれば済むだろうと思います。

この事とは別に、 「一が上で二が下」ではなく「二が上で一が下」という高校は、他の地方にもありますね。熊本二高と熊本一高、日大二高と日大一高など。 二高のように、旧制二中が旧制一中を上回る高校となると、これはたくさんあります。

二高は学区制撤廃後を考えて、校名変更を考えるのも必要になるかもしれませんが、共学化したばかりであり、共学年度の大学受験もまだですから、まだその時期ではないでしょう。二高の受験層に大きな変化が出てきたら、OBの方からも様々な意見や注文が出てくるだろうとは思いますがね。

3.「星陵町」(1960年代に導入された新住居表示)の由来

通説では、 東北大学医学部の同窓会である「艮陵会(ごんりょうかい)」と、大学病院勤務の看護婦と東北帝国大学医学部附属看護婦養成所の生徒の合宿所として始まった寄宿舎である「星寮」の名前から「星」と「陵」の文字を合わせて名づけられたものであり、

「艮陵」の「艮」は「東北」(北東)を一字の方角で表すと「艮」(ごん)となるからだと言われていますが、この説はかなり疑問があります。

星陵町の周辺に「陵」の入った地名はなく、突然「星陵町」が出てくる。不自然だと思いませんか? 東北大学の医学祭は以前は「星陵祭」と呼ばれていました。 「星陵祭」とは、日比谷高校(=府立一中)の文化祭を指します。また、日比谷高校の別名は「星陵」であり、校歌や応援歌にも出てきて、二高の「北陵」と同じで、日比谷高校では古くから親しまれています。二高は「北陵文化」なのと同様、日比谷は「星陵文化」なのであり、日比谷高校を象徴する「星陵」とは、学校周辺の高地の名称です。

東北大学設立初期に府立一中(=日比谷高校)の医学部スタッフが多く、東北大学の初代総長も府立一中(=日比谷高校)出身だったというのは、事実に基づくものです。 府立一中出身者が多かった事から、東京から「星陵」を仙台に持ち込んだというのは、ごく自然な成り行きだろうと思いますね。

東北大学医学部のある地域は、正式な住居表示に用いられる前から星陵と呼ばれていたと聞いています。「星陵町」という住居表示がなされたのは、仙台二中が川内移転後という事になるのでしょうが、それなら北六時代になぜ「北陵」などという名称を突然使い始めたのでしょうか?

仙台の人の普通の感覚なら、当時から定期戦があったのですから、仙台一中を意識して「茶畑」に対抗して「北六」、川内移転後は「川内」で良かったはずです。どう考えてもアンバランスです。 「仙台市の北の丘街地にあるから」という理由で「北陵」を使ったのなら、川内に移転した段階で、仙台の「北」ではなくなったのだから、「北陵」は捨てるか、北ではなく、西の丘になったのですから「西陵」とでも変更した方がはるかに正しい表現だろうと思いますがね。応援歌も「北」を「西」に変更するだけでそのまま歌えるわけで、むしろその方がスッキリして良かったはず。この点は疑問に思いませんでしたか?

このように考えると、どうしても「仙台市の北の丘街地にあるから」という理由で「北陵」と呼ばれたと言うのは無理があるように思いますね。

仙台の西側に位置する川内に移転してからも「北陵」にこだわり続けたのですから、そこには「北陵」にこだわらなければならない何らかの事情や思い入れがあったからだろうと考えるのが自然だろうと思います。

ただ、wikipediaには関係者以外にそんなに注意して読む人も少ないでしょうから、「仙台市の北の丘街地にあるから」と言う理由と「星陵」の北側の「北陵」と両方併記しておいても問題ないとは思いますけどね。 --192.76l 2008年11月29日 (土) 11:22 (UTC)

  1. 貴殿が提示された昭和31年から37年の東北大進学データでは、一高が3回、二高が4回トップになっているので、この期間に関しては互角ということも可能ですが、その後の一高トップの歴史を考えれば二高が数回トップになっただけと見れます。すなわち、昭和31年から37年に限った東北大進学データは、「一高と二高が互角」という結論を導き出すためにバイアスをかけたデータであり、その結論の信頼度は低いと見れます。提示された貴殿のデータの取り扱いは非科学的なので、その部分に関して私は貴殿の主張を承服することは出来ません。
    また、県側の圧力であれ、一高の進学実績が上がったことは事実なので、「学区制導入前は一高の方が二高より上」というのは正しいのではないでしょうか?
  2. 学区制撤廃にいろいろな思惑があるのは分かりますが、私としてはある程度の愛校心はあれ、学区制撤廃によって二高が県内の進学実績でトップの座から落ちたとしても気になりません。二高の利益・不利益を考えてWikipediaを編集する気もありません。また、「学区制導入後に進学実績で二高が上で一高が下になった」というのも歴史的事実なのですから、書かないとする判断がよく分かりません。「二が上で一が下」というのは、貴殿が例示したように数少ないものなので、特記すべき事実だと思います。
  3. 二高の北六番丁校舎時代(1902年~1928年)の近傍において、東北大医は、
  • 1887年 県立宮城医学校 → 第二高等中学校医学部(1894年 第二高等中学校→第二高等学校)
  • 1901年 第二高等学校医学部 → 仙台医学専門学校
  • 1912年 仙台医学専門学校 → 東北帝国大学医学専門部
  • 1915年 東北帝国大学医科大学に改組
東北大病院の方は、
  • 1884年 県立宮城医学校附属病院と改称(1888年 → 県立宮城病院)
  • 1911年 県立宮城病院が現・錦町公園から現・星陵町に移転。
  • 1913年 県立宮城病院 → 東北帝国大学医学専門部附属病院
  • 1915年 東北帝国大学医科大学附属病院と改称
と変化しました。地元の医学専門部教授陣に代わり、先行帝大である東大・京大の出身者が1915年に医科大学教授陣として入ってくるので、貴殿の説に従うと「星陵文化」が現・星陵町に入ってくるのは1915年となります。すると、1915年から二高が川内に移転するまでの十数年の間のいずれかの時に、「北陵」との言葉が生まれて二高を指すようになったということなのでしょうか? 当時人口(1920年の統計で日本5600万人、仙台12万人)に比して数少ない高校生が、高度な知識を持った帝国医科の教授陣に憧れてそのように言うようになり、「北陵魂」とまで言うほどのエリート意識を持つに至ったというのは想像に難くないですね。ただ、以前の本文の文面ではそれが伝わらないので、看護婦寮由来説をきちんと否定した上で論点整理して書いて下さい。
なお、「大きな土地を必要とする病院や学校などは都市の外縁部(郊外)に移転する傾向がある」という地理学の定説があります。その場合、移転場所は、開発がなされていない郊外の農地や丘陵地が選ばれることが多いです。その説通りに、当時の仙台の郊外にあたる地に移転したものとして、農地に移転した旧制第二高校(現・東北大学農学部)、低開発の丘陵地(河岸段丘)に移転した二高・北六校舎および県立宮城病院があります(1926年の仙台市電開通に合わせて北四番丁が拡幅され、現・西公園通りが北に延伸されて市電が通ったため、現・星陵町は郊外ではなくなる)。少なくとも、二高・北六校舎および県立宮城病院は仙台市北郊の丘陵地にあったのですから、「星陵」の起源がどうであれ、「北陵」と命名するのに違和感は無かったのだと思います。--もね~るmoner 2008年11月29日 (土) 14:10 (UTC)

1.「一高と二高が互角」という結論を導き出すためにバイアスをかけたデータであり、その結論の信頼度は低い

学区制導入前全ての期間に渡って互角だったことの根拠として、データを提示したわけではありません。 「学区制導入前は一高の方が上」というのは明らかに間違いです。この言い回しだと、事情を知らない多くの人は、学区制導入前は、全ての年に渡って一高の方が上にあったと誤認します。これでは事実に反すると思います。

学区制以前の期間は、昭和24年~昭和51年までの28年間です。
学区制導入以前の進学実績は、
昭和24年~昭和37年(14年間) 二高と一高は互角。
昭和38年~昭和51年(14年間) 一高が二高を上回る。

このようになります。前半14年間は互角、後半14年間は一高優位。書くのであれば「学区制導入前前半は互角であり、後半は一高が上回る」これが正しい表現になると思います。 「学区制導入前は一高の方が上」と何度も書くのは実態と異なる乱暴な表現です。 「学区制導入前は一高の方が上」というのは間違いですから訂正してください。

2.学区制撤廃にいろいろな思惑があるのは分かりますが・・・
学校紹介に他校比較は不要と言ってるだけですが? wikipediaの他県の高校紹介で、他校との進学実績比較を掲載している所はありますか? 例えば、昔の日比谷と西、現在の開成と筑駒、愛知の旭丘と岡崎はライバル関係にありますが、wikipediaでの両校の紹介に「あのライバル高校よりこの時期は上だとか下だ」と書いてありますか?

