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内藤元家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤元家
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正9年(1581年
死没 慶長17年6月15日1612年7月13日
改名 内藤元貞→内藤元家
別名 又二郎→善兵衛尉(通称)
戒名 法覚知伝
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 藤原北家秀郷流内藤氏
父母 父:内藤隆春、母:阿座上盛豊の娘
兄弟 女(益田藤兼継室)、河原殿吉見広頼継室)、綾木大方内藤元盛室→山内元如室)、
女(湯二郎左衛門尉室)、奥林(勝間田就盛室)、女(三田吉右衛門尉室)、元家元忠親春
紫福市川元好の娘)
特記
事項
元家の死後、同母弟の元忠家督を相続。
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内藤 元家(ないとう もといえ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏家臣で長州藩士。父は毛利氏の重臣・内藤隆春[1]。母は内藤氏家臣・阿座上盛豊の娘[1]。正室は市川元好の娘・紫福

生涯

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天正9年(1581年)、毛利氏重臣・内藤隆春の長男として生まれる[1]

隆春の三女(元家の異母姉)である綾木大方と婚姻して隆春の婿養子となった内藤元盛が隆春の後を継いだため、元家は隆春の隠居領を譲り受けて別家を興し、毛利輝元に仕えた[1]

天正20年(1592年)から始まる文禄の役においては毛利輝元に従って朝鮮に渡海する[2]

慶長17年(1612年6月15日に病死[1][3]。享年32[1]。元家には嫡男がおらず、内藤家が断絶することを憂えた輝元の計らいにより[3]林元尚の養子となっていた同母弟の元忠が元家の後を継いだ[1]

系譜

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 189.
  2. ^ 『閥閲録』巻99「内藤小源太」第68号、天正20年(1592年)比定3月22日付、又二郎(内藤元家)宛て周竹(内藤隆春)書状。
  3. ^ a b 『閥閲録』巻99「内藤小源太」家譜。

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩藩閥閲録』巻99「内藤小源太」