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内藤正朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤正朝
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文10年3月19日1541年4月15日
別名 通称:彦次郎(彦二郎)
主君 大内義隆
氏族 藤原北家秀郷流内藤氏
父母 父:内藤興盛、母:内藤弘矩の娘
兄弟 隆時正朝隆貞問田殿大内義隆側室)、女(宍戸元秀室)、弥二郎尾崎局毛利隆元正室)、隆春、女(和智元郷室)、女(出羽元祐室)、山内元興元種
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内藤 正朝(ないとう ただとも[注釈 1][1])は、戦国時代の武将。大内氏家臣。通称は彦次郎。内藤興盛の次男。兄に隆時、弟に隆春などがいる。

生涯

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大内氏の重臣である内藤興盛の次男として生まれる[2]

桜尾城の戦い

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天文10年(1541年1月12日厳島神主家友田興藤が大内氏に叛旗を翻し、厳島を占拠した[3]。これに対し大内氏は、1月15日に厳島を奪回し[4]3月18日には大内義隆周防国玖珂郡岩国[注釈 2]から安芸国佐西郡門山[注釈 3]に進んで、興藤の籠城する廿日市桜尾城に迫った[5]

3月19日、正朝の兄・内藤隆時指揮下の部隊[注釈 4][6]藤懸尾[注釈 5]に登り、桜尾城の様子をうかがった[5]が、この部隊に正朝も加わっていた。大内軍は以前にも藤懸尾に陣を構えていたが、3月9日に友田軍によって切り崩されていた[7]。大内軍の動きに対し、桜尾城側からは桑原与四郎らが出撃して合戦となった[8]。大内軍部隊は打ち破られ、正朝をはじめとして熊野藤右衛門尉宮川大蔵太輔、そのほか主だった者10人余りが討ち死にした[5][9]

その後、3月23日に大内義隆は七尾[注釈 6]に陣を進めて桜尾城への攻撃を開始し、4月5日に友田興藤が切腹して桜尾城は開城した[11]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「正」は大内氏の“みなし偏諱”とみられる。この場合、大内家臣・山形正厚(やまがた ただあつ)の事例から、「正」は「ただ」とよむことになる。
  2. ^ 現在の山口県岩国市
  3. ^ 現在の広島県廿日市市大野町
  4. ^ 伊佐隆光も同日の藤懸での合戦で槍傷を受けたが、彼の負傷を内藤隆時が大内義隆に報告している。
  5. ^ 現在の広島県廿日市市串戸
  6. ^ 桜尾城が築かれた丘を含む7つの丘の総称[10]。藤懸尾もその一つ。

出典

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  1. ^ 藤井崇 2019, p. 32.
  2. ^ 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房1983年
  3. ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.53
  4. ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.54
  5. ^ a b c 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.57
  6. ^ 『萩藩閥閲録』巻93「佐々木彌右衛門」(山口県文書館 編 『萩藩閥閲録 第三巻』1970年 p.45)
  7. ^ 友田広就感状写」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.124)
  8. ^ 「友田興藤感状写」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.125)
  9. ^ 「内藤家系譜(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.694)
  10. ^ 廿日市市立七尾中学校 学校の概要 http://www.hatsukaichi-edu.jp/nanao-j/nanaojhs_gaiyou.html
  11. ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.58

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年
  • 『廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988年
  • 藤井崇『大内義隆 類葉武徳の家を称し、大名の器に載る』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年10月。