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兼覧王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兼覧王

身位 正四位下
出生 貞観8年(866年)?
死去 承平2年(932年
子女 兼覧女王[1]
父親 惟喬親王?、国康親王?
母親 不詳
役職 宮内卿
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兼覧王(かねみおう/― のおおきみ、貞観8年(866年)? - 承平2年(932年))は、平安時代前期の皇族歌人文徳天皇の皇孫で、弾正尹惟喬親王の子[2][3]。一説には上野太守国康親王の子[4]官位正四位下宮内卿中古三十六歌仙の一人。

経歴

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光孝朝仁和2年(886年)二世王(孫王)として従四位下蔭叙され、宇多朝の寛平2年(890年河内権守に任ぜられる。宇多天皇親政寛平の治)が始まると、寛平4年(892年侍従となって帝側に仕え、次いで中務大輔民部大輔を歴任した。

寛平9年(897年醍醐天皇即位後まもなく山城守として地方官に転じる。延喜6年(906年)正月に治国の功労によって従四位上に昇叙され、同年9月に大舎人頭に任ぜられ京官に復す。こののち、延喜11年(911年神祇伯、延喜18年(918年弾正大弼延長3年(925年宮内卿と、醍醐朝後半は京官を歴任した。またこの間の延長2年(924年)には正四位下へ昇叙されている。

承平2年(932年)に卒去享年67か。

人物

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歌人としては、亭子院歌合に出詠したほか、『古今和歌集』に5首、『後撰和歌集』に4首入集する[5]。何れも技巧を凝らした興趣ある歌風だが、宮廷歌人の名声には及ばなかった。『古今集』には、紀貫之凡河内躬恒が王との対面に感激し、贈答を交わしたことが見える[6]

逸事

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昌泰元年(898年)10月に遊猟中の宇多上皇の宿所に献物を持参した際、上皇に挨拶せずに、献物のを庭中に積み上げるように置き並べた。王の非礼な行動に上皇が機嫌を損ね、困惑した侍臣らも沈黙する中、さらには秣を奪い取る者が現れ、それを追捕する騒動に発展した。一連の顛末を記録した紀長谷雄は騒動を招いた王を「無智」とまで評しているが[7]、こうした宮廷秩序への認識の欠如は王に限らず、公務の慣行に疎かった当時の皇族の実情をよく示していよう。

官歴

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注記の無いものは『古今和歌集目録』による。

脚注

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  1. ^ 『後撰和歌集』
  2. ^ 『古今和歌集目録』
  3. ^ 本朝皇胤紹運録
  4. ^ a b c d e 『中古歌仙三十六人伝』
  5. ^ 『勅撰作者部類』
  6. ^ 『古今和歌集』離別397-399
  7. ^ 『紀家集』所収「競狩記」
  8. ^ 『中古歌仙三十六人伝』では仁和元年(885年)正月7日
  9. ^ 『中古歌仙三十六人伝』では昌泰元年(898年)5月10日
  10. ^ 『中古歌仙三十六人伝』では10月14日

参考文献

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  • 大日本史料』1編6冊、承平2年是歳条
  • 蔵中スミ 「『競狩記』の人物点描 ―平元規・兼覧王」(藤岡忠美編 『古今和歌集連環』 和泉書院〈研究叢書〉、1989年、ISBN 9784870883611
  • 村瀬敏夫 「兼覧王論 ―その『古今集』へのかかわりについて」(『平安朝歌人の研究』 新典社〈新典社研究叢書〉、1994年、ISBN 9784787940766。初出は1990年(平成3年))