3.1915年から二高が川内に移転するまでの十数年の間のいずれかの時に、「北陵」との言葉が生まれて二高を指すようになったということなのでしょうか? 「北陵魂」とまで言うほどのエリート意識を持つに至ったというのは想像に難くないですね。

二中二高の歴史と事実関係を追いかけて行くと、概ねその通りだろうと考えるしかなくなりますね。単なる田舎町にすぎなかった仙台に、当時の日本としては最高レベルの教授陣(少なくとも肩書きは)が中央からやってくるわけですから、仙台二中も東京の文化の影響を大きく受けただろうと想像されます。 仙台二中が府立一中の影響を受けたというより、東北帝国大学設立に合わせて、そのスタッフである教授助教授陣の子供達を預けておく場所として、今で言う所の附属中学高校が必要だったというのが実情だったのではないでしょうか?このように考えると、不可解だった点全て合点が行きます。 建前は「生徒数増加のため二中を設立した」となるのでしょうが、二中は何も仙台人のために作られたわけではないと思うんですよ。当時の人口からすれば、将来対立するだろう二中を仙台に作る必要はなく、生徒数増加は仙台以外に設置された分校からの流入も原因だったわけですから、仙台は一中の生徒数増員で間に合わせ、遠く離れた古川の尋常中学分校を二中としても良かったはずです。一中と二中を同一市内に作るといざこざが絶えなくなります。それでもあえて仙台に二中を作るしかなかったのは東北帝大スタッフのために、どうしても必要だったから作られたというのが本当の所ではなかったかと考えざるを得ません。東北帝大設立を間近に控えて急きょ仙台二中を設立するしかなかったいう方が実情だったのではないかと思います。

旧制中学は5年制で、今の中1~高2に相当します。前半3年間は中学生ですから、まだまだ子供。子供を預けておくのだから、病院の裏側に中学校があるのは実に都合がいいわけですよ。病気になったらすぐ見てもらえますからね。仙台一中は駅の近くですから、仙台市外や郡部出身者にとって通学が便利。二中は仙台市内在住者にとって便利。これで、一中と二中の住み分けと役割分担ができますから、仙台二中は理想の地にあったと言えるでしょう。 仙台の子供達のためではなく、中央から来る東北帝大スタッフのために用意されたわけですから、当時から一中との定期戦はあったにせよ、仙台一中の事はあまり考える必要がなかったわけですよ。スタッフの子供達にとってのライバルは仙台一中ではなく、あくまでも府立一中(=星陵)です。府立一中がライバルなんだから、星陵のはるか北にある仙台二中を「北陵」と名乗るのはごく自然な事だと思いますね。だから、川内に移転しても星陵(府立一中)の北にあるという事実に変わりはないので、「北陵」を外す必要はなかったのだろうと思いますよ。医学部の地を星陵と呼んでいた事情もこの辺にあるのだろうと思いますね。 遠く離れた東京の「星陵」を子供達がイメージする事は困難だろうから、すぐ前にある医学部を星陵と呼び、その裏側だから「北陵」と呼べば子供達にとっても非常にわかりやすくなります。 府立一中(星陵)を意識していなかったら、前に書いたように川内に移転した段階で応援歌も「川内」や「西陵」などに変更されていたのではないでしょうか。仙台人にとってはその方が自然だしわかりやすいですからね。しかし変更はできなかったのです。

仙台二中設立後まもなく、当時の文部大臣と後の東北帝大の初代総長の沢柳氏が仙台二中を訪問しています。たかが田舎の新設旧制中学に文部大臣と東北帝大総長がわざわざ訪問するものでしょうか? 二中二高出身の東大京大教授や将校が一高より非常に多いのはなぜでしょうか?二中が一中より劣っていたなら、その数は逆転していなければならないはず。これも二中は今で言う附属中学高校の役割を担っていたという事の裏付けになりませんか? 東北帝大が設立されていなければ、仙台二中もなく二中は古川にできていたかもしれないと想像されます。

大学側からの出典である以上、「看護婦寮由来説」を頭ごなしに否定するものではありませんが、歴史をたどるとこじつけがましく不自然であり無理があるのではないかと言う事です。星陵の起源を隠蔽するための単なるカモフラージュに思えます。 それと、大学病院には何度も行っていますし、歯学部前の通りもたびたび歩いていますが、丘(陵)というには無理があると思いますけどね。 --192.76l 2008年11月30日 (日) 02:53 (UTC)

まず、上から発言のような言葉遣いを止めて頂けませんか? また、自らの文章の稚拙さを棚に上げて、その文章を読んだ人が自らの意図とは異なる理解をした場合に、その人を卑下し、攻撃するような文章を書くのも止めて下さい。同窓とは言え面識の無い間柄ですので、敬語に見せかけて感情に任せた不敬な言葉遣いをするのは謹み、冷静な議論に努めて下さい。
  1. 貴殿の主張に合わせて、学区制以前の期間を昭和24年~昭和51年までの28年間とすると、
      a. 昭和24年~昭和33年(10年間) 二高と一高は互角。
      b. 昭和34年~昭和51年(18年間)一高が二高を上回る。ただし、昭和37年のみ二高が一高を上回る。
    というような表現も出来ます。すなわち、貴殿のデータの区切り方には恣意性があり、それがバイアスとなっている、ということです。バイアスのかかったデータを元にした結論を、私は「正しい表現」などと評価出来ません。
  2. 『「二が上で一が下」というのは、貴殿が例示したように数少ないものなので、特記すべき事実だと思います。』と書きました。すなわち、ナンバースクールの序数が進学実績の順位とは異なることは特筆に価するといっているのであって、ナンバースクール以外のライバル校同士について言及してません。
  3. 北陵について
    1. 当時、仙台は10万人そこそことはいえ、六大都市を除けば当時としては結構な大都市です。圧倒的に人口が少なく、郡部である古川に二中を設置する意味はないと思います。
    2. 宮城二中(後の仙台二高)は1900年創立ですが、1898年に成立した第2次山縣有朋内閣の樺山資紀文相が、宮城県に帝大を設置する旨を述べたのに呼応して設立されたものなのでしょうか? この時期の事情をよく知りませんが、既に宮城県尋常中学校(後の仙台一高)を宮城県中学校に改組しているので、宮城二中の創立そのものは東北帝大(1907年創立。仙台に大学が設置されたのは1911年の理科大学が最初)との関連性はないと思います。二中が北六番丁に校舎を設置したのが1902年なのに対し、県立宮城病院が現・星陵町に移転したのが1911年であることも、二中創立自体に帝大創立の影響が無いことの理由になると思います。
    3. 東北帝大初代総長・澤柳政太郎(在任期間:1911年3月24日~1913年5月8日)および当時の文部大臣(第2次西園寺内閣の長谷場純孝?)が二中を訪問した際、県立宮城病院の視察はしなかったのでしょうか? 貴殿の説に沿うと、『1911年に現・星陵町に新築・移転したばかりの県立宮城病院が、帝国医科大学の附属病院として相応しいかどうかの視察のついでに二中を訪問した。それは、当時、片平にあった仙台医学専門学校を東北帝大に包摂して現・星陵町に移転させ、県立宮城病院を附属病院とし、現・星陵町を東北帝大の医科大および附属病院地区とする。その際、招聘される教授陣の子弟を既にあった二中に入れることにする。』 このような感じでしょうか? すなわち、二中が附属学校的な役割になったとしても、それは北六に移転したのち、東北帝大・医科大学の設立後に後付け的になったのだと理解できます。ただ、東北帝大・理科大学がある片平からだと一中も近いので、理科大学の教授陣の子弟も含めて二中が独占的に附属学校的な役割を担ったかについてはまだ疑問です。あるいは、二中が南町校舎時代に、片平の第二高等学校に近いことから一中との住み分けで山の手的な志向の萌芽があったのかも知れません。いずれにせよ、二中の創立と東北帝大の創立との因果関係はなかったと見るのが妥当だと思います。
    4. 現・星陵町が丘陵かどうかですが、当時はビルもなく、仙台市街には平屋か二階建て程度の建物しかなかったであろうから、あのくらいの段差があれば仙台市街を見渡す丘になっていたと思います。また、見渡せなくとも、丘であることは変わりないです。星陵町の北側・東側・南側は星陵町より低くなっており、医学部・星陵会館・体育館・加齢研・歯学部の辺りが最も高く、歯学部附属病院や医学部附属病院の辺りは一段低く、その東側もまた一段低くなっています。現在の新坂通りは、体育館と加齢研の間において切り通しになっています。--もね~るmoner 2008年11月30日 (日) 08:20 (UTC)

