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内ヶ崎儀左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内ヶ崎 儀左衛門
うちがさき ぎざえもん
富谷町誌に掲載された肖像
生年月日 安政6年8月22日1859年9月18日
出生地 日本の旗 日本 陸奥国黒川郡富谷村
(現富谷市
没年月日 (1898-07-14) 1898年7月14日(38歳没)
前職 内ヶ崎酒造店経営
所属政党 無所属
配偶者 内ヶ崎さだ(妻)
子女 内ヶ崎隆次郎(五代目藤崎三郎助・次男)
内ヶ崎贇五郎(五男)
親族 内ヶ崎文之助(弟)
四代目藤崎三郎助(甥)

当選回数 1回
在任期間 1894年10月 - 1898年4月
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十二代 内ヶ﨑 儀左衛門(うちがさき ぎざえもん、安政6年8月22日1859年9月18日〉- 1898年明治31年〉7月14日)は、明治時代日本政治家醸造家宮城県黒川郡富谷村3代村長[1]。第十二代内ヶ﨑家当主。義隆のため、内ヶ﨑儀左衛門義隆とも呼ばれる[2]。親族には衆議院議員内ヶ﨑作三郎がいる[3]

来歴

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安政6年8月22日1859年9月18日)、陸奥国黒川郡富谷村(現在の富谷市富谷字町)に内ヶ﨑本家・第十一代内ヶ﨑儀左衛門(内ヶ﨑儀左衛門義詮)の次男として生まれた[4]幼名は源六であったが、1885年(明治18年)に第十一代内ヶ﨑儀左衛門が六十歳で亡くなると第十二代内ヶ﨑儀左衛門を名乗った[2]

内ヶ崎酒造店の十二代目として醸造業を営みつつ、1894年(明治27年)10月から1898年明治31年)4月まで富谷村長を務めた[4]

村長退任後の同年7月14日、病のため享年40歳で亡くなった[4]

年譜

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人物

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  • 戒名は「大徳院隆綱義憲居士」。墓地は富谷市富谷字狸屋敷の北雲台にある[4]
  • 住所は富谷村大字富谷字町27[1]

家族・親族

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実家[3]

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自家[3]

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儀左衛門は妻さだとの間に9人の子供を儲けたが、成人したのは長女のたけ、長男の豊一郎、次男の隆次郎、五男の贇五郎の4人のみで、残りの子供は夭逝している[10][3]

  • 妻:さだ(旧姓佐藤)
  • 長女:たけ(田丸祐一郎に嫁ぐ)
  • 次女:うめ
  • 三女:うら
  • 長男:豊一郎(内ヶ﨑家第十三代)
  • 次男:隆次郎(藤崎家の養子(四代目藤崎三郎助の娘婿)・五代目藤崎三郎助[11]
  • 三男:興三郎
  • 四男:雄四郎
  • 五男:贇五郎東北電力初代社長)

脚注

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  1. ^ a b 富谷町誌編纂委員会『富谷町誌』富谷町、1965年、144-146頁。doi:10.11501/3004994https://dl.ndl.go.jp/pid/3004994/1/1032023年7月17日閲覧 
  2. ^ a b 富谷町誌編纂委員会『富谷町誌』富谷町、1965年、723頁。doi:10.11501/3004994https://dl.ndl.go.jp/pid/3004994/1/1032023年7月17日閲覧 
  3. ^ a b c d 人事興信所『財界家系図』人事興信所、1956年、405頁。doi:10.11501/3026577https://dl.ndl.go.jp/pid/30265772023年7月19日閲覧 
  4. ^ a b c d 富谷町誌編纂委員会『富谷町誌』富谷町、1965年、666頁。doi:10.11501/3004994https://dl.ndl.go.jp/pid/3004994/1/1032023年7月17日閲覧 
  5. ^ 藤崎三郎助『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  6. ^ 官報 1888年03月05日
  7. ^ 宮城県商工人名録  股野七郎 東北活版社 明45.1
  8. ^ 内ヶ崎文之助人事興信録 6版
  9. ^ 内ヶ﨑寿一郎氏中央之旧仙台藩人譚、古山省吾 宮城県顕揚会 大正6
  10. ^ 岩本由輝 (1993). “物語「東北開発120年」――人物篇(V) 内ヶ崎贇五郎”. 東北開発研究 (東北開発研究センター) ’93新春 (88): 64-66. doi:10.11501/2782574. https://dl.ndl.go.jp/pid/2782574. 
  11. ^ 藤崎三郎助『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年

関連項目

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公職
先代
佐々木久四郎
宮城県黒川郡富谷村長
1894年 - 1898年
次代
安藤林左衛門