円谷氏
円谷(圓谷)氏(つむらやし)は、日本の氏族のひとつ。藤原北家永手流をその源流とし、切畑支流、陸奥国に起るとする説あり。家紋は丸に釘抜、五三の桐、上がり藤に一の字紋[1]。読み方は、福島県内では多くは『つむらや』と読む。ウルトラマンの産みの親の円谷英二、マラソンの円谷幸吉も本名は『つむらや』である。以下の福島の円谷氏、常陸国(秋田藩士)の円谷氏も『つむらや』と読む。また、戸籍上の漢字は旧字体の『圓谷』である。
福島の円谷氏
[編集]円谷氏は、陸奥石川氏の家臣で、石川氏第16代満持〔〜明徳4年(1393年)〕に円谷氏から側室が入り、五男光稙を生み、その光稙は、二階堂出羽守の嗣子となる。[2]。その後、天正18年(1590年)石川氏が豊臣秀吉の奥州仕置により、領地没収となり、現在の宮城県角田に移る。その際に、円谷筑後右京は、郷士として石川郡泉荘御禊郷中野目村(現・福島県西白河郡矢吹町)に居住し名主(大庄屋)となる[3]。寛政10年(1798年)浅川騒動が発生し、中野目村大庄屋 円谷太左衛門、川辺村(現・福島県石川郡玉川村)庄屋 円谷清左衛門も被害に遭う[4]。円谷家当主は、近代期に中野目村戸長・西白河郡会議員・福島県会議員などを務める[5]。
須賀川の円谷氏
[編集]天正17年(1589年)の須賀川城攻防戦の際に須賀川二階堂氏、家臣の円谷の名が見える。須賀川市の奥州街道沿いにある下宿(現・福島県須賀川市森宿字坪ノ内)に居館を置いていた[6]。同地には、下宿御所宮館跡がある[7]。
常陸国(秋田藩士)の円谷氏
[編集]常陸国佐竹氏の家臣、円谷為胤は、関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602年)佐竹義宣が、常陸国から秋田に転封となり、佐竹氏に随身し、秋田県仙北市角館町に住まう。円谷氏については『諸士系図』に詳しい[8]。なお、日本大学初代理事長の円谷弘は、この子孫[9]。
系譜:円谷為胤(丹波) - 為高(主税) - 為忠 - 為貞 - 為俊
常陸国久慈郡下金沢村(現・茨城県久慈郡大子町下金沢)の十二所神社の永禄6年(1563年)の棟札に円谷、および、天正11年(1583年)の棟札に円谷尾張守の名が見える。[10]。同地には、下金沢古館跡がある[10][11]。
脚注
[編集]- ^ “東京大学史料編纂所所蔵「諸氏本系帳 p.0340」”. 東京大学史料編纂所. 2022年8月16日閲覧。
- ^ “石川氏一千年史(上) p.30」”. 国立国会図書館蔵. 2022年8月30日閲覧。
- ^ “矢吹町史 目で見る矢吹町史 近世 p.119”. 福島県矢吹町. 2022年8月16日閲覧。
- ^ 『石川町史、上』石川町編纂委員会、1967年、527頁。
- ^ “円谷善人家文書(福島市)”. 福島県歴史資料館. 2022年8月17日閲覧。
- ^ 『須賀川市史』須賀川市教育委員会、1973年、108, 134頁。
- ^ 『下宿御所宮館跡・御所の宮古墳』須賀川市教育委員会、2006年。
- ^ “秋田藩士 諸士系図 曽津弥部 p.15”. 秋田県公文書館. 2022年8月16日閲覧。
- ^ “初代理事長円谷弘”. 日本大学. 2022年8月16日閲覧。
- ^ a b “新編常陸国誌(下) p.241”. 2022年8月22日閲覧。
- ^ “大子町 遺跡(周知の埋蔵文化財)> 古館遺跡”. 2022年9月24日閲覧。