1.上から発言のような言葉遣い

無礼なのは貴殿の方ではありませんか? 誰でも編集可能なWikipediaにおいて、私は事実に基づいた書き込みをしていますが、貴方は、何らデータの裏付け根拠もなく、単なる口伝に基づいて私の書き込んだ部分を削除した。「学区制導入前は一高が上で二高が下」と主張したいのであれば、第三者を納得させるに足りるだけの裏付けのあるデータを示していただけませんか?他人が納得の行くものであればそのように書き込んでもかまわないと思いますので。 それを示せない限り、御自分の主観や口伝に基づいた根拠のない書き込みと判断されますので、該当部分は削除させていただきます。

なお、昭和31年~昭和37年までの一部だけによる比較ではなく、累積合格者数による比較判断ですので、誤解しないで下さい。自分の主張に都合のいいように恣意的に期間を区切ってしまえば、どのようにでもなり得ますから。バイアスがかかっているなどの批判は心外です。

それと、学区制導入後二高が上で一高が下というのも短絡的です。 学区が導入されたのは、昭和52年ですが、学区制導入を知らずに入学していると考えられる昭和52年(1977)、53年は外して、学区制の直接的影響を受けるようになるだろうと思われる1979年~1988年までの合計10年間の東北大学累積合格者数を比較すると、
仙台一高 1115人
仙台二高 1063人
であり、単年度平均5.2人一高が二高を上回っています。また累積合計採用最終年の1988年にも、一高が二高の合格者数を上回っています。 この事からわかる事は、学区制導入後10年強は、一高やや優位~互角であったという事になります。学区を導入してから10年以上一高やや優位~互角であったのに、学区導入が直接の原因で、二高か一高の上になったとは到底言えないだろうと思いますが?例えて言うなら、1999年に学区制が導入されたけど、2010年までは学区制導入の影響はあまりなかったと言う事になります。10年の間大きな影響がなかったのに、学区制によって逆転したと言えますか?これでは、学区制導入によって二高が一高を上回る事になったという根拠には乏しいと言わざるを得ません。

直接関係ありませんが、前の書き込みを読みますと貴殿の無断削除行為に対して多くの方が批判憤慨されているようですね。これは私も同様に感じた事です。 書き込む方は慎重に下調べした上で書き込んでいる方々が多いと思いますので、削除する場合にはトラブル防止のため、書き込み者と事前に議論されてからにした方が良いのではありませんか?

Wikipediaは貴方の個人HPではありません。ましてや貴殿がWikipedia二高ページの管理者ではないでしょう。何か勘違いされていませんか?前にも応援団長の一覧が書き込まれていて、多くの方の失笑を買い、痛烈に批判されていましたが、それと同等の行為と見なされると思います。 自説を通したいのであれば、ホームベージを作ってそちらで議論されれば良い事です。仙台ローカルでしか通用しない一高二高比較など笑止。二高関係者として大変迷惑です。学校紹介で他校比較している高校など見た事がありません。

>同窓とは言え面識の無い間柄

これもおかしな話です。議論するのに同窓だろうが、二高に関係ない第三者だろうが、無関係です。私は相手が誰であれ、ネットでの議論のときの口調は大差ありませんが。二高とは関係ない見ず知らすの人に対しても、同様な口調で書き込みそれでトラブルが生じたことはありません。あなたのように罵倒された事はありませんね。議論から口論や喧嘩に移行した場合は別です。

ネット百科事典的な役割を期待されているWikipediaの内容としてふさわしいか否か、根拠のある正しい内容かどうかだけを議論しているだけですが。 二高出身であれば、二高の内部事情についてはある程度理解しているだろうという事を前提に書き込みはしていますけど。

1-2.
○自らの文章の稚拙さを棚に上げて、その文章を読んだ人が自らの意図とは異なる理解をした場合に、その人を卑下し、攻撃するような文章を書く
○上から発言のような言葉遣いを止めて頂けませんか?
○敬語に見せかけて感情に任せた不敬な言葉遣い

これらはどの部分を指しているのでしょうか?根拠なしの事は書いていないつもりですけど? 特に「感情まかせ」という部分が腑に落ちません。感情にまかせて書いているのは貴殿の方だと思いますけど。常に客観的な書き込みをするように努めていますが、どの部分を指しているのか指摘してもらえませんか?

3-1.仙台市の人口が10万人を超えるのは、1920年になってからです。 1900年当時はわずか8万人弱にすぎません。当時東京は195万人ですから、現在の仙台と登米市、栗原市程の差があります。これ程の小規模都市住民のために一中二中と2つ必要だったとは到底考えられません。

    東京  仙台

1880  108.5
1890  138.6  6.1
1900  194.7  7.8
1910  270.7  9.2(1909年のデータ)
1920  369.9  11.8

また当時は一中~五中(後で六中ができる)までありましたから、東北帝大の設立がなければ、仙台に二中を作らずに古川に二中が設置される事になっていたとしても、不思議ではありませんね。ごく自然な流れです。

宮城県尋常中 ⇒ 宮城県第一中 ⇒ 宮城県仙台第一高等学校
宮城県第二中 ⇒ 宮城県仙台第二高等学校
宮城県尋常中志田郡立分校 ⇒ 宮城県第三中 ⇒ 宮城県古川高等学校
宮城県第四中 ⇒ 宮城県立角田中 ⇒ 宮城県角田高等学校
宮城県第五中 ⇒ 宮城県立築館中 ⇒ 宮城県築館高等学校


3-2.東北帝国大学設立と仙台二中設立がいかに密接に関係していたかは、当時の東北帝大と仙台二中関係の主な出来事を重ね合わせて時系列に並べてみれば、よくわかるんじゃないですか。 旧制二中関係は()内。旧制二高関係は<>

1897年 第二高等学校校長に沢柳政太郎氏就任。第一高等学校校長を兼任。その後文部省普通学務局長に転出。
1900年 1.29 第14回帝国議会において「東北帝国大学設置建議案」が成立
(1900年 仙台二中設立。仙台一中の下條校長が、仙台二中校長を兼任)
1901年 4.1 仙台医学専門学校設置<第二高等学校から医学部が分離独立>
(1901年 5.14 東京帝国大学総長菊池大麗氏、後の東北帝国大学初代総長沢柳政太郎氏、仙台二中訪問)
(1902年 仙台二中は北六番丁新校舎に移転)
(1905年 文部大臣以下随行員仙台二中訪問)

1907年 6.22 東北帝国大学本部を仙台に設置
(1908年 大正天皇(当時皇太子)が仙台二中訪問)
(1810年 槇山文部視学官仙台二中訪問)
1911年 理科大学設置。県立宮城病院が現星陵町に移転
1912年 仙台医学専門学校を包摂して医学専門部を設置
1913年 東北帝国大学医学部専門部に附属医院を設置(宮城病院を移管)
1913年 東北帝国大学初代総長沢柳政太郎氏、京都帝国大学総長に転出
1915年 医学専門部は生徒募集を停止。東北帝国大学医科大学設置

