分部光命
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳4年1月8日(1714年2月22日) |
死没 | 天明3年11月17日(1783年12月10日) |
別名 | 熊之助[1]、隼人[1]、風斎(致仕号)[1] |
戒名 | 直心院殿円空慶筭大居士[1][注釈 1] |
墓所 | 滋賀県高島市大溝の円光寺 |
官位 | 従五位下和泉守、若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 近江大溝藩主 |
氏族 | 分部氏 |
父母 | 分部光忠、谷氏 |
兄弟 |
光命、恒河忠徳、長野忠睍、長野忠栄、 渡辺久龐、姉小路公文室、山本実観室、 上田義敷室、沢井元直養女 |
妻 | 今村氏 ほか |
子 |
光庸、三淵澄鮮、三淵澄盈、施薬院宗顕、中條康永、命誠、松平堅房正室、 角倉玄寿室、長岡栄之室、恒川忠栄室 |
分部 光命(わけべ みつなが[1][2])は、江戸時代中期の大名。近江国大溝藩6代藩主。分部家7代。官位は従五位下・和泉守、若狭守。
生涯
[編集]正徳4年(1714年)1月8日[2]、5代藩主・分部光忠の長男として誕生[1][2]。母は側室の谷氏で[1]、嫡母(父の正室)である田村氏(田村誠顕の娘)に養われた[1]。
享保14年(1729年)2月28日、16歳で徳川吉宗に御目見[1]。享保16年(1731年)、父の死を受けて、5月6日に遺領相続が認められる[1]。同年12月23日、従五位下和泉守に叙任[1]。享保18年(1733年)4月15日、初めて領国入りするための暇を与えられる[1]。延享元年(1743年)5月12日、若狭守に遷る[1]。
延享4年(1747年)には城下で大火が発生し、6町170軒が焼失する大きな被害を出した[3][4](「大溝の大火」と呼ばれる[4])。寛延2年(1749年)にも56軒を焼く大火が発生している[4]。
宝暦4年(1754年)9月7日、長男・光庸に家督を譲って隠居[1]。宝暦10年(1760年)には病気療養を理由に摂津国有馬温泉にて保養した。[要出典]
明和6年(1769年)に剃髪して[要出典]風斎と号する。天明3年(1783年)11月17日[2][注釈 2]、大溝において死去[1]。享年70[1]。
系譜
[編集]特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[5]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
補足
[編集]- 『寛政重修諸家譜』では、光命の項に「室」(正室)の記載がない[1]。
- 三女が嫁いだ松井(長岡)家は、熊本藩筆頭家老・八代城代を務め、3万石を知行する家である[7]。営之の孫にあたる存之(家督相続前に死去)も分部家から妻を迎えている[8]。
- 二男と三男が入った三淵家は、熊本藩で5000石を給され家老を輩出する家である[9]。
- 五男の中条康永は尾張藩の中条(中條)家1500石を継ぎ、のちに名古屋城代を務めた。武道の達人で、暴れる猪を乗り伏せたという逸話があるとともに、狩野派の画にも通じたという[10]。
備考
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.7、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.7。
- ^ a b c d “分部光命”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月5日閲覧。
- ^ 「2019年大溝400年すごろく」『広報たかしま』2019年1月、16-17頁、2022年1月7日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b c “大溝城”. 2022年1月7日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.7-8、『新訂寛政重修諸家譜 7』pp.7-8。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.8、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.8。
- ^ “新・肥後細川藩侍帳【ま】の部”. 肥後細川藩拾遺. 2022年1月8日閲覧。
- ^ “松井家の人々”. 八代市立博物館. 2022年1月8日閲覧。
- ^ “新・肥後細川藩侍帳【み】の部”. 肥後細川藩拾遺. 2022年1月8日閲覧。
- ^ “中條康永”. 日本掃苔録. 2022年1月5日閲覧。
- ^ “はぎの露 純米吟醸原酒”. 日本名門酒会. 2022年1月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/12