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分断国家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
分裂国家から転送)
分断国家朝鮮の象徴・板門店。中央の少し浮き上がった直線が朝鮮半島を分断する軍事境界線

分断国家(ぶんだんこっか)は、本来ならひとつの国家であるべきであるが、人為的に分裂させられた状態の国家のことである。特定地域が分割されて2つ以上の国家が存在する状態を幅広く指すことができるが、特に第二次世界大戦後の冷戦時代西側陣営東側陣営とで国内が分裂した国家を指して使われることもある[1]分裂国家(ぶんれつこっか)などの呼び方もある。

内容

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分断国家の特徴として、以下の点が挙げられる[要出典]

  1. ひとつの国家内に複数の政府承認を受けた2つ以上の政府が並立している。
  2. 並立する政府がいずれも「当該国家で正統性を有する(合法的な)唯一の政府である」との認識から自身が主導する国家の統一を志向している。
  3. その状況が平時において長期間持続している。

分断国家の各政府は、自己が認識する正統性を根拠に、国家の統一を目指して政府同士の戦争・交渉または諸外国との外交を行う。並立する政府の外交上の扱いは国・時代によって異なっており、並立する政府に対する他国の政府承認を一切否定する方針(ハルシュタイン原則、および「一つの中国」論に基づく二重承認否定)もあれば、逆に否定しない方針(南北等距離外交)もある。

統一が実現するまでの間、各政府はそれぞれが実効支配する地域で独自の内政を実施し、かつそれぞれの地域住民は政府によって相互交流が制限されるため、同じ国家内の地域同士であっても経済格差や住民の価値観の変化などが生じる。また、別個に政府承認を受けた各政府が独自に外交政策を展開することで、国際社会では分断国家の存在を前提とした国際関係が構築される。分断国家で分断状態が長期化すると、これらの事象が複合的に発展し、「国家が分断されている異常な状態が常態である」という「分断の恒久化」が発生することが多い。

分断国家は、「一国家一政府」を原則とする国民国家(近代国家)の概念が普遍的になった近代以降に現れた概念である。したがって、ローマ帝国東西分裂や、領邦国家が乱立していたドイツ統一以前のドイツ、および三国時代魏晋南北朝時代の中国など、近代国家でない国の分裂は分断国家に該当しない。また、スールー王国のように、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立した場合も、分断国家に該当しない。なお、イエメンもその例に当てはまるが、冷戦終結後に統一されたことから分断国家とされている。一方、近代国家で2つ以上の国家が並立していても分断国家と見なされない場合がある。

分断国家

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中華民国に対し「一国二制度中国統一を(達成しよう)」と訴える中華人民共和国スローガン廈門市2010年
分断ドイツの象徴・ベルリンの壁機能しなくなった直後の様子(西ベルリン1989年

東西冷戦に起因する分断国家

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現存する冷戦に起因する分断国家は、中国朝鮮の2か国である。これらの国の各政府はいずれも、「国土全域を支配する正統性を有する」と主張し、対立相手の正統性を認めていない。また、過去の例としてはイエメンドイツベトナムがある。

いずれの事例も、冷戦の最中に独立・主権を回復する過程で、「政治経済体制自由資本主義体制と社会主義体制のどちらにすべきか」というイデオロギーの選択が対立の原因となって分裂している。