二中設立に際して、一中校長が二中校長を兼任したり、校舎もないのに仮校舎を使って無理矢理開設したりと、東北帝国大学設立に合わせたあわてぶりがよく伝わってきますが。
当時、大正天皇(当時皇太子)、文部大臣、東京帝大総長、後の東北帝大初代総長、文部視学官とたて続けに仙台二中を訪れていますが、国家意志を決定する立場にある方々が、地方の一旧制中学のために次々に訪問するとは思えません。東北帝大設立後これらの方々が仙台二中を訪問したという記録はありませんので、東北帝国大学設立に関連した仙台二中訪問と考えるのが妥当と思います。

>その際、招聘される教授陣の子弟を既にあった二中に入れることにする

それでは受験生の選択の自由を奪う事になりますから、さすがにそれ程露骨な事は公式表明したとは思えませんが、理科大学設置後、附属病院等がすぐ近くにできた事は事実ですから、二中のすぐ前に大きな病院ができた事により東北帝大のスタッフに適齢期の子供がいれば、二中は預けておくのに便利で安心できる状況になったという事は、事実関係として認めるしかないと思います。

3-4. 北陵の起源として、仙台の北はずれにあり小高い丘だったからという説は、川内は仙台の西側にあるし仙台二中は小高い丘の上に建てられたのだから、その説に従えば、移転後は「西陵」に変更していなければならないが、川内移転後にも変更する事なく「北陵」を継続使用していた事により、これは明らかに矛盾しますので、却下するしかないですね。

--192.76l 2008年12月1日 (月) 00:58 (UTC)

返事が遅れて大変申し訳ありません。12月に入ったらいきなり忙しくなったもので...
1. 「誰でも編集可能なWikipedia」において、自分が書いたものを勝手に編集するのは「無礼」だなどという主張は如何なものでしょうか? さらに、このノートで議論になっている最中なのに、本文の該当部を貴殿は編集おり、他人を非難できないと思います。
貴殿の無断削除行為に対して多くの方が批判憤慨されているようですね。』←これはどの記事を指して言われているのでしょうか? 貴殿は後から加筆した人に優先権を与える立場みたいですが、先に書かれている本文にも一理ある場合もあります。後から加筆する方がノートで議論せずに一方的に編集したことを棚上げし、前に書いた人だけ非難するのはバランスを欠いています。後先関わらず、問題となった部分について私は議論に参加しています。大体にして、今回と関係ないことを持ち出す意味はあるのでしょうか?
応援団長の記載について削除依頼を読んでみました。確かに「痛烈に批判されていました」が、真面目な議論の際に「失笑」を感じさせるような文章を書くのは不敬です。
1-2 「思いますが」「思いますけどね」「思いますがね」などと何度も繰り返されると、いくら同窓とは言え、馴れ馴れしく感じられます。「これはないでしょうね」「それは知らなかったのですか?」などは上から発言に感じられ、「ありませんが?」「ですが?」との文末は「~ですが、何か?」という流行語を想起させ、上から発言なだけではなく失笑しているように感じられます。また、疑問文を連続して使う(2008年11月30日 (日) 02:53 (UTC)の「2.」)のは、感情的になっているように見えます。これらが貴殿の口癖であり、失笑・侮蔑などの感情的な意図がないのであれば私との間に齟齬がありますが、私はとても不快・不敬に感じられました。
3-1. 1900年当時の仙台は8万人弱で、東京は約24倍の195万人。現在は仙台都市圏156万人で東京都市圏は約20倍の3172万人。東京から見れば仙台は確かに小都市ですが、1900年当時の8万人の都市人口は「小規模都市」ではありません。また、当時仙台市より人口の少ない熊本市において、1900年に熊本県中学済々黌を二分し、市内に2つの中学校が成立しています。仙台市において「一中二中と2つ必要だったとは到底考えられません。」と断言は、客観的ではないと思います。
3-2. 「1900年 1.29 第14回帝国議会において「東北帝国大学設置建議案」が国会成立」とありますが、これは建議なので法的拘束力はないですよね? 1902年にも帝国議会で東北帝大設立の建議が成立していますが、政府は消極的で、東北帝大の設立が進むのは日露戦争の後です。宮城二中の設立は、東北帝大設立前は宮城県による東北帝大の誘致活動の1つであったかも知れませんが、宮城一中に要人が全く訪問しなかったという情報も付記されないと二中が東北帝大の附属学校的な役割とまでは言えないと思います。
3-4. 一度「北陵」と名乗り、その名称の歴史が始まったのだから、移転をしてもその名称を受け継ぐのは特段不思議ではありません。例えば、東北学院榴ヶ岡高校も既に榴岡から天神沢に移転しているのに名称を受け継いでます。なので、二中の「北陵」を『移転後は「西陵」に変更していなければならない』という貴殿の説は承服しかねます。
貴殿といろいろ議論してきた結果、私の考えをまとめますと、
A. 「学区制導入前は一高が上で二高が下」に関して、創立以来の長期データがないこと、東北大学への進学実績のみで語るのはデータがあっても危険であることなどから、削除に同意します。
B. 「二高と一高との間では、序数と進学実績が逆」に関して、進学実績を評価出来ない以上、これもWikipediaに書くことが出来ないので、削除に同意します。
C. 「北陵」に関しては、
  • 「看護婦寮由来説」(「星寮」「星陵」の北にあるから「北陵」)は、寄宿舎名が正式に「星寮」となったのが1933年であり、仙台二中は1928年に川内に移転しているので歴史的におかしい。
  • 「帝国医科説」(府立一中出身者が帝国医科に多かったから医科大が「星陵」となり、その北にあるから「北陵」)は、府立一中が「星陵」の由来となった現在の永田町(星ヶ岡)に移転したのが1929年であり、その前年の1928年に仙台二中が川内に移転しているため歴史的におかしい。
  • 「当時の仙台市街地の北の丘にあるから北陵説」は、私が先生から聞いたという伝聞しかないので、削除は止むを得ない。
という結論です。なお、「府立一中がある東京から見て北にあるから北陵説」を正しいとするには、仙台二中が「北陵」と名乗る前に府立一中が「星陵」と名乗っていたことを示す文献、1928年に川内に移転した後の仙台二中が府立一中に影響を受けて「北陵」と名乗り始めたことを示す文献、そして、「北陵」はどの丘を指すのかを示す文献が必要だと思います。
(返事が遅れたことを重ねてお詫びします)--もね~るmoner 2008年12月4日 (木) 10:56 (UTC)

年末に入り私も多忙になり、更新できず失礼しました。

1.
>「誰でも編集可能なWikipedia」において、自分が書いたものを勝手に編集するのは「無礼」だなどという主張は如何なものでしょうか?
>このノートで議論になっている最中なのに、本文の該当部を貴殿は編集おり、他人を非難できないと思います。
>後から加筆する方がノートで議論せずに一方的に編集したことを棚上げし、前に書いた人だけ非難するのは貴殿は後から加筆した人に優先権を与える立場みたいですが、先に書かれている本文にも一理ある場合もあります。

それは、単なる開き直りでしょう。 「二と一の逆転現象」についての最初の削除は、この項目の編集は近日されたものではなく、編集履歴の追跡に時間がかかるだろうと思われた事と、削除するにあたってはデータの裏付けがあり、記述内容は明らかな間違いであると判断されたからです。

私がその後二度目の削除する前、念のため、最初にどのような理由で一方的に削除したものか、その理由を聞いたはずです。相当の裏付けがあるならば、そのまま残すしかなかったわけですが、データによる裏付けも根拠も乏しいものと判断されたので、第三者に対して大きな誤解を与える部分である事から、初期状態に戻し、真っさらな状態で、始めから議論をやり直す必要があるだろうという事です。この点には同意していただいてるようなので、これ以上の議論は必要ないかと思います。

>『貴殿の無断削除行為に対して多くの方が批判憤慨されているようですね。』←これはどの記事を指して言われているのでしょうか?

