中条信慶
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永11年(1634年) |
死没 | 正徳2年4月27日(1712年6月1日) |
別名 | 通称:左京 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
氏族 | 樋口家→中条氏 |
父母 | 父:樋口信孝、母:広橋兼勝娘 |
兄弟 |
樋口信康、信慶、信久、梅、清雲院、 勘解由小路[1] |
妻 | 正室:柴田康久娘 |
子 |
信実、信秀 娘(内藤信有室)、養子:女子(戸田氏豊娘。内藤信有後室) |
中条 信慶(ちゅうじょう のぶよし)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。参議・樋口信孝の子。通称は左京。
略歴
[編集]樋口信孝の次男として誕生。生母は広橋兼勝の娘。
明暦3年(1657年)10月3日、4代将軍・徳川家綱に召し出されて、御家人に列し、寄合に所属した。後に旗本となった。徳川家綱の命令により、祖母の姓である中条姓を称した。なお、実兄の樋口信康の息子・康満も中条を称し尾張徳川家に仕え[2]、実弟信久も中条を称した。
姉妹2人は大奥に出仕している。長女・梅は徳川家光に仕えた上級女中であり、その関係で次男・信慶は幕府に召しだされたようである。
万治元年(1658年)3月1日蔵米300俵を賜った。元禄10年(1697年)7月26日蔵米を改めて下野国都賀郡500石を与えられた。元禄14年(1701年)9月18日隠居し、長男・信実に家督を譲った。正徳2年(1712年)4月27日、死去。享年79。
系譜
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