現在

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過去

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  • 西ドイツの旗 西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツの旗 東ドイツ(ドイツ民主共和国)(1949年-1990年
  • 南ベトナム(ベトナム共和国の旗 ベトナム国ベトナム共和国の旗 ベトナム共和国)と北ベトナムの旗 北ベトナム(ベトナム民主共和国)・南ベトナムの旗 南ベトナム共和国(1949年-1976年
    • ジュネーヴ協定による。サイゴン陥落に伴い西側諸国のベトナム共和国が消滅し、非同盟諸国南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナムを制圧。名目上は分断が継続するが、傀儡政権の南ベトナム共和国を通じて、社会主義国の北ベトナムが南ベトナムの併合作業を推進。1976年7月2日の南北政府統合に合わせ、国号を「ベトナム社会主義共和国」に変更。
    • なお、ベトナム政府は「ベトナムが統一された日」を、南北政府が統合された1976年7月2日ではなく、サイゴン陥落により北ベトナムが南ベトナムを「解放」した1975年4月30日であると認識している。そのため、サイゴン陥落を記念するベトナムの祝日は、「南部解放記念日英語版」(ベトナム語Ngày Giải phóng miền Nam / 𣈜解放沔南)とも「統一の日」(ベトナム語Ngày Thống nhất / 𣈜統一)とも称される。
  • 北イエメンの旗 北イエメン(イエメン・アラブ共和国)と南イエメンの旗 南イエメン(南イエメン人民共和国→イエメン人民民主共和国)(1967年-1990年)
    • 19世紀半ばのオスマン帝国イギリスのイエメン地域分割占領による。旧オスマン領が1918年イエメン王国として先に独立するも、旧英国領は冷戦下の1967年社会主義体制を志向して独立し、分断状態が継続。両政府の合意によって1990年5月22日に統一され、国号を「イエメン共和国」に変更(イエメン統一)。しかし統一後も南北の軋轢は解消されず、イエメン内戦が発生してからの南部運動は当初こそハーディ政権に協力していたものの2017年、ハーディが南部運動出身者を政権ポストから外してからは南部暫定評議会が活動を開始。旧首都のアデン周辺を実効支配し事実上分断状態が再燃している。
    • 東西冷戦に起因する分断国家ではなく、スールー王国やコンゴのように、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立した例であるが、独立後は西側寄りの北イエメンと東側寄りの南イエメンとで対立関係にあり、冷戦終結後は南北統一がなされたため上記の国々と同じく分断国家とされている。
  • 民主カンプチアの旗 民主カンプチアカンプチア人民共和国の旗 カンプチア人民共和国(1979年-1992年)
    • カンプチア人民共和国樹立後も旧民主カンプチア勢力は辺境に支配地を持ち、また王党派やクメール共和国残党と合流して民主カンプチア連合政府を形成しており、国連の議席を維持するなど国際的に正統な政府として認められていた。1993年に王政復古によりカンボジア王国が成立。
  • アンゴラの旗アンゴラ人民共和国アンゴラ民主人民共和国1975年-2002年)
    • アンゴラが独立戦争を経てポルトガルから独立する際、親ソの共産系独立派勢力と非共産系や毛沢東主義の独立勢力がそれぞれ個別に政府を立ち上げたため、1975年の独立時に2つの政府が同時に存在することになり、正統性を巡って内戦が発生した(アンゴラ内戦)。非共産系勢力や毛沢東主義者の連合政権であるアンゴラ民主人民共和国は、アンゴラの領土の大部分を一時的に支配したこともあったが、国際的な承認を受けることはなく、共産系のアンゴラ人民共和国が民主化されてアンゴラ共和国に変わった後も正統性を主張し内戦を継続したが、2002年に停戦に応じ武装解除された。
    • アンゴラ民主人民共和国は消滅に至るまでに国際的に承認されなかったため、分断国家には含まれないことが多い[注釈 1]。また東西の対立とは別に中ソ対立の要素も強い。

東西冷戦に起因しない分断国家

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分断国家と見なされない例

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上記の分断国家に対し、

  1. 戦中の短期間のみ政府が分裂した国家
  2. 国民の自発的意志によって分裂した国家
  3. いわゆる亡命政府
  4. いわゆる二重権力や群雄割拠状態

のいずれかに該当する場合は分断国家とみなされない。また特殊な例としては、従前の民族自決権(自決権)による統一の正統性が戦争によって全面的に否定され再分裂した大ドイツがある。

下記の一覧では、該当事例を国名の五十音順に掲載する。

独立の際に統一状態を望まない住民がいた地域

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インド(橙色)とパキスタン(緑色)に分断されたインド亜大陸:灰色は帰属未定地(1947年時点)