たくさんあります。 7.陸奥国の編集について 15.百科事典的記述のお願い

「15.百科事典的記述のお願い」には、非常に丁寧な言い回しながら、次のような記述があります。

(引用)書き方に少し問題があるのではないかと存じます。この編集の表現ですと百科事典というよりもあなた自身の主観に近い内容になってしまわれているのではないでしょうか。主観的な内容ですと、数万人のウィキペディアンがそれぞれの個人的主観や憶測を加筆できる状態になってしまい、百科事典的ではなくなってしまいます。

これは、私も同様に感じた事です。

17.他ユーザーの攻撃はおやめください

(引用)いくら他者の編集姿勢に不満がありましても、個人攻撃だけは絶対におやめください。Wikipediaは戦いの場ではありません。くれぐれも穏便にお願いいたします。エスカレートしますと、あなたは即時投稿ブロックの対象になってしまいます。

この議論の中で、「もね~る」を「も~寝る」と茶化された事に対しても憤慨されたようですが、これは私の「?」、「ね」、「~が?」の多用に対して貴殿が腹を立てたのと同様の反応かと思われました。「も~寝る」は気のきいたjokeで私は面白いと思いましたが、貴殿は細かい事を気にする非常に度量の狭い方と判断するしかないのですが。学会に投稿する論文を記述するわけではないので、語り言葉に似せた口調や軽いjokeのつもりで書いていても、それがある種の方には曲解され、通用しないという事もあるという事例の一つなのでしょう。

>上から目線で一方的に私だけ言われる筋合いはありません。
同一「編集合戦」内にこのようなフレーズもあり、どうやら誰に対しても同様の対応をされているのだろうと判断されました。

20.九州大学のパラグラフの全面削除に関して

(引用)このように文章を全面に削除される場合はまずノートに議論を立ち上げたらにしてはいかがでしょうか。

26 政令指定都市の人口要件について

(引用)私の編集に対して削除されていますが、そもそも政令指定都市の人口要件で法定人口が使われてるという根拠は過去から現時点までで一体どこにあるんでしょうか。

この方とは、激しい口論になっていますね。

34.伊東豊雄の画像移動について

(引用)私が編集した風の塔の画像:Tower of Winds2.jpgをギャラリーの欄に移されましたが、どのような意図で移動なさったかをご説明いただけないでしょうか。

ざっと読んだだけでもこれだけありますので、私の書いた事はそれほど間違ってはいないと思います。

>応援団長の記載について、真面目な議論の際に「失笑」を感じさせるような文章を書くのは不敬です。

議論について「失笑」したのではなく、歴代応援団長を記載した行為に対して失笑したという事です。常識外れと言われても仕方ないのではないですか。その事をあなたにとやかく言われる筋合いはさらさらありませんので。

3-1. >当時仙台市より人口の少ない熊本市において、1900年に熊本県中学済々黌を二分し、市内に2つの中学校が成立しています。仙台市において「一中二中と2つ必要だったとは到底考えられません。」と断言は、客観的ではないと思います。

1900年の「東北帝国大学設置建議案」は正式には「九州東北帝国大学設置建議案」であり財政上の都合で東北帝大の方が先行しましたが、東北帝大と九州帝大は同時の設置計画があったという事です。 東北帝大本部は旧制二高のある仙台で決まったのに対して、九州帝大設置については、旧制五高のある熊本と福岡が候補として最後まで争ったそうなので、1900年当時旧制五高のあった熊本は、仙台と同様の状況下にあったと言えると思います。 旧制中学の設置者は県ですから、市ではなく県人口を宮城と熊本で比較すると、当時は熊本の方が宮城より多く、仙台二中が設置されるなら熊本市に二中ができても当然という事になります。 また現在でも進学実績が熊本高校(二中)が済々黌(一中)を上回る「二と一の逆転現象」が起きているのも仙台同様です。済々黌が熊本より名門だと某掲示板で叫び続けているのも、仙台の状況と酷似しています。 府立一中(現日比谷高校)に改称、第二済々黌(現熊本高校)分離、仙台二中設立と尋常中学本校の仙台一中への改称は、1900年に同時に行われています。 東京や名古屋は仙台よりはるかに人口が多かったのに二中はかなり離れた所に設置されていますので、人口を根拠とした二中設置という事は他地域の事例からあり得ないと思われます。 古川は尋常中学の分校であり、設立は仙台二中より古いですから、設立時に宮城二中と明示していなければ、他県の方からは、古川が宮城県の事実上の二中と見做されていただろうという事は明らかです。それを避けるために当初宮城二中と明示したのだろうという事です。

3-2. >宮城一中に要人が全く訪問しなかったという情報も付記されないと二中が東北帝大の附属学校的な役割とまでは言えないと思います。

これはその通りかもしれません。当時二中と同様、一中に文部大臣や皇太子の訪問はありましたが、1901年の東京帝大の総長と沢柳氏の訪問は一中にはありませんので、違いはこの点位かと思います。要人の訪問有り無しだけで結論を導くわけではありませんが、結果的に二中は設立時から現在に至るまで東北帝大(東北大)のすぐそばにあり、当初県が財政負担して設立し、後に附属病院となった宮城病院のそばに設置されたわけですから、二中は「附属中高」的な役割を担っていた、あるいは期待されていたのだろうという事は事実として認めるしかないだろうと思います。 当時の二中の生徒数を見ても、一学年当たり120人程度で、3クラス。一中より総定員はかなり少なく、今の宮教大附属中と同規模であり、始めから進学実績で一中と争う気はなかった(というより不可能)だろうと思われます。

3-4.  >例えば、東北学院榴ヶ岡高校も既に榴岡から天神沢に移転しているのに名称を受け継いでます。

学院榴ヶ岡の場合は、校名に既に「榴ヶ岡」が入っており、二高の「北陵」は、校名ではなく内部での単なるシンボル的な存在ですから、同次元では論じられないだろうと思います。 「北陵」が「西陵」に変わったとしても、関係者、当事者にとっては大きな変更になりますが、外部から見れば校名変更とはならないので、あまり問題にはならないでしょう。 校名そのものを仙台第二北陵中学とか、仙台北陵二中などと名乗っていたのなら、学院榴ヶ岡と同様変更はできないかもしれませんが。 また、「学院榴ヶ岡」もこれから「学院泉」等と変更される可能性は残っているわけですから、学院を例に上げるのは的外れかと思われます。

5.>貴殿といろいろ議論してきた結果、私の考えをまとめますと、

A.B.について、御配慮ありがとうございました。ただ他の方がまた同様の記述をされる可能性もありますので、また頻繁に繰り返されるようなら、Wikipediaのこの二高紹介とは別に、主要大学の二高一高を比較した進学実績推移の変遷のようなページが必要になってくるのかもしれません。この件については、某掲示板上で何年にも渡って論争になり、ある時は、某高校から300人東北大に合格者を出すのが普通だったなど大言壮語する者も現れたりで、収束がつかなくなる事態に発展したこともあります。今は沈静化していますが、学区撤廃後の優劣をめぐって、今後同様の事態が再来するとも限りませんので、いずれWikipediaにこのことを明示しておく必要に迫られるかもしれません。 ノート欄だけで議論が尽くせるとも思いませんので、今後の検討課題にしたいと思います。

C.「北陵」に関して

  • 「看護婦寮由来説」

ネット情報ではなく、他の文献を参照すると、「星寮」と命名される前に2度程名称変更されているようです。それと「艮陵」の由来については、第二代北条総長が命名したとあり、主要な意味は「東北の学問の丘」という事であり、この場合の「東北」は東京帝大のある「東京」に対する「東北」という思いを持って命名したとあり、仙台二中の「北陵」に通じるものを感じます。また「艮陵」と命名するに当たっては、当初は「貞仁」と「艮陵」と2つ提案され、「貞仁」を推す方が大勢だったが、北条総長が「艮陵」を推したため、最終的には「艮陵」に決まったという記述があります。ここに中央からの一種の圧力が働かなかったかどうか。 これらの事実からの推測ですが、最終的には医学部+附属病院一帯(現在では歯学部も含む)を「星陵」と名付けるという結論(もしくは取り決め)が始めにあり、その理由付けが後から徐々に既成事実化されていったのではないかと、私には考えられて仕方ありません。星陵町と名付けられる以前から、あの地域一帯は星陵と呼ばれていたなどはその一環ではないかと思われます。 始めに結論がひらめき、その理由付けが後から成されるというprocessをたどるのは、数学の新定理の論証や新しい理論の構築、実験科学での新説の発見でも同様の経過をたどる事はよくあるので、何ら不思議な事ではないだろうと思います。 仙台二中の「北陵」もそうですが、そもそも丘でもない場所に「星陵」と名づけるのは合点がいきません。 現川内の仙台二高は中の瀬橋、澱橋どちらから見ても小高い丘であり、現日比谷高校も小高い丘の上にあります(赤坂見附近辺も何度も訪れているので良く知っています)から、それぞれ「○陵」と名乗るのはごく自然な事です。

