出羽元倶
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 弘治元年(1555年) |
死没 | 元亀2年8月10日(1571年8月30日) |
改名 | 鶴法師丸(幼名)→出羽元倶 |
別名 | 孫四郎(通称) |
戒名 | 天真常照禅定門 |
主君 | 毛利元就→輝元 |
氏族 | 大江姓毛利氏→出羽氏 |
父母 |
父:毛利元就、母:三吉氏 養父:出羽元祐 |
兄弟 |
毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、 二宮就辰?、穂井田元清、毛利元秋、 元倶、天野元政、末次元康、小早川秀包ほか |
出羽 元倶(いずは もととも)は、戦国時代の武将。毛利元就の六男。石見国邑智郡出羽(現在の島根県邑智郡邑南町出羽)を本拠とする国人である出羽元祐の養子となる。
生涯
[編集]弘治元年(1555年)、毛利元就の六男として誕生。同母兄に元秋、同母弟に末次元康がいる。
石見国邑智郡出羽二山(二つ山・二ッ山)城主の出羽元祐に嗣子が居なかったことから養子となり、出羽氏を名乗ったが、元亀2年(1571年)に17歳で夭折した。元倶の死後は元祐の実子である出羽元勝が後継となった。
また、元倶の死が、元就死去の僅か2ヶ月後の事であり、要らぬ誤解を招くことを恐れ、元祐は毛利輝元に対して起請文を書いて毛利氏への忠節を改めて誓っている。
後に萩にある臨済宗南禅寺派の福源山徳隣寺で、150回忌、200回忌の法要が営まれた。