一部住民が自決権を求めて一方的に分裂した国家

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アブハジア(緑色)と南オセチア(紫色)が事実上独立した状態にあるジョージア(2008年以降)
1989年から2008年にかけてのユーゴスラビアの変遷

戦中の短期間のみ政府が分裂した国家

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軍閥時代の中国における各軍閥の勢力図。青色系が国民政府系列。緑色系が直隷派系列。肌色が奉天派、ピンクが山西派、薄オレンジが西北派。(1925年時点)

国民の自発的意志によって分裂した国家

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大ドイツ

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ナチス・ドイツによる大ドイツ統一
メーメルラントを除く)
左上:ヴァイマル共和政時代からのドイツ国(1937年12月31日)
右上:アンシュルス後のドイツ国(1938年3月13日)
左下:ズデーテン併合後のドイツ国(1938年11月21日)
右下:ベーメン・メーレン保護領設置後のドイツ国(1939年3月16日)
第二次世界大戦中のドイツと東部総合計画
黒線:ナチ党の権力掌握時点の国境1935年
青緑色:1935年時点のドイツ国
黒点線:独ソ戦におけるドイツ軍の最前線(1943年
赤線:1943年時点のドイツ本土
青点線:1943年時点の国境・ドイツの行政区分
青色文字:ポーランド総督府国家弁務官統治区域(OstlandとUkraine。MoskowienとKaukasienは未占領。)
大ドイツの発生から統一・分裂までの経緯
フランクフルト国民議会(1848年)以降の大ドイツ諸国家の変遷
普墺戦争
普仏戦争後の小ドイツ主義に基づくドイツ統一
第一次世界大戦
アンシュルスズデーテン併合
第二次世界大戦
ドイツ分断
ドイツ再統一

モンゴル

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20世紀初頭、「蒙古王公」たち(モンゴル草原に分封された諸侯)は、清朝末期に展開された「清末新政」(1910年-1911年)により清朝支配への反発を深め、密かに独立を画策しはじめ、ロシア帝国からは経済支援と武器弾薬の供給を取りつけることに成功した。

1911年、中国の共和主義者が引き起こした共和革命(辛亥革命に乗じ、化身ラマジェプツンタンパ・ホトクト8世(ボグド・ゲゲン〈「聖人さま」の意〉)を「ボグド・ハーン」(「聖なる皇帝」の意)として君主に推戴して独立を宣言、北部(現在、国連加盟の独立国モンゴル国となる領域)に実効支配を確立した上で南部49旗(現在、中国領の内蒙古自治区となっている領域)にも浸透した。しかし、モンゴルに対する影響圏を「漠北」(ばくほく、ゴビ砂漠の北側)に限定することを日本・中国などと取り決めていた(日露協約〈1907年〉、中露覚書〈1913年〉など)ロシアは、ボグド・ハーン政権に対して「漠北」への撤退を要求、ロシアからの経済・軍事支援がなければ立ちゆかないモンゴルはやむなくこれを飲み、1914年から15年にかけて開催されたキャフタ会議により、モンゴルの北部は「中国の宗主権の下」でボグド・ハーン政府が「自治」を行う地域、「漠南」(ばくなん)は「純然たる中国領」と定められた。

その後、内蒙古は日本の影響下で成立した満州国により東西に分裂、残った内蒙古西部には内蒙古自治運動により蒙古軍政府(後の蒙古自治邦政府)が誕生する。1945年のソ連軍の侵攻で蒙古自治邦政府と満州国は消滅。旧蒙古自治邦領域では内モンゴル独立宣言をした内モンゴル人民共和国、旧満州国興安総省では東モンゴル自治政府ホロンバイル自治省政府などが成立し、南北モンゴル統一運動を掲げ、1947年にはそれらの勢力を統合した内モンゴル自治政府が成立。その後、国共内戦によって成立した中華人民共和国では内モンゴル自治区が設置されるも南北統一は果たせず、逆に中国共産党政権による内モンゴル人民革命党粛清事件により統一運動は徹底的に弾圧された。なお、中華民国政府は2012年まで外蒙古の独立を認めず、中華人民共和国やロシア連邦トゥバ共和国の領域とともに自国領土だと主張していた。