  • 「帝国医科説」

これは、日比谷高校星陵総合博物館 というHPが以前あり、日比谷関連の情報の多くはここに依ります。 星陵の由来や二高の応援歌に北陵が多く出てくるのと同様、日比谷の校歌に星陵が入り、応援歌は第一星陵歌から第四星陵歌まである事とか、校内に星陵我らありの銅像がある事とか、日比谷の校章は二高の校章と似たデザインだとか、日比谷では「星陵」を大変大事にしているとか、日比谷との様々な共通点(文化と言った方がいいでしょう)を見い出せたのもこのサイトです。星陵や北陵に対する思い入れというのは仙台一高には見られない特有の文化と言えるかと思います。 ただ、最近このHPは閉鎖されてしまい今現在では第三者による確認ができませんので、他の出典を明示する必要があるだろうと思います。HPを記述された方の間違いや私の思い違いなどの可能性もあり、再確認が必要だろうという事もあります。

  • 「当時の仙台市街地の北の丘にあるから北陵説」

これは、貴殿が高校時代に教師からの伝聞によるものとの事なので、私が直接のコメントできるものではありませんが、当時の状況を考えると矛盾してしまうのではないだろうかという内容の事を前に書きました。

いずれにせよ、「北陵」の由来について直接言及した文献をまだ示せていないので、どの説も推測の域を出ていないように思われます。この部分は貴殿の取られている説も尊重し、私の説と併記しておこうかと思うのですが、今後表現上の変更は良いとしてこれでよろしければそのままにしておき、この件についての他の方の新たな情報(私も新たな情報提供できる可能性もあります)を待つというスタンスを取りたいと思います。

--192.76l 2008年12月12日 (金) 08:53 (UTC)

AとBについては議論終了ということで了解しました。某掲示板上ではそんなこともあったんですね...。
Cの「北陵」の由来について、「当時の仙台市街地の北の丘にあるから北陵説」は私の伝聞だし、「看護婦寮由来説」も出典提示が出来ていないし、仙台二中が川内に移転した後に府立一中が星ヶ岡(星陵)に移転しており、仙台二中が「北陵」と名乗る前に府立一中が「星陵」と名乗っていたことを示せてないため「帝国医科説」も「府立一中がある東京から見て北にあるから北陵説」も矛盾がある状態で、これらの説をWikipediaに載せてていいんでしょうか? 私としては二高の記事本文から「北陵」の由来に関する部分を削除し、ノートに各説の出典を求める旨を記すというのがいいのかなと思っています。
貴殿の無断削除行為に対して多くの方が批判憤慨されているようですね。』について、いろいろ例示されてますが、私を批判された方が正しく、私の方が間違っているとの見方は正しいのでしょうか? 陸奥国の件は私が編集した部分以外のことにも噛み付いてるし、時期を失して返事をかけませんでしたが、長町・利府断層線沿いが地下水位が高く、昔から仙台平野の中心地であったことは仙台市教育委員会のページにも記載があり、私の独自理論でもありません(その後、Kinori氏とはお互い尊重し合って議論してます)。15の静岡市の件では、静岡市の人口の変動について出典を付けて書いたのに、人口減少を指摘されたくない相手側が出典を無視して「主観に近い」「憶測」などと非難しています。これでも「批判憤慨されている」相手方の方が正しいですか? 他の件についていちいち反論するのは止めますが、少なくとも私のみに落ち度があったことはなく、議論になればある意味お互い様と思って私は話し合いに参加しています。これらのようなものを援用したとしても、貴殿の説が出典を示せない以上、私を非難する具にもなりません。--もね~るmoner 2008年12月12日 (金) 22:30 (UTC)

1.>私を批判された方が正しく、私の方が間違っているとの見方は正しいのでしょうか?これらのようなものを援用したとしても、貴殿の説が出典を示せない以上、私を非難する具にもなりません。

議論をすれば、相手方が正論の場合もあるだろうし、また貴殿の方が正しい事も あるでしょう。そのような議論の中身を問題にしているのではなく、 議論を進めていく上での相手とのやり取り、言わば相手とのインターフェースが うまく取れていないだろうという事を言っています。

5. C.の「北陵」の由来について
>二高の記事本文から「北陵」の由来に関する部分を削除し、
>ノートに各説の出典を求める旨を記す

仙台二中が北六番丁にあった時から、北陵と言われていたという事実だけを残して、「北陵」からリンクできるなら、それでもかまわないと思います。他の人が容易に参照できるのであれば、手段形式はどのようなものでも良いでしょう。

北陵の由来としては、
1.「当時の仙台市街地の北の丘にあるから北陵説」

2.「現在の医学部一帯は星陵と呼ばれ、星陵の北側に位置する事から北陵と呼ばれていた」という説(出典は河北新報号外、仙台二高創立100周年特集版)
の2つを提示すれば良いのではないかと思います。

1.については、「○陵」と呼ぶ程の丘陵とは考えられないので、不自然という意見がある。 また、仙台二中は後に仙台の西に移転したが、この説を根拠にすると、西に移っても「北陵」を使い続けた理由が釈然としないので、それについての出典を示す必要がある。

2.については、星陵町と正式名称になったのは、仙台二中が川内移転後の事であり、時期的に矛盾する。医学部周辺を(星陵町ではなく)星陵と呼んでいたのなら、いつ頃から星陵と呼ぶようになったのか出典を明示する必要がある。

これらを意見として書き記しておけば良いのではないかと思います。

>「○陵」と呼ぶ程の丘陵とは考えられない
これは、丘や陵の基準があいまいであり、国による確固とした定義も定まっていないため意見が別れるのだろうと思います。 私は丘や陵と呼ぶ目安として、一定の条件がいり、周辺との段差は少なくても3~5m程度は必要だろう思っており、現二高や日比谷高校は条件を満たしますが、現星陵町一帯はこの条件を満たしてはいないだろうと思われるという事です。 --192.76l 2008年12月14日 (日) 00:50 (UTC)

  • 誰でも編集可能なWikipedia」なので、考えの異なる人との間で議論になることはあります。その議論が起きていること自体を「相手とのインターフェースがうまく取れていない」と判断して私を非難している意味が分かりません。私は、主張の強い方と議論になることを恐れるあまり、編集を差し控えることはないし、仮に考え方の異なる人との間において議論になったとしても、「失笑」などすることなく、真摯に対応しているつもりです。いずれにせよ、本論の論理構成に関係ないものを持ち出して、議論の相手を非難する貴殿の論陣の張り方に疑問を感じます。
  • 「現在の医学部一帯は星陵と呼ばれ、星陵の北側に位置する事から北陵と呼ばれていた」という説は、北陵と星陵の各々の名称の出現時期が逆のような気がしますが、出典がハッキリしていてWikipedia:検証可能性を満たすので、本文に記載されるのは仕方ないです。
  • 仙台西北部の2万5千分の1地形図等高線は、計曲線50m間隔、主曲線10m間隔、第一次補助曲線5m)を見てみると、木町通りと北四番丁の交差点に49.2mの水準点があり、大学病院の東側と南側に沿って標高50mの計曲線が見えます。また、加齢研の西側から医短の北側に屈曲する標高55mの第一次補助曲線と考えられる線が走っています。このため、木町通北四番丁から医学部体育館までの標高差は6-7mとなります。また、等高線の間隔を見てみると、星陵辺りが北西にある国見の山(七北田丘陵の一部)の裾野に当たり、当時の仙台の中心部からみると、丘陵地帯の北東端であることが分かります。星陵辺りが「そもそも丘でもない場所」というのは、貴殿の思い込みではないでしょうか?

