兼覧王
兼覧王 | |
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身位 | 王、正四位下 |
出生 |
貞観8年(866年)? |
死去 |
承平2年(932年) |
子女 | 兼覧女王[1] |
父親 | 惟喬親王?、国康親王? |
母親 | 不詳 |
役職 | 宮内卿 |
兼覧王(かねみおう/― のおおきみ、貞観8年(866年)? - 承平2年(932年))は、平安時代前期の皇族・歌人。文徳天皇の皇孫で、弾正尹・惟喬親王の子[2][3]。一説には上野太守・国康親王の子[4]。官位は正四位下・宮内卿。中古三十六歌仙の一人。
経歴
[編集]光孝朝の仁和2年(886年)二世王(孫王)として従四位下に蔭叙され、宇多朝の寛平2年(890年)河内権守に任ぜられる。宇多天皇の親政(寛平の治)が始まると、寛平4年(892年)侍従となって帝側に仕え、次いで中務大輔や民部大輔を歴任した。
寛平9年(897年)醍醐天皇の即位後まもなく山城守として地方官に転じる。延喜6年(906年)正月に治国の功労によって従四位上に昇叙され、同年9月に大舎人頭に任ぜられ京官に復す。こののち、延喜11年(911年)神祇伯、延喜18年(918年)弾正大弼、延長3年(925年)宮内卿と、醍醐朝後半は京官を歴任した。またこの間の延長2年(924年)には正四位下へ昇叙されている。
人物
[編集]歌人としては、亭子院歌合に出詠したほか、『古今和歌集』に5首、『後撰和歌集』に4首入集する[5]。何れも技巧を凝らした興趣ある歌風だが、宮廷歌人の名声には及ばなかった。『古今集』には、紀貫之や凡河内躬恒が王との対面に感激し、贈答を交わしたことが見える[6]。
逸事
[編集]昌泰元年(898年)10月に遊猟中の宇多上皇の宿所に献物を持参した際、上皇に挨拶せずに、献物の秣を庭中に積み上げるように置き並べた。王の非礼な行動に上皇が機嫌を損ね、困惑した侍臣らも沈黙する中、さらには秣を奪い取る者が現れ、それを追捕する騒動に発展した。一連の顛末を記録した紀長谷雄は騒動を招いた王を「無智」とまで評しているが[7]、こうした宮廷秩序への認識の欠如は王に限らず、公務の慣行に疎かった当時の皇族の実情をよく示していよう。
官歴
[編集]注記の無いものは『古今和歌集目録』による。
- 仁和2年(886年) 正月7日[8]:従四位下(直叙)
- 寛平2年(890年) 2月:河内権守
- 寛平4年(892年) 日付不詳:侍従
- 寛平6年(894年) 8月:中務大輔
- 寛平9年(897年) 5月:民部大輔。7月17日:山城守[9]
- 延喜6年(906年) 正月7日:従四位上(治国)。9月17日[4]:大舎人頭
- 延喜11年(911年) 2月15日[4]:神祇伯
- 延喜18年(918年) 2月29日[4]:弾正大弼
- 延喜21年(921年) 正月30日[4]:兼大和権守
- 延長2年(924年) 正月7日:正四位下
- 延長3年(925年) 6月[10]:宮内卿
- 承平2年(932年) 日付不詳:卒去
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大日本史料』1編6冊、承平2年是歳条
- 蔵中スミ 「『競狩記』の人物点描 ―平元規・兼覧王」(藤岡忠美編 『古今和歌集連環』 和泉書院〈研究叢書〉、1989年、ISBN 9784870883611)
- 村瀬敏夫 「兼覧王論 ―その『古今集』へのかかわりについて」(『平安朝歌人の研究』 新典社〈新典社研究叢書〉、1994年、ISBN 9784787940766。初出は1990年(平成3年))