大ルーマニア

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1859年にオスマン帝国領内のワラキア公国モルダヴィア公国が合併してルーマニア公国(後にルーマニア王国)が誕生、1877年5月9日にオスマン帝国宗主権下からの独立を宣言し、1878年のベルリン条約で完全独立を達成するもトランシルヴァニア公国ベッサラビアブコビナは、オスマン帝国の影響下にあった時代にロシア帝国オーストリア帝国によって割譲されたため、その版図には含まれなかった。第一次世界大戦後の1918年にハンガリーとロシアからトランシルバニアとブコビナ、ベッサラビアを併合し、大ルーマニアの統一を達成。ベッサラビアのうちソ連統治下に留まったごく一部の領域がモルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国を形成した。

1940年にルーマニアはソ連にベッサラビアを割譲させられ、第二次世界大戦中には再占領するものの敗戦により領有権を放棄しソ連へ割譲、モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルドバSSR)としてソ連を構成する共和国のひとつとなった。1991年のソビエト連邦の崩壊により、モルドバSSRはソ連から離脱して現在のモルドバ共和国が成立。前後してルーマニア・モルドバの両国ではルーマニア・モルドバ統一運動が興るが、現在に至るまで統一はなされていない。

コンゴ共和国とコンゴ民主共和国

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1885年にベルリン会議において、元々あったコンゴ王国コンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ)とフランス領コンゴ(後のフランス領赤道アフリカ)に分割され植民地化。1960年、ベルギー領コンゴフランス領赤道アフリカはそれぞれコンゴ共和国(仏: République du Congo)というまったく同名の国として独立。2つの国にはそれぞれの首都の名前が付され、元ベルギー領コンゴは「コンゴ・レオポルドヴィル」、元フランス領赤道アフリカは「コンゴ・ブラザヴィル」として区別された。1964年にコンゴ・レオポルドヴィルは、正式国名を「コンゴ民主共和国」に変更。当初、コンゴ・レオポルドヴィルは東側寄り、コンゴ・ブラザヴィルは西側寄りであったが、1970年にコンゴ・ブラザヴィルにおいて共産主義国家のコンゴ人民共和国が、1971年にコンゴ・レオポルドヴィルにおいて親米反共主義ザイール共和国がそれぞれ成立し、対立が生じた。冷戦終結後の1991年にコンゴ人民共和国がコンゴ共和国へ、1997年にザイール共和国がコンゴ民主共和国へと、かつての国名にそれぞれ変更した。現在、これといった再統一運動はない。

イエメンと同じく、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立し、独立後は西側寄りのザイールと東側寄りのコンゴ人民共和国とで対立関係にあったが、統一運動は活発ではなかったため、イエメンとは異なり分断国家とみなされていない。

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただしアメリカなどいくつかの国々はアンゴラ人民共和国も承認せず正当な政府は無いものとしていた。
  2. ^ 戦争・紛争の勃発によって自決権に基づく民族統一が否定された類例としては、ユーゴスラビア紛争が起きた「南スラヴ人」のユーゴスラビア新ユーゴ)がある。ただし、こちらは戦前(旧ユーゴ)の統一状態についてはその正統性を否定されていない。

出典

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  1. ^ 分断国家コトバンク
  2. ^ 鈴木, 良平『IRA:アイルランドのナショナリズム』(第四版増補)彩流社、東京、1999年、1頁。ISBN 4-88202-461-6OCLC 47607548https://www.worldcat.org/oclc/47607548 
  3. ^ 親トルコ右派が現職破る 北キプロス大統領選|全国のニュース|北國新聞”. 北國新聞. 2021年10月7日閲覧。
  4. ^ キプロスで南北対立悪化 ギリシャ地区「占領拡大」|全国のニュース|京都新聞”. 京都新聞. 2021年10月7日閲覧。