--もね~るmoner 2008年12月14日 (日) 18:07 (UTC)
1. その議論が起きていること自体を「相手とのインターフェースがうまく取れていない」と判断して私を非難している意味が分かりません。

それならば、なぜ次のように管理側が出てくるのですか。あなたの相手に対する姿勢に問題があったから、やむを得ず管理の方が出てくるはめになったのではないですか。理解できない人に対していくら書いても無駄ですから、この件はこれまでにしたいと思います。

17.「他ユーザーの攻撃はおやめください」

(引用)いくら他者の編集姿勢に不満がありましても、個人攻撃だけは絶対におやめください。Wikipediaは戦いの場ではありません。くれぐれも穏便にお願いいたします。エスカレートしますと、あなたは即時投稿ブロックの対象になってしまいます。

5.
星陵辺りが「そもそも丘でもない場所」というのは、貴殿の思い込みではないでしょうか?
確かに仙台西北部2万5000分の1の地図で、貴殿が記述された事柄は検証確認できます。 川内の現二高や日比谷高校は、敷地全体がそばの道路等とかなりの段差があるので「陵」と呼ぶのに不都合はないと思いますが、現在の星陵町一帯が全体として、周辺道路等と5m程度の段差があるわけではなく、星陵町内部の一部だけ段差があっても「陵」と呼べるかどうかという事であり、私はこの事には賛成できかねるという事です。 私が積極的に自説を取らずに、「当時の仙台市街地の北の丘にあるから北陵説」を捨てきれないでいる理由は、実は東京から仙台に影響を与えたのではなく、反対に仙台から東京に発信したのではないかと、発想の転換をすることで「北陵起源説」とでも言うべき第三の説を導くこともできるのではないかと思われるからです。 つまり、「艮陵」も「星陵」も実は「北陵」が起源だったと仮定すると、全ての事柄が時代的な矛盾を引き起こす事なく、年代順に並んでしまい、仙台二中が川内に移転後「北陵」と呼ばれた理由付けもできてしまうのです。この説に従うと、府立一中を星が岡に移転させて「星陵」を府立一中の代名詞として用いるようになった立役者は、当時仙台一中校長から府立一中校長に転任した川田正澂氏だっただろうと推測されてしまいます。これは川田校長が移転の当事者であった事は確認が取れており、年代の矛盾はありません。そして、仙台二中の川内移転と、府立一中の「星陵」への移転はわずか一年違いであり、両中学の移転の当事者である仙台二中の河合校長、府立一中の川田校長はそれぞれの業績を称え現高校の銅像となっています。 この説だと今知り得るデータだけで矛盾なく説明できそうですが、難点は、当時仙台の20倍以上の都市規模であった東京が、一地方都市にすぎなかった旧制中学の影響を受けたなどという逆の考え方が他の方にできるかどうかという点と、同理由により府立一中関係者のプライドを傷つける事になりはしないかという点です。 物事は正確に記述するよりも、むしろ逆の事を書いておいた方が万事うまく行く場合もあるので「星陵の影響を受けて北陵と呼ぶようになった」と記述するのも有る得るかなとは思います。第三の説も回想録などによる確証が得られているわけではないという事もあります。--192.76l 2008年12月17日 (水) 11:49 (UTC)

  • 17ですが、時系列的には、静岡市の人口変動の経過について典拠を付けて書いたのに、静岡市を主に編集しているShinyaさん(管理者?)が、それを指摘されたくないためか、15で「主観に近い」「憶測」などと典拠を全く無視した非難を展開し、17において、またShinyaさんが私に食って掛かってきたという経緯があります。17では、冷静な議論を行うため、本論と関係ないことで茶化す相手に、それを書くのを止めて下さいと言っているのに、茶化した者には何も注意せず、私だけ投稿ブロックを示唆しており、管理者であってもバランスに欠けた行動だと思いました。この件はこれまでにしたいと思います。
  • 貴殿が展開している府立一中と仙台二中、および、東北帝大等の人間関係や文化的背景などは、今回の議論の中でとても興味深いと思っていました。ただ、時系列的にずっと腑に落ちない感じがしていました。それが一部の見方を変えたことで解決したとなると、かなり意味のある記事になるのではないかと思います。記事の完成を期待しています。確かに「文化は中心(都)から辺縁(田舎)に伝播する」という説を大都市の人は信じ、プライドを持っているかも知れませんが、それは総論の内の1つの説であって、各論では田舎から都に持ち込まれる文化もあるし、科学の分野でも田舎・都に関係なく論理的なものが正しいです。彼らのプライドなど気にせずに、真実の追究がなされることを期待しています。
  • 星陵町が丘かどうかについては、既に大規模に造成して建物が建っているので、現代的には分かり辛いと思います。ただ、北陵にしても星陵町にしても、「陵」と認識出来ないものにはそう名付けはしないのではないかと思います。貴殿が星陵町辺りを「丘である」と肯定出来ないとしても、少なくとも「丘ではない」との否定は誤りだと思います。--もね~るmoner 2008年12月17日 (水) 13:08 (UTC)
Help:ノートページ#投稿済のコメントへの修正など」に反する192.76lさんの編集を修正しました。--もね~るmoner 2008年12月20日 (土) 15:40 (UTC)

Help:ノートページ#投稿済のコメントへの修正など」について、 個人攻撃の除去のための修正の場合は他の利用者のコメント修正が許されており、 「Wikipedia:個人攻撃はしない」の個人攻撃の例として、「個人の性格や経験を決めつけて攻撃する」項目があり、私の口癖である「~でしょうが」という表現を「感情的な言葉遣い」と一方的に決め付けて攻撃しています。もね~るmoner さんの書き込みはこの項に該当すると思われ、不当であると判断されたため、該当個所を修正しました。 --192.76l 2008年12月21日 (日) 00:06 (UTC)

  1. Wikipedia:個人攻撃の除去では、「<!-- -->」を用いて隠す、「除去する範囲は必要最低限とする」、「説明責任を明確にするために署名をする」などを示していますが、それらを満たさない方法で削除しており、「個人攻撃かどうか」以外の部分でも貴殿の行為は不適切だと思います。
  2. 私としては、除去の理由や除去方法に不適切なところがあったとはいえ、本論と関係ないところで無駄な争いをしたくないことと、貴殿の言葉遣いが目に見えて適切になってきていることから、ここら辺で止めたいと思います。--もね~るmoner 2008年12月21日 (日) 02:03 (UTC)

1.個人攻撃と見做されましたので、「<!-- -->」でcomment outしました。

>自らの言葉遣いの悪さを個性と見做して棚に上げ、私が不敬な言葉遣いを止めるよう言ったり、「感情を排して冷静に議論すること」や「本論と関係ないことを持ち出さないこと」を指摘したりしたことを「個人攻撃」と一方的に決め付け個人攻撃はしないを自分の都合のいい様に利用してコメントの削除に至っており・・・

>「本論と関係ないことを持ち出さないこと」
これは、貴殿が私に対して次のような質問をしたから答えてそれを引用しただけの事です。

>『貴殿の無断削除行為に対して多くの方が批判憤慨されているようですね。』←これはどの記事を指して言われているのでしょうか?

>自らの言葉遣いの悪さ
それはあなたと私の環境が異なるからなのでしょう。貴方の一方的な決め付けは容認できません。単なるいいがかりや難癖と判断されます。「ごめん」とあやまってみても「ごめんなさい」の「なさい」がないから言葉遣いが悪い、「親しい間柄でもないのにごめんとは何だ!」と腹を立てているようなもので、ナンセンスな話です。
>不敬な言葉遣い
「不敬」とか私に対する罵詈雑言を並べて攻撃してみても、あなたは管理側からさえ警告を受けているという事実を重く受け止めるべきです。管理側の方が貴殿に対して書かれた見解と、私の見方はほとんど変わりません。管理されてる方は状況を客観的に判断していると思います。

2.>Wikipedia:個人攻撃の除去では、「<!-- -->」を用いて隠す
「個人攻撃の除去」の実例にある「<!-- -->」によるhtml書式にのっとったcomment outは、単なる一例にすぎず、状況に合わせて適宜適切な方法を取ることができると書いてあるので、的外れだと思います。
3.>貴殿の言葉遣いが目に見えて適切になってきている
それは、貴殿の言葉遣いに合わせただけですので、変な勘違いはしませんように。最初の方で私が書いた所でどこが気に入らないのか聞いたのもそのためです。本来の用件とは異なる個所でのトラブルで時間の浪費を避けたかったため、自分の言葉遣いでしか対話できないような方に対して、相手の言葉使いに自分の歩調を合わせて、その対話がスムーズに運ぶように本来の自分の文体を変えて書いただけの事です。このような手法を、前に述べたように私は「interfaceを取る」と呼んでいます。 --192.76l 2008年12月21日 (日) 05:07 (UTC)

