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内藤信有

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤 信有
時代 江戸時代前期
生誕 正保4年(1647年
死没 享保17年2月29日1732年3月25日
別名 釆女、源三郎
官位 従五位下筑後
幕府 江戸幕府 旗本5000石知行地:常陸国多賀郡駿河国富士郡駿東郡
氏族 内藤家 (信成系)
父母 父:内藤信直、母:不明
養父:内藤信全
先室:中条信慶の女
後室:中条信慶の養女(戸田氏豊娘)
信朋信安諏訪頼均戸田氏尹
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内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。

寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱御目見した。同5年定火消となり、また布衣の着用を許された。貞享2年(1685年小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に入れられた[1]

元禄11年(1698年)3月7日、常陸国の采地を改めて、駿河国富士郡および駿東郡の内に移された。

享保17年2月29日、江戸において死去した。享年86。法名は直岸。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。

出典

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  • 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 同書204頁

脚注

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  1. ^ 「寛政譜」新訂13巻204頁には「隊下の士三枝喜兵衛某が事により逼塞せしめられ」とある。