私は、貴殿から不敬な言葉遣いやいわれなき嘲笑による「個人攻撃」を受けても、感情的にならずに、敬語を用いた言葉遣いや文面を要求するに留め、冷静な議論を進めようとしてきました。しかし、その注意自体を、見当違いも甚だしく「個人攻撃」だとか「罵詈雑言」だとかなみなし、自らを省みずに強権的に相手の言い分を削除するような貴殿とは、議論にならないし、ニ高の記事とも関係ないので、反論も含めてもうこの件で書くのは止めます。貴殿もしつこく「個人攻撃」するのは止めて下さい。--もね~るmoner 2008年12月24日 (水) 10:20 (UTC)


もね~る殿はそれなりに正しいと己が確信する情報に基づいて編集を行っているものと見受ける。だが、御貴殿の編集姿勢は余りにも型にはまり過ぎており「万人と共有できる余白部分の容認」に著しく欠如していると言わざるを得ない。確かにWikipediaに正しい記事を書く姿勢は必要だ。だが一つの事象に関する見解は人によりその解釈の幅が異なっているのもまた事実だ。客観的に見て、このような場面になると御貴殿は競馬の馬の如きに直線的に驀進する姿勢をとり、御貴殿が正しいと信じる見識に反すると判断した意見は絶対に受け付けないと言う潔癖的姿勢に固執する所が多々見られる。それゆえ、多くの筆者と対立を起こすものと判断される。自分の事は意外とわからないものだ、「罵詈雑言撃」、「個人攻撃」などと言うセリフを並べる前に、人の言葉に耳を傾けるべきである。「自分に対する批判的な意見」の中には自分にとって本当に必要とされる重要なものが以外に多く存在しているものである。123.218.186.180 2008年12月25日 (木) 11:54 (UTC)

123.218.186.180さん、仲裁のためにご意見を頂きありがとうございます。
新潟スタジアムの記事の件では、IPさんの主観的感想を私がWikipedia的ではないと記事から削除したことから問題になりましたが、新潟県庁のガイドラインに沿って書き直すことで一応の決着を見たと思います。今回の二高の記事の件については、192.76lさんとお互いの主張を言い合うことでそれぞれの主張の問題点も明らかになり、お互い譲歩し合う形で一応の着地点を見出せました。この件については、「御貴殿が正しいと信じる見識に反すると判断した意見は絶対に受け付けないと言う潔癖的姿勢に固執する」ということはありませんでした。
このノートの最後の方まで問題になっているのは、Wikipedia:ウィキケットに書かれている「礼儀正しく振る舞ってください」という件です。私が192.76lさんの言葉遣いなどについて「礼儀正しく振る舞ってください」と指摘したことに対し、192.76lさんからその指摘を「個人攻撃」「罵詈雑言」などと言われました。123.218.186.180さんは、私が「罵詈雑言」「個人攻撃」と言い出したように書かれていますが、それは123.218.186.180さんの文意からすると、192.76lさんに対して言われていると受け取ってよろしいのでしょうか? いずれにせよ、ウィキケットの件については、本論の二高とは関係ないので、棚上げして終了ということにするつもりです。--もね~るmoner 2008年12月25日 (木) 18:11 (UTC)

○123.218.186.180さんへ
123.218.186.180さんこんにちは。表現は違いますが、私も123.218.186.180さんと同様の感想を持ちました。

言うまでもありませんが、私が問題提起した部分についての議論は、先に課題を残しながらも一応終了していますので、その事についてもね~るさんと対立しているわけではなく、123.218.186.180さんも指摘しているように、もね~るさんは不特定多数の相手とうまくコミュニケーションできない方なのではないかという事を、表現を変えつつ何度も繰り返して指摘しているのですが、もね~るさんは全く理解されていないようです。

○もね~るさんへ
>貴殿から不敬な言葉遣いやいわれなき嘲笑による「個人攻撃」を受けても、感情的にならずに、敬語を用いた言葉遣いや文面を要求するに留め、冷静な議論を進めようとしてきました。
それは私の言い分です。時間を置いて後で冷静になって、自分を客観視して読み直してみたらどうですか。
>その注意自体を、見当違いも甚だしく「個人攻撃」だとか「罵詈雑言」だとかなみなし、自らを省みずに強権的に相手の言い分を削除するような貴殿とは・・・
無益な口論は避ける目的で、口論の原因となる部分をやむを得ず削除したのであり、見当違いとは勝手な言いがかりです。 議論を続けるつもりなら元に戻して再開してもかまいませんが。

もね~るさんの書いた文章に何度も出てきていますが、「不敬」という表現はおかしいです。辞書的な意味は「(皇室・社寺などに対して)敬意を払わず、礼儀を失すること」とあり、絶対君主制の国の支配者階級を対象とした表現であり、日本のような民主主義の定着した国において使うのは誤解をまねき不適切と考えます。

>Wikipedia:ウィキケットに書かれている「礼儀正しく振る舞ってください」
とありますが、Wikipedia:ウィキケットで一番大切な事は、個人攻撃をしないという事です。Wikipedia:ウィキケットの最初に太文字で強調されていますので、誰にでも確認できます。「礼儀正しく振る舞ってください」というのはこれが大前提になるという事です。

>言葉遣いなどについて「礼儀正しく振る舞ってください」と指摘したこと

私の「が」「ね」「?」の多用に対して「礼儀正しくない」と言うのであれば、貴殿との見解の相違であり、到底承服しかねます。この事で争っても無駄だと思いますので、今後この点に触れる事のなきよう。意味もない論争が延々と続く事になります。

>貴殿もしつこく「個人攻撃」するのは止めて下さい
しつこく「個人攻撃」しているのはあなたの方でしょうが。この項がいつまでも終了しないのは、私が書き込んだあと、前に貴殿が私に対して行なった非難等を蒸し返して延々と書き込むからです。私からすると、容認できない内容の訂正や修正をする必要が再び出てくるので、又書き込む事になる。これは悪循環です。私の提起した点についての議論は一応終了していますので、語句訂正等以外は余計な事を書き込まなければよいのです。それでこちらは書き込む必要がなくなります。 他の方が書き込むのは仕方ありませんが、この項の終了を優先させたいのであれば、この後何も書かなければそれで済みます。私は既に完了していると思っていますので。ただ、この項目の最後に自分が最後に書かないと気が済まないのであれば余計な事は書かず、「意見相違につき終了」とでも書いておけば良いのではないですか。 --192.76l 2008年12月27日 (土) 04:41 (UTC)

ウィキケットに関することは、お互い言いたいことを言い合ったということで終了にします。
なお、節サイズが88kBになり、今後の新たなノートの利用に不便となっているので、過去ログ化します。--もね~るmoner 2008年12月27日 (土) 09:25 (UTC)

もね~るmoner殿は、何か、御自分の都合に合わせて勝手に議論指針を歪曲し、物事を都合良く終わらせようとする姿勢が見えるのだが気のせいであろうか?114.164.92.124 2008年12月28日 (日) 04:06 (UTC)

繰り返しになりますが、192.76lさんも私も、本論の二高の件についてはお互いの意見を言い合って、ある程度の着地点を見つけています。最後まで問題になっているのは、本論の二高とは関係ないWikipedia:ウィキケットWikipedia:礼儀を忘れないに関することです。ただし、この件についてノートページを使い続けるのは、Wikipedia:利用者ページ#利用者スペースでできないことの「ウィキペディアのプロジェクトから外れたコミュニケーション」に該当する可能性があり、お互いの主張もあるけれど、もうこのくらいにして止めましょう、と私は言っています。これが、「議論指針を歪曲」し、「都合良く終わらせようとする」ことになるのでしょうか?
Wikipedia:論争の解決#ステップ2: 論争の相手と話し合うWikipedia:利用者ページ#会話ページでできることには、対話の大切さが書かれていますが、本論の二高の記事の着地点が見つかった以上、ウィキペディアのプロジェクトを推進するのに必要のないウィキケットに関わる部分については、ある程度で止めるのに問題はないと思います。--もね~るmoner 2008年12月28日 (日) 05:59 (UTC)